太田述正コラム#12488(2022.1.3)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その17)>(2022.3.28公開)

「・・・1862<年>正月15日、公武合体の象徴として孝明天皇の妹和宮と将軍徳川家茂の婚姻を推し進めた老中安藤信正が、江戸城坂下門外で水戸浪士らの襲撃をうけた事件(坂下門外の変)は、公武合体に対する反発の大きさをあらわしている。
長州藩内では桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞らが長井排斥を強め、最終的に藩は、通商条約を破棄して外国との一戦も辞さずとする「破約攘夷論」<(注29)>へと舵を切り、長井は失脚する。・・・

(注29)「横井小楠<は、>・・・1862・・・十二月に・・・「攘夷三策」<を>・・・書いた<。>」
<a href=’https://www.dc.ocha.ac.jp/dics-jacs/consortium/consortium200912/shisou8.pdf’>https://www.dc.ocha.ac.jp/dics-jacs/consortium/consortium200912/shisou8.pdf</a>
「<この中で、>小楠は『破約攘夷論』を主張しましたが、・・・世界には仁を持って徳治を行う「有道の国」と武力と策略を持って強引な支配を行う「無道の国」があることを前提に持論を展開します。つまり、大義名分がなく武力と詐術によって・・・条約を押し付けてくる無道の国である<英国>や<米国>、フランスとの条約を、有道の国である日本や中国(清)が一方的に破ったとしても問題はないとするのが破約攘夷論です。
横井小楠は、・・・条約の破約のために日本が道理的・人道的に正しい振る舞いをする「有道の国」であることを示し、西欧列強の報復や侵略を跳ね返すために殖産興業に励んで経済力と軍事力を迅速に増強しなければならないと説きました。しかし、後の将軍となる一橋慶喜に「一度国際社会に対して、締結を公約した条約を一方的に破棄することは信義(有道)に悖る」という論理的な反対をされて、自説の不十分さを認め取り下げたといいます。」
<a href=’https://charm.at.webry.info/200702/article_4.html’>https://charm.at.webry.info/200702/article_4.html</a>

⇒小楠のウィキペディアにもコトバンクにも、彼の「攘夷三策」への言及がないのは困ったものですが、この「攘夷三策」のスタンスは、その2年以上前に彼によって書かれた「国是三論」での、米英礼賛、ロシア危険視(コラム#6579、6581)、のスタンス、と、一見矛盾しているように見えるけれど、私の言葉で言えば、ロシアは弥生性一本鎗の国であるのに対し、米英は弥生性と縄文性の双方を持ち合わせている諸国であるところ、「国是三論」では、だからこそ、日本は米英と組むべきであることを示唆し、他方、「攘夷三策」では、米英露に共通する弥生性を日本の縄文的弥生性を念頭に置きつつ批判した、と考えれば矛盾はありません。
それにしても、長州藩の「破約攘夷論」が小楠のそれの影響を受けたものであったのかどうか、知りたいところです。
ちなみに、「桂小五郎<は、>・・・1862年・・・9月、横井小楠と会談。横井の開国論が戦略論であり、小五郎<(木戸孝允)>らの攘夷論が戦術論であることを確認しあい、基本的には一致すること(開国を目的とする攘夷論)を了解しあった」と、木戸孝允のウィキペディアにはあります。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81</a> (太田)

一方、この時期の朝廷は、いまだ安政の大獄における弾圧の痛手から脱却できず、幕府を畏怖し、受動的・沈滞的な空気が圧倒的であったとされる。・・・

⇒これは、私見では、朝廷というより、腰砕けになっていた当時の孝明天皇の描写と言うべきでしょう。(太田)

沈滞した朝廷をふたたび活性化させるきっかけとなったのが、・・・<1864>年4月16日、薩摩藩主島津茂久(もちひさ)の実父久光による藩士1000余名を率いての上京であった。

⇒当然ながら、近衛忠煕の要請に基づく武力上京であった、と、私は解しています。
その目的は、破約攘夷論の横行で、欧米人に対するテロや長州藩等による対欧米開戦が危惧されていたので、京都で暗躍する破約攘夷論志士達を始末して、破約攘夷論に沈静化させるところにあった、と。
なお、かかる上京を幕府がどうして認めたのか、そもそも無断上京だったのか、誰も詮索していないようなのは不思議です。(太田)

久光は公武合体的な考えの持ち主で、その政治抗争は、朝廷優位の確認と雄藩の協力のもとでの幕政運営にあるなど、必ずしも勤王派の期待にこたえるものではなかった。

⇒いや、そもそも、久光の考えなどどうでもいいのであって、彼は、単に、近衛忠煕と故島津斉彬の合作の(私の言うところの)島津斉彬コンセンサスを、忠煕の指示を適宜仰ぎつつ、遂行しようとしていただけだ、というのが私の見方であるわけです。(太田)

だが久光の上京意図が明瞭でなかったうえに、武力行使も辞さない強引な入京とあって、各地の勤王派は熱狂し、・・・吸い寄せられるように京都に集まった。
浪士らの集結は、京都市中の治安悪化をまねきかねなかったが、久光は入京後の4月23日、自己の統制に服さない薩摩藩士を伏見寺田屋で上意討ちにしており(寺田屋事件)、こうした断固たる姿勢が、かえって朝廷内での信用を増大させた。
久光の入京につづき、長州藩主毛利敬親(たかちか)の世子定広(さだひろ)が参勤交代の帰途入京すると、朝廷より5月1日、国事に尽くすよう命が下った。

⇒いや、それより前に、久光は、「朝廷より志士始末の命を授か」っています。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E5%BF%97%E5%A3%AB%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E6%91%A9%E8%97%A9%E5%BF%97%E5%A3%AB%E7%B2%9B%E6%B8%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6</a>
これまた、近衛忠煕が、お膳立てしたはずです。(太田)

京都はにわかに勤王論であふれた。」(34~35)

(続く)