太田述正コラム#12490(2022.1.4)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その18)>(2022.3.29公開)

「朝廷は久光の建議をいれ、一、将軍入京と、朝廷での将軍や諸大名による国政の討議、二、沿海五大藩主、すなわち島津(薩摩)・毛利(長州)・山内(土佐)・伊達(仙台)・前田(加賀)を五大老とする、三、一橋慶喜を将軍の後見職、松平慶永(春嶽)を大老職に採用という「三事の叡策」(三事策)を下し、大原重徳<(注30)>(コラム#9902、12474)(しげとみ)を勅使として江戸に差遣し、幕府に伝達することになった。<(注31)>

(注30)1801~1879年。「1809年・・・に光格天皇の御児<(おちご)>となり、・・・1815年・・・に宮中に昇り、孝明天皇に重用される。
1858年・・・には日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられる。・・・1862年・・・、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のために上洛すると、赦免された重徳は岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。江戸では、薩摩の軍事的圧力を背景に攘夷の決行や、一橋慶喜(徳川慶喜)を将軍後見職、前福井藩主・松平春嶽を政事総裁職に任命することと両名の幕政参加を老中の板倉勝静や脇坂安宅らに迫り、これを飲ませた(文久の改革)。
京都に戻ると国事御用掛などを務める。翌年には同じく朝廷に献策していた長州藩の薩摩藩を批判する内容の勅書を改竄すると罪を問われて辞職する。・・・1864年・・・に赦免され、・・・1866年・・・には親幕派の中川宮や二条斉敬らの追放を試みるが失敗して幽門させられる。
後に許されて、明治元年(1868年)には従二位・権中納言に進み、参与・議定など新政府の役職を務め<る。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%BE%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%BE%B3</a>
「御児とは、江戸時代の朝廷において、非公式な形で天皇や上皇ならびに皇太子に近侍した元服前の公家の子弟のこと。明治以降も宮内省に「侍従職出仕」という名称で存続していた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%85%90′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%85%90</a>
(注31)「もともと久光の行動は出府の大義名分を欠いていたが、上京後浪士の取締を朝廷から命ぜられ、漸く京都へ駐屯する正統性を得ることができた。・・・
久光が上京にあたって携えていた建言は次のようなものであった。
一、安政の大獄により処罰された朝彦(ともよし)親王、近衛忠煕、鷹司政通らの謹慎解除、江戸においては一橋、尾張、越前公らの激派の復権、二、近衛忠煕の関白登用、松平慶永の大老就任、三、田安中納言の後見職罷免、四、老中安藤の罷免、五、松平慶永を上洛させ政務に就かせるほか、一橋慶喜に将軍後見職を仰せつけること、六、朝廷の考えを浪人らへ洩らさぬこと、浪人らの言説信用すべからざること、等を京都に建言した。
ところが当時朝廷方の中心にいた岩倉具視はこれに介入し、久光案に朝廷案と長州案を付加し、「三事策」とし、これを天皇に示し、天皇は関東に勅使を派遣しその一を選ばせたい、ついては、というわけで群臣に諮ったが、公家からは何の反応もなかった。
第一(長州策)・将軍において諸大名を率いて上洛あるべきこと
第二(朝廷策)・沿海五大藩(薩摩・長州・加賀・土佐・仙台)の藩主を以って五大老として国政に参加せしむること
第三(薩摩策)・一橋慶喜を後見に、松平慶永(春嶽)を大老とすること。
幕府は、久光の動きを知って、先手を打つ形で慶喜の謹慎を解除した(1862・・・年4月25日)ほか、いくつかの対策を講じた。即ち、諸卿に対する謹慎解除を行い、譜代大名の松平容保、松平慶永を政務参与として登用した。
幕府は慶喜を政務に参与させることを好まず、会津の武力と越前の声望を背景にして久光の建言をかわそうとしたのである。
また幕府は長州策にある、将軍の率兵上洛を勅使下向以前である6月1日に発表した。
ところで、上述の通り、長州藩論は海国遠路策を却け、攘夷説、尊皇説へと変わり身を見せていたため、長州寄りの立場から公武合体を策していた久世老中は辞職した(6月2日)。代わって板倉勝静(かつきよ)が老中に就任し、閣内不安定のうちに勅使を江戸に迎えることになった。
勅使の用意した上記の三事策は一応朝議として決したけれども久光は第一策、第二策を拒み、第三作(薩摩策)を以って実効策としたため長州との対立を招いた。」
<a href=’https://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column44.html’>https://www.mclaw.jp/column/tsutsumi/column44.html</a>

⇒「注30」は、前にも(コラム#12034で)他の論考を紹介したことがある堤淳一弁護士の論考からの抜き書きであり、今回も参考文献が列挙されていることから、信頼足りるものと判断しましたが、久光の上洛に合法性を付与する措置が事後的にとられたことが分かります。
近衛忠煕としては、もっと早い時点で措置をしたかったのでしょうが、うまくいかなかったのでしょうね。
で、この1862年の建議の第三案は、その死によって行われることがなかったところの、1858年の島津斉彬の武力上洛にあたって、近衛忠熙と斉彬が相談して決めていたものを「流用」したものだったのではないでしょうか。
また、岩倉具視案と言ってよい、第二案、は、豊臣家を徳川家に置き換えた形での末期の五大老制の豊臣政権
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E8%80%81</a>
の復活ですね。(太田)

三事策は幕政への明らかな干渉であるだけに、幕府としては勅使の発遣を阻止したかった。

⇒内藤は、三事策全体を幕府に飲ませようとしたかのような書き方をしてしまっており、(第二案と第三案の間に矛盾がある、とはいえ、)読者の間で誤解を生みます。(太田)

そのため融和策として、井伊大老のもとで積み荷問われた徳川慶勝・一橋慶喜・松平春嶽・山内容堂を赦免するとともに、朝廷には「戊午の密勅」に関与した諸公家の謹慎を解くよう奏請した。
これをうけ、幕府寄りの関白九条尚忠が関白・内覧の辞任を請う一方、鷹司政道・近衛忠熙の参朝(朝廷に出仕すること)がゆるされ、鷹司輔熙の謹慎、青蓮院宮の永蟄居が解除された。
おなじく<1859年に亡くなっていた故>三条実萬の勤労が追賞され、金帛(きんぱく)(金と絹)が下された。
さらに同年8月には右大臣が贈られる。」(35~36)

(続く)