太田述正コラム#12494(2022.1.6)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その20)>(2022.3.31公開)
「<1862年>5月15日、国事書記御用は連盟で、幕府が「三事策」<全て>を拒み「暴政相発」した場合に、天皇の覚悟をせまる建白書を提出した。・・・
天皇の言動もまた攘夷派を活気づけた。
大原勅使と「三事策」の件が群臣に諮詢されたのとおなじ5月11日、天皇は一部廷臣に対し、幕府が10年以内に攘夷を実行しなければ、「朕実に断然として神武天皇・神功皇后の遺蹤(いしょう)に則とり、公卿百官と天下の牧伯<(注38)>(ぼくはく)を師(ひき)いて親政せんとす」との意向を示していた・・・。
(注38)「「州牧方伯」の略。諸侯、または地方長官。」
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「刺史(しし)<ないし>・・・州牧・・・は、<支那>に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は<州の>監察官であったが、後に州の長官となった。日本では<刺史は>国守の唐名として使われた。」
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「王都より千里内は「王畿」と呼ばれ、その外部を「方」といった。殷(商)は諸国を九州にわけ、八州それぞれに方伯を置いて諸侯を束ねさせたという。伯=覇であり、これはのちの「覇者」(諸侯の盟主)へとつながっていく。方伯の称は漢代の州牧、刺史、唐の観察使などの雅号として後代まで使用された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BC%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BC%AF</a>
牧伯とは地方の国守、すなわち大名をさす。・・・
6月23日には、幕府寄りの九条関白が辞任、近衛忠熙がこれに代わった。・・・
<その頃、>明治維新後に法制官僚として活躍する尾崎三良<(注39)>(さぶろう)・・・が三条家の家士に召し抱えられた。・・・
(注39)1842~1918年。「三条は朝廷に復帰するが、尾崎は龍馬から聞いた海外の話に関心を持って留学を志す。これは伊藤博文にも支持され、三条は嫡男・公恭とともにその従者としてイギリス留学することを命じた。・・・
尾崎は立身しても三条の旧恩を忘れず、内閣制度発足時に三条を内大臣として祭り上げ、伊藤博文を初代内閣総理大臣にしようとした際は最後まで反対した。以後も東久世通禧らとともに三条の政治的復権を画策している。内大臣そのものも無用の官職とみなしている。
新聞紙条例、讒謗律(ともに1875年)の起草にあたったことから、新聞界などから恨まれて「酷吏」などと非難された。
明治20年(1887年)の保安条例の起草者も尾崎とされているが、これによって・・・追放された尾崎行雄は、のちに尾崎三良の娘・テオドラを後妻とした。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E4%B8%89%E8%89%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E4%B8%89%E8%89%AF</a>
⇒名前くらいしか知らなかった尾崎三良の生涯がかくも波乱万丈であったとは・・。
上掲ウィキペディアの全文に目を通されたらいかが。(太田)
尾崎はそれ以前、烏丸家・冷泉家と仕えたがこれに飽き足らず、伝手を頼って三条家に仕官した。・・・
三条が攘夷派公卿として、その存在が知られるようになったのが、「四奸二嬪(しかんにひん)排斥運動」とよばれる、朝廷内で和宮降嫁を推進した4名の公家、久我建道<(注40)>(こがたけみち)・岩倉具視・千種有文<(注41)>・富小路敬直<(注42)>(とみのこうじひろなお)と、2名の女官<(注43)>の排斥事件のときであった。・・・
(注40)1815~1903年。「一条忠良の子。久我通明の養子。権(ごんの)大納言,議奏をへて,・・・1862・・・内大臣。・・・「四奸」のひとりとみなされ,辞官,出家を命じられた。王政復古でゆるされ,維新後は宮内省御用掛や賀茂神社などの宮司をつとめた。」
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(注41)1815~1869年。「千種有功(ありこと)の次男。和宮(かずのみや)降嫁問題で・・・<1862>年辞官,落飾。王政復古で還俗,宮内大丞などをつとめた。従三位。」
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(注42)1842~1892年。「<1861>年和宮・・・の降嫁にしたがい江戸へいく。・・・<1862>年蟄居を命じられ落飾,さらに謹慎処分をうける。のちゆるされて明治天皇の侍従をつとめた。子爵。」
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(注43)今城重子(いまきしげこ。1828~1901年)。「今城定章の娘。母は松平主膳光政の娘。千種有文の義妹。・・・1858・・・年具視の「神州万歳堅策」は重子を経て天皇に内奏されたという。・・・朝廷内の尊攘派から「四奸両嬪」のひとりとして排撃され,辞官隠居,落飾を命じられた。・・・1868・・・年,許されて旧位に復した。」
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堀河紀子(ほりかわもとこ。1837~1910年)。「岩倉具視の妹。・・・孝明天皇の・・・2皇女を儲けたが,ともに夭折。・・・「四奸両嬪」のひとりとして弾劾され,辞官隠居,さらに剃髪に追い込まれた。」
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⇒四奸は名前を全部出し、二嬪の方は名前を出さないというのは、それこそ女性差別ですし、和宮降嫁に関しては、和宮自身の説得に女性も乗り出す必要があったと思われるだけに、いかがなものかと思います。(太田)
三条が、朝廷を顧みず幕府に阿諛追従するものと非難した和宮降嫁であるが、推進派の岩倉にとっては決してそのようなものではなく、したたかな計算にもとづいていた。
すなわち、朝廷の威光を頼ってきたことからも明らかなように、幕府に往年の実力はなく、今回彼らに恩を売り、公武一和を示せば、幕府はひきつづき大政委任の名義こそ保有するが、政治の実権は朝廷が握ることができるというものであった・・・。」(39~42)
⇒取敢えずは、岩倉具視は、尊攘派内における近衛忠煕の高級工作員、三条実美は尊攘派内で急速に声望を高めつつあったところの、しかし、客観的には近衛忠煕の捨て駒の一人、と、仮置きしておきましょうか。(太田)
(続く)