太田述正コラム#12496(2022.1.7)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その21)>(2022.4.1公開)

「岩倉らしい現実主義に立った漸進論であるが、三条からすれば、所詮は幕府の強化に利用されるだけであった。
攻撃の結果、8月20日、岩倉・千種・富小路は蟄居落飾を命じられ、残った久我も同25日に蟄居辞官、翌26日落飾となった。・・・
朝廷ではこの事件を機として「朝政改革派」ともいうべき党派が誕生したといわれるほどで(『幕末中央政局の動向』<注44)>)、翌年八月十八日の政変に至るまで、彼らは攘夷、朝廷の復権を唱え、猛威を振るう。

⇒著者は原口清(注44)であるところ、彼自身がこの時の「党派」を本当にそう呼んだかどうか、確かめられませんでしたが、私は疑問を持っています。(太田)

(注44)1922~2016年。東大文(国史)卒、高校教諭を経て、静岡県立静岡法経短大講師、助教授、教授、名城大商学部教授、同名誉教授。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%E6%B8%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%8F%A3%E6%B8%85</a>

こうした朝廷内の秩序破壊、下剋上の風潮に最もとまどっていたのが天皇であった。
事態の扉を開けたのは、ほかならぬ天皇自身であったが、基本的に幕府への大政委任を支持していたことは、すでにみたとおりである。
四奸二嬪排斥運動にも、浪士たちの扇動に乗って「何(いず)れを善、何れを悪とも相弁(わきま)えず」云々と批判的であった・・・。

⇒まことにもって困ったちゃんの天皇であったことよ、です。
そんな天皇であったからこそ、島津斉彬や近衛忠煕らに付け込まれて、本人が全く想像もしていなかった形で日本史における大転換をもたらす決定的役割を演ずることになったわけですが・・。(太田)

三条が政治活動を開始するにあたり、朝廷で彼を引き立てたのは「両卿」、中山忠能・正親町三条実愛であったが、さらにこの時期、力強い後ろ盾がつく。
勤王等が主導する土佐藩である。
武市半平太(瑞山)<(注45)>が率いる土佐勤王党は、この年4月8日に藩指導者で佐幕開港派の吉田東洋を暗殺し、藩政の中枢に進出した。・・・

(注45)1829~1865年。「優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功し、京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、<1863年>八月十八日の政変により政局が公武合体に急転すると、前藩主山内容堂によって投獄される。獄中闘争を経て<1865年>切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B8%82%E7%91%9E%E5%B1%B1</a>

⇒私に言わせれば、二人の合作である島津斉彬コンセンサスを当時一人で最高指導者として代行実施していたところの近衛忠煕の要請に基づき、まず島津久光が京で1862年に(それまで泳がされてきていたところの)尊王攘夷派を排除した寺田屋事件が、次いで(久光同様、藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達の意向に逆らうことができず、かつ、形式的には藩主ではない)山内容堂によって、やや遅れて、しかもスローモーションで高知で再現された、ということです。(太田)

彼らが三条を頼りとしたのは、なにより山内家と三条家が縁家であったからである。・・・

おりしも藩主豊範が参勤交代で江戸へ出府することから、土佐勤王党は、この機を活かし上京を果たそうと画策した。
彼らは三条家の家士富田織部を頼り、さらに中山議奏にはたらきかけるなどした結果、6月11日付で中山より三条に、土佐藩主の京都立ち寄りは「御内々叡慮」であり、薩長両藩とともに土佐藩にも国事に周旋するよう依頼してもらいたいとする書簡が発せられた・・・。・・・
7月に入ると、三条は、中山に内々の叡慮では手ぬるいので、拒絶困難な御内沙汰<(注46)>を下すようはたらきかけ、その結果「非常臨時別義を以て暫滞京これあり、御警衛を御依頼、叡慮を安んぜられ度(たく)」・・・とする御内沙汰が豊範に下された。・・・

(注46)うちざた。「 表向きでない公事(くじ)。また、うちわのとりはからい。⇔表沙汰。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E6%B2%99%E6%B1%B0-440377′>https://kotobank.jp/word/%E5%86%85%E6%B2%99%E6%B1%B0-440377</a>

御内沙汰の効果は絶大で、・・・豊範は8月25日、藩士ともども入京した。
朝廷より豊範に京都警衛の御内沙汰が下され、ついで武家伝奏より薩長とともに国家のため周旋せよとする御沙汰<(注47)>が伝えられた・・・。

(注47)ごさた。「天皇・将軍などの最高権力者の指示・命令。また、その意思に基づいて行われる官府や裁判などの指示・命令。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%B2%99%E6%B1%B0-500873′>https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%B2%99%E6%B1%B0-500873</a>

容堂に対しても周旋を命じる御沙汰が下された・・・。
勤王党の念願はかない、以後、土佐藩は薩摩・長州とならび「勤王三藩」と称される。・・・」(43~46)

⇒御沙汰や御内沙汰はもとよりですが、議奏の公的書簡であれ、天皇、関白が関知しないで下されるようなことは、少しでも日本の役所勤務経験があれば分かることですが、ありえません。
これらの朝廷の動きは、全て、関白の近衛忠煕のイニシアティヴの下で行われた、と、私は見ています。
そのことを間接的に裏づけているのが、次のような文脈で近衛忠煕が登場し、在京の武市半平太に直接命令を下し、半平太がそれに従っていることです。↓
「この時期、京都では過激な尊王攘夷派による天誅、斬奸と称する暗殺が横行し、半平太も少なからず関与していた。
半平太の下で動いた人物では、後に「人斬り」の異名を持つことになる門弟・岡田以蔵と薩摩藩士・田中新兵衛が有名である。半平太が関与したとされる天誅には、越後の志士・本間精一郎の暗殺(閏8月21日)、安政の大獄で志士を弾圧した目明し・文吉の虐殺(9月1日)、石部宿における幕府同心・与力4名の襲撃暗殺(9月23日)がある。しかし、同月に関白・近衛忠煕が半平太に対し洛中での天誅・斬奸を控えるように命じてから後は、半平太の直接指揮による京での暗殺事件は確認されていない。また、侍従・中山忠光から前関白・九条尚忠と岩倉具視ら幕府に通じる三卿両嬪の暗殺のための刺客の貸与を申し入れられたが、これは断り、軽挙を止めさせている。」(上掲)
これは、前面に出ることを慎重に避けることを旨としていたと思われる忠煕が、危機意識にかられて、止む無く直接表舞台に登場してしまった、といったところでしょうね。(太田)

(続く)