太田述正コラム#12498(2022.1.8)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その22)>(2022.4.2公開)
・・・1862<年>における勤王三藩の動きを確認しておこう。
長州藩は前年「航海遠略策」とともに中央政界に進出したが、7月6日に京都長州藩邸で開かれた御前会議では、一転して同策を放棄し、即今攘夷を藩論として採用する。
さらに閏8月14日には近衛関白に対し、今後は独力で攘夷に尽力するという有名な「独力攘夷の建白」を提出している・・・。
⇒長井雅樂による「航海遠略策」の建白書は正親町三条実愛に提出された(前出)のに対し、今回は、藩主敬親から関白の近衛忠煕に提出されたというわけですが、ネット上で、この建白書に関する記事を見つけることができなかったところ、どうやら、単に、「敬親<が>・・・重臣益田弾正、高杉小忠太、周布政之助らを近衛関白邸に派遣し、朝廷においても攘夷を確定するように進言した」
<a href=’https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics7.html’>https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics7.html</a>
だけのようです。
私は、この長州藩の動きもまた、天皇と長州藩の双方に働きかけ、(残り勤王藩であるところの、薩摩藩と土佐藩の中の尊王攘夷分子は斬り捨てることで両藩を安全地帯に置いた上で)長州藩に藩を挙げて尊皇攘夷の尖兵をやらせ、幕府を一層窮地に追い詰め倒幕を実現させようと謀った近衛忠煕が使嗾したものであり、だからこそ、長州藩主の敬親は、忠煕に対して、承知した旨を拝復した、と見ています。
忠煕が、薩摩藩はともかくとして、どうして、土佐藩ではなく長州藩に白羽の矢を立てたかですが、「そもそも、毛利家の系図を辿ってみると、・・・大江広元に至ります。その広元の先祖は・・・平城天皇の御子阿保親王です。すなわち、毛利家の家系は皇統に連なっていたのです。このため、江戸時代には大名が直接朝廷と接触することは勿論、入京についても幕府によって厳しく制限されていましたが、毛利家だけは特例として入京が許されたので、三條河原町に京都藩邸を造り、歳末歳首の品物の献上も、天皇に近侍する伝奏家の勧修寺を通じて容易に行っていました。こうした背景から、毛利家は、伝統的に朝廷に対する崇敬の念が強く、時には経済的支援も含めて朝廷を支援しており、また、朝廷からも信頼され、信任されてきた経緯がありました。」
<a href=’https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics7.html’>https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics7.html</a>
ということを考慮したのでしょう。
(天皇の子孫ということなら、どちらも天皇から発するところの、清和源氏や桓武平氏・・そう標榜する徳川氏等を含む・・、の大名達は(徳川氏以外にも)いくつもあったはずですから、説明になっていないことには、この際、目を瞑ることにします。)
本件で忠煕が天皇に対しても働きかけていたことが推認できるのが、上記「拝復」を受けて行われたところの、天皇から敬親への仰々しい攘夷下命です。↓
「1863年・・・1月3日、朝廷に参内した世子毛利定広(後の元徳)は、孝明天皇から天盃と御衣、御太刀(津田越前守助広)を賜りました。ついで、参内を促された藩主敬親は、同17日鷹司家より譲与された冠袍を着て参朝し、小御所に於て天顔(天皇)を拝し、天皇から天盃を賜い、次いで廊下に於いて御太刀(波平安周作)を拝受し、別室の虎の間において参議に推任する宣旨を受け取りました。・・・
特に毛利父子に対して天皇自ら「御太刀」を下賜された行為は、古来、戦に出陣する征夷大将軍などの軍の最高指揮官に対し、指揮権の象徴として天皇が自ら刀を付与する「節刀」の制度がありますが、孝明天皇のこの「御太刀」の下賜は「節刀」に相当する行為であったとも考えられました。」(上掲)(太田)
次に薩摩藩は、<1862年>4月の島津久光の上京によって京都政局を主導したが、久光が大原勅使に従い江戸に下向しているあいだに、急速に影響力を低下させた。
大原勅使の帰京は閏8月6日、久光は翌7日である。
久光は9日に参内し復命、上書では、幕政を変革させた成果を祝すとともに、今後は浪人輩の荒唐無稽な過激論のたぐいは一切取り上げず、しばらくは幕府の処置を静観するようもとめている・・・。
ところが、当時の京都は、攘夷論の台頭がめざましく、久光の意見には反発のほうが大きかった。
結局、久光はなす術ももないまま帰国を余儀なくされる。
薩摩藩はその後、久光一行の江戸からの帰途に起きた英国人殺傷事件(生麦事件)に端を発する薩英戦争に忙殺される。」(49)
⇒いや、そうではなく、久光は、忠煕から、万事、予定通り進行している、との説明を聞いて、(長州藩だけが譲位を決行すること、だから、欧米諸国との「全面戦争」にはならず、幕府だけが更に弱体化するであろうことに)大いに達成感を抱いて帰国した、と、私は見ています。
そして、帰国後、(恐らく、京で忠煕と打ち合わせたところに従い、長州藩の攘夷決行を見届けた上で、)長州藩人気だけが高まらないよう、薩摩藩も攘夷決行に加わった形を作るために、生麦事件を利用して薩英戦争を引き起こすことになる、とも。(太田)
(続く)