太田述正コラム#12500(2022.1.9)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その23)>(2022.4.3公開)

「最後に土佐藩について、勤王党を率いる武市半平太を中心にみておく。
当時、武市は、幕府に勅命で攘夷を督促するとともに、皇威顕揚のため五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)を朝廷におさめ、御親兵を設けて兵備を確立し、大名の江戸参勤をゆるめて京都参勤の制度を立て、天皇親政を実現するという構想を抱いていた・・・。・・・
武市は当時、三条を通じて薩長土三藩につづく有力諸藩の入京を画策しており、9月には三条より熊本藩に入京を促す密書を送ることとなった。
密書を携えて熊本に向かったのは、・・・谷干城<(注48)>である・・・。

(注48)たにたてき(1837~1911年)。「1859年・・・に江戸へ出て安井息軒(儒学)、安積艮斎(朱子学)、若山勿堂(山鹿流軍学)の門弟として学び、・・・1861年・・・に帰国した後の翌・・・1862年・・・には藩校致道館で史学助教授となった。帰国途中に武市瑞山(半平太)と知り合って尊王攘夷に傾倒、藩政を主導していた吉田東洋と対外方針を巡り討論する。谷は東洋の開国方針を悠長だと反発しながらもその度量に感服したが、東洋が暗殺された時は彼との対立関係から周囲に犯人だと疑われている。
東洋暗殺後は武市と共に藩主山内豊範の側近に引き立てられ、彼等と共に上洛すると諸藩と交流し、攘夷実現に向け尽力した。江戸と長崎を行き来する中、豊範の従兄弟で前藩主山内容堂とも接触し度々意見を出したが、武市が失脚(後に処刑)されると同志の谷も・・・1864年・・・に左遷され、翌・・・1865年・・・に致道館助教に復職するまで逼塞していた。
復帰後も東洋の方針を継いだ後藤象二郎の富国強兵を非難するなど攘夷の考えは変わらなかったが、西洋の長所を認め、徐々に外国人に対する視線が変わり、・・・1866年・・・12月の長崎視察の際、翌・・・1867年・・・1月に長崎へ着いた谷は後藤や坂本龍馬と交わり、彼等から攘夷が不可能であることを説明された。直後に船で渡り到着した上海で西洋の軍事力を目の当たりにしたことでそれを実感、日本へ戻ると後藤の賛同者に変化し開国・倒幕論者となっていった。
<1867>年5月21日、中岡慎太郎の仲介によって板垣退助や毛利吉盛と共に京都の小松清廉邸で、薩摩藩の西郷隆盛や吉井友実と会い、薩土密約(薩土盟約とは異なる)を結んで武力討幕を目指した。だが、後藤が結んだ薩土盟約は大政奉還を趣旨とする穏健な倒幕を目指していたため谷の目標と食い違い、容堂に重用された後藤が土佐藩を動かしていく状況に不満を募らせていたが、慶応4年(明治元年・1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると板垣と共に藩兵を率いて出動し・・・11月に土佐へ凱旋、戦功として家禄400石に加増され、仕置役に任命された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B9%B2%E5%9F%8E</a>

⇒1867年にもなって、ようやく攘夷が不可能であるとの自覚に達するとは、学識もあり国事に強い関心のある武士としては、谷干城、トロ過ぎます。
こんな谷ごときを重用せざるをえなかった武市は不幸でしたが、そもそも、土佐には、武市半平太自身はさておき、(相当買いかぶられているけれど)坂本龍馬、や、岩崎弥太郎、くらいしか、幕末/維新期に人材がいなかった、ということなのでしょうね。
いずれにせよ、この三条/土佐勤王党の動きもまた、近衛忠煕の掌の上で行われたものでしょう。(太田)

武市の工作は実を結び、10月以降、久留米・鳥取・福岡・広島・佐賀・徳島・熊本各藩の藩主または名代が、藩士を率いて次々と上京した。・・・
1862<年>閏8月18日、天皇より各公家に対し、攘夷に関する意見が諮詢された。
表向きの諮詢の出所は天皇であるが、背後には朝廷を攘夷論でかためようとする長州・土佐両藩や、朝廷内の攘夷派の影がみてとれる。

⇒そうではなく、これも、近衛忠煕のイニシアティヴか、彼が天皇の意向を尊重したのか、そのどちらかでしょう。(太田)

おりしも大原勅使が京都にもどってまもない時期であり、尊攘派は公武合体論がふたたび勢いづくことを警戒していた。
回答は予想どおり、大半が攘夷論であった。・・・
<そして、>今度は長州と土佐で三条を勅使にして、今一度幕府を責てやろうという・・・アイデア<が、>・・・土佐勤王党と長州藩<から出てきた。>・・・
9月18日、近衛関白の意をうけ、薩摩藩士藤井良節が宮を訪れ、・・・<三条と姉小路ではなく、>姉小路<公知(注49)>単独案を打診した<りといった曲折を経て、>・・・9月21日、正使三条・副使姉小路とすることが・・・20日<に>薩摩より関白へ言上・・・された<上で、>・・・決定した。」(49~53)

(注49)あねがこうじきんとも(1840~1863年)。「1858年・・・、日米修好通商条約に反対し、廷臣八十八卿の指導者として活動した。・・・1862年・・・9月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美と共に江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。
のちに国事参政となり、三条と共に攘夷派の先鋒となったが、・・・1863年・・・5月20日の夜半、深夜朝議からの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で3人の刺客に襲われる。扇を振い、刀を奪うなどして奮戦して撃退するも、頭と胸に重傷を負い、帰邸後の翌日21日未明、自邸にて卒去(朔平門外の変)。・・・
現場に残されていた刀などの物証から、幕末四大人斬りの一人、薩摩藩の田中新兵衛が犯人と目されて捕らえられた。しかし、取調べ中に田中が自殺したため、真相は不明。理由として、攘夷派であった公知が勝に説得されて開国に傾いたため、とされるが、真相は今もって謎である。
朝廷は島津久光に上洛と治安維持を命じており、薩摩藩の介入を嫌がる尊王攘夷派による仕業という説もある。結果として薩摩藩は御所の乾御門の警備を外された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%85%AC%E7%9F%A5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%85%AC%E7%9F%A5</a>

⇒随所で忠煕の姿が出没していますよね。(太田)

(続く)