太田述正コラム#12502(2022.1.10)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その24)>(2022.4.4公開)

「・・・別勅使一行は10月12日、江戸に向け京都を発した。
土佐藩主山内豊範が藩士500名を率いて従い、長州藩士もまた随従した。
攘夷論の高揚がみてとれるが、一方で青蓮院宮<(注50)>・近衛関白からは、薩摩藩士高崎猪太郎(いたろう)(五六(ごろく))を通じて江戸の松平春嶽に「今度勅使を発して攘夷の命を降(くだ)せるはいかにも気の毒なり、しかし是は止(やむ)を得ざる事情ありてさる事に至れる」・・・と、天皇にとって勅使発遣が決して本意ではない旨が伝えられている。」(54)

(注50)久邇宮朝彦親王(1824~1891年)。「伏見宮邦家親王の第4王子。・・・香淳皇后の祖父<。>・・・1838年・・・に得度して尊応(そんおう)の法諱を賜り、奈良興福寺塔頭・一乗院の門主となる。・・・1852年・・・、青蓮院門跡の第四十七世門主に就き、法諱を尊融(そんゆう)と改める。青蓮院が宮門跡で、粟田口の地にあったことから、歴代門主同様青蓮院宮(しょうれんいんのみや)または粟田宮(あわたのみや)と呼ばれた。その後には第二百二十八世天台座主にも就いている。
[広く英明をうたわれ,水戸藩士から今大塔宮(護良親王再来の意)と称された。・・・
水戸藩士,次いで越前藩士の働きかけを受け,]尊融入道親王は日米修好通商条約の勅許に反対し、江戸幕府13代将軍徳川家定の将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持したことなどから大老・井伊直弼に目を付けられ、・・・1859年・・・には安政の大獄で「隠居永蟄居」を命じられる。このため青蓮院宮を名乗れなくなった尊融入道親王は、相国寺塔頭の桂芳軒に幽居して獅子王院宮(ししおういんのみや)と呼ばれた。
井伊大老が翌・・・1860年・・・に桜田門外の変で暗殺され、・・・1862年・・・に赦免されて復帰した尊融入道親王は、同年には国事御用掛として朝政に参画、翌・・・1863年・・・8月27日には還俗して中川宮の宮号を名乗る。一般にはこの中川宮の名が知られている。
<1863>年前半は長州藩を中心とした尊王攘夷派公卿が朝廷の主流だった。・・・
公武合体派の領袖であった中川宮は長州派公卿や尊攘討幕派の志士たちから嫌われ<ていたが、>・・・中川宮は京都守護職を務める会津藩主松平容保やこの時期会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとし、彼らを嫌い幕府を信頼していた孝明天皇から内意を引き出し、八月十八日の政変を行う。同年元服を済ませて朝彦(あさひこ)の諱を賜り、親王任官職の二品弾正尹に任じられる。以後は弾正尹の通称である尹宮(いんのみや)とも呼ばれた。
八月十八日の政変により長州派公卿と長州藩勢力が朝廷から駆逐されると、朝彦親王や関白二条斉敬は孝明天皇の信任を受けるが、これは同時に、下野した長州藩士や長州系尊攘志士たちの恨みを買うこととなり、「陰謀の宮」などと呼ばれるようになった。
・・・1864年・・・、・・・宮号を中川宮から賀陽宮(かやのみや)に改め<、>・・・家禄1500石で宮家の列に新しく加わった。
[<この頃>より徳川慶喜と接近。以来関白二条斉敬と共に朝廷内から慶喜の政権を支持し続け,そのため慶喜に批判的な廷臣の反発を招く。・・・1866・・・年8月,大原重徳,中御門経之ら22廷臣の列参奏上で弾劾され辞意を表明したが却下された。]
<その直前の>同年7月19日、長州藩兵が京都へ攻め上る蛤御門の変が勃発、その懲戒として幕府は前後2度にわたる長州征討を行ったが、・・・1866年・・・に行われた2度目の征伐では長州藩の前に敗北を重ねる中で、幕府は14代将軍徳川家茂を病で失い、同年9月に実質的な敗北のもと長州藩と和睦した。12月には家茂の後を追うように孝明天皇が崩御し明治天皇が即位、それに伴い尊攘派公卿が逐次復権、朝彦親王らは朝廷内で急速に求心力を失ってゆく。一方幕府では15代将軍となった徳川慶喜が意表をつく大政奉還によって国政の主導権を確保しようとしていた。
・・・1867年・・・12月9日、小御所会議において王政復古が決定し、これに伴い長州藩主毛利敬親・毛利広封父子や、有栖川宮熾仁親王・中山忠能・三条実美・岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権。朝彦親王は明治元年(1868年)8月に徳川慶喜へ密使を送るなどし陰謀を企てたとして親王位を剥奪され、広島藩預かりとなった。翌明治2年(1869年)3月6日には安芸国で幽閉されることとなった。
明治3年(1870年)閏10月、政府から京都の伏見宮邸に護送する命令が下り、帰京した。明治5年1月、謹慎を解かれて、伏見宮家の一員に復帰する。同年7月、東京移住を命令されるものの、京都で暮らし続ける。
明治8年(1875年)4月、一代宮家となる。同年5月、新たに久邇宮家を創設する。明治16年(1883年)7月11日、二代皇族に列せられた。明治20年、次男邦憲王が病弱のため、三男邦彦王を継嗣と定める。明治22年(1889年)の旧皇室典範成立により、久邇宮家を含む全ての宮家が永世皇族となった。
明治8年7月、伊勢神宮の祭主に就任する。かつて天台座主を務めたこともあることから、神道界と仏教界の両方における要職を務めた珍しい例といえる。
神職を育成する数少ない大学、皇學館大学の創始者としても知られる<。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%82%87%E5%AE%AE%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B</a>
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B-25081′>https://kotobank.jp/word/%E6%9C%9D%E5%BD%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B-25081</a> ([]内)

⇒天皇家全体がオカシクなっていた証拠が、4世襲親王家中、最も古く由緒のある伏見宮家
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%B6</a>
出身のこの青蓮院宮(久邇宮朝彦親王)が、本家の孝明天皇(1831~1867年)と瓜二つの考えを持っていたことです。
恐らく、近衛忠煕(1808~1898)としては、孝明天皇と考えが一卵性双生児と言ってよさそうな(年齢的に、忠煕と天皇の間である)青蓮院宮とは、孝明天皇にやらせたいこと、孝明天皇を窘めたいこと、について、予行演習的にその感触を探ってみる、という付き合い方をしていたのではないでしょうか。(太田)

(続く)