太田述正コラム#12504(2022.1.11)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その25)>(2022.4.5公開)
「三条と長州藩の関係は、この頃より本格的に深まるが、もともと、三条家と毛利家やその領国である周防・長門とのあいだには因縁浅からぬものがあった。
旧くは戦国期、周防国守護の戦国大名大内義隆を頼って山口に赴き、陶晴賢の叛乱に巻き込まれて落命した左大臣三条公頼<(注51)>(きんより)があり、父実萬はかつて長州藩士周布政之助<(注52)>(すふまさのすけ)・来原良蔵<(注53)>(くるはらりょうぞう)らを中心とした結社「嚶鳴社(おうめいしゃ)」<(注54)>の所望にこたえ、揮毫を授けたことがあった・・・。・・・
(注51)1495~1551年。「二女:三条の方(1521-1570) – 武田信玄継室<。>・・・公頼には息子がおらず三条家は断絶となるが、後に分家筋から三条実教(正親町三条公兄の子)、続いて三条実綱(三条西実枝の子)が三条家を相続した。・・・
墓所は山口県大寧寺。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E9%A0%BC’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%85%AC%E9%A0%BC</a>
(注52)1823~1864年。「来原良蔵や松島剛蔵らと嚶鳴社を結成して政治を論じたが、弾圧されることなく、・・・1847年・・・に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢された。・・・1862年・・・頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に藩の経済政策の責任者として同意したが久坂玄瑞ら松下村塾の藩士らに説得され藩論統一のために攘夷を唱えた。
・・・1864年・・・、高杉晋作とともに長州藩士の暴発を抑えようとしたが失敗、その結果起こった禁門の変や第一次長州征伐に際しても事態の収拾に奔走したが、次第に椋梨ら反対派に実権を奪われることとなった。同年9月、責任を感じて・・・切腹した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B8%83%E6%94%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%B8%83%E6%94%BF%E4%B9%8B%E5%8A%A9</a>
(注53)1829~1862年。「1856年・・・3月に・・・周布政之助による嚶鳴社復興に加わった。・・・同年9月25日、桂小五郎の妹・治子と結婚。・・・
1861年・・・、母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣長井雅楽と対立するも、後に和解する<が、>・・・藩論が開国から攘夷に急展開するに及び、<1862>年3月に上京、久坂玄瑞らと長井雅楽を除くため奔走した。この長井雅楽暗殺未遂事件の際に、責任を取って自害をしたいと申し出たが、それを拒否されている。死地を求めた良蔵は同年8月に江戸へ上り、横浜の外国公使館襲撃を企てるも失敗、[藩主の毛利慶親(のちの敬親)<の>養子<で>・・・嫡子<の>]毛利定広に諌められ、同年8月長州藩江戸藩邸にて自害した。・・・
初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、良蔵が浦賀での警備中にその才を見出して部下とした。良蔵の薦めで博文は松下村塾に入塾。長崎での海軍伝習にも付き従った。博文は良蔵の死後もその遺志を継いで活動し、彼を終生師匠として仰いだ。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%8E%9F%E8%89%AF%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%8E%9F%E8%89%AF%E8%94%B5</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%BE%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%BE%B3</a> ([]内)
(注54)「周布政之助は、書物の解釈に力点を置く明倫館の学風に満足せず、・・・1846・・・北条瀬兵衛ら同志とともに時事を討論する結社をつくった。その後、周布らは公卿の正親町三条実愛に命名を依頼し、<1858>年正式に嚶鳴社と称する。嚶鳴社の主要メンバーは、のちに尊攘派を形成した。」
<a href=’https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/223809′>https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/223809</a>
⇒これだけ読んでもよく分かりませんが、三条家の分家の正親町三条家の実愛(前出)の女子が毛利敬親の養女を経て、長門国長府藩第14代(最後)の藩主の毛利元敏の正室になっていた、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E6%84%9B</a>
という背景の下、実愛を通じて依頼を受けた実萬が嚶鳴社に揮毫を授けた、ということでしょうね。
なお、正親町三条家が突然毛利氏と縁戚関係に入った
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E8%A6%AA%E7%94%BA%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%B6</a>
背景までは調べがつきませんでした。(太田)
三条・姉小路の別勅使の受け入れをめぐり、当初、幕府内には異論が少なくなかった。
将軍後見職一橋慶喜は、慎重な態度を崩さなかったが、容保のほか松平春嶽や山内容堂の説得もあり、ようやく朝旨の受け入れが決まった。
今回、三条が幕府に突きつけようとしたのは、攘夷の実行だけではなかった。
幕府の勅使接伴(せっぱん)次第を従来の朝幕対等、あるいは幕府優位から、朝廷優位へと改めさせようとした。・・・
接遇改正に対する幕府側の抵抗は、少なくなかった。・・・
容保とともに奔走した山内容堂によれば、・・・老中板倉勝静(かつきよ)・・・<等に対する>懸命の説得のため「三寸の舌殆んど切れ申候(もうしそうろう)・・・というほどであった<が、幕府は最終的にそれを飲んだ。>・・・
朝廷<では、>・・・不安視する声も少なくなく、勅使の出発前日、近衛関白は、三条・姉小路に「呉々(くれぐれ)激烈に相成らざる様(よう)」と釘をさしている・・・。」(54~57)
⇒ここも、世界の役人の仕事のやり方からして、「三条が幕府に突きつけようとした」などということはありえないのであって、そうするよう指示したのは、あくまでも孝明天皇であって、かつまた、日本の役人の仕事のやり方からして、その孝明天皇にそう指示させたのは、朝廷における(実質的な最高意思決定者であるところの、)事務方のトップである関白の近衛忠煕だった、と、理解すべきでしょうね。(太田)
(続く)