太田述正コラム#12512(2022.1.15)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その29)>(2022.4.9公開)
「幕府側は軍艦奉行並(なみ)勝義邦(よしくに)(海舟)が対応し、海岸防禦の方法、砲台築造の設計、費用などを詳しく説明した。
姉小路は勝との議論を通じ、攘夷の無謀を悟り、開国説に傾いたという・・・。・・・
⇒姉小路家は、江戸時代に入ってから、源義経の同母兄の阿野全成ゆかりの公家の阿野家によって江戸時代に再興されたものであり、その後、武家の養子になった者も出ているけれど、公家の中でも武家との接点が多い方ではない
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B0%8F%E8%B7%AF%E5%AE%B6</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%87%8E%E5%AE%B6</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%88%88%E8%AA%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%88%88%E8%AA%A0</a>
とはいえ、これほど軍事事情に疎い者が、しかも、軍事事情を学ぼうともせず、攘夷を叫んでいたことに呆れます。
三条実美はこの姉小路公知のお友達だったわけであり、実美の軍事事情理解の程度も想像できるというものです。(太田)
<その>姉小路<が、5月20日夜、>暗殺<され、>・・・薩摩藩の田中新兵衛<(注62)>に嫌疑がかけられた。
(注62)1832~1863年。「元々は武士の生まれではなく、鹿児島の伝承では薩摩前ノ浜の船頭の子(または薬種商の子)と言われる。・・・幼少期より武芸に励み、剣術に優れていた<。>・・・1862年)5~6月に上京。・・・安政の大獄で長野主膳に協力した島田左近・・・<を殺害。>・・・
8月、小河の仲介で、土佐勤王党の武市瑞山と引き合わされ、武市と義兄弟の契りを結んだ。以後、新兵衛は岡田以蔵などと徒党を組み、暗殺を示唆された相手を次々と手にかけるようになった。本間精一郎、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞などを集団で襲って暗殺したと言われている。
<1863>年5月20日・・・、朔平門外の変で姉小路公知が複数名に襲撃されて暗殺された。この事件の現場で投げつけられ、残されていた刀が新兵衛の愛刀であり、薩摩下駄も残されていたことによって、新兵衛が犯人と断定されて・・・捕縛された<が、>・・・一言も発せず、隙をついて脇差を抜いて割腹、返す刀で喉の頸動脈を突いて即死した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E5%85%B5%E8%A1%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%96%B0%E5%85%B5%E8%A1%9B</a>
「岡田以蔵<(1838~1865年)は、>・・・土佐藩・・・郷士・・・の長男として生まれる。・・・
武市瑞山(半平太)に師事し、・・・1861年・・・8月、武市の結成した土佐勤王党に加盟。・・・1862年・・・6月、参勤交代の衛士に抜擢され、瑞山らと共に参勤交代の列に加わり京へ上る。・・・
土佐勤王党が王政復古運動に尽力する傍ら、平井収二郎ら勤王党同志と共に土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に参加。また薩長他藩の同志たちと共に、安政の大獄で尊王攘夷派の弾圧に関与した者達などに、天誅と称して集団制裁を加える。越後出身の本間精一郎、森孫六・大川原重蔵・渡辺金三・上田助之丞などの京都町奉行の役人や与力、安政の大獄を指揮した長野主膳の愛人・村山加寿江の子・多田帯刀などがこの標的にされた。村山加寿江は橋に縛りつけられ生き晒しにされた。このため後世「人斬り以蔵」と称され、薩摩藩の田中新兵衛と共に恐れられた。・・・
以蔵は瑞山在京時の・・・1863年・・・1月に脱藩して江戸へ向かい、2月より高杉晋作のもとで居候となる。・・・
1864年・・・2月、商家への押し借りの科で犯罪者として幕吏に捕えられ、5月に焼印・入墨のうえ京洛追放処分となり、同時に土佐藩吏に捕われ土佐へ搬送され<、>・・・土佐勤王党<の面々と共に刑死。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E4%BB%A5%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E4%BB%A5%E8%94%B5</a>
島田左近こと「島田正辰<(?~1862年)は、>・・・出自に関しては石見国の農民出身で、生活の糧を求めて京まで流れ、商家に奉公した後、侍として公家に仕えたとする説の他、美濃国の神主(もしくは山伏)の子に生まれ、烏丸家で養われたのち九条家代々の臣・島田家に婿養子として入り、当主となったなど諸説あり、明らかになっていない。・・・
条約勅許問題で暗躍した。彦根藩とともに動き、当初は通商条約調印に反対であった主君九条尚忠を幕府方賛成派に内応させ、紀州藩主徳川慶福を次期将軍職に擁立するという豪腕をふるった。
安政の大獄では直弼の指令の下、数多くの尊皇攘夷派の志士、活動家らを一斉に検挙、捕縛した。その際、奉行所の目明し文吉(猿の文吉)を謀臣とし、容赦ない弾圧を行なった。これにより、江戸幕府から左近へ流れた賄賂は1万両を越えたとも言われる。
桜田門外の変での直弼暗殺後には更に権勢を強め、・・・1861年・・・の和宮降嫁問題に際しても政治力を行使、関係者らを調略し、幕府への斡旋に深く関与した。こうして、後に土佐勤皇党の武市瑞山が台頭してくるまでの間、事実上の都の支配者として君臨する。また、町人を相手にした高利貸しで莫大な金子を得ていたと言われ、文吉に厳しい取り立てを行わせていた。・・・
1862年・・・7月20日、京都木屋町の愛妾宅へ忍んで出向いているところを薩摩藩の田中新兵衛ら配下3名に襲撃され・・・斬殺された。
この暗殺劇から始まるのが、いわゆる「天誅」と呼ばれる都で続発した殺戮騒動である。島田の死後、彼に追従していた者たちも次々と討たれていった。こうして、時代は左近の天下から、武市を首領とする土佐勤皇党一派の時代に移っていく。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%AD%A3%E8%BE%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E6%AD%A3%E8%BE%B0</a>
⇒岡田以蔵は郷士出身ですが、田中新兵衛も島田左近も、「庶民」出身であるところ、二人とも、先鋭化し、かつ、非業の最期を遂げた、という点が哀れ、といったところでしょうか。(太田)
同藩は窮地に立たされ、事件後、長州藩と気脈を通じた三条らの策動により乾門の警衛<任務>を解かれ、御所九門内に入ることを禁止された。
三条は、朝名による譴責を下さんばかりの勢いで薩摩藩や青蓮院宮・近衛前関白を攻撃した・・・。・・・」(73)
(続く)