太田述正コラム#12514(2022.1.16)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その30)>(2022.4.10公開)

「天皇はこうした展開を苦々しくみていた。
天皇は姉小路暗殺を薩摩藩の仕業として責め立てたのは、三条と徳大寺実則(さねつね)(明治後、宮内卿・侍従長を歴任)で、同藩に対する御所九門内への立ち入り禁止、乾門警備の解任は偽勅であるとした。
そのうえで、三条らを「早々取除」かなければならないと、排斥の必要性を青蓮院宮に訴えた・・・。

⇒自身は知っていたと思われるところの、長州藩に単独攘夷を決行させようという近衛家/薩摩藩の目論見を、時の関白の鷹司輔熙は孝明天皇に明かすわけにはいかなかったのでしょうが、天皇や他の廷臣達からは、さぞかし輔熙はでくの坊に見えたことでしょうね。(太田)

三条の周囲に・・・1863<年>6月、筑後国久留米よりひとりの大物志士が参じた。
「今楠公」といわれた水天宮神官真木和泉守保臣<(注63)>まきいずみのかみやすおみ)である。・・・

(注63)「1823年・・・に神職を継ぎ・・・1832年・・・に和泉守に任じられる。国学や和歌などを学ぶが水戸学に傾倒し、・・・1844年・・・、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け水戸学の継承者として位置づけられる。この関東遊歴により水戸では鹿島神社の小川修理、日下部伊三治と国事を論じ、江戸では安井息軒、塩谷宕陰、橘守部といった名士と交わった。・・・1847年・・・9月23日、・・・孝明天皇の即位の大礼を拝観したことで尊王の志を更に強くするに至った。
天保学と呼ばれる学派を立てるだけでなく、・・・1852年・・・2月、同志と計らい藩政改革の建白を久留米藩主であった有馬慶頼(後の頼咸)に上らせたが、却って罪を得て久留米より離れた下妻郡水田村の大鳥居理兵衛のもとに蟄居を命じられた。理兵衛は真木の弟で水田天満宮へ養子に出ていた。
幽囚生活は、・・・1862年・・・2月までおよそ10年に渡ったが・・・その寓居・山梔窩(さんしか)には筑前福岡藩士平野国臣、清河八郎などが訪ねてきている。
大久保利通(一蔵)らと、薩摩藩の最高権力者である国父・島津久光を擁立しての上洛を計画し、<1862>年に久光が上京すると京で活動する。寺田屋騒動で幽閉され、その後は長州藩に接近する。
長州藩主に「長州一藩のみが列強を相手に攘夷をしても勝ち目はない。全国一丸となって事に当たる必要がある。そのためには天皇が攘夷親政を進められること以外には道はない。」という意見具申をし採用された。しかし、この奥には「夷狄御親征名目で進発あそばし、直ちに都を大阪に移し、皇政復古の大号令を天下に布告し、大艦を造り、武備を整え、対外的武力の充実を図る」という考えがあった。そしてこの考えのもとに御親征促進運動を推し進めた偽勅の乱発に対し、孝明天皇の怒りを買い、八月十八日の政変が起きた。
・・・1863年・・・、会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した八月十八日の政変が起こると、七卿と共に長州へ逃れる。翌・・・1864年・・・7月19日に長州藩の福原元僴・益田親施・国司親相・来島又兵衛・久坂玄瑞ら同志と共に禁門の変(蛤御門の変)に主戦派として参加し、破れた後敗走するも天王山に17名で立て籠もり、会津藩と新撰組の追撃を受け爆死自害した。・・・
真木は、開明派の橋本左内や横井小楠、近代国家への展望を持った倒幕派の大久保利通、坂本龍馬などと比べ、西洋事情に対する洞察も知見も乏しかった。その思想は観念的な攘夷論・・・であった」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3</a>

<1862>年、真木は島津久光の上京に同行すべく、藩当局に無断で蟄居先を脱した。
寺田屋事件で現場にいたため拘束され、ふたたび久留米藩で幽閉の身となっていた。
在京の長州藩有志らは、真木の身に危険がせまるとして、三条・姉小路に救援を訴えた。
その結果、鷹司関白名による内旨が久留米藩に下され、真木は晴れて自由の身となった。・・・
上京後、真木は尊攘派の周旋により学習院御用掛となった。

⇒学習院をこういう形で活用することにしたのは、関白当時の近衛忠煕である、というのが、私の見立てであるわけです(コラム#12507)。

6月17日、真木は長州藩の桂小五郎・佐々木男也・寺島忠三郎らと攘夷親征について協議したが、この場で有名な「五事建策」と題する意見書を披露した。
攘夷親征の勅使を下関に遣わす、万一浪華海(大阪湾)に外国軍が侵入する場合には、在京諸藩が御所九門内に屯集し、関白を軍奉行、公卿を将帥に任じるという実行策が記されていた。・・・
歴史学者山口宗之<(注64)>は、真木の思想について、一面時代錯誤ともいえる頑固な復古主義的主張をみせながらも、幕藩的現体制秩序に拘束されることなく尊王=敬幕の論理の停滞性を打ち破り、反徳川将軍のエネルギーを果敢に燃え上がらせることができたと評価している(『真木和泉』)。・・・」(74~76)

(注64)1928~2012年。九大文(国史)卒、久留米工業高専助教授、九大教養部助教授、教授、九大博士(文学)、名誉教授、皇學館大教授、久留米工大教授。「専門は幕末政治思想史。<帝国>陸海軍将校に関する著書もある。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%AE%97%E4%B9%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E5%AE%97%E4%B9%8B</a>

⇒真木のウィキペディア執筆陣は、山口の『真木和泉』を参考文献に挙げつつも、山口の真木評を無視し、否定的な真木諸評だけを紹介しています
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E6%9C%A8%E4%BF%9D%E8%87%A3</a> 前掲
が、長州藩の桂らと密な交流をしていた真木に否定的な評価を下すのは、桂らに否定的な評価を下すに等しく、いかがなものかと思います。(太田)

(続く)