太田述正コラム#12520(2022.1.19)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その33)>(2022.4.13公開)
「雄藩諸侯が去った後の京都政局は、新たに禁裏御守衛総督に任じられた慶喜と、京都守護職松平容保・京都所司代松平定敬(さだあき)(桑名藩主)の、いわゆる「一会桑<(注67)>(いっかいそう)」が中心となる。」(88)
(注67)「「一会桑」と三者をまとめる呼び方は同時代にも用いられており、他に「橋会桑」という表記もあった。研究史上、最初に歴史用語として使用したのは、学習院大学教授(幕末史)の井上勲である。 大阪経済大学助教授の家近良樹<(前出)>が、幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとしてこの「一会桑政権」と呼ばれる歴史概念を主張している。従来の薩長中心史観では見過ごされがちだが、この三者が幕末において果たした役割を再評価している。・・・
参預会議は・・・1864年・・・2月に山内が帰国、3月には残る全員が辞表を提出してあっけなく瓦解した。
3月、一橋慶喜は将軍後見職を辞し、代わって新設された禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。いったん京都守護職を退いていた松平容保も復帰、容保の実弟で桑名藩主の松平定敬<(さだあき)>が京都所司代に任ぜられた。ここに「一会桑政権」の基本的な枠組みが成立し、禁門の変を経て提携を深めた3者は、孝明天皇・二条斉敬・中川宮朝彦親王の朝廷と協調して慶喜の将軍職就任に至るまでの京都における政治を主導していくことになる。・・・
慶喜は将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督に就任することにより朝廷に接近する一方、幕府中央との関係は疎遠となった。幕府中央・朝廷双方に名望を有する会津藩は、朝廷・幕府間のパイプ役を自認し、軍事的な面からも「一会桑」の中核であった。会津藩は一貫して西南雄藩の国政参加の阻止に努めたことにより、雄藩とりわけ薩摩藩との対立を深め、のちの王政復古による明治新政府からの排除や戊辰戦争の遠因となった。
1865年・・・4月には、朝廷において武家に関する評議は全て「一会桑」との打ち合わせの上決定するという原則が形成され、10月には3者の協力で長年の懸案であった安政五カ国条約の勅許を獲得し、幕府老中に同志である小笠原長行・板倉勝静を送り込むことに成功するなど、権力としての絶頂期を迎えた。
一会桑政権は二度の長州征討を主導したが、1866年・・・8月、会津・桑名両藩の意向に関わらず慶喜が第二次征長を中止し、徳川宗家相続を機に諸侯会議を重視する姿勢を打ち出したことにより、その意義を否定される。慶喜の変節に反発した二条が9月に一時参朝を停止し、10月には松平容保が京都守護職の辞職を申請するなど、ここに一会桑政権の実質的な崩壊が明らかとなった。
一会桑政権の終焉は、この体制のもとで抑圧されてきた岩倉具視ら反幕派廷臣や諸藩の活動を活性化させることとな<った。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%9A%E6%A1%91%E6%94%BF%E6%A8%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%9A%E6%A1%91%E6%94%BF%E6%A8%A9</a>
井上勲(いさお。1940~2016年)は、東大文(国史)卒、同大院博士課程満期退学、同大助手、学習院大助教授、教授、名誉教授。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%B2_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%8B%B2_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E8%80%85)</a>
「長州藩を追放した「八月十八日の政変」が起きたとき、慶喜は京から離れていて関与していない。それ以後も、長州藩主の毛利敬親と定広の親子とは、手紙のやりとりをする間柄であった。」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/447916′>https://toyokeizai.net/articles/-/447916</a>
「箱石大<は、>・・・当初の京摂守衛が旧参<預>諸侯の策略で京都守衛と摂海防禦に分離され、慶喜を摂海防禦総督として京都から遠ざけようとする動きがみられたが、最終的には慶喜の両職兼任で決着したこと、総督とは徳川家一門が就任した将軍名代的な地位・役職で将軍権力の一部を分与・委譲された存在であり、明確に幕府職制の一形態として京都守護職・京都所司代の上位に立つものであったこと、江戸の幕府勢力から相対的に自立した一・会・桑権力にとって総督慶喜は重要な存在であったこと、などを指摘し<た。>」
<a href=’https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/106/12/106_KJ00003648103/_article/-char/ja/’>https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/106/12/106_KJ00003648103/_article/-char/ja/</a>
箱石大(1965年~)は、國學院大修士で東大史料編纂所教授。
<a href=’http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a158520.html’>http://www.yoshikawa-k.co.jp/author/a158520.html</a>
<a href=’https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/people001849.html’>https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/people/people001849.html</a>
⇒徳川慶喜については、次の東京オフ会「講演」原稿でも改めて取り上げたいと思っていますが、慶喜は、参預会議を潰したかと思ったら、今度は一会桑体制を潰したわけであり、客観的に見れば、幕府を延命させ得る二つの政体を、それぞれの政体の有力メンバーでありながら、その内部から二つとも瓦解させることによって、幕府の終焉を早めたと言ってよさそうであるところ、私は、慶喜は、一貫して、主観的にも、幕府の「早期」かつ「円滑」な終焉をもたらすべく、幕末期を生きた、つまりは、慶喜は、島津斉彬コンセンサス信奉者達・・近衛家/島津氏、後には、近衛家/薩摩藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達・・の、幕府内における最高級工作員、として自ら任じ、幕府崩壊までの前半生を生きた、と考えるに至っています。
(私は、比較的最近、慶喜を大馬鹿者と評したことがあります(コラム#12081)が、改説します。)
私は、福澤諭吉が薩摩藩・・近衛家でもあります・・から幕府に送り込まれたスパイである、と指摘したこともあり(コラム#10570)、今もその考えであるところ、この二人に互いにそんな意識はなかったでしょうが、実はその幕府のずっと上の方に最高級工作員の慶喜がいた、というわけです。(太田)
(続く)