太田述正コラム#12524(2022.1.21)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その35)>(2022.4.15公開)
「<1863>年はじめの動きをみると、将軍家茂がふたたび上京し、幕府の権威は盛り返したかにみえた。
だが、当時懸案であった横浜鎖港や長州処分をめぐる問題は進展せず、一方で3月には、水戸藩の藤田小四郎らを中心に天狗党が筑波山で挙兵するなど、各地の攘夷勢力は息を吹き返しつつあった。・・・
錦小路頼徳<(前出)>・・・の<病>死により<、既にそれまでに>六卿<になっていたところ、それが更に、>五卿となっ<てしまっていたが、彼ら>・・・は上京準備にいそしむ一方で、5月25日の楠木正成の命日には<、在地で>祭典を催している。
三条は、前年の西下のときもそうであったが、楠公を欽慕し、不屈の勤王精神に己を奮い立たせようとしていた。・・・」(90~91)
⇒西下の折、「七卿<・・当時は七卿だった・・は、>・・・<1862年>8月21日に・・・湊川で楠木正成の墓に参拝し<ている>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E7%BE%8E</a>
ところ、この墓の地に後に湊川神社(注70)が創建されています。
(注70)「楠木正成は、・・・1336年・・・5月25日、湊川の地で足利尊氏と戦い殉節した(湊川の戦い)。・・・1643年・・・に尼崎藩主となった青山幸利は、領内に正成の戦死の地を比定し供養塔を立てた。幸利の自ら定めた墓所もこの周辺に存在する。・・・1692年・・・になり徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した石碑を建立した。・・・以来、水戸学者らによって楠木正成は理想の勤皇家として崇敬された。幕末には維新志士らによって祭祀されるようになり、彼らの熱烈な崇敬心は国家による楠社創建を求めるに至った。
1864年・・・、島津久光は・・・藩士折田要蔵<の献策を受け、>・・・南朝の忠臣らを合祀した神社を建てる事を建白<し、>・・・朝廷は・・・この建白を聴許した<が、>・・・禁門の変が起こり、薩摩藩は長州藩との戦闘状態となり、神社創建に関わっている場合ではなくなってしまった。。・・・<次いで、>1867年・・・に尾張藩主徳川慶勝により<京都での>楠社創立の建白がなされ、<近衛父子の積極的賛同を得たが、>・・・<こ>の建白に対する朝廷の反応は明らかでない。・・・<更に、>1868年・・・水戸藩は楠社創建のことを同藩に一任するように建白した。・・・<結局、>明治元年(1868年)、・・・明治天皇は大楠公の忠義を後世に伝えるため、神社を創建するよう命じ、1869年(明治2年)、墓所・殉節地を含む7,232坪(現在約7,680坪)を境内地と定め、1872年(明治5年)5月24日、湊川神社が創建された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE</a>
折田要蔵(1825~1897年)は、「造士館に入学。・・・1845年・・・江戸に遊学して昌平黌に入るが、留学中藤田東湖、また特に箕作阮甫から蘭学を学んで西洋兵学に精通する。・・・1848年・・・蝦夷地・樺太に渡って見聞を広める。・・・1853年・・・黒船が来航すると水夫や鍛冶師に扮して蒸気船や大砲の視察を行った。・・・1855年・・・徳川斉昭の求めに応じて軍艦や海防について論じて<賞>された。しかし同年に志士を糾合する謀略が明るみに出たことから江戸町奉行に捕らえられ、薩摩に送られる。
・・・1863年・・・薩英戦争が起こると砲術に精通していたことを買われ、砲台の建造と大砲製造の主事を務めた。同年、島津久光の上京に従軍。・・・1864年・・・摂津沖の防備を急務と考える島津久光の命を受けて湾岸防備設備の設計を行って久光に提出した。久光から献策を受けた幕府より台場造営を命じられ、100人扶持。なおこのとき、一橋家家臣だった渋沢栄一が内偵のために一時期内弟子となっている。・・・
1868年・・・山陰道鎮撫総督参謀書記として山陰道を西進<、>・・・同年、府中裁判所が設置されると判事に就任。
明治3年(1870年)官を辞し、三国屋要七と名乗って京都で武器商人に転身した。明治6年(1873年)かねてより建立を建言していた湊川神社の初代宮司に任じられる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E7%94%B0%E8%A6%81%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%98%E7%94%B0%E8%A6%81%E8%94%B5</a>
「この墓の前に・・・明治維新の功労者、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・坂本龍馬・三条実美等々みな・・・ぬかづいて<いる>」
<a href=’https://masaatsutomishima.amebaownd.com/posts/3727407/’>https://masaatsutomishima.amebaownd.com/posts/3727407/</a>
という次第であり、「注70」を併せ踏まえれば、水戸徳川家、島津氏/近衛家、尾張徳川家、が、いかに思想・イデオロギーを共有していたところの一種の連合体であったか、そして、その思想・イデオロギーに明治維新の功労者達がいかに深く染まっていたか・・吉田「松陰は、<この>楠公墓前に4度も参詣して<いる>」(上掲)・・、かつまた、天皇家がいかにその「蚊帳の外」にいたか・・、が分かりますね。
そして、この連合体が、水戸徳川家出身の徳川慶喜を将軍職に就けようとした理由も・・。
耳タコでしょうが、最終的に将軍職に就いた慶喜は、見事なまでに、この連合体の期待に応えて「倒幕」を果たすわけです。(太田)
(続く)