太田述正コラム#12526(2022.1.22)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その36)>(2022.4.16公開)
「長州藩の上京熱は、6月5日の京都池田屋事件により沸騰した。
新選組の襲撃により長州藩や土佐藩ををはじめ多数の尊攘派が殺害されたが、犠牲者のひとり、熊本藩出身の宮部鼎蔵<(注71)>は、五卿の側近でもあった。
(注71)1820~1864年。「医者の家庭<に生まれ>、叔父の宮部増美の養子とな<って>山鹿流軍学を学び、30歳の頃には熊本藩に召し出され、・・・[<増美>の跡を継ぎ,肥後藩兵法師範職となる。]・・・林桜園に国学などを学ぶ。長州藩の吉田松陰と知り合い、・・・1850年・・・、東北旅行に同行する。松陰と鼎蔵は・・・1851年・・・、山鹿素水に学んでいる・・・。・・・1861年・・・には肥後勤皇党に参加する。・・・その後、京都で活動する。・・・1863年・・・[には全国諸藩より選抜された親兵3000人の総監に任じられたが]<、同年>に起きた八月十八日の政変で、長州藩が京より追放されると宮部も長州藩へ去るが、・・・1864年・・・には再び京都へ潜伏<、>・・・1864年<、>・・・[宮部鼎蔵らが中心となり,中川宮(朝彦親王),一橋慶喜,京都守護職松平容保の暗殺を企てた<が、>]6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5</a>
「弟春蔵 (39~64) も志士として国事に奔走し,真木和泉らと天王山に自刃。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5-139604′>https://kotobank.jp/word/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%BC%8E%E8%94%B5-139604</a> ([]内)
事件の報が山口に達したのが6月14日で、翌15日には来島又兵衛<(注72)>が遊撃軍を率いて先発、その翌日には家老福原越後の部隊がつづいた。・・・
(注72)きじままたべえ(1817~1864年)。「1863年・・・、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変で尊王攘夷派が追放されると萩に戻り、・・・遊撃隊を組織して自ら総督となり、<奇兵隊と>連携して国事にあたった。
翌・・・1864年・・・、<八月十八日>の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元僴らと共に上洛、薩摩藩国父島津久光の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。
6月に福原・益田親施・国司親相・久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A5%E5%B3%B6%E5%8F%88%E5%85%B5%E8%A1%9B</a>
「<1863>年6月・・・、高杉晋作が身分を問わない奇兵隊を創設すると、これに触発された来島又兵衛が同年10月に周防国宮市(現山口県防府市宮市)において、町人・農民・浪士らを組織して遊撃隊を結成、初代総督となる。
土佐藩を脱藩した池内蔵太や中島信行、元天誅組の上田宗児らも加わっている。
<1864>年7月・・・の禁門の変に先鋒として参戦。来島又兵衛の死後は石川小五郎が隊を引き継ぎ総督となり指揮を取る。同年12月・・・、高杉晋作が決起(功山寺挙兵)するとこれに呼応し、俗論党と戦い勝利に貢献。
<1865>年3月・・・、長州藩政府は諸隊を整理統合し、遊撃隊も毛利親直を総督として藩の正規軍として公認され、俸給・武器弾薬等を支給される。<1866>年5月・・・の第二次長州征伐に際しては芸州口において幕府軍と戦う。
その後、戊辰戦争を通じて倒幕軍の一隊として活躍したが、戦争終結後、冷遇に不満を募らせた諸隊の隊士らの反乱に200名を超える隊士が参加、乱の中心となるも鎮圧された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E6%92%83%E9%9A%8A_(%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8A%E6%92%83%E9%9A%8A_(%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9)</a>
<また、>有志で組織された忠勇隊と諸兵が真木和泉守・久坂玄瑞に率いられ、・・・出発した。・・・
7月中旬までには福原<を始めとする>三家老に率いられた兵3000が京都郊外の各所に進出した。
さらに同月13日、藩主世子毛利定広が兵1万余を率いて進発した。・・・
長州軍は、五卿と藩主父子の免罪および入京の許可を朝廷にもとめたが容れられず、逆に退去の命が下ったため、やむなく市中に向け進発した。
御所を警衛する薩摩・会津両藩をはじめとする諸軍と衝突、激闘の末に敗北し、来島・久坂・真木らは各地で戦死または自刃した。・・・」(91~93)
⇒長州藩の歴代藩主に日蓮主義が普及しなかった理由を追究したいと思いつつ、まだ果たせていません。
「大江広元の曾孫にあたる・・・安芸毛利氏の当主・・・毛利時親<(?~1341年)に、>・・・若き頃の楠木正成に兵法(闘戦経)を教えたという伝承もある」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%99%82%E8%A6%AA’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%99%82%E8%A6%AA</a>
というのに・・。
その長州藩の藩論は、団結と反幕でした。↓
「毛利元就が三人の息子に宛て団結の精神を説いた「十四カ条の教訓状」は、三本の矢という逸話が生まれたことで有名である。その団結の精神は家臣にも広げられ、家臣を大切にというのが毛利家の基本方針であり、家臣もまた「殿様」を大切にした。その絆の強さが長州藩の特色だった。萩の菩提寺である大照院と東光寺の藩主たちの墓の前に立ち並ぶ燈篭は、家臣の殉死をやめさせるために殉死の代わりに燈篭を収めさせたのが始まりであったという。藩主と家臣、本家と分家の絆と団結力を支えたのは関ヶ原の戦いで中国地方八カ国120万石支配権の保証の密約が反故にされて防長二カ国36万石に削減された痛恨の歴史からくる「反幕府」の想いがあった。この毛利家と家臣たちの絆の強さが長州藩を薩摩藩と並ぶ近代日本の夜明けをもたらす原動力に押し上げた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E6%B0%8F</a>
団結と反幕に思想性は皆無であるだけに、日蓮主義に染まらなかったのは不思議だという思いの一方で、だからこそ日蓮主義に染まらなかったのかなとも思います。(太田)
(続く)