太田述正コラム#12530(2022.1.24)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その38)>(2022.4.18公開)
「1866<年>2月、五卿のもとに幕府より目付小林甚六郎が派遣されるとの情報が届いた・・・。・・・
幕府による召喚の危機は、薩摩・熊本両藩の反対、とりわけ薩摩藩の迅速かつ強硬な態度によって救われた。
危機を知って昼夜兼行で太宰府に駆けつけた黒田嘉右衛門<(注77)>(清綱、洋画家清輝の養父)は、自分は藩主の命で五卿を護衛しており、その命がなければ絶対に引き渡すことはできないと小林を威嚇した。・・・
(注77)1830~1917年。「五卿の・・・移送を中止させた・・・後、10月に藩の正使として長州藩主毛利敬親と会談した。その後、京都・大坂に滞在し、戊辰戦争の際には山陰道鎮撫総督参謀として総督西園寺公望を補佐した。
その後、鹿児島藩参政として伊地知正治とともに藩政改革に努め、1870年(明治3年)に明治政府に召され、弾正少弼として稲田騒動の鎮圧を図り、次いで東京府大参事として川路利良とともに警察制度の設立に参画した。後に教部少輔・文部少輔に転じる。西南戦争の際には島津久光に西郷の助命嘆願を行い、西郷の死後も三条実美らに名誉回復を進言した。1875年(明治8年)に元老院議官を経て、華族令公布後の1887年(明治20年)・・・、子爵に叙せられる。1890年(明治23年)・・・に貴族院議員に選出されて1期務める。同年10月20日、錦鶏間祗候となる。1900年(明治33年)に枢密顧問官に任じられた。
同門の高崎正風の没後は明治・大正両天皇の和歌の指導にあたった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E7%B6%B1′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E7%B6%B1</a>
稲田騒動(庚午事変)については、下掲参照。↓
<a href=’https://www.city.sumoto.lg.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html’>https://www.city.sumoto.lg.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html</a>
ほかにも大阪では、大久保一蔵<(利通)>が、老中板倉勝静<(コラム#9847)>(かつきよ)に小林下向の目的をただし、警衛の人数の取り締まりのためで、五卿とは無関係との言質を引き出すことに成功した・・・。
⇒「15代将軍徳川慶喜から厚い信任を受け、老中首座兼会計総裁に選任され<る」ことになる勝静でしたが、慶喜とは違って、「松平定信の孫・・・に生まれた勝静にとって、幕府(徳川将軍家)を見捨てることは出来ない相談であ<り、>・・・旧幕府軍の一員として五稜郭まで転戦」います。
「勝静が一番の信を置いた・・・山田方谷<(注78)>・・・は、黒船来航後の混乱を見て、既に幕府滅亡が避けられないことを察してい<て>」そのことを勝静にも伝えており、勝静もそう考えていたはずであるにもかかわらず、です。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%9D%99′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%80%89%E5%8B%9D%E9%9D%99</a> ←「」内及び事実関係
(注78)1805~1877年。「菜種油の製造・販売を家業とする農商・・・の子<。>・・・儒学<を>・・・学<び、>20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩主板倉勝静のブレーンとして藩政に参加、財政の建て直しに貢献したほか、老中に就任した藩主のもと幕政にも影響力を有した。幕末の混乱期には官軍への服属を決断し、藩を滅亡から回避させることに成功した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E6%96%B9%E8%B0%B7</a>
以上からも納得してもらえると思いますが、私は、慶喜は、方谷や勝静よりも遥かに早い時期から、「幕府滅亡が避けられないことを察して」いた、と、見ています。(太田)
大山格之助<(注79)>(綱良)は、兵卒および大砲3門を率いて太宰府に乗り込み、小林に先の板倉老中の発言との相違を詰問している。・・・
(注79)1825~1877年。「藩中随一の<剣の>使い手といわれた。・・・西郷隆盛、大久保利通らとともに精忠組に所属。・・・西郷隆盛とともに<水戸藩の>藤田東湖に会った<ことがある。>・・・新政府では廃藩置県後に鹿児島県の大参事、権令(県令)となる。だが、これは旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるとした廃藩置県の原則に反する特例措置であった。大山は島津久光の意を受けて西郷らを批判した。
明治6年(1873年)に征韓論争から発展した政変で西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けた。その後、大山が県令を務める鹿児島県は新政府に租税を納めず、その一方で私学校党を県官吏に取り立てて、鹿児島県はあたかも独立国家の様相を呈した。明治10年(1877年)に鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供し、その罪を問われて逮捕され東京へ送還される。西郷軍の敗北後、長崎で斬首された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E7%B6%B1%E8%89%AF</a>
さらに薩摩藩は、五卿召喚を阻止するだけでなく、この問題を梃子に九州各藩を征長出兵拒否で糾合しようとするなど、藩戦略に取り込んでいた・・・。・・・」(117~119)
⇒要するに、島津斉彬コンセンサス信奉者たる西郷、大久保らは、三条実美ら五卿保護に藉口して、かねて計画していたところに従い、九州諸藩の糾合と長州藩との提携を実現した、ということであり、実美ら自身は、(主観的にはともかくとして、)本件に関して何の働きもしていない、と、見るべきでしょう。
そして、明治維新後も、薩摩藩出身の新政府幹部達は、長州藩出身者等と共存を果たすために、このような無用の用的な「重要な」役割を、実美に、太政大臣として、演じさせ続けることになった、ということではないでしょうか。(太田)
(続く)