太田述正コラム#12532(2022.1.25)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その39)>(2022.4.19公開))

「孝明天皇崩御後も五卿は太宰府にとどまりつづけたが、そうしたなかで中岡慎太郎<(注80)>は、仇敵同士である三条と岩倉具視を握手させるべく工作を開始する。・・・

(注80)1838~1867年。「土佐(高知)藩郷士。大庄屋中岡小伝次の子・・・。・・・1855・・・年武市瑞山の道場に入門し坂本竜馬を知り,また間崎滄浪に経史を学ぶ。・・・1861・・・年土佐勤王党の血盟文に署名。翌年10月五十人組結成に参加,江戸に赴き山内豊信の警護に当たった。翌・・・年4月帰郷,藩庁による尊攘派の弾圧が始まり脱藩,長州に入り,三条実美らの護衛に当たる。翌・・・1864・・・年6月上洛,長州軍の一員として禁門の変に参加。その後長州藩に逃れ忠勇隊の隊長となる。同隊は脱藩浪士を構成員とする長州藩諸隊のひとつ。以来,下関,大坂,京,太宰府,長崎,鹿児島と歩き,この間,竜馬と共に薩長の和解工作に尽力する。・・・1865・・・年冬『時勢論』を土佐の同志に送り,こう予言した。「自今以後,天下を興さん者は必ず薩長両藩なるべし。……天下近日の内に二藩の命に従ふこと鏡に掛けて見るが如し」。<1867>年2月,脱藩の罪を許され,土佐藩より陸援隊隊長に任命される。竜馬の海援隊に対しての陸援隊である。5月21日,板垣退助を西郷隆盛に引き合わせ,談は武力討幕におよんだ。6月22日,薩土盟約締結に立ち合う。京白河で討幕の日に備えていた同年11月15日,刺客に襲われ負傷,17日に絶命した。」
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<実は、>在京公家のうちに良い連携相手がみつからずにいたところ、土佐藩家老深尾氏の臣で、当時は岩倉の側近となっていた大橋慎三<(注81)>(橋本鉄猪(てつい))より、洛外に逼塞中の岩倉との会見を勧められた<もの>。・・・

(注81)1835~1872年。「土佐勤王党に参加,・・・1863・・・年上京して勤王運動に挺身,藩主山内豊信(容堂)の勤王弾圧のため謹慎処分となったが,・・・1864・・・年京都禁門の変の報を聞き,同志浜田辰弥(のちの田中光顕)と共に,脱藩して周防三田尻に走ったが長州藩情悪く京坂に転じ,大橋慎三(蔵)と改名,種々奔走の中,岩倉具視の知遇を得,同藩出身の志士,中岡慎太郎,坂本竜馬らに岩倉を紹介,王政復古運動の初期的条件を作る役割を果たした。・・・1867・・・年11月中岡遭難後,陸援隊の庶務を取り仕切り,12月侍従鷲尾隆聚の高野山挙兵に浜田と共に参謀を務めた。明治政府に出仕して式部佑,開拓判事,太政官大議生を歴任した。」
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「1867年・・・4月、中岡の同志・坂本龍馬が組織した亀山社中が海援隊として土佐藩に付属する外郭機関となったのに続き、中岡も長州で見聞していた奇兵隊を参考に、薩土討幕の密約に基づいて土佐藩に付属する遊軍として陸援隊を結成した。土佐藩主・山内豊範の側役・福岡孝弟は公武合体から倒幕へと動く時流に乗るために、脱藩して勤皇活動を行なっていた中岡や坂本らを土佐藩の影響下に収めて、海援隊と陸援隊とを併せて翔天隊とする構想であった。脱藩の罪を許された中岡が隊長となり、京都白川の土佐藩邸を本拠とした。尊皇攘夷の思想を持つ土佐藩、水戸藩の脱藩浪士が中核となり、隊士は総員77名であった。薩摩藩からは洋式軍学者鈴木武五郎が派遣され、支援隊の十津川郷士ら50名と共に、洋式調練を行った。食事は河原町の土佐藩邸から支給された。陸援隊の内部には新選組など幕府方の密偵が入り込んでいたといわれる。
<1867>年11月15日・・・、京都河原町において隊長の中岡が坂本と共に暗殺されると(近江屋事件)、同志の田中光顕、谷干城らが隊を指導した。同年12月7日・・・、隊士の一部が海援隊士らと共に、京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃して、紀州藩士三浦休太郎を襲い、新選組と戦った(天満屋事件)。」
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「<1868>年12月8日・・・、陸援隊は岩倉具視から、・・・侍従<の>・・・鷲尾隆聚を擁して高野山において挙兵して紀州藩に対抗する密命を受けた。親藩の紀州徳川家は佐幕派であり、武装上洛して旧幕府派勢力の巻き返しを図っているとの情報があったため、大政奉還後大坂城に移った徳川慶喜との緊張状態が続く中、王政復古を画策していた岩倉らは紀州藩の動きを強く警戒していた。これに関して陸援隊では前日の12月7日に京都油小路の旅籠天満屋において紀州藩士三浦休太郎を襲撃するが殺害に失敗している(天満屋事件)。
当時、鷲尾隆聚は謹慎中であったが陸援隊隊士香川敬三の手引きで邸を脱すると高野山に向かった。田中光顕や岩村高俊らの陸援隊士は銃100挺を土佐藩白川邸から無断で持ち出して、十津川郷士らと共に高野山へ向かった。一行は淀川を船で降って大坂へ出て、9日に堺、10日に河内三日市を経て11日に紀州へ入った。土佐藩ではこの動きを止めるために後を追うが、田中らは勅命(岩倉が発した偽勅)を受けており、また出発の翌日12月9日には王政復古の大号令が発せられ、この行動を追認する。
同年12月12日・・・、高野山に到着した鷲尾と陸援隊士らは金光院を本陣に定め錦旗を掲げて100名程度で挙兵し、紀州藩を始めとする周辺の諸藩に使者を送り王政復古した朝廷への恭順を迫った。これを知った者達が続々と参集し、軍勢は1,300人程度まで膨らんだ。16日、紀州藩では抵抗することなく鷲尾に使者を送り朝廷への恭順の意を示し、周辺国の諸藩も朝廷に服した。
<1868>年1月3日・・・から6日にかけての鳥羽・伏見の戦いに際して、高野山に滞陣して紀州・大和方面の諸藩を牽制し、大坂の旧幕府軍との連携を断った。新政府軍が勝利した後の1月16日・・・に鷲尾らは高野山を引き払い京都に帰還した。義軍参加者は御親兵に編入されたり、その後の戊辰戦争に従軍した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E6%8C%99%E5%85%B5′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E6%8C%99%E5%85%B5</a>

中岡は3月19日、大宰府を発し、途中、下関で坂本龍馬と会見、さらに伊藤俊輔をたずねた。
4月21日、中岡は洛北の幽居にある岩倉と対面した。・・・
6月25日には龍馬とともに岩倉邸を訪れ、三条との連携を切り出した。
岩倉は・・・全面的に賛同した。
9月、大宰府にもどった中岡は、三条に岩倉との握手を勧めた。・・・
三条は・・・渋ったが、最終的には提携を受け入れた・・・。・・・
三条・岩倉の握手<を>、・・・徳富蘇峰は・・・薩長の握手とは、同一視す可き程の重要事件ではなかったにせよ、やや之に次ぐの重要事件であったには相違なかった・・・と評する。・・・」(122~123)

⇒「具視<は、>・・・1853年・・・1月に関白・鷹司政通へ歌道入門する」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96</a>
が、その政通は、「正室<が>徳川清子(鄰姫)<で> 徳川治紀<の>娘<であったことから、>・・・義弟の水戸藩主・徳川斉昭から異国情勢についてこまめに連絡を受け、孝明天皇に知らせた」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E6%94%BF%E9%80%9A</a>
人物であり、この政通から、具視は水戸学と国際情勢に係る識見を吸収したと思われるところ、具視の大叔父でかつ義理の叔父である大原重徳(注82)が、「1858年・・・に・・・日米修好通商条約の調印のための勅許を求めて老中・堀田正睦が上洛すると、岩倉具視らと反対して謹慎させられ<、>・・・1862年・・・、薩摩藩の島津久光が藩兵を率いて献策のために上洛すると、赦免された重徳<が>岩倉の推薦で勅使として薩摩藩兵に警備されて江戸へ赴いた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%BE%B3′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%87%8D%E5%BE%B3</a>
背景には具視がいたわけです。

(注82)大原重尹-重成-岩倉具慶-具視
-重徳(重成の養子)
(大原家は宇多源氏の流れを引く公家。)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E5%AE%B6</a>
(岩倉家は、村上源治久我家の流れを汲む公家。)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%AE%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%AE%B6</a>

また、大原重徳が江戸へ赴いた時点の関白は近衛忠煕であったところ、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>
上記識見のおかげで、忠煕の謦咳に接した具視は、忠煕が斉彬と共に形成した島津斉彬コンセンサスを的確に理解することができたと想像されます。
他方、三条実美の識見は、父親の実萬がその正室の出身である土佐藩主家たる山内家から得た情報を下に形成した識見を引き継いだものであり、このことが、その識見を、具視のそれに比して、相対的に奥行きと広がりにおいて遜色のあるものとし、島津斉彬コンセンサスの理解も不十分なものにとどめ、そのことが、この時点までの、実美と具視の対立をもたらすことになった、というのが私の取敢えずの仮説です。(太田)

(続く)