太田述正コラム#12536(2022.1.27)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その41)>(2022.4.21公開)

「幕府はなくなっても、徳川氏は依然、巨大大名として存在しており、軍事的に薩長を威圧していた。
さらに朝廷では松平春嶽・山内容堂らの奔走により慶喜の朝政参加工作が効果をあげつつあり、薩長側は焦慮を強めていた。
三条の入京は、朝廷で頼りになる公家は岩倉のみという心細いさなかであり、・・・薩長側を大いに力づけた。・・・
王政復古の大号令によって、新政府には総裁・議定・参与の三職が設置された。・・・
総裁の有栖川宮・・・熾仁親王・・・は名目的な存在であり、副総裁の三条・岩倉が事実上、新政府のトップであった。
副総裁兼外国事務総督に就任した三条は、すぐさま政治のきびしい現実に直面する。・・・
かつての幕府や薩長両藩がそうであったように、三条もまた当事者として外国と対峙することで、排外的な攘夷論は現実には不可能であり、開国和親のなかで、自主独立をめざしていくほかないことを受け入れた。・・・

⇒幕府にとっても薩長両藩にとっても、攘夷論が現実には不可能であることなど、欧米勢力とまともに戦ったら勝ち目がない以上、当たり前であり、長州藩が攘夷を標榜し、しかも、部分的にそれを実行したのは、倒幕という国内政治上の目的のためであったのに対し、この時点では既に亡くなっていたけれど、孝明天皇、や、三条の場合は、無知と不勉強によるものであり、大変恥ずかしいことことです。(太田)

<やがて、>家格に大きな差があ<ったことから、>・・・三条を首席、岩倉を次席とするルールが定着する。・・・
三条が関八州鎮将・・・として最も心を傾けたのが遷都問題であった。
三条は、・・・大坂遷都論に乗り気をみせていたところ・・・江戸単独遷都論を主張し<始め>た。
影響をあたえたのが、舘林藩士岡谷繁実<(注84)>(おかのやしげざね)の意見書である・・・。

(注84)1835~1920年。「上野館林藩士。通称は鈕吾。 江戸で高島流砲術を学び、その後水戸に遊学し、江戸昌平黌に学ぶ。幕末、館林藩主秋元志朝が長州藩と血縁関係であったため、勤王家として活動する・・・。
1868年(明治元年)、大坂遷都に反対し、蝦夷地経営に適する江戸への遷都を建白した(同年7月、東京奠都の形で実現する)。・・・
『名将言行録』を著述<したことで有名。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E7%B9%81%E5%AE%9F’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E7%B9%81%E5%AE%9F</a>
岡谷への言及は、東京奠都(てんと)のウィキペディアにはない。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%A0%E9%83%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A5%A0%E9%83%BD</a>
コトバンクは、東京遷都は大木喬任と江藤新平の建言による、としている。
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%81%B7%E9%83%BD-854924′>https://kotobank.jp/word/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%81%B7%E9%83%BD-854924</a>

岡谷はロシアとの関係を重視し、蝦夷地をふくめた地理的観点から、日本の中心は江戸に置くべきであると遷都を主張していた。・・・
東京遷都や東国経営へのこだわりは、明らかに攘夷論の延長戦にある。
その意味で、三条の思想的根幹は一貫していたが、同時に彼は、伝統や既存の慣習に固執しない意識の持ち主であった。
革新志向は、公家出身者にとどまらず、新政府の有力者のなかでも出色であった。
こうした感性は、生来の気質に加え、七卿落ちによって、京都の朝廷や公家社会をはなれ、長州・太宰府に長く滞在し、さまざまな階層と接するなかで培われたものであった。」(130~134、137、141)

⇒私は、内藤とは違って三条の見識を全く評価しておらず、それは、もとより、本人自身の資質もあるでしょうが、幼少時の彼に影響を与えた諸人物であるところの、父の実萬、母の(土佐藩10代藩主の山内豊策の女子の)山内紀子、彼が教育を受け、彼を嫡男に押し上げてくれた家人の富田織部、の考え方、とりわけ最後の富田の考え方(注85)の無内容な尊王性、就中、秀吉流日蓮主義との無縁性、によるところが大きい、というのが私の考えです。(太田)

(注85)「富田の主張は、・・・いわゆる「討幕論」ではない。・・・ただ、全国諸大名のあり方を変革しようとする意図は多分にあり、・・・既存の徳川家を頂点とする政治体制を、「京都」「天皇」という権威を組み込むことで変革しようとするのである。」
<a href=’https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0008/SK00080R025.pdf’>https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/SK/0008/SK00080R025.pdf</a>

(続く)