太田述正コラム#12546(2022.2.1)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その46)>(2022.4.26公開)
「<その結果、明治8年(1875年)>10月25日に閣議が開かれ、久光・板垣の辞官を聴許すべきことが内決され、翌日岩倉右大臣がこれを奏請し、両名は免官となった。・・・
<この>明治八年の政変<(注96)>は、一般的には島津久光・板垣退助の辞任問題とみなされているが、実際には、皇族、華族、民権派など広範な不平層を背景に、久光・板垣が政府の主導権をにぎろうとする奪権闘争であった。
(注96)「板垣退助<は、>・・・<征韓論が斥けられ、>明治六年政変<で>・・・野に下<り、>五箇条の御誓文の文言「広く会議を興し、万機公論に決すべし」を根拠に、民衆の意見が反映される議会制政治を目指し、明治7年(1874年)1月12日、同志を集めて愛国公党を結成。後藤象二郎らと左院に『民撰議院設立建白書』を提出したが時期尚早として却下される。・・・
そのため、地方から足場を固めるため、高知に戻り立志社を設立。さらに、全国組織に展開を図り大阪を地盤として愛国社の設立に奔走。その最中、明治8年(1875年)、「『国会創設』の活動を行うならば、下野して民間で活動するより、参議に戻って活動した方が早い」との意見もあり、2月に開催された大阪会議により、3月に参議に復帰。一定の成果を見たが一方で「政府に取り込まれた」と批判的な意見もあり、参議と各省の卿を分離する主張が退けられたのをきっかけに、同年10月官を辞して再び野に下り、国会開設の請願を拡大する活動を行った。」
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「大阪会議<は、>・・・1875年1月から2月に,大阪で開かれた政府指導層間の会談。・・・高まってきた農民一揆や自由民権運動のなかで,参議井上馨,伊藤博文らは事態を憂慮し,木戸や当時自由民権家となった板垣と大久保を和解させ,政府権力の強化をはかろうとした。」
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「島津久光<は、>・・・明治6年(1873年)3月に勅使・勝安芳(海舟)および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて上京<し>(4月17日鹿児島発、23日東京着)<、>5月10日、麝香間祗候を命じられ<、>12月25日、内閣顧問に任じられる<が、>明治7年(1874年)2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する(2月14日東京発、20日鹿児島着)。<しかし、>4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京<し>(4月15日鹿児島発、21日東京着)<、>同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。
<結局、>明治8年(1875年)10月22日、左大臣の辞表を提出、27日に許可され<、>11月2日、麝香間祗候を命じられ<、>明治9年(1876年)4月、鹿児島に帰郷する(4月3日東京発、13日鹿児島着)。」
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しかも示威運動から、宮廷陰謀まで装置として用意されるなど、大規模で闇の深い政変であった。
三条は、明治六年の政変では不覚にも病に倒れたが、明治八年の政変では、反対派の種々の圧力に屈せず、最終局面では断固たる態度をとり、明治政府の一大脅威であった島津久光を完全に除去した。・・・」(193)
⇒武一辺倒から出発しつつも、薩摩藩士達や水戸藩士達との交流を通じて秀吉流日蓮主義者となり、「白色人種は有色人種を軽蔑してゐる。有色人種といえば劣等人種のように考えて、まさに奴隷の如くに扱ってゐる。これが、私は本当に残念でならない。有色人種が団結し、優秀な文明を発揮して白色人種と平等な地位に立たねばならぬ。しかし、今の東洋の教育水準では、白色人種の持つ知識や科学の程度に到底太刀打ち出来ない。そこで自分の考えでは、東洋の中心たる支那に一大学校を建設し、印度人でも、南洋人でも蒙古人でも、チベット人やペルシャ人までも包括して、どんどん教育を施し、有色人種をして将来世界を牽引出来得る文明人種に育てあげなければならない。これを行うには先づ日本人がアジアの盟主となり、率先して有色人種を指導せねばならぬ。どうだ一緒に行動しようではないか。」という言葉を残した板垣退助(1837~1919年)、
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と、異母兄の島津斉彬の謦咳にその最も近くで接しながら、ついに秀吉流日蓮主義の門外漢にとどまり、「封建的思想から抜けきれず,西洋心酔に反対し,また強い排外論者で<あり続けた>」島津久光(1817~1887年)、
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とが、全く異なった理由で、しかしたまたま同じ時期に野に下ったというだけのことであり、そんなことを「明治八年の政変」などと世界中でただ一人形容しているっぽい内藤には、絶句するしかありません。(太田)
(続く)