太田述正コラム#12548(2022.2.2)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その47)>(2022.4.27公開)
「三条と大久保は、太政官制の仕組みのなかで、それぞれの立場を守りながら絶妙なバランスを取っていた。
もっとも太政官内閣の重層性はいかにも複雑であり、実力的に他を圧倒していた大久保を大臣に昇格させようとの声があがるのは自然であった。
だが、この動きは1878年5月14日に大久保が暗殺されたこと<(注97)>で頓挫してしまう。・・・
(注97)紀尾井町事件。「実行犯は石川県<(旧加賀藩)>士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県<(旧鳥取藩)>士族の浅井寿篤の6名から成る(脇田は暗殺にあたり罪が家におよぶのを恐れて士族を辞めて平民になった)。その中でも特に中心的存在であるのが島田一郎である。島田は加賀藩の足軽として第一次長州征伐、戊辰戦争に参加しており、明治維新後も軍人としての経歴を歩んでいたが、征韓論に共鳴しており、明治六年政変で西郷隆盛が下野したことに憤激して以後、国事に奔走することになる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89</a>
「彼らを裁いた判事・玉乃世履によると、主犯の島田一郎以外はこの暗殺の趣意を知らず、ただ島田に「この人を除く事が御国のため」と洗脳されて犯行に及ぶに至ったと思われるという」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E5%AF%BF%E7%AF%A4′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E5%AF%BF%E7%AF%A4</a>
島田一郎<(1848~1878年)は、>・・・加賀藩の足軽の子として生まれ<、>・・・1864年・・・、長州征伐で初陣。明治元年(1868年)、北越戦争で長岡藩が遺棄した兵糧の確保等の功で翌年に御歩並(おかちなみ)に昇格。
廃藩置県後、陸軍軍人を目指してフランス式兵学を修め、中尉にまで昇進するがその後に帰郷。不平士族の一派・・・のリーダー格として萩の乱、西南戦争に呼応し挙兵を試みるが断念。その後、方針を要人暗殺に切り替え<た。>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E4%B8%80%E9%83%8E</a>
⇒1869年の横井小楠暗殺事件
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E4%BA%95%E5%B0%8F%E6%A5%A0</a>
が先駆けとなった矮小化された士族反乱だったとすれば、この1878年の紀尾井町事件は、遅れてきた矮小化された士族反乱といったところですかね。
それはそれとして、「斬奸状には大久保が公金を私財の肥やしにしたと指摘の言葉があったが、実際は金銭に対しては潔白な政治家で、必要な公共事業を私財で行うなどしていた。そのため、死後は8,000円もの借金が残ったという」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%B0%BE%E4%BA%95%E5%9D%82%E3%81%AE%E5%A4%89</a> 前掲
ことは覚えておくべきでしょう。
維新の元勲達のうち、清貧であった点では、大久保は、板垣退助
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9</a>
と双璧ですね。(太田)
188<1>年<、>・・・開拓使官有物の払下げ方針が世間に漏れ、7月下旬以降、新聞などではげしい政府批判が起こった。
伊藤らは大隈の策謀を疑い、10月、同人とその一派を政府より追放するとともに、沸騰した世論を鎮静化させるために1890年を期して国会を開設する旨の詔(みことのり)が発せられた(明治十四年の政変<(注98)>)。・・・」(198、202)
(注98)「自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で・・・左大臣有栖川宮に・・・上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の・・・38万円 (30年賦)<という>・・・有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆と開西貿易商会の五代友厚との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、[慶應義塾出身者<で>演説会や新聞でこの問題の批判を展開している者が多かった<こともあり、>]・・・政府関係者に大隈・福<澤>・慶應義塾の陰謀という噂が真実と信ぜられるような空気が出来上がったとみられ、]・・・維新以来の財政政策を舞台とした大隈と松方正義および伊藤らの間の権力闘争の側面<も>あり<、>・・・政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視も伊藤と組んで井上毅にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は・・・松方正義<ら>・・・薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89-141080′>https://kotobank.jp/word/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89-141080</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89</a> ([]内)
⇒「1875年(明治8年)4月14日に明治天皇が発した・・・立憲政体の詔書」に基づき、将来の上院の予行としての元老院、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81%E9%99%A2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E8%80%81%E9%99%A2_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)</a>
将来の下院の予行としての地方官会議、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%AE%98%E4%BC%9A%E8%AD%B0′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E5%AE%98%E4%BC%9A%E8%AD%B0</a>
そして大審院、設置の運びとなった時点で、既に国会(下院)開設は決まっていた、と考えるべきでしょう。
このことを踏まえれば、明治十四年の政変は、政府内における、明治維新の目的が島津斉彬コンセンサス(秀吉流日蓮主義)の遂行にあるとの自覚があった者が多かった薩長出身者・・長州閥の長は隠れ薩摩藩士とも言うべき山縣有朋だったことから、薩摩藩出身者、と言い換えてもよいくらいです・・と、そんな自覚がなかったか、しっかりした自覚がない者が多かったにもかかわらず、薩長出身者達が対世間的に薩長色を薄めるために権力の御相伴に与からせていた土肥出身者達、と、この薩長出身者達のうちの多くの者達、との間の思想的・心理的な軋轢が次第に高まって行った結果として、国会開設問題等に藉口した形で権力闘争が生起したものである、と、私は見ています。
そんな背景の下、本来薩摩閥に属する福澤諭吉がとんだとばっちりを食ってしまった、といったところでしょうか。(太田)
(続く)