太田述正コラム#12550(2022.2.3)
<内藤一成『三条実美–維新政権の「有徳の為政者」』を読む(その48)>(2022.4.28公開)
「1877年頃より徐々に自立的意思を発揮しはじめた天皇は、79年3月、前年に実施された北海道東海道巡幸での地方視察経験を踏まえ、「勤倹の聖旨」<(注99)>を発するなど、性格的にはかなり保守志向であった。」(205)
(注99)「<1878>年地方巡幸を終えた天皇は12月、右大臣岩倉具視に対して「爾後一層勤倹ノ旨を専務トシ、我邦ノ徳義ヲ教育ニ施サンコト」を内諭したため、翌年3月にそれを天皇の意思として公表し、この聖旨・・・実現のための諸政策が閣議で議論された。
これは長らく侍補が岩倉に働きかけた結果として説明され<てきたが、>・・・中野目徹は岩倉、伊藤博文、・・・井上穀・・・の三者の関与を明らかにしている<ところ、結局、閣議決定には至らなかったけれど、>・・・<彼ら>が勤倹の聖旨公表による政策展開を試みた事情は、それが侍補の政策要求とする前提を乗り越えて把握する必要がある。」(川越美穂「人格と制度の親裁構想–明治12年、御前議事式をめぐって–」(明治聖徳記念学会紀要(復刊第54号)平成29<2017>年11月)より)
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川越美穂は、東大院修士、同大博士(文学)、東大、皇學館大、を経て日本学術振興会特別研究員。
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天皇/政府が勤倹を訴えた背景には、士族授産問題があった。(上掲)↓
「士族の家禄(かろく)(秩禄ともいう)<が、>・・・1876年(明治9)の金禄公債証書発行条例によって最終的に廃止されるが、これにより多くの士族は生活の基礎を失った。一方、士族は廃藩置県と徴兵令の施行によって常職を失ったから、士族をなんらかの産業につかせ、その生活を維持させることが、社会不安を防ぐためにも必要であった。この政策を士族授産という。まず1871年に政府は華・士・卒に農・工・商の各業に従事することを許し、73年以降、家禄奉還者には就産資金を与え、土地の廉価払下げや北海道屯田兵への士族募集などの処置を講じたが、78年以後より大規模な授産政策を行うようになった。79年に計画された福島県安積(あさか)原野の国営開墾事業や、士族に交付した公債証書による国立銀行設置の奨励などはそれであるが、80年前後の反政府運動の激化への対策として、士族に対する勧業資本金の交付を拡大し、82年以降300余万円を支出し、その一部は北海道移住士族の保護にもあてられた。・・・
しかし 76年,秩禄支給が打切られてからは,「士族の商法」の名のように一時金の投資や事業運営に失敗するものが多く,救済は成功しなかった。・・・
しかし地方産業開発では一定の成果があり,栃木県の那須野原や福島県の郡山盆地安積(あさか)原などの開拓,屯田兵などはこの施策による。」
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また、将来の統帥権独立を念頭に参謀本部が設置されたこと等もあり、親裁する天皇像を打ち出す必要性もあった。↓
「1871年(明治4年)7月 – 兵部省に陸軍参謀局が設けられる。・・・参謀局都督<は、>山縣有朋兵部大輔<の>兼<務。>・・・
1872年(明治5年)2月 – 兵部省が陸軍省及び海軍省に分割され、陸軍参謀局は陸軍省参謀局となる。・・・
<1874>年6月18日に・・・陸軍省に・・・外局として・・・参謀局が設立された。
<1878>年12月5日に、・・・陸軍省の<外>局であった参謀局が「参謀本部」と改称され、独立機構となった。・・・参謀本部の独立を推進したのが山縣有朋であった。参謀本部長には陸軍将官が充てられた。海軍将官でなかったのは山縣の強い意向があったためである。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)</a>
「<このように、1878(明治11)>年末の段階において、新機構設立、すなわち参謀本部独立による新たな分野の親裁開始があった・・・(大臣を経由しない点で従来の新機構設立とは意義が異なる)<わけだ。>」
<a href=’http://meijiseitoku.org/pdf/f54-3.pd’>http://meijiseitoku.org/pdf/f54-3.pd</a>
⇒「注99」で紹介した川越の指摘を踏まえれば、「<明治>天皇は、・・・性格的にはかなり保守志向であった」との内藤の主張は、(ここでは立ち入らないけれど、)一般論としては私もそうだと思うものの、「勤倹の聖旨」をその表れの一つであるとするのは、それが(一人または複数の)誰かに言わされたのか、天皇自身の考えであったのかはともかくとして、間違いだと言うべきでしょう。
なお、参謀局が設置された時点で、山縣有朋が、既に、天皇が親裁する統帥、そしてその統帥権の独立、を目指していたことが窺え、山縣を始めとする島津斉彬コンセンサス信奉者(秀吉流日蓮主義者)達の、長期的な戦略眼の凄さを改めて見せつけられた思いがします。(太田)
(続く)