太田述正コラム#12556(2022.2.6)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その1)>(2022.5.1公開)
1 始めに
続いて、表記を取り上げます。
坂本一登(かずと。1956年~)は、以下のような人物です。
東京都立大法卒、同大院博士課程満期退学、同大博士(文学)、同大助手、日本学術振興会特別研究員、北海学園大助教授を経て、國學院大助教授、教授。『伊藤博文と明治国家形成――「宮中」の制度化と立憲制の導入』で1992年度サントリー学芸賞受賞。
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B8%80%E7%99%BB’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B8%80%E7%99%BB</a>
2 坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む
「1853・・・年正月、岩倉は政治を志して関白鷹司政通の歌道の弟子となった。
下級公家の岩倉が政治の世界で頭角をあらわすには、権力者の知遇をえるのが必須だったからである。
鷹司家は、公家の最高家格である五摂家の一つで、政通は1823・・・年以来、30年にわたって関白をつとめる朝廷の重鎮であった。・・・
⇒不思議なことに、どうして五摂家のうちの一つがかくも長きにわたって関白を務めることになったのかを誰も追究しようとしていないように見受けられますが、こんなことは、常識的には、少なくとも、五摂家中の最高家格である近衛家の積極的了解がなければ不可能でしょう。
より端的に言えば、どうして近衛家は積極的了解をしたのかについての私見を、次の東京オフ会「講演」原稿でご披露するつもりです。
この伝で、指摘しておきたいのは、鷹司政通の側にも、岩倉具視のような若手下級公家を利用したいという気があったのではないか、魚心あれば水心ということだったのではないか、ということです。(太田)
2年前に鷹司政通から関白職を受け継いでいた朝廷の権力者である九条尚忠は、幕府支持の態度を固め、・・・1858年・・・3月11日<、>反対論を押し切って、朝議で幕府に対する事実上の白紙委任を意味する勅答案を決定した。
・・・岩倉は、もはや通常の方法では条約の阻止は不可能と判断した。
そこで一計を案じ、3月12日、多数の中・下層の公家を組織して御所に押しかけ、関白に直談判を要求するという前代未聞の運動を画策し、その首謀者の一人となったのである。
こうした圧力のもと、3月13日、九条関白は白紙委任状の撤回を余儀なくされ、勅答案の改作に同意したのだった。
これが岩倉の政界デビューとして名高い、「八八人の列参」<(注1)>といわれるものである。・・・
(注1)廷臣八十八卿列参事件。「日米修好通商条約締結にあたり、幕府は水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の勅許を得ることにし、老中・堀田正睦が参内することとなった。しかし<1858>年3月12日・・・に関白・九条尚忠が朝廷に条約の議案を提出したところ、堂上公家137家のうち、岩倉具視や中山忠能ら合計88名が条約案の撤回を求めて抗議の座り込みを行った。これに続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。
その結果孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、20日には参内した堀田に対して勅許の不可を下し、以後条約の勅許を頑強に拒否することとなった。
勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦は老中辞職に追い込まれた他、九条尚忠も内覧職権を一時停止された。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者が出ることとなる。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%8D%BF%E5%88%97%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B7%E8%87%A3%E5%85%AB%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%8D%BF%E5%88%97%E5%8F%82%E4%BA%8B%E4%BB%B6</a>
⇒日米和親条約締結の際にも、「ペリー来航の予告情報は、1852年夏ごろ、阿部から有力譜代大名(彦根の井伊家、高松市と会津の松平家ほか)に知らされ、同年暮れには外様の雄藩である薩摩の島津斉彬に知らされた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84</a>
というのですから、島津氏から近衛家にこの情報が伝えられ、それが孝明天皇の耳に入ることは幕府は予期していたと考えられ、しかも、「1853年<10月(?)に>・・・、徳川家定の将軍宣下の勅使として下向した三条実<萬>は阿部正弘より叡慮があれば幕府が沿うようにすると説明を受け」ており、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87</a>
日米和親条約調印は1854年3月で批准書の交換は1855年2月であった
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%92%8C%E8%A6%AA%E6%9D%A1%E7%B4%84</a> 前掲
ところ、調印の後、幕府は朝廷に国書の受理を通達して
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93</a>
事実上の批准を取りつけていることから、幕府が、今度はより慎重を期して日米修好通商条約調印前に孝明天皇の勅許を取りつけようとしたのは自然な流れであったと思います。(太田)
実は、この佐幕的な九条案には、まず孝明天皇自身が内心で反対だった。
そしてこの天皇の意向を受けて、岩倉が師事し、九条のライバルでもあった太閤鷹司政通が反対論に転じ、さらに岩倉家の本家筋にあたる、朝廷の有力者で、議奏の久我建通<(注2)>(こがたけみち)も反対運動に深く関与していた。
(注2)1815~1903年。「関白・一条忠良の子。・・・母<は>細川富子<で、熊本藩8代藩主の>細川斉茲の娘<。>・・・内大臣・久我通明の養子。・・・1854年)に議奏となり、以後は朝幕間の調停に努め、条約勅許問題、和宮降嫁問題などに関与した。当時の内裏を掌握していたのは、摂政関白でも武家伝奏でもなくこの建通の感があったことから、俗に「権関白」と呼ばれた。
・・・1858年・・・に右近衛大将、・・・1862年・・・に内大臣・国事御用掛など要職を務めた。しかし攘夷派に恨まれ、間もなく弾劾を受けて失脚、蟄居落飾処分となった。
明治元年(1868年)に赦免され、宮内省麝香間祗候や加茂社司、大教正、皇典講究所副総裁などを務めた。・・・
明治になってから建通は、廷臣八十八卿列参事件では自分が中心的役割を果たしたと述懐しているが(『孝明天皇紀』)、『岩倉公実記』では中心は岩倉具視としており、解決をみない。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%BB%BA%E9%80%9A’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E6%88%91%E5%BB%BA%E9%80%9A</a>
つまり「八八人の列参」は、岩倉の個人的な発意というより、こうした天皇の黙認や有力な上層公家の示唆と指示のもとに、決行されたものだったのである。」(7、8~9)
⇒坂本に限らず、誰も、当時の(関白に次ぐナンバーツーの)左大臣で、1858年9月~10月に内覧を兼ねる・・事実上の関白になる・・(私が黒幕であったと見ているところの)近衛忠煕
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95</a>
に全く言及しないことも、私には不思議です。(太田)
(続く)