太田述正コラム#12558(2022.2.7)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その2)>(2022.5.2公開)

「岩倉は、生涯数多くの意見書を書いている。
そのまとまった最初のものは、列参決行の2日後、天皇に内奏された「神州万歳堅策」<(注3)>で、対外危機に備えた、外交・軍備・政治体制について論じたものである。・・・

(注3)「有力大名が公家と接触して京に入ってくることは混乱の一因になりかねない。伊達や島津のような外様雄藩を頼って、幕府に対抗することは決して考えてはならない」・・・<と>警告を発している。」
<a href=’https://toyokeizai.net/articles/-/457993?page=2′>https://toyokeizai.net/articles/-/457993?page=2</a>
「末尾<の>戯言<には、>・・・その1、蛍雪の苦学は昔のこと、万事が金の世の中だ。その2、官位ある公卿も金銭に困っている、諸物価は高値になっているのに支給される俸禄は以前と同様、町人が貴人のような振る舞い。」とある。
<a href=’https://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/138a8f74c05c88941dac6efefce5a8bf’>https://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/138a8f74c05c88941dac6efefce5a8bf</a>

その攘夷論は、無謀な攘夷を「井蛙の論にて、無知の至極と言うべし」と排斥して、慎重な交渉と西洋理解を重視し、外国への使節派遣をも提案する、かなりの柔軟性をもったものであった。
また幕府に対しても、短絡的に敵対する立場ではなく、条約に関する意見は異なっても、対外危機には一体となって対応する挙国一致体制の中核とみなし、その軍事力の充実を期待した。
これに対して、諸藩の京都手入れと政界進出は、国内争乱を誘発する危険な要因として、むしろ警戒の対象であった。
このように、岩倉は朝廷の権威上昇は望んだものの、幕府の弱体化を願ったわけではない。
あくまでも、朝廷と幕府との協調を軸として、全国の諸大名を総動員する挙国一致体制の構築を展望していたのである。
・・・岩倉<は、>・・・革命家というよりも、現実的で漸進的な改革者であ<ったわけだ。>・・・

⇒近衛忠煕(1808~1898年)と島津斉彬(1809~1858年7月16日。藩主:1851年~)は、徳川家斉、家慶父子の退嬰的幕政を見て、幕府に見切りを付け、その打倒を、(会沢正志斎が『新論』を上呈した)1825年
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9A%E6%B2%A2%E6%AD%A3%E5%BF%97%E6%96%8E</a>
頃から、幕府が水戸藩藩主の徳川斉昭を強制隠居と謹慎に処した1844年
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD</a>
頃までに決意していて、当面の便法として、「朝廷と幕府との協調を軸として、全国の諸大名を総動員する挙国一致体制の構築」なる公武合体論を唱えた、と、私は見ているところ、(「注3」も踏まえ、)私は、近衛忠煕が、直接、或いは、鷹司政煕を通じて、一方でこの公武合体論を(倒幕など全く念頭になかった)岩倉具視らの公家達に吹き込み、この公武合体論を有力諸藩抜きのものへとトーンダウンさせつつ、天皇家/公家の相体的地位向上と処遇改善を幕府に認めさせるべく周旋させるとともに、もう一方で幕府に脅しをかけるために、(倒幕も念頭に置きながら)攘夷を叫びつつ日米友好通商条約の締結に徹底的に反対する運動を、三条実美らの公家達を使嗾して起こさせた、と見るに至っています。(太田)

<こうして、2月中旬以来、2月余にわたった幕府の条約勅許をめぐる政治的折衝は、ついに失敗に終り、4月下旬、堀田は京都を離れた。・・・
1858・・・年4月、彦根藩主井伊直弼が大老に就任した。・・・
将軍継嗣問題では南紀派の中心人物であった・・・井伊は、5月<、>将軍家定の意思に従って、南紀派の推す紀州徳川家の慶福(よしとみ)(家茂)を将軍世子に決定すると、6月<、>アメリカとのあいだに日米修好通商条約を締結した。・・・
井伊自身は、熱心な尊皇家で、最後まで勅許をえることを望んだが、アロー号事件に端を発する緊迫した国際情勢を強調するハリスと幕府有司に押し切られ、調印を内諾したのである。
そして幕閣は、この「無断調印」を老中連署の宿継<(注4)>奉書(しゅくつぎほうしょ)という事務的な方法で京都に伝達した。

(注4)「〈宿継〉とも書かれ,宿(しゆく)(宿駅,宿場)の間を順次,人馬を継ぎ立てながら逓送したことをいう。平安時代の中・末期には普及していた語と推察される。室町時代以降は〈宿送(しゆくおくり)〉とも称された。制度としては,平安時代なかばにはすでに衰退していた古代駅制にならって,鎌倉幕府が京都との連絡の便を目的として東海道の要所に宿駅を定め,使者や公物の確実な逓送のための人馬を常備したのにはじまる。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%AE%BF%E6%AC%A1-1173810′>https://kotobank.jp/word/%E5%AE%BF%E6%AC%A1-1173810</a>

6月27日、この奉書が到着すると、朝廷に激震が走った。・・・
孝明天皇は譲位こそ思いとどまったものの、憤怒のあまり、8月<、>水戸藩に対して、幕府の無断調印に遺憾の意を表明した勅諚を降下させた。・・・
朝廷内の条約反対派は、佐幕派の九条関白を棚上げにし、左大臣の近衛忠煕を中心に、「戊午の密勅」と呼ばれる、この勅諚降下にあえて踏み切ったのである。
それは、幕府に対する朝廷の挑戦にも等しい行動であった。」(9、10、12~14)

⇒武力上京を決意した島津斉彬の死は1858年7月16日で、戊午の密勅は8月8日です
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85</a>
が、この密勅は、(どちらも斉彬と忠煕が協議の上で企画したと思われるところ、)斉彬の武力上京、とセットであったものを、忠煕が(薩摩藩の在京藩士達と相談の上、)単独で実行することとし、孝明天皇を含め、朝廷内で根回しをした上で下された、というのが私の見方です。(太田)

(続く)