太田述正コラム#12560(2022.2.8)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その3)>(2022.5.3公開)
「水戸藩への勅諚降下は、幕府にとっては驚天動地の出来事であり、体制の根幹にかかわる許しがたい逸脱であった。
加えて9月、朝廷内の反幕府派の圧力によって九条尚忠が関白の座を追われると、ついに幕府は粛正を決意する。
無断調印を弁明するため、京都に入った老中間部詮勝<(注5)>(まなべあきかつ)の指揮のもと、反幕府派の志士たちの逮捕に踏み切ったのである。
(注5)1804~1884年。「第7代越前国鯖江(さばえ)藩主。第5代藩主間部詮煕(まなべあきひろ)の三男。・・・1814年・・・藩主となる。以後、奏者番、大坂城代、京都所司代に進み侍従に任じられた。1840年・・・西丸老中となったが、1843年老中首座水野忠邦との意見不一致により解任された。1858年・・・大老井伊直弼の下で老中となり、日米修好通商条約調印の事情説明の上使として上洛、京都で安政の大獄の弾圧の指揮をとり、調印のやむをえざる事情は認めるとの勅書を得て、翌年3月江戸へ戻る。[吉田松陰は間部詮勝の暗殺を企てた。]その後、直弼と不和となり12月に免職。尊王攘夷運動が盛んとなった1862年・・・[<、>徳川慶喜らの復権にともない、]11月、在職中に不都合の処置をなしたとの理由で隠居、急度慎(きっとつつしみ)を命ぜられた。1865年・・・謹慎を解かれ・・・<る>。〔1868年・・・の江戸薩摩藩邸の焼討事件に庄内藩、上山藩、岩槻藩と共に参戦した。〕[明治元年(1868年)10月、明治政府から会津藩との内通を疑われて国許での謹慎を命じられる。同年12月、謹慎を解かれる。明治2年11月、東京及び京都へ立ち入ることを許可される。]」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E9%96%93%E9%83%A8%E8%A9%AE%E5%8B%9D-16651′>https://kotobank.jp/word/%E9%96%93%E9%83%A8%E8%A9%AE%E5%8B%9D-16651</a>
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E9%83%A8%E8%A9%AE%E5%8B%9D’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E9%83%A8%E8%A9%AE%E5%8B%9D</a> ([]内)
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E6%B1%9F%E8%97%A9′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AF%96%E6%B1%9F%E8%97%A9</a> (〔〕内)
続いて九条関白の辞職を差し止めると、勅諚降下の関係者をつぎつぎと捕縛し、さらに反幕府派の宮や重臣および公家らも厳しく追及した。
左大臣鷹司輔煕、太閤鷹司政通、前内大臣三条実<萬>らが譴責され、落飾(辞職)・慎(つつしみ)を命ぜられた。
いわゆる「安政の大獄」である。
こうした緊迫した情勢のなかで、岩倉はなんとか反目をやわらげ、意思疎通の道を残そうとつとめていた。
そもそも岩倉は、朝幕間の対立を決定的にする勅諚降下には反対だった。
そのため岩倉は、近衛左大臣ら推進派の重臣たちにはその不可を入説し、逆に安政の大獄が始まると、京都所司代の酒井忠義<(注6)>ら幕府側とあえて接触して、朝幕間の和解策を模索したのである。・・・」(14~15)
(注6)1813~1873年。「若狭小浜藩の第12代、第14代藩主。・・・第10代藩主酒井忠進の五男。・・・1843年・・・から・・・1850年・・・の間と・・・1858年・・・から・・・1862年・・・の間、京都所司代を務めた。・・・1858年・・・に将軍継嗣問題が起こると、南紀派を支持して一橋派を弾圧した。・・・ただし忠義は、自身の元の家臣であった梅田雲浜の捕縛には消極的であったが、長野主膳からの強い脅しに屈する形で志士弾圧に踏み切ることになった。忠義が入京した9月2日以降、まず捕縛したのは浪人・儒者らであり、諸藩の藩士・公家らへの本格的な弾圧が始まるのは、老中間部詮勝が入京した9月16日以降である。また、[桜田門外の変で井伊が倒れたのち,]和宮降嫁など公武合体にも尽力し[加増されたが,]尊王攘夷派に恨まれ、寺田屋騒動では標的にされている。
・・・[尊攘派志士から非難を受け,京の治安を維持し得なかったこともあって,]1862年・・・に・・・所司代を罷免され、娘婿の忠氏に家督を譲り隠居謹慎に追い込まれた。1868年(明治元年)、忠氏が鳥羽・伏見の戦いに参戦して山陰道鎮撫軍に降伏すると、名代として上京・謝罪をするとともに、藩兵を新政府軍に派遣している。同年、佐幕的行動をとったとして謹慎処分を受けた忠氏の隠居を受け、藩主に返り咲いている。」
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⇒「戊午の密勅・・・の中で天皇は幕閣、外様大名、譜代大名らの協調による「公武御合体」を要求して<いる>」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E6%AD%A6%E5%90%88%E4%BD%93</a>
ところ、存命中だった時の島津斉彬、と、近衛忠煕、の2人でこの密勅案が既に作成してあったと私は見ており、忠煕は、この密勅が降下されれば、幕府は強く反発するだろうが、早晩、密勅中の公武合体提案という餌に食らいついてくるだろうから、お前は、降下後、ただちにその実現を期して下調整を始めよ、と、岩倉具視に言い含めたのではないでしょうか。(太田)
(続く)