太田述正コラム#12562(2022.2.9)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その4)>(2022.5.4公開)

「皇女を将軍家に迎えることは、すでに井伊時代からの既定方針であったが、井伊遭難後は、・・・安藤信睦(あんどうのぶゆき)(のち信正)<(コラム#12478)>と久世広周<(注7)>(くぜひろちか)<にとって、>・・・なににもまして優先されるべき公武の融和策となった。・・・

(注7)1819~1864年。「旗本・大草高好の次男として生まれる。・・・1830年・・・10月12日、・・・下総国・・・関宿藩主久世広運の末期養子として家督を継いだ。・・・
1851年・・・、老中として阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たったが、安政の大獄での一橋派による江戸城不時登城に対する井伊直弼の強圧的な処罰方針に閣老中ただひとり反対するなどしたため、直弼の怒りを買って罷免される。
・・・1860年・・・、桜田門外の変で直弼が暗殺された後、老中安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任、信正と共に公武合体政策を推進した。政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長州藩の長井雅楽による「航海遠略策」の支援なども行なった。しかし・・・1862年・・・、安藤が坂下門外の変を機に老中を罷免されるや、その連座および安政の大獄時に閣老の一人であったにも関わらず、井伊直弼の暴挙を止められなかったこと、また公武合体(または外交方針である航海遠略策)の失敗などの責任を問われ、老中を罷免されて失脚し<、>・・・1864年・・・、失意のうちに死去した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%96%E5%BA%83%E5%91%A8′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%B8%96%E5%BA%83%E5%91%A8</a>
大草高好(おおくさたかよし。?~1840年)は、「火事場見廻、・・・使番、・・・目付・・・長崎奉行・・・小普請奉行、作事奉行・・・勘定奉行<を経て>・・・江戸北町奉行となり、・・・1839年・・・5月の蛮社の獄において渡辺崋山らの吟味を行ったが、花井虎一の偽証や鳥居耀蔵の捏造と吟味介入に不信感を抱き、崋山らに同情的だった。・・・在任中<か任を解かれた翌年かに>死去・・・。後任の北町奉行は遠山景元<・・遠山の金さん・・>が任命された。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%89%E9%AB%98%E5%A5%BD’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%8D%89%E9%AB%98%E5%A5%BD</a>

⇒久世広周にしても、その実父の大草高好にせよ、良心的な能吏であったとは思うけれど、当時の幕府の最大の課題が欧米列強の東漸に対処するための富国強兵政策の断行であったにもかかわらず、我関せず的に、それまで自分達がやってきたところの、従来通りの調整的行政、で事足れりとしていたとしか思えませんね。(太田)

岩倉の意見は、大方の朝廷の空気とは異なり、幕府の懇請を受け入れるものであった。
その理由を、岩倉は次のように述べている。
和宮降嫁の奏請は、朝廷の威光によって、衰退した幕府の覇権を粉飾しようとするものである。
それゆえ、幕府の内願を許すかわりに、通商条約の破棄を約束させ、また国政の大事件は必ず朝廷に奏聞するように条件をつければ、大政委任の名は幕府にあっても、実権は朝廷が掌握することができる、と。・・・
6月20日、孝明天皇より和宮降嫁について勅答があった。
岩倉の意見と軌を一にした、条件付きの同意であった。
すなわち、幕府が和親条約締結時の状態まで引き戻すことを約諾するなら、和宮を説得して縁組みを進めることに同意したのである。
つまり攘夷の実行を条件とする内諾であった。
幕府はすぐさま長文の奉答書を提出して、武備を充実させたうえで10年以内に譲位を実行することを明言した。・・・」(15~17)

⇒三条実萬は、「1858年・・・には日米修好通商条約への勅許を巡り関白・九条尚忠と対立して、3月7日には左大臣・近衛忠煕と共に参内停止を命じられる。これに激怒した孝明天皇によって2日後に右大臣・鷹司輔煕と権大納言・二条斉敬を勅使として近衛・三条両邸に派遣して両名に参内の勅命を下した。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E4%B8%87</a>
ということから、近衛忠煕とこの三条実萬は「同志」であったと思われ、1858年8月8日に発せられた戊午の密勅に署名したのが近衛忠煕と三条実萬の2名を含む5名であったこと、そして、その中に公武合体を望む旨のくだり・・何卒公武御實情ヲ被盡、御合體永久安全之樣ニト、偏被思召候。・・があったこと、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E5%8D%88%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%8B%85</a>
そして、この間の「6月4日付で実萬は井伊に書を送り、「皇国の大事」のため「公武御合体」を期待している」(コラム#12478)こと、からすると、公武合体を日本で最初に唱えたのは近衛忠煕であって、忠煕が、三条実萬に対し、三条家ゆかりの井伊氏(コラム#12478)の大老井伊直弼に、公武合体を推奨する書簡を送るよう命じた、と考えるのが自然でしょう。
もちろん、公武合体に限らず、近衛忠煕の考えは、島津斉彬と一緒に練り上げられたものだったはずです。
そして、パートナーである島津斉彬の1858年7月16日の突然の死去を経て、この忠煕が、その後、若手公家達の中で、戊午の密勅の「マッチ」部分である攘夷のプレイアップを担わせるべく目を付けたのが実萬の嫡子の三条実美であったのに対し、戊午の密勅の「ポンプ」部分である公武合体を担わせるべく目を付けたのが岩倉具視だった、と見れば、話の辻褄が合うのではないでしょうか。(太田)

(続く)