太田述正コラム#12570(2022.2.13)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その8)>(2022.5.8公開)

「しかし、幕府の奪回した主導権は、けっして盤石なものではなかった。
長州藩は、前年の京都追放に納得せず、すぐさま復権を求めて上洛し、1864年7月19日には、禁門の変が勃発した。
戦闘に敗れて「朝敵」となった長州藩に対して、同年秋には、朝廷と幕府の命により、第一次長州征討が実施された。
もしこの時、将軍がみずから兵を率いて出陣し、幕府軍が軍事的勝利をおさめていれば、幕府の権威はより確固たるものになったかもしれない。
だが将軍進発<(注14)>は実現せず、結局、尾張藩の徳川慶勝が征討軍総督となって、薩摩藩の西郷隆盛を大参謀として出征した。・・・

(注14)「長州追討の勅命を受けた幕府は、八月に入って、将軍自らの進軍を声明するとともに、中国・四国・九州の二一藩に出兵準備を命じ、前<々尾張>藩主・徳川慶勝を征長総督に、越前藩主・松平茂昭を副将に任じ、征長軍諸大名らに対しては攻口五道の部署を指示した。」(『行橋市史』より)
<a href=’https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/4021305100/4021305100100010/ht2046201050′>https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/4021305100/4021305100100010/ht2046201050</a>
「1866年・・・、第<二>次長州征伐の途上、家茂は大坂城で病に倒れた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82</a>

⇒「注14」の前段は、徳川慶勝のタイトルを間違えるという単純ミスを犯しているけれど、「将軍自らの進軍を声明する」としており、それが事実であれば、声明してから実際には進発が行われなかったことになるところ、どうしてそんなことになったのか、ネット上では解明できませんでした。
これは、第二次長州征伐の際には、将軍家茂が大坂城まで進発していてそこで発病して亡くなっている
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E8%8C%82</a>
だけに、不思議なことです。
いずれにせよ、第一次長州征伐の際に将軍進発をなしにしたのも、その後、長州藩に対する甘い処分でお茶を濁したのも、(幕府に大政奉還をさせ、更に倒幕を実行しようとしていたところの、)近衛忠煕と薩摩藩の島津斉彬コンセンサス信奉者達の差し金でしょうね。(太田)

1865・・・年初秋、岩倉は、政治的な発信を強めた。
蟄居の身でありながら、長文の意見書「叢裡鳴虫」<(注15)>と「続叢裡鳴虫」を薩摩藩に密かに提示したのである・・・

(注15)『叢裡鳴虫』は、「草むらに隠れて鳴く虫」を例えた題名で、自身の置かれた境遇を表した言葉ですが、その内容は、公武一和を説いたものでした。このなかで岩倉は、島津久光の偉材であることをたたえたうえで、先の禁門の変後の長州藩の処遇について、薩摩藩がイニシアティブをとって寛大な処置をすべきだと説いています。そして注目すべきは、薩長両藩が手を結び、朝廷と協力すべきだと説いていることです。岩倉は洛北のあばら家で蟄居生活を送りながらも、すでに薩長同盟の必要性を感じていたんですね。」
<a href=’https://signboard.exblog.jp/27478034/’>https://signboard.exblog.jp/27478034/</a>
「岩倉具視<は、>・・・朝権の確立をめざした〈叢裡鳴虫〉や朝廷中心の国権一元化構想を示した〈全国合同策〉などを草し,また,廷臣や薩摩藩士らと画策して倒幕運動を進めた。<18>66年・・・末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた。」
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A2%E8%A3%A1%E9%B3%B4%E8%99%AB-1356008′>https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A2%E8%A3%A1%E9%B3%B4%E8%99%AB-1356008</a>

⇒どうせ、こういった意見書は、近衛忠煕/(西郷ら)薩摩藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達、が、具視に対して、自分達の目論見・・薩長が軸となって倒幕を実現する・・を開示した上で、彼に依頼して、島津久光教育のためにその目論見を、(保守的な久光が消化し易いように)トーンダウンした形で書かせ、送らせたものでしょう。
「続叢裡鳴虫」内で、久光に対するヨイショが露骨に書かれている、というのですからバレバレです。(太田)

<これらの中で、>岩倉は、事態打開のため、薩摩藩に対して、ふたたび文久期(1861~64)に島津久光らと謀議した朝廷優位の公武合体策を実現するように訴えた。・・・
岩倉は、続いて9月「全国合同策」を提出した。
これも、朝廷を中心とした挙国一致体制の具体策を述べたものである。・・・
しかし反応は、捗々しいものではなかった。・・・
当時は、調和を望む岩倉の期待とは裏腹に、幕府と長州藩との対立だけでなく、長州処分をめぐって幕府と薩摩藩も正面から対峙しており、とうてい過去を水に流して協調できるような情勢ではなかった。

⇒「長州処分をめぐって・・・正面から対峙して」いたのは「幕府と薩摩藩」であって、「徳川慶喜と薩摩藩」ではなかったことを忘れないようにしましょう。(太田)

また、朝廷と各政治勢力との関係も大きく変化し、文久期とは異なり、孝明天皇と二条関白や中川宮ら朝廷上層部は、幕府側とりわけ一会桑の三者への依存を強めていた<からだ>。・・・」(25~26、28~29)

⇒幕府を揺さぶる材料として孝明天皇の公武合体論/攘夷論はもはやその役割を終えていたのであり、孝明天皇にはそろそろ退いてもらう必要があった、ということになります。(太田)

(続く)