太田述正コラム#12574(2022.2.15)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その10)>(2022.5.10公開)
「もう一つの懸案であった長州処分でも攻勢に出、長州藩の最終処分案(10万石削減、長州藩主父子の蟄居隠居など)について、1866・・・年1月22日勅許をえた。
⇒「長州藩が在長州の三条実美ら5卿を幕府側へ引き渡すことは征長軍撤兵の一要件であったが,それは実行されなかった<上、>・・・1864年・・・末から翌65年・・・初めにかけて・・・長州藩では保守俗論派に対して、高杉晋作が下関<(馬関)>で挙兵し、諸隊の力を得て美祢(みね)郡大田・絵堂の内訌(ないこう)戦を戦い、俗論派にかわって正義派が政権を握り、藩論を武備恭順へと転換した。この方針に従って、大村益次郎を登用して軍制改革を実行し、特別資金であった撫育方(ぶいくかた)の貯蓄金を放出して銃器や艦船を購入し、装備の洋式化を図り、幕府の再征に備えた。」
<a href=’https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=988′>https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=988</a>
という背景を坂本は書いてくれていないので、一般読者には分かりにくくなっています。(太田)
そして2月、この処分案を長州側にいい渡すため、<老中>小笠原長行(ながみち)を広島に派遣した。
ところが、長州藩は容易に最終処分案に従おうとせず、幕府は面目をつぶされて、6月に入ると第二次長州征討は必至の情勢となった。
そこで6月7日、慶喜らは、処分案の受諾拒否を理由に、「問罪の師」を差し向ける大義名分を朝廷から引き出し、薩摩藩の反対論を押し切って、長州再征に踏み切ったのである。
しかし第二次長州征討は、幕府側の惨憺たる敗北に終った。
⇒「4月14日、大久保利通は<老中>板倉勝静へ薩摩藩は出兵を拒否するとした建白書を提出した。勝静は、勅命により長州征討を起こした幕府の正当性を主張し建白書を拒絶したが、幕府がこれまで勅命を無視してきた事実を列挙した大久保と論戦となった。再三の交渉の結果、大久保は板倉へ建白書を受け取らせることに成功した。6月3日、<紀州藩藩主の>徳川茂承が広島へ向かい、6月2日に<それまで長州藩との交渉を続けてきた>広島の<小笠原>長行は小倉へ向かい、茂承は石州口へ転じて、茂承の代わりに本荘宗秀(注17)<が>広島に入った。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E8%A8%8E’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E5%BE%81%E8%A8%8E</a>
という、薩摩藩の動きも端折ってはいけなかったのではないでしょうか。(太田)
(注17)むねひで(1809~1873年)。「丹後国宮津藩6代藩主。・・・大老・井伊直弼の下で寺社奉行として安政の大獄を行政化し、北町奉行・石谷穆清、勘定奉行・池田頼方、大目付・久貝正典、目付・神保長興らと共に志士の処罰を行った。その後、大坂城代を経て京都所司代に任命されたが、朝廷内から大原重徳を中心に安政の大獄の当事者の起用に反対が起こり、幕府内でも会津藩主・松平容保が反対したため、任命はされたが赴任できず(代役に酒井忠績)、2か月後に更迭された。その代償として溜詰格となり、譜代大名最高の格式を得たが、安政の大獄に対する追罰人事を受け、その格式は約1年3か月で剥奪された。
その後、老中となり、阿部正外と共に幕府軍3千を率いて上洛した。徳川慶喜を江戸へ連行し、京都を一会桑政権ではなく幕府の統制下に置こうとしたが、失敗した。在任中の・・・1866年・・・の第二次長州征討では安芸国広島に出陣し、幕府軍の指揮を執った。やがて戦争継続の不利を悟り、捕虜にしていた長州藩家老の宍戸璣・小田村伊之助両名を独断で釈放し、有利な和平工作を試みた。だがこれが発覚して老中を罷免され、家督を五男の宗武に譲って隠居謹慎を命じられた。
のち、鳥羽・伏見の戦いの際に旧幕府方についた責任を問われた宮津藩が、藩兵を率いていた重臣2名を切腹させようとしたところ、長州藩から新政府に対して先の宍戸・小田村の釈放の功績と引換にするように申し入れがあり、2名は助命されている。
維新後は新政府に出仕し、伊勢神宮の大宮司などを務めた。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%A7%80′>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%97%E7%A7%80</a>
もともと幕府・諸藩連合軍は、士気が低く、当初から戦況も思わしくなかった。
これに、7月20日将軍家茂が大坂城で死去したことが決定打となり、出兵諸藩はそれを口実として即座に解兵し、九州口の総督だった小笠原長行の前線離脱もあって総崩れの状況となった。・・・」(31)
⇒小笠原長行も板倉勝静も、徳川慶喜の将軍後見職時代
<a href=’https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%BE%8C%E8%A6%8B%E8%81%B7-292502′>https://kotobank.jp/word/%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%BE%8C%E8%A6%8B%E8%81%B7-292502</a>
時代に老中に登用されており、また、「将軍家茂の後継問題に当たり、長行は板倉勝静と共に慶喜を次期将軍に推し」ており、
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%A1%8C’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E8%A1%8C</a>
二人の第二次長州征伐の際の「軟弱」な姿勢は、慶喜が禁裏守衛総督に転じてからも、慶喜の意向に従って行動していたことを示すものである、というのが私の見方です。
慶喜は、幕府に最後のとどめをさすべく、「敗戦」必至の第二次長州征伐をあえて行った、と。(太田)
(続く)