太田述正コラム#12576(2022.2.16)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その11)>(2022.5.11公開)
「岩倉は、・・・朝廷が、幕府側と一体となって条約勅許に踏み切ったことに驚愕した<(注18)>・・・。・・・
(注18)「天皇の<変節>の背景には、英米仏蘭四国艦隊による通商条約締結を求めての現実の軍事圧力があった。だが、こうした判断は、たとえ日本が戦争によって黒土になろうとも闘い抜くとさえいい、頑固に攘夷を主張していた天皇の態度からみて遅きに失した方針転換であり、したがって、岩倉一幕末の政治家たちにとってこの天皇の判断は、仰天というべき転換であると捉えられたのである。」(上田浩史「岩倉具視の思想的特色と天皇親政の歴史的展開(上)」より)
<a href=’https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjV5cPFwfn1AhWlk1YBHc6mBcQQFnoECCgQAQ&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F223197882.pdf&usg=AOvVaw0-YwTRLaKtJPXDlcKS76Yo’>https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjV5cPFwfn1AhWlk1YBHc6mBcQQFnoECCgQAQ&url=https%3A%2F%2Fcore.ac.uk%2Fdownload%2Fpdf%2F223197882.pdf&usg=AOvVaw0-YwTRLaKtJPXDlcKS76Yo</a>
⇒私は、岩倉は、近衛家/薩摩藩のエージェントであったと見ているわけですが、彼らのこの時点での気持ちは「驚愕」ではなく、遥かに冷静な、一、孝明天皇を泳がせて利用できる賞味期限は切れていることを再確認し、二、天皇家ないし天皇制は、それらが江戸時代の大部分においてそうであったところの、象徴的な存在、へと回帰させない限り爾後維持することは不可能であって、三、天皇抜きでの秀吉流日蓮主義(島津斉彬コンセンサス)の完遂を行う仕組みを整えなければならない、というものだった、と、見ています。(太田)
第二次長州征討において幕府軍の敗色が濃厚となると、岩倉は、機を逃さず、8月「天下一新策密奏書」を提出する。
薩摩藩への支持を明確にしたうえで、朝廷が公論から乖離していることを糾弾し、このまま幕府と一体となっていては朝廷が衆論怨府(えんぷ)となると、より直截に批判したのである。<(注19)>・・・
(注19)岩倉は、その上で、「幕府ヘ自今以往、私心ヲ棄テゝ公理ニ基ヅキ、王政復古ノ上、徳川氏ハ列藩ト与ニ扶翼ノ任ヲ帯ブ可キノ旨ヲ御懇諭アラセラレ」るよう岩倉は強く希望し<、その上で>・・・、「其御懇諭ノ勅書ニハ、私心ヲ棄テゝ公理ニ基ヅキ政柄ヲ奉還スルノ要ハ国威ヲ恢張シテ外夷ヲ圧倒スルニ在リ、之ヲ施行スルノ本ハ天下ヲ合同スルニ在リ、天下ヲ合同スルハ政令一ニ帰スルニ在リ、政令一ニ帰スルハ朝廷ヲ以テ国政施行、根軸ノ府ト為スニ在リ」(73)と孝明天皇自ら「天下合同」を指南する勅書を発すべきと建白した」(上掲)
すなわち岩倉は、従来の持論であった公武合体論を完全に放棄し、朝廷を中心とする一元的な挙国一致体制論へと踏み込んだのである。
だが朝廷の幕府に対する姿勢は、その後も変化がなかった。
孝明天皇は、進んで慶喜の徳川宗家の相続をうながし、また慶喜がいったんみずから申し出た長州再征を突如撤回するという失態を演じたのちも、慶喜に対する変わらぬ信任を示した。
⇒一点だけ孝明天皇のために弁じれば、幕府、ひいては徳川本家、が潰れるようなことがあれば、無理やり説得して同本家に降嫁させたところの、異母妹の和宮に対して、申し訳ないでは済まない、という気持ちが、間違いなく彼にはあったでしょうね。(太田)
こうした情勢に、岩倉は、建白活動の限界を悟り、ふたたび中・小層の公家による列参を計画する。
実力行使によって、朝廷の潮目を変えようとしたのである。
岩倉自身は謹慎の身ゆえ参加できなかったが、8月上旬より、柳の図子党を介して、正親町三条実愛<(コラム#12486、12496、12498、12504)>や大原重徳<(コラム##9902、12474、12490、12502、12532、12564、12575)>および中御門経之<(注20)>らに働きかけ、2月30日、22人の公家が集団で参内して朝廷に直訴した。
(注20)なかのみかどつねゆき(1821~1891年)。「坊城俊明の五男として生まれ、中御門資文の養嗣子となる。・・・妻<は、>・・・岩倉具視の実姉<。>・・・
1858年・・・に通商条約勅許問題が起こると、88人の反対グループ(廷臣八十八卿)の一人となった。・・・1863年・・・、孝明天皇の石清水八幡宮行幸を共にしている。しかし、その後は岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となり、・・・1866年・・・には佐幕派であった関白の二条斉敬と中川宮朝彦親王を弾劾した。ところが、これが親王を厚く信任していた孝明天皇の怒りを買うこととなり、閉門処分に処せられた。同年末、孝明天皇が崩御し、明治天皇が践祚された後に罪を許されて宮中に復帰する。
その後は討幕の密勅作成などに参加し、・・・1867年・・・12月の王政復古と共に議定に任じられた。
翌・明治元年(1868年)1月、会計事務総督を兼ね、2月に会計事務局督に転じ、閏4月には権中納言となり、ついで会計官出仕、8月に同知事となった。
明治2年(1869年)2月、造幣局掛等を歴任し、5月に内廷職知事に任じられ、7月に留守長官に転じた。9月には維新の功により賞典禄1,500石を永世下賜され、11月に大納言に任じられた。しかし明治3年(1870年)、病により留守長官を辞し、麝香間祗候を仰せ付けられた。
その後、華族会館創設の計画協議などに当たった。」
<a href=’https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E7%B5%8C%E4%B9%8B’>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%BE%A1%E9%96%80%E7%B5%8C%E4%B9%8B</a>
⇒調べがつかなかった正親町三条実愛はともかくとして、岩倉具視にとって、大原重徳は大叔父にして義叔父、中御門経之は義兄弟、と、どちらも具視の縁戚であり、こういったところにも、私の、広義の縁戚関係を重視する歴史アプローチ、の妥当性が現れていますね。(太田)
要求の内容は、二条関白と中川宮の退職、幽閉公家の赦免および薩摩藩と縁の深い近衛忠煕の関白復職、そして国是衆議のための列藩上京であった。
ところが、これを聞いた孝明天皇は激怒し、10月27日、中御門や大原ら列参関係者を処罰して、朝廷の現体制を擁護する立場を鮮明にした。
かつてあれほど親密だった孝明天皇と岩倉とのあいだには、すでに埋めがたい溝が存在していたのである。」(32~33)
(続く)