太田述正コラム#12586(2022.2.21)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その16)>(2022.5.16公開)
「慶喜の予期せぬ大政奉還は、驚愕とともに、政治社会に複雑な波紋を広げた。・・・
公議政体派<と>・・・武力倒幕派・・・のせめぎ合いのなかで、慶喜の真意を確認する踏み絵として辞官納地<(注28)>(内大臣辞職と徳川家領地の返上)が要求されたのである。
(注28)「降官納地・・・とも。1867年・・・の王政復古にともなう徳川将軍家の処遇問題。倒幕派は徳川家の権威をそがぬかぎり王政復古は有名無実に終わると考え,同年12月9日の小御所会議で徳川慶喜の内大臣の官位辞退と領地返上を主張。慶喜を新政府の首班に擬していた徳川親藩や高知藩山内豊信らはこれに抵抗し,軍事衝突の回避を理由に徳川慶勝と松平慶永が周旋にあたった。その結果,年末には慶喜は前内大臣と称し,政府の費用を諸大名と同様に負担するという条件で,新政府の議定に迎えられることになった。会津藩や旗本の不満によって勃発した鳥羽・伏見の戦は,この政治的勝利を無に帰した。」
http://www.historist.jp/word_j_ko/entry/033017/
こうした情勢において、大久保ら武力倒幕派が仕かけたのが、王政復古のクーデター(注29)>であった。・・・」(40~41)
(注29)「<1867>年12月9日・・・に決行することとした。その前夜、岩倉具視は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言し、協力を求めた。こうして、5藩の軍事力を背景とした政変が実行に移されることとなるが、政変参加者の間において、新政府からの徳川家の排除が固まっていた訳ではない。越前藩・尾張藩ら公議政体派は徳川家をあくまで諸侯の列に下すことを目標として政変に参加しており、実際に親藩である両藩の周旋により年末には慶喜の議定就任が取り沙汰されるに至っている。
また、大久保らは政変にあたって、大政奉還自体に反発していた会津藩らとの武力衝突は不可避と見ていたが、二条城の徳川勢力は報復行動に出ないと予測しており、実際に慶喜は政変3日前の<1867>年12月6日・・・に越前側から政変計画を知らされていたものの、これを阻止する行動には出なかった。兵力の行使は新政府を樹立させる政変に際し、付随して起こることが予想された不測の事態に対処するためのものであり、徳川家を滅ぼすためのものではなかった。
⇒慶喜が自分達の「同志」だということは大久保らだって知っていたのだろう。
但し、そのことが、親藩や旗本に気取られないように、慶喜も大久保らも演技しなければならなかったということだろう。(太田)
<1867>年12月8日・・・夕方から翌朝にかけて摂政二条斉敬が主催した朝議では、長州藩主・毛利敬親、広封父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。
<1867>年12月9日・・・、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、二条や朝彦親王ら親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉らは、天皇出御のうえ御所の御学問所に参内して「王政復古の大号令」を発し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。
「王政復古の大号令」の内容は以下のとおりである。
(<1867>年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。
・京都守護職・京都所司代の廃止。
・幕府の廃止。
・摂政・関白の廃止。
・新たに総裁・議定・参与の三職をおく。・・・
この宣言は、12月14日に諸大名に、16日に庶民に布告された。慶喜の将軍辞職を勅許し、一会桑体制を支えてきた会津藩・桑名藩を追うことで、慶喜の新体制への参入を排しつつ、一方では従来からの摂政・関白以下の朝廷機構の政治権力を復活させるのでもなく、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配をも解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。
このとき三職に任命されたのは以下の人物である(この三職制度は翌慶応4年閏4月の政体書によって廃止され、太政官制度に移行した)。
・総裁
有栖川宮熾仁親王
・議定
仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津茂久(薩摩藩)、徳川慶勝(尾張藩)、浅野茂勲(芸州藩)、松平春嶽(越前藩)、山内容堂(土佐藩)
・参与
岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁、尾張藩士三人(丹羽賢、田中不二麿、荒川甚作)、越前藩士三人(中根雪江、酒井十之丞、毛受洪)、芸州藩士三人(辻将曹、桜井与四郎、久保田平司)、土佐藩士三人(後藤象二郎、神山左多衛、福岡孝弟)、薩摩藩士三人(西郷隆盛、大久保利通、岩下方平)・・・
12月9日18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた<(小御所会議)>。山内容堂ら公議政体派は、慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。・・・
容堂らは慶喜の出席を強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能が休憩を宣言した。同会議に出席していた岩下方平は、西郷隆盛に助言を求めた。西郷は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べ、岩倉を勇気付ける。このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らの主導で会議は進められ辞官納地が決した(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)。・・・
⇒「赦免されたばかりの岩倉ら」がこんな大事を直ちに主導できるわけがないのであって、岩倉らを赦免させた近衛忠煕/薩摩藩島津斉彬コンセンサス信奉者達が岩倉らの赦免を含め、全てお膳立てを整えていた、と見るべきだろう。
そんな中で、土佐藩内で浮き上がっていて、自身が一番近衛忠煕らとの関係も希薄であったと思われることから、容堂が、議定達の中で、一番、情勢把握能力が劣っていたため、空気すら読めず、慶喜を窮地に追い込んでしまったわけだ。(太田)
12月10日、慶喜は自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言して、征夷大将軍が廃止されても「上様」が幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する意向を仄めかした。また、薩長らの強硬な動きに在京の諸藩代表の動揺が広がった。そこへ土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図り、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せた。
⇒肥後藩・筑前藩・阿波藩などは、完全に蚊帳の外に置かれていたのだろう。(太田)
そこで13日には岩倉や西郷は妥協案として辞官納地に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を行わざるを得なくなった。これによって辞官納地も有名無実化される寸前になり、16日には慶喜が<米・英・仏・蘭・伊・普>の6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。
これに対して12月22日に朝廷は、・・・王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められ・・・た。
⇒仕方なく、慶喜は、旧幕府勢力を潰すための最後の一芝居をうって、大久保ら、と、親藩のうち硬直化している一部と旗本、の双方に開戦の口実を与えた、というのが私の見方です。(太田)
だが、この事態に危機感を抱いた薩摩藩の暗躍に旧幕府側の強硬派が乗せられ、<1868>年1月3日に鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)に突入することになる。この戦いで旧幕府軍は薩長軍に敗退し、旧幕府方の敗勢を知った朝廷は仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命すると共に、錦の御旗と節刀を与え、新政府軍を官軍とした。
⇒1866年8月に徳川宗家を相続してから1年4カ月、12月に将軍になってから1年では、いくら、慶喜が努力をした(フリをした)とて、それまでの幕府が軍事力強化をさぼり続けてきた結果を一挙に覆せるわけがなく、大久保らの軍事力の装備と練度が幕府や一部の(佐幕)親藩を上回っていたことから、そして何よりも、幕府側のトップの慶喜に戦意が無かった以上、幕府側の軍事力は総合的運用が不可能であったことから、慶喜の目論見通り、必然的に、幕府側は緒戦で無様に敗れてしまったわけです。(太田)
窮地にあった新政府は息を吹き返し、一方の旧幕府側は「朝敵」として窮地に陥る事となった。
このとき、容堂は岩倉に「この戦は薩長の起こした不当な戦である!」と抗議したが、岩倉より「わかった。ならば土佐藩は慶喜側につきなさい」と一喝されて、沈黙してしまったという。その後、容堂は土佐藩の軍勢を乾退助に委ね、薩長側と同一歩調を取るようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%94%BF%E5%BE%A9%E5%8F%A4_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
⇒最後の最後まで、ただ一人、容堂は有害なピエロであり続けた、ということです。(太田)
(続く)