太田述正コラム#12588(2022.2.22)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その17)>(2022.5.17公開)

 「<にもかかわらず、>情勢は、慶喜側に有利に推移していた。
 12月12日、慶喜は、偶発的な暴発を避けるために会津と桑名の藩兵を引きつれて、京都から大坂にくだった。・・・

⇒「幕府」・・王政復古の大号令が出た12月5日に慶喜は征夷大将軍ではなくなっている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C
ので名実ともに幕府は消滅しているので「」を付けた・・側に有利な情勢へと推移していたことは慶喜の本意ではなかったところ、薩摩藩等の側が倒幕戦をやりたがっていることを十分過ぎるほど承知していた慶喜は、できれば、その戦いの相手方の主力が(親藩・譜代抜きの)旗本・御家人、という形になることで、会津藩や桑名藩等の頑迷な諸親藩を巻き込まないようにしたいと考え、慶喜は、両藩の藩兵を、薩摩藩兵等と引き離そうとしたわけです。(太田)

 その時、幕府側と薩摩側の両者の運命を左右する、思いがけない事件が江戸で起こった。
 京都の大久保や西郷らの意図とは別に、江戸の薩摩藩邸では、浪人を使って関東周辺や江戸市中で後方攪乱の狼藉を働いていた。

⇒「大久保や西郷らの意図とは別に」????(太田)

 12月25日、こうした挑発に将軍の留守をあずかる江戸幕閣の忍耐が限界に達し、江戸市中を警備していた庄内藩に命じて、浪人たちをかくまっていた江戸薩摩藩邸を焼討ちにしたのである。<(注30)>」(45~46)

 (注30)「1863年・・・4月、庄内藩は高崎藩、白河藩、中村藩とともに、江戸幕府から江戸市中の警備を命ぜられ、以降、攘夷派の取り締まりに実績を上げていた。この時期、前将軍徳川慶喜をはじめとする幕府の幹部は京に詰めており、江戸には市中取締の<親藩の>藩兵のみが警護にあたっていた。・・・

⇒これが、そもそもおかしい。
 少なくとも桜田門外の変からというもの、江戸は有事の状態で推移してきた・・幕府要人が徒党によるテロの脅威に晒されていた上、外国人に対する「テロ」等を口実に海上の欧米艦船からも攻撃を受ける可能性が常にあった・・のだから、有事即応態勢を構築する必要があって、司令官格から末端まで、(親藩・譜代抜きで)旗本や御家人や新徴組隊員的な人々、によって組織された直轄兵力を江戸で整備・維持すべきだったというに、そうしていなかったのだから・・。(太田)

 <1866>12月・・・、水戸浪士の中村勇吉(天狗党残党)、相楽総三、里見某らが乾退助(のちの板垣退助)を頼って江戸に潜伏。当時、江戸築地土佐藩邸の惣預役(総責任者)であった乾退助は、参勤交代で藩主が土佐へ帰ったばかりで藩邸に人が少ないのを好機として、藩主に無断、かつ藩重役にも相談せず独断で彼等を藩邸内に匿う。(この浪士たちが、薩摩藩へ移管後、庄内藩などを挑発し戊辰戦争の前哨戦となる江戸薩摩藩邸の焼討へ発展することになる)
 <1867>年5月21日・・・、中岡慎太郎の仲介によって、土佐藩・乾退助と薩摩藩・西郷隆盛の間で締結された薩土討幕の密約では、この浪士らの身柄を土佐藩邸から薩摩藩邸へ移管することも盛り込まれた。翌5月22日・・・に、乾は薩摩藩と締結した密約を山内容堂に稟申し、同時に勤王派水戸浪士を江戸藩邸に隠匿している事を告白。土佐藩の起<挙>を促した。容堂はその勢いに圧される形で、この軍事密約を承認し<た。>・・・
<1867>年9月9日・・・、土佐藩お抱えの刀鍛冶・左行秀(豊永久左衛門)は、退助が江戸の土佐藩邸に勤王派浪士を隠匿し、薩摩藩が京都で挙兵した場合、退助らの一党が東国で挙兵する計画を立てていると、寺村左膳に対し密告を行った<が、>・・・容堂は・・・不問にふ<した。>・・・
 10月・・・、土佐藩邸に匿われていた水戸浪士らが薩摩藩邸へ移管される。・・・
 <彼>ら勤皇派浪士は西郷隆盛の意を受けて活動を開始し、三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする倒幕、尊皇攘夷論者の浪士を全国から多数招き入れた。彼らは薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助の指示を受け、放火、掠奪、暴行などを繰り返して幕府を挑発した。

⇒これら勤王派浪士達の中核は天狗党の乱崩れの水戸浪士達であったわけで、天狗党の乱こそ慶喜が禁裏御守衛総督としてその最終的鎮圧にあたったけれど、(次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにするように、)水戸藩の勤王派藩士達と慶喜は元々は同志であった以上、彼らは、慶喜の「真意」に沿った行動をとっていると信じていたはずだ。(太田)

 その行動の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に・・・厳重に市中の取締りを命じたが、武装集団に対しては十分な取締りとならなかった。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた新徴組を借り受け、薩摩藩邸を見張らせた。
 討幕の密勅の直後の<1867>年10月14日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。討幕のための挙兵の中止も江戸の薩摩藩邸に伝わったが、討幕挙兵の噂は瞬く間に広まっていて、薩摩藩邸ではその火のついた志士を抑えることはできずにいた。騒乱行為はますます拡大していき、<1867>年11月末・・・には竹内啓<(注31)>(本名:小川節斎)を首魁とする十数名の集団が下野出流山満願寺の千手院に拠って檄文を発し、さらに150名をも越える一団となって行軍を開始。

 (注31)1828~1868年。「武蔵国入間郡竹内村(現在の埼玉県坂戸市)の<庄屋>小川新左衛門の長男として生まれる。漢学を朝川善庵、国学を平田銕胤、医学を辻元崧庵に師事し、医者を生業とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E5%95%93_(%E5%B9%95%E6%9C%AB)

 同年12月11日・・・から数日間、栃木宿の幸来橋付近や岩船山で関東取締出役・渋谷鷲郎(和四郎とも)率いる旧幕府方の諸藩兵と交戦し、鎮圧された。敗れた竹内は中田宿で捕らえられ、処刑された(出流山事件)。しかし、参加者数名が脱走して薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年11月25日には上田修理<(注32)>(本名・長尾真太郎)ら十数名の集団によって甲府城攻略が計画されるが、事前に八王子千人同心に露見し、八王子宿で撃退された。

 (注32)「生まれは武州豊島郡青山(現在の東京都港区青山)であり、幕臣で鷹揚鳥見役秋底三左衛門とその妻おうの間に生まれた一人っ子という事になっています。」
https://ameblo.jp/matasichi/entry-12054058492.html

 その際の襲撃者たちもやはり薩摩藩邸に逃げ込んだ。同年の12月15日・・・には鯉淵四郎<(注33)>(本名・坂田三四郎)を首魁とする三十数人の集団が相模の荻野山中藩の大久保教義<(注34)>の陣を襲撃し、薩摩藩邸へ戻ったが、こちらは死者1名、負傷者2名で比較的損害は小さかった。

 (注33)「当時28歳、水戸出身」
https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1555825099952/simple/tsushihen4_1_1-2.pdf
 (注34)1825~1885年。「相模荻野山中藩の第3代(最後)の藩主。・・・教義が甲府城の勤番のために留守であった山中陣屋<が>襲撃<され>、山中陣屋は焼失した。・・・
 長男・忠良は本家小田原藩の家督を継いで最後の藩主となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E6%95%99%E7%BE%A9

 <1867>12月20日・・・の夜には鉄砲や槍などで武装した50名が御用盗のため同藩邸の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた新徴組に追撃され、賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れた。賊徒側も反撃に及び、12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走、薩摩藩邸に逃げ込んだ。翌12月23日には 春日神社前にある庄内藩の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡した。
 これらの状況下で幕臣達は「続出する騒乱の黒幕は薩摩藩」との疑いを強くし、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦<(注35)>はついに武力行使も辞さない強硬手段を決意する。

 (注35)1834~1898年。「山城淀藩12代目(最後)の藩主。・・・陸奥国二本松藩主・丹羽長富の七男。嗣子のいなかった淀藩主稲葉正誼の養子となる。・・・
 会津藩・桑名藩と薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任されていた。後に老中、さらには政事総裁として、もっぱら江戸藩邸での活動に終始する。
 幕府での位置づけが高まることから、第一次・第二次長州征伐への淀藩士派兵を決定するが、<家老の>田辺権大夫の強硬な反対によって断念するという一幕があり、佐幕急進派の正邦と穏健派の藩首脳部の対立は顕在化していったらしい。老中を抱える藩として鳥羽・伏見の戦いには淀城より出兵したものの、後退する旧幕府軍の入城を拒否した。藩首脳部と新政府との密約成立により新政府に恭順したのである。城代家老田辺権太夫は鳥羽・伏見の戦いの際には「江戸に滞在」していた。幕府軍の入城を拒否したのは淀藩留守居役の田辺の弟治之助か(のち幕府軍を数名入れたということを理由に切腹)。このとき、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた正邦は、自らの藩が自身の決定なくして徳川家に反旗を翻すという事態に遭遇するという複雑な立場に立たされ、・・・1868年・・・2月に老中職を辞任し、朝廷からの上洛要請に応じる事になる。だが、三島宿にて秘かに徳川慶喜から新政府への嘆願書を持っていたことが発覚し、小田原の紹太寺にて謹慎を余儀なくされた。その後、新政府の許可によって身柄は京都に送られたが、・・・在国家臣の働きの功績をもって宥免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E9%82%A6

 12月24日・・・、庄内藩江戸邸の留守役松平親懐(権十郎)に「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す。

⇒いくら在江戸兵力が、寄せ集めの、文字通りの(私の言う)柔らかい組織だったとしても、警察行動を超える軍事行動をとるにあたっては、事前に、自分の上司たる徳川家の長の慶喜の了解を取り付けるべきなのに、自分達の独断で「開戦」したのもおかしい。
 もとより、徳川家の兵力を柔らかい組織のまま放置したこと、在江戸老中達への委任の範囲の明確化を行わなかったこと、の責任は慶喜にあるが、家茂時代に怠っていたことを慶喜はあえて直さなかったということだろう。(太田)

 これに対し松平は「薩摩側が素直に引き渡すとは思えず、討ち入りとなることは必至だが、庄内藩は先日銃撃の被害を受けており、この状況下で討ち入れば私怨私闘の謗りを受けてしまう。その為、他藩との共同で事に当たらせて欲しい」と願い、受け入れられた。これにより庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加。戦闘指揮は庄内藩の監軍(軍監)、石原倉右衛門が執る事になった。・・・

(続く)