太田述正コラム#12592(2022.2.24)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その19)>(2022.5.19公開)

 「この薩摩・長州側の緒戦の勝利の結果を受けて、1月4日、議定兼軍事総裁の嘉彰(よしあきら)親王<(注37)>がただちに征討大将軍に任命され、錦旗とともに官軍が創設された。

 (注37)1846~1903年。「父:伏見宮邦家親王・・・<嫡母:鷹司景子>・・・<実>母<:>堀内信子・・・妻:有馬頼子・・・
 <異母妹に>万佐宮・村雲日栄(1855–1920) – 九条尚忠のち九条幸経養女・瑞龍寺門跡・・・
 仁孝天皇の猶子となり、親王宣下を受け純仁親王を号し、仁和寺第三十世の門跡に就任した。・・・1867年・・・、還俗を命ぜられ仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみや よしあきしんのう)と名乗る。明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。1870年(明治3年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。親王は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範(そっせんすいはん)した。1890年(明治23年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられる。国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代(みょうだい)として臨席した。その他、経歴の一つとして、蝦夷地(北海道)の“開拓”に清水谷侍従と共に関わっている。この事の詳細は、公文書として『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達[2]』に記述されている。社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。・・・。また、川上村の金剛寺に後南朝の皇族・自天王の碑を建てた。大覚寺統の皇族が持明院統の皇族によって憐れまれたのはこれが初めてであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒「注37」の嘉彰親王の事績からして、同親王は、明らかに秀吉流日蓮主義者だったわけですが、それがどこに由来しているのか、妹に瑞龍寺門跡の村雲日栄(1855~1920年)がいたこと(上掲)、叔母に同じく瑞龍寺門跡の日尊女王(1807~1868年)がいた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
こと・・だけで十分かもしれませんが・・、以外、見当がつきませんでした。
 なお、実母の堀内信子についてはネット上に情報が全くありませんし、妻の有馬頼子は、「1886年)に彰仁親王と共にヨーロッパに外遊した際、金に糸目を付けずに当地のブランド物を買いあさり、明治天皇に激怒されたという」人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E9%A0%BC%E5%AD%90
ですし、彼女の出身の久留米藩有馬家(摂津有馬氏)も、秀吉との接点はある、程度で、日蓮主義とはさしてご縁はなさそうです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E6%B4%A5%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%B0%8F (太田)

 翌5日には公議政体派にかわって薩長が中心となって新政府を掌握した。
 しかも1月6日慶喜が、「朝敵」となることを回避するため、旧幕府側将兵を大坂城に置き去りにして、老中の板倉勝静<(かつきよ)>や松平容保・定敬らごく一部の者だけをともなって江戸に逃げ帰った<(注38)>ことで、勝敗の帰趨は決した。

 (注38)「陣中に伴った側近や妾、老中の板倉勝静と酒井忠惇、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬らと共に開陽丸で江戸に退却した。なお、この時、開陽丸艦長の榎本武揚には江戸への退却を伝えず、武揚は戦地に置き去りにされた。
 慶喜が江戸へ退却した理由には、慶喜自身が晩年に語った軍を京都に送る気自体なかったという主張を信じる説、朝敵になることを恐縮したという説、江戸で態勢を立て直して再度戦争しようと考えていたなど様々な説がある。近年の研究では、慶喜政権が天皇の権威を掌中に収め、それに依拠することによってのみ成立していた政権であったとし、それを他勢力に譲り渡した時点で彼の政治生命は潰え、一連の行動につながったとする説が提唱されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

⇒「注38」に出て来る諸説のいずれとも違う説を私は唱えているわけですが、慶喜が行動を共にした板倉と松平兄弟が、その後、征討軍と戦うことになることを考えれば、慶喜は、見事に、自分の真意を最側近の人々にも隠しおおせた、と、言うべきでしょう。
 なお、この時同道させられた老中には、板倉勝静のほか、酒井忠惇(ただとし/ただとう。1839~1907年。播磨姫路藩の第9代藩主)もいますが、彼は、慶喜同様、爾後、隠居謹慎に徹しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%83%87 (太田)

 旧幕府軍は総崩れとなり、優位な情勢は一瞬にして霧消したのである。」(47)

(続く)