太田述正コラム#12606(2022.3.3)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その26)>(2022.5.26公開)
「<征韓論(注47)を巡る1873年の>膠着状態のなかで、事態の打開に動いたのが、太政大臣の三条だった。
(注47)「<岩倉使節団を率いて外遊していた>岩倉は<、1873年>9月13日に横浜に到着。この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えて征韓論に反対の立場を表明した。朝鮮を敵に回すことは宗主国である清も敵に回すことであり、今の日本には勝ち目はないと考えた。海軍卿の勝海舟も「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示した。また大蔵卿の大久保利通も「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E5%85%B7%E8%A6%96
勝は、「旧幕臣の代表格として[<、>1869年(明治2)<に>]外務大丞、兵部大丞<を経て、>・・・明治5年5月10日に海軍大輔に任じられ、明治6年(1873年)3月22日には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた。同年の明治六年政変で西郷らが下野した後の10月25日に海軍卿に任じられたが、翌7年(1874年)の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年(1875年)4月25日に元老院議官へ転属したが、11月28日に辞職して下野した。勝が海軍と直接的に関わった形跡はないが、咸臨丸時代からの知り合いだった赤松則良と佐々倉桐太郎を兵学寮へ出仕させ、実務を彼らや川村純義に任せて間接的ながら海軍の発展に貢献した。・・・
日清戦争には反対の立場をとった。・・・海舟は戦勝気運に盛り上がる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、<支那>大陸の大きさと<支那>という国の有り様を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。
[<また、>足尾鉱毒事件を手厳しく批判し田中正造を支援した。]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F-15669 ([]内)
⇒日清戦争批判からも分かるように、勝海舟は、秀吉流日蓮主義とは無縁の人間であったにもかかわらず、旧幕臣として、異例の厚遇を維新直後に享受することになったのは、江戸無血開城の功績だったのでしょうね。
その勝が、「明治政府への仕官に気が進まず、これらの役職は辞退したり、短期間務めただけで辞職するといった経過を辿り、元老院議官を最後に中央政府へ出仕していない。枢密顧問官も叙爵も政府からの求めに応じただけで度々辞退していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F 前掲
のは、秀吉流日蓮主義者ばかりの維新政府幹部達の中で一人浮き上がってしまっていたからではないか、と、私は想像しています。(太田)
当初、三条は西郷派遣に慎重だった。
だが、西郷が辞職を暗示して15日の閣議を欠席すると、軍部に強い影響力をもつ西郷の辞職を阻止するため、閣議の土壇場で条件付き派遣を容認する方針を打ち出した。
これに岩倉も、政府の破裂を恐れていったんは追随する。
⇒これは、初耳です。(太田)
すると今度は10月17日、参議の大久保と木戸が、これに抗議して辞表を提出した。
驚愕した岩倉は、ふたたび反対論に変身して態度を硬化させた。
こうした情勢の緊迫に、10月18日未明、ついに三条は人事不省に陥り、職務不能となったのである。
岩倉と大久保は、この機をとらえて、巻き返しを決意する。
そこで、太政大臣代行となった岩倉は、宮中に工作をして、10月24日、天皇の裁定という方式で西郷の派遣を阻止した。
不服の西郷は辞表を提出して鹿児島に帰り、多くの旧薩摩藩出身の士官と非職の下士官が西郷に従った。
また、板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣の諸参議も、西郷に追随して下野し、政府は征韓論をめぐって真っ二つに分裂することになったのである。・・・
岩倉<は>、1874(明治7)年1月、赤坂喰違(くいちがい)で高知県士族に襲撃されて負傷した。<(コラム#12544)>」(71~72)
⇒征韓論に関し、岩倉が基本的に大久保利通及び木戸孝允と行動を共にしたのは、何と言っても、この二人等と11カ月にもわたって、一緒に外遊したばかりであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%80%89%E4%BD%BF%E7%AF%80%E5%9B%A3
ことが大きいでしょうね。
ここに、秀吉流日蓮主義者達のうち、着手先送り派が即時着手派を追い出す形で、同主義者達が分裂したわけです。(太田)
(続く)