太田述正コラム#12610(2022.3.5)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その28)>(2022.5.28公開)

「こうした情勢のなかで、・・・岩倉が力をそそいだのが、天皇の君徳輔導と華族の強化であった。
 1873(明治6)年の征韓論政変は、最終的には天皇の裁定という形で決着した。・・・
 
⇒そんなもの、岩倉ら自身が、事前に天皇にそう振り付けただけのことでしょう。
 いずれにせよ、これは、明治憲法で規定される外交大権の天皇による先取り的初行使だった、ということになります。(太田)

 しかし当時の若き天皇は、征韓論争の緊張が薄れるとともに、政治に対する関心を急速に低下させていった。
 日課の学業に身が入らず、政務の懈怠がめだち、岩倉ら政府指導者との関係も文字どおりの名ばかりとなった。
 その反面、乗馬に熱中して大酒を好み、酔って侍従たちと雑魚寝するような、粗野なところもある青年であった。
 <そこで>岩倉は、・・・侍講の元田永孚(ながざね)や宮中入りした木戸とともに、1875(明治8)年以降、改めて天皇の教育に心をくだくようになった。
 とりわけ1876(明治9)年に実施された東北巡幸を、教育の絶好の場と位置づけ、岩倉はみずから陪従をつとめて、日常的に天皇と接しながら、庶民の生活ぶりを実物教育の教材として、政治的関心の喚起と政府中枢との意思疎通につとめていったのである。<(注51)>」(76~78)

 (注51)「1872年5月23日-7月12日 大阪、中国、西国(近畿、四国、九州)」の巡幸に次いで行われたものであり、「1876年6月2日-7月21日 東北」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%B9%B8

⇒「木戸孝允<が、>・・・明治9<(1876)>年8月、宮内省出仕を拝命し、明治天皇や皇室、華士族に関わる仕事に取り組んだ。」のは、「木戸<が>明治9年の奥羽・函館巡幸に随行した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E5%85%81
後であり、ここでの坂本の記述は校正ミス、ということにしておきましょうか。
 で、天皇が、「青年期(とりわけ明治10年代:1877-1886年)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しよう(親政)と積極的であった時期があ<って>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
それはそれで困ったことであったところ、そんなことよりも、明治10年代より前の天皇が、「政治に対する関心を急速に低下させて<おり、>日課の学業に身が入らず、政務の懈怠がめだち、岩倉ら政府指導者との関係も文字どおりの名ばかりとなった・・・反面、乗馬に熱中して大酒を好み、酔って侍従たちと雑魚寝するような、粗野なところもある青年」(上出)だったこと、というか、そんな青年になってしまっていた方がより問題であるところ、その原因は、元田が「明治8<(1875)>年1月に・・・明治天皇の侍読とな」る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E7%94%B0%E6%B0%B8%E5%AD%9A
時点に至るまで、中沼了三が侍講を辞めた「明治3年(1870年)12月」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%B2%BC%E4%BA%86%E4%B8%89
時点から丸4年もの間、天皇にれっきとした侍講がいなかったようであること、と、更に遡り、孝明天皇を、あのようなトンデモ天皇へと訓育してしまった「前科」のある中沼(上掲)が明治2年(1869年)に明治天皇の侍講に再び就いて(上掲)少年時代の天皇を訓育したこと、とにあったのではないでしょうか。
 侍講の選任や侍講の不選任、に最大の責任を負うべきは、三条でしょうが、三条を直接補佐してきた岩倉自身の責任も問われなければならないでしょう。
 このように考えて来ると、木戸の宮内省出仕は、(恐らくは大久保利通も同じ思いだったのでしょうが、)木戸自身の、明治天皇への深刻な憂慮、と、三条、岩倉、そして、元田への不信感、から、自分が事実上の侍講として、天皇を何とか善導したい、しなければならない、という、危機意識、使命感に基づくものだったのではないか、と、私は想像しています。
 ところが、1877年の西南戦争中の木戸の病死(5月。43歳)によって、明治天皇の再教育・覚醒という、維新の三傑の一人である木戸の最後の大仕事、は未完のまま終わってしまい、そのこともあって、結局、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス、は、天皇家の手によってというよりは、旧摂家(九条家と近衛家)の手によって、完遂されることにあいなった、というわけです。(太田)

(続く)