太田述正コラム#12620(2022.3.10)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その33)>(2022.6.2公開)

 「右大臣の岩倉が、大隈意見書にはじめて接したのは、1881年5月頃である。
 一読して、岩倉はその急進性に驚愕した。
 そこには2年後の国会開設とイギリスをモデルとする議院内閣制の導入とが明記されてあったからである。
 不安を覚えた岩倉は、6月初旬、旧知の井上毅<(コラム#10720、10722)>を内密に呼んで大隈意見書を提示し、反駁書の起草と憲法の基本方針の調査とを命じた。
 岩倉は、自らの主導のもとに、立憲政体の基本方針を固めようとしたのである。
 井上毅は、6月上旬から26日頃まで、ロエスレル<(注58)>の協力をえながら、日夜必死の調査と考究を続け、・・・政府が採用すべき立憲政体として、「急進」論のイギリス型と「漸進」論のプロイセン型という二つのモデルを提示し、結論として、政党による政権交代を予定した議院内閣制ではなく、行政権の自律性の強いプロイセン型こそ採用すべきであると、進言したのである。

 (注58)Karl Friedrich Hermann Roesler(1834~1894年)。
 「主としてエルランゲン大学で法学を学び、1861年ロストック大学の国家学教授となる。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%AB-152564
 「人文主義とルター主義は<ロストック>大学の明確な特徴であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AF%E5%A4%A7%E5%AD%A6
 「1878年 当時の駐独公使青木周蔵の周旋により、外務省の公<法>顧問として招聘される。1881年~1887年 明治政府において大日本帝国憲法の作成および、商法草案の作成に携る。・・・1893年 帰国(ドイツではなく妻子のいるオーストリアへ)。・・・
 彼の思想は保守的で国家の権限<を>強化する方向にある一方で、法治国家と立憲主義の原則を重んじるものであった(これは、彼から深い薫陶を受けた井上毅の思想にも影響する)。彼が訪日を承諾した背景には、時のドイツ帝国宰相であるビスマルクの政治手法が余りにも非立憲的である事を批判したことでドイツ政府から睨まれたからだとも言われている(その後、オーストリアで余生を過ごしたのもこうした背景によるものであるという)。
 経済学者としてはアダム・スミス批判で知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%83%AB
 One compelling reason for his choice to move to Japan was due to his conversion to Roman Catholicism in 1878, Roesler faced dismissal from service in Mecklenburg due to his religion. ・・・
 While in Japan, relationship with the German legation in Japan and his socialization with the German expatriate community was almost non-existent.
https://en.wikipedia.org/wiki/Hermann_Roesler

⇒邦語のと英語のとでウィキペディア上のロエスレルの来日の背景の説明が全く異なっているのは興味深いですが、彼が、日本滞在中、在日ドイツ人と交流がほぼなかった理由が、宗教上の問題だとすると、英語ウィキペディアが記す彼の来日の背景の方が腑に落ちるというものです。
 帰国した先がカトリック圏のオーストリアですしね。
 さて、ロエスレルはお雇い外国人であったところ、大学の教師ではなく外務省の契約職員であった以上、彼は、日本政府の指示に従って法律の原案を作らされる立場でしかなく、彼の考えを原案群に反映できる程度は極めて限られていた、と思われます。
 それに対して、井上毅は、大久保利通に引き立てられた秀吉流日蓮主義者であって、大久保の死以降は、政府部内の秀吉流日蓮主義信奉者中の元締めである山縣有朋の事実上の指揮の下にあった、と私は見ているところ、ロエスレルは、本件に関しては、単に井上を補助しただけでしょう。
 で、本件に係る山縣の井上・・彼の当時の官僚機構の中での肩書が何であったのかは調べがつかなかった・・への指示の内容は、「仏米流の人民主権でも英国流の議会主権でもなくドイツ流の君主主権にするように、議会の立法・予算に係る権限を君主(天皇)は一定の範囲で超越しうるように、内閣の権限から統帥権と外交大権(開戦・講和)を除き君主(天皇)に直結させるように」、的なものだった、と私は想像しているのです。(太田)

 さて、伊藤が、岩倉の指示に従って、大隈意見書に接したのは6月27日である。・・・」(88、90)

⇒それ以降の本件の成り行きについては、引用を殆ど省略することにしますが、伊藤に、大隈の意見書を含む恐らくは全ての意見書群、を見せたということは、もともと、全参議から意見書を出させるべくイニシアティブをとった山縣に対しても、岩倉は当然、同じことをしていた、というより、山縣との間で全部見せるという約束を最初からさせられていたのだと思います。
 山縣は、井上の案と、大隈を含む他の参議達の意見書群とを突き合わせ、著しく懸け離れていた意見書を提出していた大隈を政府外に追放した、と見るわけです。(太田)

(続く)