太田述正コラム#12622(2022.3.11)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その34)>(2022.6.3公開)

 「当初伊藤は、格別の反応を示さなかった。
 というのも、国会開設漸進論をとる伊藤にとって、たしかに2年後の国会開設は早すぎたが、イギリス型モデル自体は当時政治社会で広く提唱されており、とくに目新しいものではなかったし、また大隈意見書はあくまで一参議の意見書にすぎなかったからである。

⇒そもそも、イギリスには、憲法は存在しない・・憲法的な(=国の基本に係る)法律や慣行はあったが、憲法的な慣行はもちろん変更できたし、憲法的な法律も法律一般と同様に加重的要件なしに改正できた・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Constitution_of_the_United_Kingdom
以上、イギリス型モデル推奨者は、イギリスの憲法的な法律や慣行は何と何であると特定し、それらを条文群へと整理し、更にそれにかくかくしかじかの改正加重要件を付す、ないしはイギリス同様付さない、という主張を行い、その上で、これが憲法のイギリス型モデルの一私案です、と提示しなければならないというのに、この時点では全くそんな話の萌芽すら、伊藤に限らず存在しなかったようであることに加え、そもそも、伊藤は後にプロイセン型憲法を策定するのですから、要は、この時点では、伊藤は憲法については何も考えていなかった、と見るのが自然でしょう。(太田)

 ところが6月30日、伊藤が井上毅と面談し、大隈の背信、すなわち大隈が従来提携していた伊藤らを出し抜いて急進論の意見書を「密奏」した経緯を知ると、伊藤は激怒して辞職を申し出た。
 さらに伊藤は、大隈の意見書提出をきっかけに、岩倉と井上が陰謀めいた仕方で介入し、伊藤にはまったく寝耳に水の、プロイセン型憲政体の採用を迫っていることにも怒りをつのらせた。・・・
 <結局、>1890(明治23)年を期した国会開設の勅諭が公布され、あわせて大隈の辞表聴許と官有物払下げの取消しが決定された。
 国会開設の勅諭は、世上に興奮と熱狂を巻き起こした。
 人びとは朝野を問わず、これを契機として、1890(明治23)年の国会開設を目標に、いっせいに行動を開始した。
 在京ジャーナリズムでは「主権論・・『東京日日新聞』の福地源一郎<(注60)>が唱えた天皇主権説に対し、民権派が主権在民、<或いは(? 太田)>議会主権の立場から批判を加え、民権派間でも批判しあう形で論争が展開した。・・が耳目を集め、民権派は早くも政党を結成して勢力の拡張に乗りだしていった。

 (注60)1841~1906年。「明治時代前期の代表的ジャーナリスト。号は桜痴。長崎の医師・・・の長男。・・・長崎で蘭学を学び,・・・1858・・・年末に江戸に上る。翌年英学を学び,幕府に通弁として出仕する。・・・1861・・・年と・・・1865・・・年に幕府使節の一員として渡欧を体験。
 [1863年・・・、小笠原長行の入京クーデター計画に関与していたが、事件の首謀者である水野忠徳の機転により、処罰を免れている。]
 明治1(1868)年『江湖新聞』を発行し,幕府擁護の論陣を張ったため明治政府に逮捕された。しかし,木戸孝允の働きで無罪放免され,その後才能を認められ,3年より大蔵省に出仕する。官吏時代,岩倉遣外使節団に随行するなどして2度の洋行を経験。 7年『東京日日新聞』に入社し,主筆となった。・・・9年社長になり,翌年の西南戦争に従軍記者として参加し,戦況報道「戦報採録」を送った。福地は,急進主義を排し漸進主義を信条とする現実主義者であった。「太政官記事印行御用」を売り物にしていたが,常に政府を擁護したわけではなく,14年の北海道開拓使官有物払下事件では政府を攻撃している。11年暮れに東京府会議員に当選し,翌年には府会議長に選ばれた。15年には,丸山作楽,水野寅次郎らと主権在君を掲げる立憲帝政党を設立したが,御用政党と評され振るわなかった。そして,政府が16年に『官報』を創設すると,「太政官御用」を売り物にしていた『東京日日新聞』は経営が悪化し,17年に主筆を関直彦に譲り,21年には同紙から引退した。その後は,演劇改良運動に熱中し,歌舞伎座の創設(1889)にも尽力した。9代目市川団十郎の座付作者として,歌舞伎の台本「春日局」なども執筆した。・・・
  1903年団十郎没後は劇界での勢力も衰え,小説に筆を染め,また一時衆議院議員になった。・・・
 歴史書に『幕府衰亡論』(1892)や『幕末政治家』(1900),自伝をかねた『懐往事談』(1894)がある。・・・
 [福澤諭吉と並んで「天下の双福」と称された。]」
https://kotobank.jp/word/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E-124091
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%9C%B0%E6%BA%90%E4%B8%80%E9%83%8E ([]内)

 政府内でも、1882(明治15)年3月、伊藤が国会開設に備えて憲法調査を命じられ、欧州に旅立った。・・・」(90、94)

⇒1882年の時点では、山縣有朋は、その翌年に内務卿になる前でしたが、「1880年・・・には山縣と親しい大山巌が陸軍卿となり、陸軍の全権を山縣が握っていると評される状態となっ<て>」おり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
軍を掌握していた山縣が、私見では日本の最高首脳なのであり、伊藤は、山縣から、井上毅作成のプロイセン型の憲法の骨子に沿った憲法を作るよう指示され、訪欧した、と、見ています。(太田)

(続く)