太田述正コラム#12624(2022.3.12)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その35)>(2022.6.4公開)
「民権派の急速な拡大は、岩倉の危機感をつのらせた。
そしてその対抗策として、1882年8月、岩倉は悪名高い府県会<(注61)>中止意見書を提出したのである。・・・」(95)
(注61)「廃藩置県以後、各府県で府県会・民会・区戸長会などの名目で地域代表による諮問機関が設置されるようになっていたが、[各地で豪農商の民会開設要求が強まったのに対し,上から形式的に対応して反体制機運の鎮静化をはかるための措置<として、>]1878年(明治11年)に<7月22日に太政官布告第18号により>府県会規則が制定されると、翌年より同法に基づいた府県会が各地に設置された。<なお、府県会規則は、北海道と沖縄県には適用されなかった。>
府県会の設置は、大阪会議の際、木戸孝允が要求した政綱の一つであった。したがって府県会は1890年(明治23年)に設立された帝国議会よりも先に設置されたのである。
府県会規則の選挙権は、年間地租5円以上納付の満20歳以上男子、被選挙権は同10円以上納付の25歳以上の男子に限定され、権限も地方税に基づく経費の予算とその徴収方法の審議に限定され、更に地方長官あるいは内務卿が国家の安寧を害し、法律規則を犯すと認めた場合には会議の中止・解散・閉会を命じることが可能であった。だが、自由民権運動の高まりによって各地で県令と府県会の衝突が相次ぎ、1882年(明治15年)には右大臣岩倉具視が府県会中止意見書を提出した。しかし、政府内部でも府県会の事実上の廃止を求める岩倉に同調する動きは少なく、替わりに府県会に対する政府の統制を強化することで対応した。
1890年の府県制導入によって府県会の位置づけも大きく変わった。内務大臣による予算修正権や知事による原案執行権の制約があったものの、府県会の権限は府政・県政全般に及ぶようになったのである。ただし、直接選挙が廃止され、直接国税10円以上納付の25歳以上の男子から市会・市参事会・郡会・郡参事会の構成員が投票して決めるという複選制が採られた。だが、府県会の選挙戦を巡って各地の市会・郡会などに派閥が形成されて紛糾するようになったため、1899年(明治32年)には直接国税3円以上納付者による直接選挙に変更された。1925年(大正14年)には衆議院議員選挙と同じ条件の普通選挙が導入され、これまで認められなかった議員の発案や意見提出が認められ、知事の停会権の廃止や原案執行権の制限が導入された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E4%BC%9A
https://kotobank.jp/word/%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E4%BC%9A-617748 ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E4%BC%9A%E8%A6%8F%E5%89%87 (<>内)
⇒1878年7月22日の府県会規則の制定は、木戸が亡くなり(1877年5月26日)、西郷が「戦死」し(1877年9月24日)、大久保が暗殺され(1878年5月14日)た結果、(私見では)山縣有朋が事実上の政府最高首脳になった直後に制定されたものであり、山縣が自分の責任で行った初の大仕事である、と見ています。
また、岩倉が太政大臣の三条実美に府県会中止意見書を提出した
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781065/491
1882年8月は、(当時は参議で参謀総長だった)山縣有朋
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AD%B0
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
が、(同じく参議だった)伊藤博文を憲法調査のために1882年)3月14日から訪欧(1年2カ月間)に送り出していて、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
https://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005120222_00000
本来は、岩倉は伊藤に話をすべきところそれができず、また、山縣に話をしても埒が明かなかったため、自らの危機意識を記録に残すために、意見書を提出したのでしょう。
当然のことながら、山縣らは、こんな調査書など一顧も与えず、放置したわけです。
既に前年の1881年10月12日には国会開設の詔が発出されており、1890年には国会が開設されるという背景の下、国会の一種の予行演習を兼ねて地方議会を先行的に設置するというのも既定路線であったはずであり、府県会発足を中止させたいのであれば、国会の発足も中止させるべきなのにそこまでは踏み込んでいなかったのですから、放置されたのも当然でしょう。
この地方議会先行という発想がどこから来ているのか、調べがつきませんでしたが、私の取敢えずの仮説は、米国が独立前には英北米植民地群がそれぞれの議会を持っていただけであったことを参考にした、というものです。
この日本での地方議会先行の考え方を中共当局が継受し、中共で、「県と県以下の人民代表の選挙においては、1980年から直接選挙、差額選挙が導入され<た>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%81%B8%E6%8C%99%E5%88%B6%E5%BA%A6
と私が考えている(コラム#省略)ことはご承知のことと思います。
(続く)