太田述正コラム#12626(2022.3.13)
<坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』を読む(その36)>(2022.6.5公開)

 「岩倉は、1882年11月、「事務皇室に関するものは外国に準拠すべからざる者あり」と、内規取調局<(注62)>(ないきとりしらべきょく)の開設を提起し、皇室の儀式や日本古来の伝統を調査する必要を訴えた。

 (注62)「大久保利謙氏は、・・・岩倉の内規取調局接<置>理由を、「岩倉の執念である天皇大権の確立の念願<から>で、国体の欧化を極力予防しようとする国風確保工作にほかならない」と述べている。しかし、・・・岩倉は、単に「保守派」なだけで、古格、古礼の再興や、皇族、華族の地位の保護に固執したわけではないといえよう。なぜなら・・・岩倉は天皇に、・・・自ら・・・を含めた明治政府の中枢をしめている「功臣」<達>・・・をも含めた天皇を直接取り巻く政府内部における天皇を中心とした階層社会を形成すべく、「内規取調局」の設置を建議した<だけ>であるといえ<るからだ>。」(伊藤真実子(学習院大院生)
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwj0xJ3mhLb2AhWVdd4KHbSpDnwQFnoECAIQAQ&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D712%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1JJvtCt75e06l63abx_H54
 大久保利謙(としあき。1900~1995年)。「父は利通の三男・大久保利武。・・・東京帝国大学卒業の際の論文は、近世史をテーマにしたものであった。理由は、当時の歴史学界においては、維新以後の歴史については、歴史家は触れてはいけないという空気が強かったからである<。>・・・
 戦時下では皇国史観に対して批判的立場を採り、東京帝国大学を中心とした官学アカデミズム歴史学や、戦後流行したマルクス主義歴史学とも異なる、実証主義を本領とした独自の近代史研究を構築した<。>・・・研究論考は、政治史・文化史・教育史等と広範に亙るが、特に大学史・史学史などの学芸史にすぐれた業績を残している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E8%AC%99

⇒坂本は、大久保利謙説に従っている可能性がありますが、大久保利通の孫である利謙にして、既に倒幕・維新から彼が壮年期を生きた先の大戦の何たるかが分からなくなっていたようであるのは困ったものです。
 (自分の父の兄で、かつ利通の次男であって、『島津斉彬言行録』を1944年に自身の序文付で出版した牧野伸顕(1861~1949年)の謦咳に十分接するための意欲ないし能力が利謙には不足していたのでしょうね。)
 それが分かっている者で、岩倉が、一貫して、単にその「何たるか」を期していた人々の走り使いに過ぎなかった、との認識を持つに至った我々からすれば、伊藤真実子説の方が正鵠を射ていることは明らかでしょう。
 私なりに伊藤説を補足すれば、近衛家と九条家・・一条家は取敢えず捨象する・・の両家を頂点とする華族が、外交大権と統帥権の直接行使者たる天皇を補佐し、それを非華族の代表者達からなる下院を含む国会が立法と予算に関して輔弼し、天皇が選ぶ大臣達からなる内閣が実行する、という体制を、「秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス」信奉者達が構築しようとし、そのことについても岩倉が代弁という形での使い走りをやった、ということなのです。(太田)

 そして12月、宮内省中に内規取調局を設置し、みずから総裁心得となった。
 つぎに1883(明治16)年3月、今度は、シュタイン<(注63)(前出)>招聘に備えて国史編纂局の設置を建議し、「固より我国の典制を以て、尽く欧州の法度(ほっと)に模擬す可からず」と、日本歴史の精髄を調査して、シュタインに理解できるように応分に翻訳することを求めた。」(97~98)

 (注63)Lorenz von Stein(1815~1890年)。「1882年に憲法事情研究のためにヨーロッパを訪れていた伊藤博文は、ウィーンのシュタインを訪問して2ヶ月間にわたってシュタイン宅で国家学の講義を受けた。その際、日本が採るべき立憲体制について尋ねたところ、プロイセン(ドイツ)式の憲法を薦めた(なお、この際に伊藤は日本政府の法律顧問として招聘したいと懇願しているが、高齢を理由に辞退して代わりになる候補者を推薦している)。ただ、シュタイン自身はドイツの体制には批判的であり、日本の国情・歴史を分析した上で敢えてドイツ憲法を薦めている。また、実際に制定された大日本帝国憲法の内容にはシュタイン学説の影響は少ない。これには伊藤とともに憲法草案を執筆した井上毅がシュタインに批判的であったことが大きな要因であるものの、伊藤にドイツ式を選択させた背景にはシュタインの存在が大きい。
 シュタインは山縣有朋が意見書 「外交政略論」の中で述べた概念である主権線、利益線に影響を与えた。
 また、カール・マルクスは1842年のシュタインの著作『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』から社会主義・共産主義思想を学び、私淑しながらも自らの思索を深めていった。しかしシュタインは、同時代人としての弟子マルクスを数多い著作において一貫して無視しつづけている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
 ちなみに、「シュタイン(Stein)は、ドイツ語・ドイツ語圏で、原則としてユダヤ人に多く見られる姓である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

(続く)