太田述正コラム#12630(2022.3.15)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その1)>(2022.6.7公開)

1 始めに

 今度は表記であり、ほぼ同じ時代のオーバーラップする人(人々)を対象にする歴史本の三連荘とは芸がないことよ、と思われるかもしれませんが、御宥恕を。
 さて、刑部芳則(おさかべよしのり。1977年~)は、中大院博士課程修了、同大博士(文学)、日大商学部准教授、2003年日本風俗史学会研究奨励賞受賞、という人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%91%E9%83%A8%E8%8A%B3%E5%89%87
 あの日大の、かつまた商学部、というので、興味を抱くと共に不思議にも思って調べてみたところ、同学部の総合教育担当の教官群の中に、歴史学担当の教官としてその名前が出てきます。
https://www.bus.nihon-u.ac.jp/about/facultymember/#gsc.tab=0
 どうやら、日本史だけではなく、世界全体の歴史を担当されているらしく、ご自身の研究と教育の両方をこなすご苦労が偲ばれました。

2 刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む

 「・・・門流<(注1)>は、五摂家に属する清華家・大臣家・平堂上<(注2)>を示すものであった。

 (注1)「近世の摂関家とその他堂上家との間の家礼<(けれい)>・・公家社会において公家同士の間で結ばれた一種の主従関係・・関係を門流(もんりゅう)とも称した。<なお、家礼は>、武家における家来(けらい)という語の由来とも言われている。
 室町時代以後、有職故実や学芸に関する師弟関係としての公家間のつながりが次第に主従関係の意味を持った関係に転化するようになり、江戸時代に入ると摂関家を「主」、清華家以下の堂上公家を「従」とする家礼関係が固定化され、これを一族の意味を持つ「門流」という言葉に擬えて門流とも称するようになった。・・・
 門流となった公家は主家である摂関家における公私の行事に参加・随従する義務、主家が行っている有職故実などの礼法遵守の義務、元服・婚姻・養子縁組の際にも主家の許可を要し、原則として主家の意向に反する行動や門流関係の解消は認められていなかった。その代わり、主家は門流の公家の昇進や主家所蔵の記録類の利用許可(先例を重視する公家社会においては重要な意味を持ちえた)などの便宜を図った他、主家より政治的な重要な情報が与えられる場合もあった。また、こうした家礼関係は堂上家(摂関家とは限らない)と地下家の間でも存在していた(ただし、地下家のうち一定の家々は局務・官務・出納の統轄下(官方・外記方・蔵人方)に置かれており、家礼関係を結ぶことが出来たのはそこに属さない地下家のみであった)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E7%A4%BC
 (注2)「摂家・清華・大臣家や羽林家・名家などの家格のものが・・・堂上家・・・に当たるが,前3家を除いて平堂上家(ひらとうしようけ)ということもある。これに対し,昇殿をゆるされないものを地下という。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B9%B3%E5%A0%82%E4%B8%8A%E5%AE%B6-1401631

 近衛家が48家ともっとも多く、一条家が37家、九条家が20家、鷹司家が8家、二条家が4家であり、どこにも属さない非門流が15家存在した。
 門流に属する公家は、毎年元旦に摂家の家に年頭の挨拶をし、また元服・結婚・養子などの際にも必ず摂家から許可を得なければならなかった。
 どうして一族と門流が一致しないのかはわからないが、そのため彼らは複雑な関係性を有している。
 例えば、有名な岩倉具視を例にしてみると、彼は羽林家という平堂上であり、村上源氏の一族であるが、門流は一条家に属している。
 つまり、村上源氏の長者である久我家を中心にして岩倉の結婚や養子などを決めても、最終的には一条家の許可を得なければならなかったのである。

⇒こういった話が、「坂本一登『岩倉具視–幕末維新期の調停者』」の中に全く出てきませんでしたし、幕末維新期の具視と当時の一条家当主であった一条忠香やその子の実良
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E9%A6%99
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%89%AF
とのからみの話も出てきませんでしたが、その理由の解明は、今後の宿題にしておきます。(太田)

 公家たちは家格による身分秩序を基本とし、一族と門流という横のつながりを持っていた。
 それは長い歴史のなかで生み出されたものだが、悪くいえば平堂上たちは摂家に縛られていたといえる。・・・」(5~6)

(続く)