太田述正コラム#12636(2022.3.18)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その4)>(2022.6.10公開)

 「ペリーが江戸湾を退去した直後の・・・1853<年>6月22日に12代将軍徳川家慶が死去した。
 10月23日に家祥(いえさち)が第13代将軍となった。

⇒富国強兵策を殆ど行わずして、しかも、将軍としての資質に欠ける家祥を後継に指名して亡くなった家慶が、幕府の滅亡を決定づけたと言っていいでしょう。(太田)

 将軍の代替わりに際しては、朝廷から勅使が派遣される。
 勅使をつとめる武家伝奏三条実<萬>と坊城俊明(としあきら)は、11月23日に江戸城に登城し、家祥に征夷大将軍の宣下を伝えた。

⇒既に日本が有事に入りつつあったというのに、日本の軍事最高司令官(兼最高権力者)の正式発令まで、平時ペースの5カ月もかけていた、ということは、幕閣のみならず、朝廷側も、平和ボケが甚だしかった、と断ぜざるをえません。(太田)

 家祥は家定と改名する。
 11月27日に帰京挨拶のため登城した三条と坊城は、老中阿部正弘ら5人の閣老と対米交渉について会談した。・・・
 阿部は、「天皇に考えがあるならば、遠慮なく申しつけてほしい」と<述べ>た・・・。
 <これは、>朝廷の意向を無視できないという言質を与えるものであった。・・・

⇒長年月にわたって幕閣の一員に留まり続け、その首座になってからも久しいけれど、富国強兵に係る具体的施策を殆ど行わず、かつ、既に記したように、責任逃ればかりにあけくれ、この期に及んで、責任逃れのダメ押しめいたこんな無責任な言質を与えた阿部は、まことにもって、幕府の観点からはもちろんのこと、日本全体の観点からも、批判されてしかるべきでしょう。(太田)
 
 1854<年>・・・3月3日、幕府は日米和親条約(神川条約)を締結する。
 これにより、下田と箱館(函館)が開港する。
 更に8月23日にはイギリス、・・・12月21日・・・にはロシアとも和親条約を結んだ。
 締結が朝廷に報告されたのは翌<1855>年9月18日のことだった。
 朝廷は締結に反対していない。
 その理由の一つとして考えられるのは、<1854>年4月6日に内裏が炎上したことである。・・・
 朝廷側は内裏再建が目前の重要課題であり、再建費用を幕府から出してもらうためにも、関係が悪化することを好まなかったようだ。
 鷹司が天皇に条約締結を言上した際、天皇は「仕方がないことではあるが、条約締結は不本意」・・・とも述べており、内心では快く思っていなかったに違いない。
 だが、幕府側の説明を受けた鷹司や天皇は、日米和親条約の内容は従来の外交政策を大きく変えるものではないと感じたのである。・・・

⇒長崎の1か所だけしか開港していなかったのが開港が3か所へと増えるというのは、新しく開港する2か所では交易が伴わないとはいえ、長年の対外政策の大きな変更なのですから、1年半も経ってから調印の事後報告が行われたこと自体が上出の阿部の言質の実質的違背であり、しかも、国際法的には、調印しただけだと言えるので、理論的には天皇は承認を拒否することもできたのに、中身に不満があったにもかかわらず、無条件で承認してしまったのですから、幕府側に、孝明天皇御し易しとの印象を与えてしまったことは間違いありません。
 幕府に御所の再建費用を出して欲しかったといったことなど、言い訳にも何もなりません。(太田)

 <さて、>関白鷹司政通が関白在職32年という長期政権であったため、公家の間から彼の辞任を求める声が噴出してくる。
 <1855>年12月14日に武家伝奏三条実<萬>と東坊城聡長(議奏から転任)は、天皇に鷹司の関白辞任を認めるよう求めた。
 それに対し、天皇は来年の春に辞表を受けると答え<た。>・・・
 <1856>年4月1日、・・・左大臣<の>・・・九条尚忠(ひさただ)・・・が後任の関白に就任する。・・・
 <但し、>鷹司の内覧はそのままとした。」(21~23)

⇒鷹司政通の長期関白在任は、近衛家が、目立つことなく裏でマヌーバーするためだという私見を既に記した(コラム#省略)ところです。
 近衛家が政通の次の関白を九条家に譲ったのも、同じことだ、との私見を次の東京オフ会「講演」原稿で明らかにする予定です。(太田)

(続く)