太田述正コラム#1570(2006.12.16)
<産業革命をめぐって(その4)>(有料)
(本扁は、コラム#1515の続きです。なお、#1515までは、有料コラム扱いをしたものを解除しています。また、#1515の最後の部分にかなり手を入れてブログとHPに再掲載してあります。)
(本扁を全部読めるのは有料読者だけです。)
(3)裏付け
ア イギリス史は不断の産業「革命」史
誰が後に誤って産業「革命」と名付けられたところの技術革新を主導したのでしょうか。
「<新しい技術>の経済への適用・・は、頭が抜群によい個々の発明家の手になるものではない。教科書に載っている名前は、主要な発明それぞれに関わった無数の人々のうちのほんの一部に過ぎない。・・・ほとんどの革新は、霊感を得たアマチュア、または、時計工、粉挽き工、鍛冶屋たる腕の良い職人、もしくはバーミンガムの諸職種・・・の産物だった。・・19世紀中頃までは、英国の製造産業において、かかる伝統が支配的だった。」・・
どうやら、このことは、18世紀から19世紀中頃までの英国の製造産業だけではなく、同じ頃のすべての産業、更に言えば、19世紀中頃までの英国のすべての歴史を通じてそのすべての産業についてあてはまる、と考えた方がよさそうです。
少しでも楽をして付加価値を生み出すべくひたすら手を動かしながら頭をめぐらす、ということが、英国人の英国人たる、より正確にはイギリス人のイギリス人たるゆえんなのだ、ということなのではないでしょうか。
つまり、イギリス史は、不断の産業「革命」史だと言えるのではないか、と私は考えているのです。
イ 英産業「革命」の実態
更に、英産業「革命」の実態に迫ってみましょう。
「米国のロストウ(Rostow)は1960年に、英国経済は1783年から1802年の間に「離陸して持続的成長を始めた」と主張するとともに、この英国の経験は他のすべての産業国家の原型となったと主張したが、1760??1780年と1780??1801年を比べると、工業生産は年1.5%の伸びが2.1%の伸びへ、GDPは年0.7%の伸びが1.3%の伸びに加速した程度の話であり、こんなものは到底「離陸」などとは言えない・・・。
1830年までの間、英国の実質賃金は年0.5%しかのびていない。しかも、この間、農業生産性の伸びの方が工業生産性の伸びを上回っていた。・・・
ただし、この間、農業労働者が相対的に大幅に減り工業労働者が相対的に大幅に増えた。これは、農村人口が相対的に大幅に減り都市人口が相対的に大幅に増えたことも意味する。・・・この点だけとらえても、英国の産業化は独特であり、他の諸国の産業化の原型とは到底言えないことが分かる。・・・
以上をまとめれば、19世紀半ばの英国は世界の工場と呼ばれたところ、それは生産性の上昇をほとんど伴わない形での農業から工業への労働者のシフトによって達成された、ということだ。・・・」
いかがですか。
皆さんの「常識」とは全く違うでしょう。
(続く)