太田述正コラム#12642(2022.3.21)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その7)>(2022.6.13公開)

 「天皇の命令を幕府に下し、慶喜を将軍継嗣として決定するという島津斉彬の提案は、近衛、三条、青蓮院宮から理解を得た。
 ところが、4月23日に老中の上に置かれた大老職に井伊直弼が就任すると状況は一変する。
 
⇒井伊直弼が大老に就任する直前の状況については、「開国政策をとった老中堀田正睦(佐倉藩主)は溜間詰(たまりのまづめ)大名に支持されたが、これらの譜代大名を牛耳っていたのが直弼であり、攘夷主義をとった徳川斉昭以下、松平慶永(春嶽。越前藩主)、島津斉彬(薩摩藩主)らによって代表される大廊下詰(おおろうかづめ)家門(かもん)大名、大広間詰外様大名としだいに対立するに至った。・・・
 直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。53年・・・にペリーが来航した直後に,幕府の諮問にこたえて,積極的に商船を海外に派遣し国威を示すことが皇国の安泰の道であるという意見書を出し,58年・・・1月,老中堀田正睦(まさよし)に日米修好通商条約の調印はやむをえないという意向を伝え<ている>」
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC-15189
と、どうして「譜代大名を牛耳っていた」のかの説明がありませんが、「1858年・・・4月21日、孝明天皇からの条約勅許獲得に失敗した堀田正睦が江戸に戻り、将軍・家定に復命した際、堀田は福井藩主・松平慶永を大老に就けてこの先対処したいと家定に述べたところ、家定が「家柄からも人物からも大老は掃部頭(直弼)しかいない」と言ったため、急遽、直弼を大老とするよう将軍周辺が動いた。4月22日には御徒頭・薬師寺元真<(注12)>が彦根藩邸を訪れ、「水府老公(徳川斉昭)が家定を押込にして一橋慶喜を後継に立て、実権を握ろうとしている」と一橋派によるクーデター計画の情報をもたらした。直後に老中から御用召の奉書が直弼のもとに届けられた。4月23日、登城した直弼は老中から大老職拝命を伝えられ、大老に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E5%BC%BC
というわけですが、幕末の攘夷派なるものも、欧米に軍事力で太刀打ちできない以上、欧米諸国の要求通り開国するしかないことは承知しつつも、幕府が富国強兵の意思も従って方法論も碌に持ち合わせていない以上、倒幕せざるをえない、という認識を抱いていた人々であったのに対し、開国派なるものは、理屈抜きで、とにかく幕府を維持すべきだ、という認識を抱いていた人々であった、というのが私の見解です。

 (注12)?~?年。「1830年・・・徳川家慶(当時は将軍世子)の小姓となり、のちに徳川家定の小姓となる。・・・1853年・・・徒頭になる。井伊直弼の大老就任前日に井伊家の上屋敷を訪ね将軍一大事とし、直々に人払いの上数刻に及び密談をし大老就任を依頼した。・・・1859年・・・に御側御用取次に迄出世する。南紀派として、紀州藩附家老水野忠央の妹を養女とし御側御用取次平岡道弘に嫁がせる。御側御役取次平岡道弘、小姓頭取高井豊前守ならびに諏訪安房守と連携し、彼らを「同志忠義之衆」と呼び、井伊大老と将軍とを結ぶ側近として活躍した。・・・1862年・・・11月23日、井伊直弼暗殺後の追罰の一環で隠居の上、知行の一部700石を召し上げられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E5%85%83%E7%9C%9F
 「徒士(かち)は、江戸幕府や諸藩に所属する徒歩で戦う下級武士のことである。近代軍制でいうと、馬上の資格がある侍(馬廻組以上)が士官に相当し、徒士は下士官に相当する。徒士は士分に含まれ、士分格を持たない足軽とは峻別される。戦場では主君の前駆をなし、平時は城内の護衛(徒士組)や中間管理職的な行政職(徒目付、勘定奉行の配下など)に従事した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%92%E5%A3%AB
 「御徒頭<は、>・・・若年寄(わかどしより)の支配に属し、御徒組(おかちぐみ)を率い、江戸城および将軍の警固に任じた。天保年間(一八三〇‐四四)には一五名おり、それぞれの下に御徒組頭二名、御徒一八名が配された。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E5%BE%92%E9%A0%AD-2015315

 なお、だからこそ、開国派には、今まで幕府の役職を独占して甘い汁を吸ってきたところの、譜代大名達が多かった、という身も蓋もない話なのである、と。(太田)

 井伊は将軍家定の意向を盾にし、6月25日に将軍継嗣は徳川家茂(慶福)と正式に内定する。
 大老井伊は、条約勅許を得られなかった老中堀田を6月23日に罷免し、幕府の方針を違勅調印だと批判した人物を処分する。
 7月5日、徳川斉昭に慎、徳川慶勝(尾張名古屋藩主)と松平慶永が隠居、一橋慶喜に登城停止の処分が下った。
 翌6日、徳川慶篤(常陸水戸藩主)も登城停止となった。・・・」(45)

⇒従って、一橋派によるクーデター計画なるものの真偽はともかくとして、7月5、6日の処分対象者達、そして、それに引き続く安政の大獄で弾圧された人々は、倒幕陰謀加担者達であることには間違いなかったのであり、将軍家や譜代大名達、そして幕臣達が彼らを弾圧したのは、この時点で大政奉還するようなことは、将軍家定や大老井伊らにとって論外であったとすれば、他に手段がない当然の措置だったと言うべきでしょう。(太田)

(続く)