太田述正コラム#12650(2022.3.25)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その11)>(2022.6.17公開)
「<1862年>5月1日に天皇は、九条の・・・辞職願を受理し・・・後任の関白には近衛忠煕に内命が下った。・・・
4月13日に長州藩世子の毛利元徳(もとのり)(定広)が江戸を出発し、28日に京都に到着した。・・・
5月5日に・・・<元徳に>天皇の文書<が>与え<られ>た。
そこでは長井の公武合体運動を高く評価し、それを理解しようとしない幕府を批判する。
<但し、>その一方で長井が提出した建白書には朝廷を「謗詞」する表現が含まれており、・・・という・・・文<が>加え<られ>ていた。
中山<忠能>によれば「謗詞」の内容とは、「天朝御隆盛の時は、京都へ鴻臚館<(注16)>を建て置(おか)れ候ことも之れ有る由」・・・という部分であった。
(注16)筑紫の鴻臚館は、筑紫館と太宰鴻臚館の二つの記録が残されており、このほか、難波の鴻臚館、平安京の鴻臚館があった。
「平安京の鴻臚館は3つのうちで最も遅くに設立された客館となる。当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 – 824年)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。・・・平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町か)や松原客館(福井県敦賀市)に滞在して都からの使者を迎え、使者に伴われて都に上り、鴻臚館に入った。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。日本側では824年に右大臣藤原緒嗣により「渤海使は国賓ではなく貿易商人である」と判断されて、以降12年に一度とされる(のちに6年に一度に緩和)。東鴻臚館は・・・839年・・・に典薬寮所管の御薬園へと改められた。さらに渤海国が契丹(東丹国、遼)によって滅亡(926年)させられたのちは当然だが渤海使の来朝は無くなり。施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には・・・920年・・・の頃に廃止されたともされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E8%87%9A%E9%A4%A8
これは朝廷が隆盛のときは京都に外国人を接待する「鴻臚館」を建設したという意味であるから、現在は朝廷に力がないから外国に開港を余儀なくされたと受け取れるという。・・・
⇒これは、近い将来、ホンモノの(長井らの)公武合体派を切り捨てる布石として、イチャモンを、近衛忠煕(と薩摩藩内の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達)が策謀の上、文書の中でつけ加えておいた、ということだろう。(太田)
<1862年>5月22日に京都を出発した勅使大原重徳および警護役の島津久光は、6月7日に江戸に到着した。
大原は江戸龍の口<(注17)>の伝奏屋敷に入った。
(注17)「東京都千代田区丸の内1-4日本工業倶楽部ビルが建つ地の旧名。江戸城大手門外に位置し、伝奏屋敷があった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E3%83%8E%E5%8F%A3
10日に江戸城に登城するが、その際に勅使は佩刀を脱する慣例であったため、幕府側から太刀を脱するよう求められた。
しかし、大原は左衛門督(さえもんのかみ)であることを理由に拒んだ。
⇒非武家の武官、と、武家、それぞれの、御所、江戸城、それぞれでの、服制が、江戸時代にどうだったのか、調べがつきませんでした。
いずれにせよ、大原重徳は、下掲中の束帯のスタイルで登城したのでしょう。
https://wako226.exblog.jp/241053040/ (太田)
そして白書院の上段にあがり、将軍家茂に天皇の考えを伝えた。
老中たちは外部からの要求によって重職を決めることと、一橋慶喜の登用に難色を示した。
そこで13日に大原は再び登城し、黒書院で面会した松平慶永・松平容保(陸奥会津若松藩主)・老中などに回答を求めた。」(86~87、95)
⇒そういう姿勢で当初臨んだ幕府側が、既に、朝廷側の要求に応え、松平慶永を赦免し、かつ、いかなる肩書なのかは定かではないものの、幕府側の一員として登場させていることには笑ってしまいます。(太田)
(続く)