太田述正コラム#12654(2022.3.27)
<2022.2.26東京オフ会次第(続)>(2022.6.19公開)
D:太田さんは、家康を全然買っていないが、家康は、三浦按針を評価し、直に対話してイギリス等についての知識を彼から得ているが、そういったところはなかなかのものだと思う。
ちなみに、新井白石がシドッチを尋問してキリスト教等についての知識を彼から得ている。
O:数多くの武将の中から最高権力者に上り詰めたのだから、家康が卓越した人物であったことは間違いない。
しかし、本当のところは、家光あたりで終わるくらいの布石しか家康は江戸幕府に関して打てていなかったのであり、その程度の人物だった、と私は思っている。
(実際の「講演」でも話したように、イギリスがオランダとの争いに敗れて東アジアから撤収し、インド亜大陸にかかずらうことに専念せざるをえなくなったのと、ロシアが清との争いに追われるようになって、日本周辺への進出どころではなくなったことから、日本は西欧勢力の脅威を余り感じなくて済む時代が続いたこともあり、江戸幕府はいたずらに馬齢を重ねて幕末に至るわけだ。)
E:太田さんは、西郷や大久保も全然買っていないな。
O:島津斉彬自身、薩摩の家臣に人がいないことを否定していない(コラム#省略)。
斉彬は、人を引き付ける力があってかつ自分の指示に絶対的に忠実だったので西郷を重用した、というだけのことだろう。
(倒幕までのプログラムしか斉彬から与えられていなかったと私が見ている)西郷の、維新以後のサマにならないザマを見れば、西郷の地の力量が推し量れるというものだ。
幕末までと維新からとで、もう一人、人が変わってしまったように見えるのが近衛忠煕だ。
京都に燻っていて、維新政府が所在する東京に行きたがらなかった。
私は、彼に関しては、倒幕を最小限の流血でかつ短期間で成し遂げる大事業の中枢として死力を尽くしてきたため、疲労困憊してしまったのだと考えている。
少ない流血とはいえ、数多くの人々を死なしてしまったし・・。
E:維新後は、彼は、「孫の篤麿を引き取り養育に専念した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
のではないのか。
O:歴史研究者達が、説明するに事欠いて、勝手にそういうことにしているだけだろう。
ところで、そんな近衛忠煕のウィキペディア(上掲)が、杉山元のそれと同じ位短いのだが、本当に呆れるし、困ったことだ。
A:今回の「講演」原稿、家系図に基づく分析と幕末期の慶喜の事績の分析の組み合わせに感心した。
また、輪王寺宮ファクターに注目した部分は太田さんが初めてだと思うが、そこも感心した。
O:輪王寺宮を江戸に置くことにした目的が、そもそも、幕府が、万一の場合に、天皇に担ぎ上げるためだった、的なことはみんな言っているのに、そのことを幕末史の中では(戊辰戦争の東北フェーズの時に、ちょっと言及するくらいで)殆ど無視してきた方がおかしいのだ。
C:慶喜と言えば、昔、本を読んでいる時に、戊辰戦争勃発後、船で慶喜が大坂から江戸に向かう途中、上機嫌だったという話が出てきて、怪訝に思ったものだが、今回の太田さんの分析で初めて腑に落ちた。
O:系図的アプローチについてだが、自分の身に置き換えて、(兄弟姉妹や)従兄弟や叔父叔母や甥姪、らとの関係がいかなるものであるかを考え、それをもっと緊密なものにして、例えば江戸時代の親族がいかなるものであったかを想像してみて欲しい。
しかも、当時は、日本の上澄みに関しては親族の数が現在よりもはるかに多かった。
たくさん子供を作り、小さいうちにたくさん死んだけれど、成人まで生きた人数だけでも現在よりははるかに多かったわけだ。
緊密だったのは、現在よりももっと人間関係が濃密だった・・「個人主義」じゃあなかったし、平均寿命が短くいつ死ぬか分からないという感覚だったはずだ・・し、武家について言えば、正室の子供達は成人するまで江戸住まいで、その子供達が親族の正室の子供達と交流があったし・・。
それに成人してからも、藩主になれば、藩主時代の半分は江戸住まいなのだから、相手も藩主になっておれば、子供の時の交流が成人になってからも狭い空間で続くことになったし・・。
B:明治以降も、先の戦争が終わるまでは、親族関係が重視され、「拡大五摂関家連合」もまた維持された、と考えてよいのか。
O:恐らくそうだったのだろうと見ている。
例えば西園寺公望だって、鷹司家の人間だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B4%94
B:彼は余り人気がないが。
O:まだあてずっぽうの段階だが、彼は、欧米に対し、日本は欧米のような国になりたいと思っている親欧米の国なんです、当然、欧米の皆さんが作った国際法は厳守しますし、皆さんと戦争など絶対にしたくないのです、という(ウソの)イメージを振りまく役割を担ったのではないか。
B:一方、秀吉流日蓮主義を完遂する中枢を担ったのが、近衛忠煕からバトンタッチを受けた山縣有朋だ、というわけだな。
O:ま、そういったところだ。
C:山縣と杉山の間は誰だったのか?
O:いや、間は空いていないはずだ。