太田述正コラム#12656(2022.3.28)
<2022.2.26東京オフ会次第(続々)>(2022.6.20公開)

C:その山縣も不人気だ。
O:椿山荘(注1)なんてものを作るからだ。

 (注1)https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/
 「西南戦争・・・後・・・<山縣有朋に>恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった。」 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B

D:太田さん、生きているうちに、ぜひ、戦後史までカバーして太田日本史を完結させて欲しい。
O:それ、そう先じゃないんじゃないかな。そんなに早く、私は死にたくない。
F:ぜひ、死なずに、私が愛読した、太田さんの経済体制論、の改訂版を手掛けて欲しい。
O:残念ながら、(私が、このウン十年、疎かにしてきた、経済分野等のセルフ補習も必要であり、)私の能力を超える。
 そもそも、経済体制論を書いた当時に自分の能力が不足していることに切歯扼腕したものだ。
 自分の言いたいことを数学的に表現したいと思ってもそれができないことに・・。
 数学的に表現できれば、より多くの人々に伝わるだろうし、伝わった先で更に改善が加えられていく可能性も増える。
A:太田さんにとってオフ会とは?
O:締め切りだ。
 作家が締め切りに追われ、出版社の担当者に、「拉致」されてどっかに缶詰にされ、叱咤激励されて、なんとか作品を締め切りに間に合わせる、というのはよく聞く話だと思うが、締め切りの最大の意義は別のところにある、ということを私は実感している。
 締め切りに追い詰められるからこそ、頭がフル回転していい作品ができる、ということだ。
E:今回の「講演」原稿でも丸山眞男批判が出てくるが、彼は、さすがに過去の人では?
O:いや、東大法学部政治学科出身の学者達はその後も丸山眞男のエピゴーネンばかりだと言ってよい。(注2)

 (注2)「丸山のゼミナールからは多くの政治学者・社会思想史家を輩出した。彼らは総じて「丸山学派」と言われ、日本の政治学を飛躍させた。日本政治思想史専攻以外にも、篠原一 <※>、福田歓一、坂本義和<※>、京極純一<※>、三谷太一郎といった東大系の政治学者は、多かれ少なかれ影響を受けており、かつそれをさまざまな形で公言している。
 狭義の政治学界の外でも、社会科学者の小室直樹などは丸山眞男から政治学を学び、作家庄司薫、異色官僚の天谷直弘、社会民主連合創設者で、参議院議長となった江田五月、教育学者の堀尾輝久<※>なども丸山ゼミ出身。亡き後の政治学界や言論界にはなお崇拝者[要出典]、信奉者[要出典]が多<い。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E7%9C%9E%E7%94%B7 
 ※ 私が授業に出て単位とっている学者。
 (京極純一さんの場合は、駒場での教養学部の授業に出席した。堀尾輝久さんの場合、法学部の授業として出席したのか教育学部に「押しかけた」のか、忘れた。)
 福田歓一さんと三谷太一郎さんについては、その時点の最新の講義録を本郷の東大の売店で買って読んだ。
 小室直樹は、かつて、彼の著書を数冊読んだことがある。
 庄司薫さんは高校の先輩で、彼の赤ずきんちゃん三部作を愛読した。
 江田五月さんは人事院制度による長期留学の先輩で、留学生同窓会のパーティですれ違ったことがある。

F:井伊直弼も「講演」原稿ではクサされているが、一般には、直弼は結構人気があり、彼を襲った水戸藩の連中は、跳ね上がりのキ印、という受け止め方だ。
 また、勝海舟も太田さんの評価が低いが、これも、一般には、逆で、人気がある。
O:まあ、ともかく、日本史は面白い。
 ところで、靖国神社については、天皇の参拝問題の観点からばかり取り上げられるけれど、祀られる対象、祭神、とりわけ、その起点、が議論になることがない。
 その結果、水戸藩関係者達がごっそり抜け落ちてしまっている。
 桜田門外の変での死者達を起点とすべきではないか、という気がしてきている。
A:でも、それじゃあ、寺田屋事件で殺された志士達はどうなるのか?
O:桜田門外の変の場合、志士達を突き動かしたのは戊午の密勅であり、いわば、天皇の命令で蹶起したようなものだが、確かに、禁門の変の時も、天皇の命令があって、長州藩兵達が殺されたわけだし・・。
 (同じような議論が行われた結果、戊辰戦争から、ということになったっぽいな。)
B:私は、いまだに、杉山構想の中に対ソ(米国を使っての)抑止の実現があった、という太田さんの主張に得心がいっていない。
O:杉山らは、(超がつく合理的な人々であり、)アジア解放のために先の大戦の初期に使う兵力の所要を充たすことを優先し、対米装備の開発・生産を重視しなかったわけだが、先の大戦開戦前の、ほぼシロウト集団による総力戦研究所での研究ですら、中途からのソ連参戦、そして敗戦、を予想したのだから、杉山らは、ソ連参戦はもちろん予想していたはずであり、しかも、1945年に入った頃には、ソ連の参戦時期を見極めるに至っていた。(コラム#省略)
 にもかかわらず、(主力兵力を南方に転用されてしまっていたところの、)関東軍に対して碌に警報を発していない(典拠省略)。
 ということは、彼らが、ソ連軍を可及的速やかに日本本土に志向させたいと思っていたということだろう。
 一体、それは、何のためだったのか、ということだ。