太田述正コラム#12658(2022.3.29)
<2022.2.26東京オフ会次第(続✕3)/刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その12)>(2022.6.21公開)

O:今回の「講演」原稿を書いていて驚いたのは、ここ掘れワンワンじゃないが、ウィキペディア等を、この辺りが匂うな、と思って読むと、毎回ほぼ、必ずと言っていいほど、日蓮宗信徒にぶちあたったことだ。
A:太田さんは、折伏力のある生きている宗教について、何か経験があったのか。
O:宗教には生きているものも死んでいるものもあるところ、新興宗教に関しては、全て生きているわけで、(これも、前に書いたことがあるけれど、)私の場合は、原理研究会
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
(統一神霊教会・・当時の呼称であり、現在は世界平和統一家庭連合・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Unification_Church
https://en.wikipedia.org/wiki/Family_Peace_Association
の学生フロント)
だな。
 大学に入ってすぐ、原理研究会の学生にサークルに誘われるような感じで呼びかけられ、統一神霊協会の教義・・原理・・を何回かにわたって聞かされた。
 そういった宗教的なものに関心を持ったということは、入学直後で、入試で、心身ともよほど消耗していたのだと思う。
 (結局、教義を一通り聞き終わった段階で、入信はしなかったわけだが、)その教義たるや、いくつかの公理群から出発して論理的に厳密に組み立てられており、公理群の全部または一部を否定しない限り、絶対に論駁できないと思った。
 私が余り良くは知らないところの、スコラ哲学、もそんな感じのものであって、ひょっとしてそれよりも統一神霊教会の教義の方がはるかに出来がいいのではないか。
 (「世界平和統一家庭連合<は、>・・・宗教学ではキリスト教系の新宗教とされ、文化庁が発行している宗教年鑑では、キリスト教系の単立に分類されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%B5%B1%E4%B8%80%E5%AE%B6%E5%BA%AD%E9%80%A3%E5%90%88 )
B:太田さんが数学ができない、ということが分かったような気がする。
O:どうしてそういう受け止め方になるのだろうか。
 私は数学はできないが、数学とはどういうものかが分かっているからこそ、原理研究会について、今のような紹介の仕方をした次第だ。

 (原理研究会の信徒たる学生達には理系が多かったが、彼らは教義の体系的論理性に感嘆し、それだけで入信したと思われるところ、私は、その公理群のうちのいくつかに疑問を抱いたこともあり、入信しなかった次第。)

--刑部芳則『公家たちの幕末維新--ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その12)--

 「だが、なおも決まらないため、16日の三度目の登城でも天皇の考えに従うよう迫った。
 この粘り強さが功を奏し、18日に松平慶永の政事総裁職の就任が承諾(7月9日に任命)されるが、慶喜については決まらなかった。
 その後、22日・25日・26日、三度にわたって老中脇坂安宅<(注18)>と板倉勝静<(コラム#9847)>(かつきよ)・・・を伝奏屋敷に呼び、天皇の考えに従うことを要求した。」(95~96)

 (注18)やすおり(1809~1874年)。「播磨国龍野藩9代藩主。・・・
 京都所司代時代には京都御所炎上の大火があり、その復旧に功績があって、孝明天皇より茶室を拝領する。また、所司代のかたわら、龍野の名産のうすくち醤油の販路拡大を近畿圏で手広く行った。
 ・・・1857年・・・には・・・老中に上げられ、外国掛を担当する。<米>国との日米修好通商条約締結について朝廷の了解を得るために上洛するが、朝廷は脇坂の説明に納得せず承諾しなかった。この際、武家伝奏の東坊城聡長に対し、<米>全権使節のタウンゼント・ハリス領事は「いやらしき者」「下品」であると伝えており、これが朝廷の外国観に影響した可能性が指摘されている。翌・・・1858年・・・の条約調印では、脇坂は「大日本帝國外国事務老中」の肩書きで署名している。桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺されると、井伊時代に閣内にいた老中達は順次幕閣を去り、安宅も・・・1861年・・・に辞任し、翌・・・1862年・・・に隠居した。・・・
 しかし、この年に安宅再勤の内命が出され、隠居ながら再び老中になる。安宅は薩摩藩とは姻戚であり、それによる起用とも言われる。勅旨大原重徳が島津久光と共に江戸に下向した際、同職の板倉勝静と共に薩摩藩邸に出向いて応接し、一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にする旨を重徳に確約している。9月辞任、12月には老中在職時代の不手際により蟄居を命じられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%9D%82%E5%AE%89%E5%AE%85
 「対外的な国号に「大」を冠したり「帝國」を使用するようになったのはいずれも幕末のことであり、1854年・・・に<米>国と批准し、開国の皮切りとなった日米和親条約では、前文において「帝國日本」(英文では”Empire of Japan”)の国号が初めて使われた(各条文では「日本國 Japan」表記)。また、同年にイギリスと批准した日英和親条約では、条約の正式名称では「日本國(日本国大不列顛国約定)」としたが、本文の「日本大君」を英文では”His Imperial Highness the Emperor of Japan”と表記し、日本側の約文(概要)では江戸幕府を「大日本帝國政府」と表記した。・・・
 <しかし、明治維新までの間、>国号表記は条約によってまちまちであり「日ノ本」「日本」「日本國」「帝國日本」「帝國大日本」「日本帝國」「大日本皇國」「大日本皇御國」「大日本皇御帝國」などの表記も使用され、一定しなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD

⇒脇坂安宅が「薩摩藩とは姻戚であ<った>」ことの裏付けがとれませんでしたが、彼が、自分の肩書として「大日本帝國」を用いた最初の人物だったという話は面白いですね。
 なお、将軍のことを ‘His Imperial Highness the Emperor of Japan(日本國皇帝殿下)’と訳したことに幕府側がどれだけ関わったのか知りませんが、さすがに、’His Imperial Majesty the Emperor of Japan(日本國皇帝陛下)’とは、将軍が天皇を僭称することになってしまうので、せず、その代わりそんないわく言い難い訳語をでっちあげたのは、一体、誰だったのでしょうね。(太田)

(続く)