太田述正コラム#1577(2006.12.19)
<米国慈善事情(特別篇)>
1 2名の読者の問題提起
私のホームページの掲示板をご覧いただきたいのですが、ある読者は、「現代の日本人は寄付をしない人が多いと考える次第。どう考えますか。やはり文化、精神構造の違いでありましょう。」と疑問を提起され、また、別の読者は、「社員を減らし、労働者の給与を減らせるだけ減らして、独り占めした報酬で、寄付してあるくっていうのは、どうなんですか。失業者になって慈善事業のお恵みで生きていくのと、会社に所属して優秀ではないかもしれないけれどまじめに働いて家族を養うのと、どちらが幸せだと感じるでしょうか。」と投稿し、米国人の慈善に対する考え方を批判されています。
2 とりあえずの私の考え
私自身、余り慈善について考えたことがない上に、日本について具体的なデータを持ち合わせていないので、偉そうなことは言えないのですが、とりあえずは次のように考えています。
イギリスでは、1563年から1601年にかけて救貧法(Poor Law)が制定されました(コラム#1212。コラム#54、601も参照)が、それとほぼ同じくして、1597年から1601年にかけて慈善法(Charitable Uses Act)も制定されます。
すなわち、イギリスでは、政府による慈善と私人による慈善とが手を携えて慈善に取り組んできた、という伝統があるのです。
(もう一つ特徴的なことは、当時は反カトリシズム的気運がイギリスにみなぎっていたこともあり、これら慈善関係法にキリスト教色が全く見られないことです。)
ところが、18世紀から19世紀にかけての産業「革命」の時代には、慈善は私人によるものが基本であるべきであるとの考え方が強くなり、1834年には新救貧法が制定され、政府による慈善は骨抜きになってしまいます(コラム#601)。
この頃の英国に住んでいたマルクスが、資本主義を搾取の体制であると誤解したのは無理からぬものがあったわけです。
児童虐待防止全国協会(National Society for the Prevention of Cruelty to Children=NSPCC)、王立動物虐待防止協会(Royal Society for the Prevention of Cruelty to Animals=RSPCA)、及び救世軍(Salvation Army)等、現在でも活躍している英国の大きな慈善団体の多くはこの頃、設立されたものです。
その後、中産階級を中心に、私人による慈善だけではやはり不十分なので昔の姿に戻すべきだという声が強くなり、1870年の教育法(Education Act)制定を嚆矢として、国家による慈善法であるところの社会保障関係法の整備が進み、第二次世界大戦後の労働党内閣成立時に英国の社会保障制度は完成するのです。
(以上、
http://pnnonline.org/article.php?sid=2398
(12月19日アクセス)による。)
さて、米国では、中央政府たる母国英国に反旗を翻して独立した、という経緯から、米国の人々には独立後の自国の政府に対してすら不信感があることから、政府による慈善という考え方に対して違和感がある上に、独立した当時の英国における私人による慈善重視の考え方も受け継いでいます。
このような経緯もあって、米国には社会民主主義が存在しないのであり、この点でもやはり、米国はできそこないのアングロサクソンなのです。
いずれにせよ、米国人の私人による慈善活動への思い入れが(英国人以上に)強い理由がお分かりいただけたでしょうか。
では、この英米両国と日本の慈善に対する考え方はどう違うのでしょうか。
アングロサクソンたる英米両国は裸のエゴとエゴがぶつかりあう個人主義社会であり、私人が通常の仕事をする場においては、恒常的に遠心力が働いています。ですから、社会を瓦解させないためには求心力を別途与えるものが必要になります。求心力を与えるものの一つが慈善活動であり、慈善は社会存続のための必要不可欠なメカニズムの一つなのです。
それに対し、日本は人間(じんかん=人間関係ネットワーク)社会であり、通常の仕事も慈善も、この人間関係のネットワークの中に最初から組み込まれています。政府もまた、人間関係のネットワークの(重要な)一環であり、慈善活動も当然のように行っています。
ですから日本では、私人が慈善活動を、通常の仕事と別個にことさら行う、という発想そのものが出てこないのです。