太田述正コラム#12833(2022.6.25)
<皆さんとディスカッション(続x5211)/世界史探偵「おーたん・ホームズ」日本史最後の謎を解明>

<太田>

 ウクライナ問題。↓

 <ウクライナも大変ですなあ。↓>
 「・・・ロシア側の進展が顕著に表れたのはこの数日、ウクライナによるリシチャンスクの防衛がますます危うくなって以降だ。同市はルハンスク州でウクライナ側が維持する最後の都市。ロシア軍はこの2、3日で、ウクライナ軍の砲撃による被害を受けながらも、同市南郊の複数の村に進軍した。・・・
 ロシア軍は西側の同盟国がどのくらいの弾薬をウクライナ軍向けに備蓄しているかを計算している。ウクライナ軍の保有する大砲はほとんどがロシア製だ。ウクライナの部隊への補給がやがて尽きるのを待つ計画だという。 米議会下院情報委員会のメンバーでイリノイ州選出のマイク・キグリー議員(民主党)はCNNの取材に答え、ロシアのプーチン大統領について、現状で侵攻を阻まれてはおらず、今後も阻まれることはないと思うと述べた。 「この戦争は数年続く可能性がある」(同議員) 一方、米国とNATOの提携国は、特定の高性能兵器に関して供給力が限界に来ているとの見方を示しつつある。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/94de002fc0cd5a33bae230faae0c40e9f9cad7b6
 Last Ukrainian forces in Sievierodonetsk ordered to withdraw–Neighbouring city of Lysychansk could fall within days as Russia continues slow advance in Donbas・・・
https://www.theguardian.com/world/2022/jun/24/ukraine-forces-will-have-to-leave-sievierodonetsk-says-governor
 <他方、ロシアもタイヘン。↓>
 「・・・フランス国際関係研究所(IFRI)のディミトリ・ミニク研究員は・・・「4カ月間で、ロシア軍はおそらく1万人以上を失ったでしょう」と語る。特に歩兵が不足しているという。英国国防省によると、平時には600〜800人いたロシア人大隊が、30人程度に減っている所もあるとのこと。・・・
 米シンクタンク「アメリカン・エンタープライズ研究所」のコリ・シェイク防衛政策部長は「ロシア軍の8割はすでにウクライナにいます」、「他に動員できる戦力があまりなく、動員できる戦力は、プロではなく、訓練を受けておらず、装備も整えられていません」と説明する。・・・
 前述のミニク研究員は「戦車は約800両、つまりロシア軍全体の約7%が失われました。本当に戦場に送り出せる状態にあった戦車だけを考えれば、10%から15%に近いでしょう」と言っている。・・・
 米国防総省によると、モスクワはすでに巡航ミサイルの6割を使用しているという。
ウクライナ軍情報部のヴァディム・スキビツキー副部長は、6月10日の英『ガーディアン』紙で、「ロシアはミサイル攻撃がはるかに少なくなっていて、1970年代の古いソ連のロケットであるH-22を使っていることに気付いた」と指摘している。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/byline/saorii/20220625-00302454
 <実は日本がアフリカの解放だって実現したんだぜ。↓>
 「ロシアを積極的に批判しないアフリカの怨念 ロシアと中国はアフリカの真の独立を支援してきた・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%82%92%E7%A9%8D%E6%A5%B5%E7%9A%84%E3%81%AB%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E6%80%A8%E5%BF%B5-%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%A8%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E3%82%A2%E3%83%95%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%AE%E7%9C%9F%E3%81%AE%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E3%82%92%E6%94%AF%E6%8F%B4%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%8D%E3%81%9F/ar-AAYNU9E?ocid=msedgntp&cvid=7462622aacc34b78a00b62101e2c8b4b
 <杉山元らが解放したげたところの、中印、が露を助けてウクライナ戦争を長引かせ、欧米が没落を促進され、露が完全没落することを、杉山元らがニヤニヤしながら天国から見守っとんのであーる。↓>
 In Russia’s war over Ukraine, China and India emerge as financiers.・・・
https://www.nytimes.com/2022/06/24/world/europe/in-russias-war-over-ukraine-china-and-india-emerge-as-financiers.html

 それでは、その他の記事の紹介です。↓

 国際的話題に。↓

 Japanese man loses USB stick with entire city’s personal details・・・
https://www.bbc.com/news/world-asia-61921222

 舌足らずな説明だけど、あーそーですかい。
 ぜひ押し上げていただきたいもんで。↓

 「・・・円安が進むと貿易収支は確かに赤字になるが、国家の「商売の力」を測るのは貿易収支だけではない。経常収支全体を見なければいけない。
 経常収支全体では、黒字であるため円安がGDPの押し上げ要因になることは変わっていない。・・・」
https://www.mag2.com/p/money/1195591?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000003_fri&utm_campaign=mag_9999_0624&trflg=1

 宗主国移行に全面協力してきた公明党、次の宗主国からの要望に応えるフリ。↓

 「「日本の防衛力、大丈夫か」連呼した公明山口氏 政権ブレーキ役変化・・・」
https://www.asahi.com/articles/ASQ6J4JMRQ6CUTFK00Z.html?iref=comtop_Topnews2_02

 それがどうしてだったかは、ずっと下の方に出てくる、オフ会「講演」原稿・・世界史探偵「おーたん・ホームズ」日本史最後の謎を解明・・を読むと分かるよ。↓

 「【太平洋戦争秘史】意外に多かった皇族・華族の戦没者・・・
 明治以降、終戦までの華族の総数は1000家強にすぎず、貴族院の勅任議員やそれらの家族を合わせても、「貴族」の待遇を受けていたのは日本人のごく一握りにすぎなかった。その一握りの人たちのなかから、当時の人口比からするとけっして少なくない犠牲があったことも、是非善悪は別にして、歴史の一断面として記憶されていい。」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1341d9600c97a850a1cb1ac6932f8f6df392747c

 こーゆーのイイね。↓

 「・・・権というのは定員外という意味です。官職の数は限られていますから、任官できない貴族対策として、朝廷は権を設けました。大納言、中納言以外も、「権少納言」「右近衛権大将」「右近衛権中将」など様々な官職に権を設けました。
時代を経るにつれ、権の官職が一般的になってしまいます。権のない正式な大納言や中納言は空席になってゆきました。
 ちなみに、水戸黄門こと徳川光圀は水戸中納言として知られています。中納言の唐名が黄門であることから水戸黄門と呼ばれてきました。その光圀も権中納言でした。
 光圀に限らず、江戸時代を通じて武家が受けた朝廷の官職は全て権でした。尾張大納言家、紀伊大納言家も歴代当主は権大納言です。武家に限らず公家も権ばかりでした。・・・」
https://www.mag2.com/p/news/543375?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000003_fri&utm_campaign=mag_9999_0624&trflg=1

 鼻ピクピク。(←古いなあ。)↓

 「水出しコーヒーが15分で完成するUSB充電式の「超高速水出し珈琲ボトル2」・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/lifestyle/shopping/%e6%b0%b4%e5%87%ba%e3%81%97%e3%82%b3%e3%83%bc%e3%83%92%e3%83%bc%e3%81%8c15%e5%88%86%e3%81%a7%e5%ae%8c%e6%88%90%e3%81%99%e3%82%8busb%e5%85%85%e9%9b%bb%e5%bc%8f%e3%81%ae-%e8%b6%85%e9%ab%98%e9%80%9f%e6%b0%b4%e5%87%ba%e3%81%97%e7%8f%88%e7%90%b2%e3%83%9c%e3%83%88%e3%83%ab2/ar-AAYNLcj

 日・文カルト問題。↓

 <片面的に新たな日韓交流人士を指定。↓>
 「大谷翔平は「なぜ日本国民に愛されるのか」 韓国メディア分析「才能と高潔さ持ち合わせている」・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/bb84c842d47ed1ba34f1d04452439e63456798d8
 <勝手に連携強化しないでよ。↓>
 「重要な友好国の米・日と連携強化 中国とも互恵的協力=尹大統領・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/06/24/2022062480088.html
 <言葉は不要。↓>
 「強制動員問題 「緊張感とスピード感をもって解決策模索」=韓国外相・・・」
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20220624004000882?section=politics/index
 <日本を引き合いに出すなー。声枯れ気味。↓>
 「「住みやすい都市ランキング」で大阪が10位に、ソウルは何位?=韓国ネット「いいところがない」・・・韓国メディア・韓国経済TV・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b896489-s39-c30-d0201.html
 <「侵略」目的を問わにゃ。↓>
 「・・・日帝強占期の壬辰倭乱の記述は党争論と結びついて侵略戦争としての性格を希釈した。・・・
<典拠なさそうだが、要は、軍事を手抜いてたってことね。↓>
 清国の約50%、江戸幕府の約42%に比べ、朝鮮の軍事費支出比率は約20%程度と非常に低い水準だった。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4bcca7dad50ef4ba387ed613348dfe99e522ee30

 ハイ、予定通りの醜悪かつ過早な没落オーライ。↓

 「米最高裁、「中絶の権利」覆す判決 社会の分断一段と・・・」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN08DAQ0Y2A600C2000000/?unlock=1
 <小せえ小せえ。米国政府の、いや、米国へのレクイエムだー。↓>
 Requiem for the Supreme Court・・・
https://www.nytimes.com/2022/06/24/opinion/roe-v-wade-dobbs-decision.html
 <最高裁判事の終身制、止めろって言っても聞かないしなあ。↓>
 ・・・Thomas is now the longest-serving member of the court and has served for almost 31 years. He is also the only remaining member of the court who was present during hearings in another landmark case, Planned Parenthood v. Casey, which was decided in 1992.・・・
https://www.newsweek.com/how-clarence-thomas-finally-triumphed-30-year-battle-against-roe-v-wade-1718448

 中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓

 <朝鮮日報より。
 そんな話あったん?↓>
 「中国、韓国と日本のNATO首脳会議参加に反対…米国「中国に拒否権はない」–中国が韓国の出席に反対–米国「中国がそれを言う権利はない」–尹錫悦政権はブリュッセルにNATO代表部設置へ・・・」
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2022/06/25/2022062580009.html
 <次に人民網より。
 ご心配痛み入る。↓>
 「「円安の深淵」に沈み込む日本円 日銀はなぜ動かない?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2022/0624/c94476-10114546.html
 <ここからは、レコードチャイナより。
 フランスまで習ちゃんに迎合して饅頭怖い記事?↓>
 「日本の参議院選挙に見る対中姿勢=「日中友好」強調すれば票失う?・・・フランスの国際放送メディア・RFI(ラジオ・フランス・アンテルナショナル)・・・」

https://www.recordchina.co.jp/b896460-s25-c100-d0202.html

 一人題名のない音楽会です。
 クラシック曲のピアノ編曲の落穂拾い集をお送りします。

Smetana-Fukuma The Moldau ピアノ:福間洸太朗(注a) 11.44分
https://www.youtube.com/watch?v=BM_51ss16KI

(注a)1982年~。「パリ国立高等音楽院、ベルリン芸術大学、コモ湖国際ピアノアカデミーにて学ぶ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%96%93%E6%B4%B8%E5%A4%AA%E6%9C%97

Tchaikovsky-Taneyev Waltz of the Flowers ピアノ:福間洸太朗 6.23分
https://www.youtube.com/watch?v=yBiyRpuiFyU

Schumann-Liszt Widmung ピアノ:福間洸太朗 3.37分
https://www.youtube.com/watch?v=DSpeBVsyjEU

Trenet-Weissenberg En Avril à Paris ピアノ:福間洸太朗 4.00分
https://www.youtube.com/watch?v=Gqn8LLk5KUE

M. Glinka-V. Gryaznov Valse-fantasie ピアノ:Vyacheslav Gryaznov(注b) 8.45分
https://www.youtube.com/watch?v=6g3xwhh99-c

(注b)ヴァチェスラフ・グリャズノフ(1982年~)。「チャイコフスキー記念ロシア国立モスクワ音楽院<卒、>・・・1997年、ルビンシュタイン記念国際コンクール(ロシア・モスクワ)第1位。1998年、ラフマニノフ記念国際コンクール(イタリア)第1位。2001年・・・。」
https://enc.piano.or.jp/persons/1397

Mendelssohn-Rachmaninoff A Midsummer Night’s Dream. Scherzo ピアノ:Nikolai Lugansky(注c) 3.55分
https://www.youtube.com/watch?v=y_gNc-P3H6I

(注c)ニコライ・ルガンスキー(1972年~)。「モスクワ音楽院<卒。>・・・同音楽院で教鞭をとっている。・・・1994年のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門における(1位なしの)2位」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

Kreisler-Rachmaninoff “Liebesleid” (Love’s Sorrow) ピアノ:Lugansky 4.55分
https://www.youtube.com/watch?v=IaQ9OtmGv9Y

Tchaikovsky-Rachmaninoff, Lullaby ピアノ:Lugansky 4.48分

https://www.youtube.com/watch?v=ns9DhE1jqFE

       –世界史探偵「おーたん・ホームズ」日本史最後の謎を解明–

 もともとは、【目次】中のIIだけの予定だったのを、準備の途中で予定を変更してIを付け加えたという経緯がある。
都合上、I、IIの順に並べたが、「通史」的には、II、Iの順なのでお間違えなきよう。
 Iはその全体に目を通していただきたいが、IIに関しては、近衛篤麿、近衛文麿、貞明皇后(その事績の一部のみ記している)、牧野伸顕、木戸幸一、伏見宮博恭王、閑院宮載仁親王、はIを理解するためにも必読だけれど、後は、興味を抱かれた箇所だけを読めばよろしいかと。
 なお、徳川慶喜、木戸孝允、大久保利通、山縣有朋、西園寺公望、昭憲皇太后、明治天皇、大正天皇、は他のコラムないしシリーズで詳述しているので、項を立ててあるだけで中身は省略している。

 【目次】

I 世界史探偵「おーたん・ホームズ」日本史最後の謎を解明

 1 謎掛けの解答
 2 (依頼人たるシャーロキアンとしての)牧野伸顕
  (1)手掛かりα:1944年11月の『島津斉彬言行録』の出版

  (2)手掛かりβ:戦後における吉田茂の首相「指名」

[一見吉田がマッカーサーに恩義を感じるゆえんなし]
一、公職追放免除
二、食糧援助

三、ゼネスト中止命令


[香淳皇后・昭和天皇・キリスト教]

 3 吉田茂と私の昭和天皇戦後日本米国属国化首謀者説

[杉山元が選ばれた理由]


[四つの共同謀議説]
一、共同謀議:統制派アカ説(近衛上奏文) 
二、共同謀議・極東裁判説 
三、共同謀議・バーガミニ説 

四:共同謀議・太田説


[幣原首相誕生のいきさつ]


[「日本外交の過誤」について]


[吉田茂首相の対支戦略]


[吉田茂と天皇/天皇制]


[吉田茂と岸信介]

 4 改めて私の昭和天皇戦後日本属国化戦略首謀者説について

[幣原喜重郎]

II 幕末・維新主役諸家の至終戦史

 1 徳川諸家
  (1)徳川宗家
   ア 家達(いえさと。1863~1940年)
   イ 家正(1884~1963年)
  (2)尾張徳川家
   ア 徳川義札(よしあきら。1863~1908年)
   イ 徳川義親(よしちか。1886~1976年)
  (3)徳川義恕家
   ア 徳川義恕(よしくみ。1878~1946年)
   イ 徳川義寛(1906~1996年)
  (4)紀州徳川家
   ア 徳川頼倫(よりみち。1872~1925年)
   イ 徳川頼貞(1892~1954年)
  (5)水戸徳川家
   ア 徳川昭武(1853~1910年)
   イ 徳川篤敬(1855~1898年)
   ウ 徳川圀順(くにゆき。1886~1969年)
  (6)松戸徳川家–徳川武定(1888~1957年)
  (7)田安徳川家–徳川達孝(1865~1941年)
  (8)一橋徳川家
   ア 徳川茂徳(もちなが。1831~1884年)
   イ 徳川達道(さとみち。1872~1944年)
   ウ 徳川宗敬(むねよし。1897~1989年)
  (9)清水徳川家
   ア 徳川篤守(1856~1924年)
   イ 徳川好敏(よしとし。1884~1963年)
  (10)徳川慶喜家
   ア 徳川慶喜(1837~1913年)
   イ 徳川慶久(1884~1922年)
   ウ 徳川慶光(1913~1993年)
  (11)徳川厚家
   ア 徳川厚(1874~1930年)
   イ 徳川喜翰(のぶもと。1897~1938年)
   ウ 德川喜堅(よしかた。1907~1971年)
  (12)徳川誠家
   ア 徳川誠(まこと。1887~1968年)
   イ 徳川熙(ひろむ。1916~1943年)
2 正親町三条家(嵯峨家) 
  (1)嵯峨公勝(1863~1941年)。
  (2)嵯峨実勝(1887~1966年)。
  (3)嵯峨浩(1914~1987年)

3 梨本宮家–李方子(りまさこ。1901~1989年)

[桂宮系の事績]
一、始めに
二、桂宮家
 (一)八条宮智仁親王(1579~1629年)
 (二)八条宮智忠親王(1619~1662年)
 (三)八条宮穏仁親王(1643~1665年)
 (四)八条宮長仁親王(1655~1675年)
 (五)八条宮尚仁親王(1671~1689年)
 (六)作宮(さくのみや。1689~1692年)
 (七)京極宮文仁親王(1680~1711年)
 (八)京極宮家仁親王(1704~1768年)
 (九)京極宮公仁親王(1733~1770年)
 (十)桂宮盛仁親王(1810~1811年)
 (十一)桂宮節仁親王(1833~1836年)
 (十二)桂宮淑子内親王(1829~1881年)
三、広幡家
 (一)広幡忠幸(1624~1669年)
 (二)広幡豊忠(1666~1737年)
 (三)広幡長忠(1711~1771年)
 (四)広幡前豊(1742~1784年)
 (五)広幡前秀(1763~1808年)
 (六)広幡経豊(1779~1838年)
 (七)広幡基豊(1800~1857年)
 (八)広幡忠礼(ただあや。1824~1897年)
 (九)広幡忠朝(1860~1905年)

 (十)広幡忠隆(1884~1961年)


[伏見宮系の事績]
一、始めに
二、その後の歴代
 (一)伏見宮邦高親王(1456~1532年)
 (二)伏見宮貞敦親王(1488~1572年)
 (三)伏見宮邦輔親王(1513~1563年)
 (四)伏見宮貞康親王(1547~1568年)
 (五)伏見宮邦房親王(1566~1622年)
 (六)伏見宮貞清親王(1596~1654年)
 (七)伏見宮邦尚親王(1615~1654年)
 (八)伏見宮邦道親王(1641~1654年)
 (九)伏見宮貞致親王(1632~1694年)
 (十)伏見宮邦永親王(1676~1726年)
 (十一)伏見宮貞建親王(1701~1754年)
 (十二)伏見宮邦忠親王(1732~1759年)
 (十三)伏見宮貞行親王(1760~1772年)
 (十四)伏見宮邦頼親王(1733~1802年)
 (十五)伏見宮貞敬親王(1776~1841年)
 (十六)伏見宮邦家親王(1802~1872年)
 (十七)伏見宮貞教親王(1836~1862年)
 (十八)伏見宮貞愛親王(さだなる。1858~1923年)

 (十九)伏見宮博恭王(ひろやす。1875~1946年)


[有栖川宮系の事績]
一、始めに
 高松宮好仁親王(1603~1638年)
 後西天皇(1638~1685年)
二、その後の歴代
 (一)有栖川宮幸仁親王(1656~1699年)
 (二)有栖川宮正仁親王(1694~1716年)
 (四)有栖川宮織仁親王(おりひと。1753~1820年)
 (五)有栖川宮韶仁親王(つなひと。1785~1845年)
 (六)有栖川宮幟仁親王(たかひと。1812~1886年)
 (七)有栖川宮熾仁親王(たるひと。1835~1895年)
 (八)有栖川宮威仁親王(たけひと。1862~1913年)
 (九)徳川實枝子(1891~1933年)

 (十)宣仁親王妃喜久子(1911~2004年)


[閑院宮家の事績]
 (一)閑院宮美仁親王(1758~1818年)
 (二)閑院宮孝仁親王(1792~1824年)
 (三)閑院宮愛仁親王(1818~1842年)
 (四)鷹司(藤原)吉子(1787~1873年)

 (五)閑院宮載仁親王(1865~1945年)

 4 近衛家

  (1)近衛篤麿(1863~1904年)

[近衛篤麿と国柱会]

(2)近衛文麿(1891~1945年)
 5 鷹司家
  (1)鷹司煕通(1855~1918年)
  (2)鷹司信輔(1889~1959年)
  (3)鷹司信煕(1892~1981年)
  (4)鷹司平通(としみち。1923~1966年)
 6 西園寺家
  (1)西園寺公望(1849~1940年)
  (2)西園寺八郎(1881~1946年)
 7 九条家
  (1)九条道孝(1840~1906年)

〇大谷光瑞(こうずい。1876~1948年

[浄土真宗本願寺派の大谷家(その後)]
○大谷光明(1885~1961年)
○大谷尊由(そんゆ。1886~1939年)

○大谷光照(1911~2002年)

  (2)九条道実(1870~1933年)

  (3)貞明皇后(1912~1926年)

[浄土真宗大谷派の大谷家]
〇大谷光勝(1817~1894年)
〇大谷光瑩(こうえい。1852~1923年)
〇大谷光演(1875~1943年)

〇大谷光暢(こうちょう。1903~1993年)

 8 一条家
  (1)昭憲皇太后
  (2)一条実良(一條實良)(1835~1868年)
  (3)一条実輝(さねてる。1866~1924年)
  (4)一条実孝(1880~1959年)
 9 二条家
  (1)二条基弘(1859~1928年)
(2)二条厚基(1883~1927年)
 (3)二条弼基(1910~1985年)
10 天皇家 
  (1)明治天皇
 (2)大正天皇
 (参考)
  (3)恒久王妃昌子内親王(1888~1940年)
〇竹田恒徳(1909~1992年):その子
  (4)成久王妃房子内親王/北白川房子(1890~1974年)
(参考)
〇北白川宮永久王(1910~1940年):その子
  (5)鳩彦王妃允子内親王(1891~1933年)
 (参考)
〇朝香孚彦(たかひこ。1912~1994年):その子
〇音羽正彦(ただひこ。1914~1944年):同じく
  (6)稔彦王妃聡子内親王/東久邇聡子(1896~1978年)
(参考)
〇東久邇盛厚(1916~1969年):その子
〇粟田彰常(1920~2006年):同じく
〇多羅間俊彦(1929~2015年):同じく
 11 山縣家–山縣有朋
 12 大久保家
  (1)大久保利通
  (2)牧野伸顕(1861~1949年)。
 13 木戸家
  (1)木戸孝允(1830~1878年)
(2)木戸孝正(1857~1917年)
  (3)木戸幸一(1889~1977年)
 14 終わりに

III 文明の衝突としての昭和

 【本文】

I 世界史探偵「おーたん・ホームズ」日本史最後の謎を解明

 1 謎掛けの解答

 「どうして、「おーたん・ホームズ」、と、ホームズがこんなところ↑で登場するのか、読者ホームズ諸氏の推理結果を投稿してください。」(コラム#12763)、「えーい、大ヒントを・・。「日本史最後の謎」は、私に言わせりゃコレしかないでしょだけど、戦後日本の属国戦略(脳死戦略!)の首謀者は誰か、だ。で、もう一つオマケだけど、この首謀者の見当が全くつかない人でも、ホームズ登場のワケは推理できるぜ。えーい、こうなったら、ヒントのたたき売りだぁ。手掛かりを求めてネット検索をするんなら、検索用語に工夫が必要だよー。」(コラム#12767)という謎掛けに対し、牧野伸顕がシャーロキアンであったことから、首謀者は牧野ではないかと指摘した読者がいた。
 かすったと思った。
 (ちなみに、謎掛けをした後、念のため、シャーロッキアンと入力したらヒットせず、シャーロキアンと入力し直したら牧野伸顕のウィキペディアにヒットしてくれた、というわけだ。)
 また、直感で、日本属国化戦略の首謀者は昭和天皇ではないかと指摘した読者もいた。
 これもビンゴだ。
 以上の二つの解答案的なものを組み合わせて正解に到達する読者が必ず現れると思ったけれど結局現れなかった。
 さて、私がその後出したヒントに、戦前から(終戦後に)日本が主権を回復する直後まで、をカバーする人物が解答のカギを握っていることを示唆したものがあったが、昭和天皇は戦前は西園寺らの傀儡で戦後は今度は占領軍の傀儡となり、更に新憲法の成立によって日本の主権回復までに一切の権力を失ってしまうので、カギを握っている人物の中からはほぼ省かれるところ、牧野だって1949年に亡くなってしまうので省かれるように見えるけれど、牧野は義理の息子の吉田茂を通じて生き続けたとも言えるので、牧野が解答の鍵を握っている人物だということになる。
 例えば、近衛文麿は近衛篤麿の実子でありながら、(後で説明するように)器量において全く父とは比ぶべくない人間だったというのに、どうして血の繋がっていない牧野・吉田「父子」に関して牧野が吉田を通じて生き続けたなどということが言えるのかというと、吉田の首相就任時には牧野はまだ存命であり、当時唯一の元老格であった牧野が、慣例に基づき、首相指名権とまではいかなくとも、首相指名示唆/同意/拒絶権的なものは持っていて、吉田を示唆したかどうかはともかく、少なくとも余人には同意を与えず吉田の指名には同意したはずであるところ、牧野は吉田を全面的に信頼していたからこそ、彼に戦後体制を構築させたいと思い、そうした、と想像されるからだ。
 要するにこういうことだ。
 牧野は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス・・日蓮主義について、コラム#12813で理解を的確なものにしておいて欲しい・・、の完遂時期における共同首謀者達の一人として杉山構想の実行に携わったところ、その杉山構想は完遂されるまでは引き続き秘匿されることが望ましいがいつかは開示されて欲しいと願い、かつ、日本の戦後体制を自分の分身とも言うべき(義理の息子の)吉田茂に構築させることにし、構築の過程で吉田は長期にわたって秘匿されるべき事柄に遭遇することだろうが、それについてもいつの日にかは開示されて欲しいと願い、前者については手掛かりとして『島津斉彬言行録』を終戦間近に出版し、後者については吉田茂に自分なりの手掛かりを残せ、と指示した、と。
 その上で、件の謎掛けに対する解答はこうなる。↓
 「自分(と自分の分身)が遺した手掛かりに気付いて先の大戦の秘密(杉山構想)と戦後体制誕生の秘密(?)、とを解明してくれる人物が現れることを期待して亡くなった牧野は調査(捜査)依頼人に準えられ、彼の依頼と彼が遺した手掛かり群の存在に気付き、解明に成功した私は依頼を受けた探偵に準えられるところ、牧野はシャーロキアンだったのだから、私は和製ホームズに準えられてしかるべきだ。」
 (もとより、本当に私がそれらの解明に成功した和製ホームズ(に準えられうる人)なのかどうかを判断するのは皆さんだが・・。)

 2 (依頼人たるシャーロキアンとしての)牧野伸顕

  (1)手掛かりα:1944年11月の『島津斉彬言行録』の出版

 既に随分前のことになるが、表記の本の存在を知って、その本を求めたところ、序文を書いていたのが牧野伸顕であることを知り、また、それは、彼が昔の本のタイトルを変えて復刻したものであることも知った。
 その折、発行(復刻)時期が1944年11月であることに驚き、これは、先の大戦とは一体何だったかについて考えたいと思ったらまずこの本を読め、と、牧野が訴えているのではないか、という気が私にはした。(コラム#9902)
そういう問題意識を抱いて、この本を読んだ結果として、私は、島津斉彬コンセンサスを「発見」し、その延長線上に、今度は、このコンセンサスを完遂するプログラムであるところの、杉山構想、をも「発見」した。(コラム#9902。但し、この時点では、まだ、私は「杉山構想」という言葉は用いていない。)
 そうなると、今度は、島津斉彬コンセンサスのルーツを探索したくなり、探索してみた結果、聖徳太子コンセンサスとそのコンセンサスを完遂するプログラムであるところの、桓武天皇構想、を「発見」(コラム#11164)した。
 で、この本を読む以前から、私が、太田コラムで、折に触れて日本史の様々なトピックを扱ってきたこともあり、名古屋オフ会の時の出席者のご要望を受け、それまで余りカバーしていなかった時代をカバーするという目的も兼ねて、日本史を通史的に振り返ってみる試みを始めることになった。
 そのちょっと前に、バーガミニによるところの、先の大戦に係る、新たな共同謀議論に遭遇してそれをコラムシリーズ(コラム#10403~)に仕立てたことがあったところ、その当時、牧野伸顕が先の大戦賛成者であることくらいはそれよりずっと以前から気付いていたところ、彼が、実は、杉山構想を策定させた黒幕的人物の一人であったことを感知し、かつ、その頃の東京オフ会で、出席者から、牧野は娘の婿として吉田茂を選んだけれど、吉田が先の大戦反対者になることを見抜けなかったのだろうか、という問題提起までされていたというのに、その後、日本通史に取り組み始めて、私の関心対象が源平時代にまで巻き戻されてしまっていたこともあり、私が牧野や吉田について掘り下げた検討をすることがないまま時間が経過した。
 以上のような背景の下で、私は、日本通史の戦前版を取り上げることとした今回の東京オフ会「講演」原稿の材料集めに取り掛かった、というわけなのだが、すぐに、吉田を娘婿に選んだ時点の牧野の目は全く曇っていなかったことを、吉田の戦前の事績を振り返る過程で確信するに至った。
 そして、その論理的帰結として、(明らかに牧野は少なくとも終戦までは吉田に杉山構想を明かさなかったと思われるところ、)牧野は、最初から、自分の眼鏡にかなった娘婿の吉田を無傷のまま温存することによって終戦後の日本の基本体制を構築することとなる首相を彼にやらせるつもりだったのではないか、と考えるに至った。
 その瞬間、今まで『島津斉彬言行録』を読んだ人は大勢いて、その中には、政治学者や歴史学者等の人社系の学者だって何人もいたはずなのに、読んで本の中身を咀嚼し整理して、それが、一種の、先の大戦の予言書であることに気付いたのが私だけで、更に日本史を古代まで振り返るよう促されたような気がしてきたことからそれを行ったのも私だけだったこと、その私が、今度は吉田について、たった今記したような見方をするに至ったところ、そのような見方をするに至ったのもまた私だけであったこと、から、私こそ、シャーロキアンの牧野が、自身の残した(αとβ(すぐ後で述べる)の)2つの手掛かりを活用して先の大戦、ひいては日本の歴史の総体を解明してくれることを期待した和製ホームズだと言えるのではないか、と思ったわけだ。
 なお、恐らく牧野は、和製ホームズが出現する、そう近くない将来の時点には杉山構想が「ほぼ完遂」ではなく「完遂」されているだろう、と予想し、その時点ならば、もはや杉山構想が公開されても構わない、と思ったのではなかろうか。
 
  (2)手掛かりβ:戦後における吉田茂の首相「指名」

 すると、吉田に係る挿話群中、怪訝な思いを私が抱いたままになっていた事柄がいくつかあったことが思い起こされた。
 日米安全保障条約への吉田のたった一人での署名(1951年)<(注1)>、日本の主権回復の年(1952年)だけにおける臣茂という言明<(注2)>、そして、マッカーサーの葬儀(1964年)への高齢を押しての吉田の遠路はるばるの出席、がそれだ。

 (注1)「講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約に一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
 日米安全保障条約:署名 1951年(昭和26年)9月8日、発効 1952年4月28日(サンフランシスコ平和条約発効日と同じ。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%AE%E6%97%A5
 「連合国日本占領軍は本条約効力発生後90日以内に日本から撤退。ただし日本を一方の当事者とする別途二国間協定または多国間協定により駐留・駐屯する場合はこの限りではない(<講和条約>第6条(a)・・・)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84
 (注2)「1952年(昭和27年)11月<10日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
>の明仁親王の立太子礼に臨んだ際に・・・、昭和天皇に自ら「臣茂」と称した。・・・「時代錯誤」とマスコミに批判されたが、吉田は得意のジョークで「臣は総理大臣の臣だ」とやり返した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 (前掲)

 私が、臣茂という言明にどうして怪訝な思いをしたかと言うと、いかにも大時代的であることに加えて、吉田が言明したのがその時一回切りだったからだ。
 比較的最近、「攘夷実行の勅旨の受け入れをめぐって・・・、<1862年>11月29日、一橋慶喜による饗応の際、幕府に攘夷決行の布告をせまる三条と、これに抗する慶喜とのあいだで押し問答となるなど難航したが・・・、12月5日、勅使は将軍より、これを受け入れる旨の答書を接受した<ところ、>将軍の署名には「臣家茂」と記されて<いた。>」(コラム#12506)という事績を知り、この、家茂が不本意ながら孝明天皇の命によって仕方なく署名したことを示唆した、と想像される事績を吉田は知っていてこういう言明を行った可能性があることに気付いた。
 しかし、仮にそうだとして、一体、吉田が、昭和天皇の命によって仕方なく行ったものが何だったのかが、依然、全く見当がつかなかった。
 また、私が吉田のマッカーサーの葬儀への出席にどうして怪訝な思いをしたかと言うと、吉田は「傲岸不遜」な人間であって、それについて挙げたい例は数多いが、ほんの一例を挙げれば、「駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際、イタリアの外務省からは吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)<にもかかわらず、>ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりに、ムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
ことがあるところ、こんな人間が、米大統領が任命した単なる一官僚に過ぎなかったにもかかわらず、占領期に日本で皇帝然とした専制的統治を行ったところの、吉田がさほど恩義を感じるいわれもなさそうな、元「上司」たるマッカーサーを、その1951年5月の日本人12歳発言の直後に何とその発言を褒めたたえた(注3)上、そのマッカーサーの米東海岸における葬儀に、85歳という高齢を押してはるばる出席したりする
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC 及び上掲
ものだろうか、と思ったからだ。

 (注3)「・・・日本人は全ての東洋人と同様に勝者に追従し敗者を最大限に見下げる傾向を持っている。アメリカ人が自信、落ち着き、理性的な自制の態度をもって現れた時、日本人に強い印象を与えた<。>・・・それはきわめて孤立し進歩の遅れた国民(日本人)が、アメリカ人なら赤ん坊の時から知っている『自由』を初めて味わい、楽しみ、実行する機会を得たという意味である<。>・・・
 (・・・人類の歴史において占領の統治がうまくいったためしがないが、例外としてジュリアス・シーザーの占領と、自らの日本統治があるとし、その成果により一度民主主義を享受した日本がアメリカ側の陣営から出ていくことはないと強調した<上で、>・・・日本でマッカーサーが行った改革は)イギリス国民に自由を齎したマグナ・カルタ、フランス国民に自由と博愛を齎したフランス革命、地方主権の概念を導入した我が国のアメリカ独立戦争、我々が経験した世界の偉大な革命とのみ比べることができる・・・
 ドイツの問題は日本の問題と完全に、そして、全然異なるものでした。ドイツ人は成熟した人種でした。アングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢に達しているとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は歴史は古いにもかかわらず、教えを受けるべき状況にありました。現代文明を基準とするならば、我ら(アングロサクソン)が45歳の年齢に達しているのと比較して日本人は12歳の少年のようなものです。他のどのような教えを受けている間と同様に、彼等は新しいモデルに影響されやすく、基本的な概念を植え付ける事ができます。日本人は新しい概念を受け入れる事ができるほど白紙に近く、柔軟性もありました。ドイツ人は我々と全く同じくらい成熟していました。ドイツ人が現代の国際的な規範や道徳を放棄したときは、それは故意によるものでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたからそのような事をしたわけではありません。日本人がいくらかはそうであったように、つい過ってやったわけでもありません。ドイツ自身の軍事力を用いることが、彼等が希望した権力と経済支配への近道であると思っており、熟考の上に軍事力を行使したのです。現在、あなた方はドイツ人の性格を変えようとはしないはずです。ドイツ人は世界哲学の圧力と世論の圧力と彼自身の利益と多くの他の理由によって、彼等が正しいと思っている道に戻っていくはずです。そして、我々のものとは多くは変わらない彼等自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作り上げるでしょう。しかし、日本人はまったく異なりました。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。ドイツ人は異なるレベルで活動していたからです。」(1951年5月3日のマッカーサーを証人とした上院の軍事外交共同委員会での発言)
 「吉田茂<は、>「元帥の演説の詳細を読んでみると「自由主義や民主主義政治というような点では、日本人はまだ若いけれど」という意味であって「古い独自の文化と優秀な素質とを持っているから、西洋風の文物制度の上でも、日本人の将来の発展は頗る有望である」ということを強調しており、依然として日本人に対する高い評価と期待を変えていないのがその真意である」と好意的な解釈<をしている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AF12%E6%AD%B3


[一見吉田がマッカーサーに恩義を感じるゆえんなし]

一、公職追放免除

 「吉田<は、>・・・東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、<戦後、>公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたと<も>いわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

⇒東方会議の件は、1927年に「奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪<(もりかく)>と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持」した話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1927%E5%B9%B4)
だが、東方会議は「奉天総領事の吉田茂、ニューヨーク総領事の斉藤博とも相談した」(上掲)という程度の関与だった上、「7月7日の会議の最終日に、「対支政策綱領」が発表され、当該国に通知された。通知された<米国を含む諸>国からは一つの抗議もなかった」(上掲)のに、戦後になってから咎めるのかよ、という話だし、治安維持法の件は、1928年の話
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E5%AE%89%E7%B6%AD%E6%8C%81%E6%B3%95
であるところ、当時外務次官だった吉田が、(その主管でもない)外務大臣が閣議の一員として副署しただけの「緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)」(上掲)の制定について咎められてもねえ、と言わざるをえない。
 だから、これはガセだと思われる。(太田)

二、食糧援助

 「連合国は占領目的の巨額な財政支出(例:終戦処理費として約50億ドル)と労働力を日本政府に負担させる一方で、日本の経済的困窮は日本の責任であると切り捨て、日本国民の努力でまかなうこととした。1945年(昭和20年)9月22日「降伏後二於ケル米国ノ初期ノ対日方針」には、「日本国民の経済上の困難と苦悩は日本の自らの行為の結果であり、連合国は復旧の負担を負わない。日本国民が軍事的目的を捨てて平和的生活様式に向かって努力する暁にのみ国民が再建努力すべきであり、連合国はそれを妨害はしない」との旨を明記してある。・・・
 <それなのに、>1945年(昭和20年)[9月17日に幣原内閣の外務大臣に就任した吉田
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82
<は、>]9月29日に「本土に於ける食糧需給状況」をGHQに提出<し>、1945年産米の収穫量を5500万石と予想し、穀類約300万トン、砂糖100万トン、コプラ30万トン、ヤシ油5万トンの輸入を要請した<。>
 <しかし、>1945年(昭和20年)11月1日の「日本占領及び管理のための連合国最高司令官に対する降伏後における初期の基本指令」にも、占領軍最高司令官は「日本にいずれの特定の生活水準を維持し又は維持させるなんらの義務をも負わない」と<し、>1945年(昭和20年)12月3日の指令では「日本人に対して許される生活水準は、軍事的なものの除去と占領軍への協力の徹底にかかっている」と、し>て<おり、やはり、埒が明かなかった>。
 <但し、>占領期の日本は海外との自主的な貿易や渡航を禁じられており、海外からの寄付を含む輸出入はすべてGHQが統括していた<ので、日本政府はどうしようもなかった>。
 <結局、>極東委員会の対日食糧輸出不要論に遭い、食糧や物資の輸入は許されなかった。
 本国が大きな戦争被害を受けていた<英国>や中華民国、ソ連、フランスなどは日本に食料を輸出する余裕はなく、また<米国>は世界的食糧不足で解放地域からの援助要請が殺到していたため対日輸出には消極的で、1946年(昭和21年)2月、「日本にはいかなる食糧も輸出できない」と回答する。
 <しかしながら、恐らく、吉田外相からの強い要請もあり、>1946年(昭和21年)2月、GHQ<(マッカーサー)>は日本への食糧輸出禁止に対し、「輸入食糧によって日本の食糧配給制度を持続しなければ、占領政策が困難な事態に直面する」と<米>政府に抗議した。3月に<米国>の農務長官クリントン・プレスバ・アンダーソンの特別使節としてレーモン ド・L・ハリソン大佐を団長とする食糧使節団や、アメリカ飢餓緊急対策委貞会(委員長フーバー元大統領)が来日調査しGHQの要請を支持し、1946年(昭和21年)5月から10月、日本に対して長年月に及んだ経済封鎖が解かれ、68万トンの食糧が輸出されることになった。この輸出量は、日本側が当初要望していた量の25 %弱<に過ぎなかったが・・。
 <ちなみに、>1946年(昭和21年)5月19日、食糧を求めるデモが東京の各地で繰り広げられた。およそ25万人の民衆が皇居前に結集。「食糧メーデー」と呼ばれる大規模なデモと発展する。民衆の食糧飢餓への批判はGHQではなく日本政府に向けられていた。
 [この食糧メーデー直後の5月22日に、吉田は、外相のまま首相に就任している。(上掲)]
 1946年(昭和21年)7月からエロア資金による援助プログラムが始まり、1948年(昭和23年)からはガリオア資金に吸収される。<米>政府が国内で余剰物資を買い付け、その資金は貸与である。ガリオア物資による援助の対象品目としては、米(11万566トン)、小麦(505万9307トン)、塩(51万6312トン)、砂糖(79万6956トン)、缶詰(16万1935トン)などの食糧に加え、パルプ・紙(3254トントン)、肥料(313万5360トン)、化学医薬品(1099万988トン)、牛など動物(1万179頭)。
1954年(昭和29年)のアメリカの余剰農産物処理法により、日本への輸出が増え、とくに小麦は日本人の常食を米食からパン食に移行させる日米の方針により、日本が引き受けた余剰物資の約半分に上った。しかしこの頃には日本の農業や漁業、流通網は完全に回復しており援助としての食糧輸入は不要であった。なおアメリカからの援助目的の輸入総額は1961年(昭和36年)の通産省の認定では17億ドルから18億ドルとされ、1962年(昭和37年)1月、日本政府は西ドイツの返済率にならって4億9000万ドルを15年かけて返済することに同意した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E5%90%88%E5%9B%BD%E8%BB%8D%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC
 なお、この挿話は有名。↓
 「終戦直後、吉田茂首相がマッカーサーに「国民が餓死する」と食料の緊急輸入を求めた。が、その一部しか実現しなかったのに餓死者はでない。「日本の統計はいい加減で困る」と抗議したマッカーサーに、吉田は言い返した。「日本の統計が正確だったら、むちゃな戦争などしません」」
https://www.asahi.com/articles/ASQ323SXYQ2XULFA03H.html

⇒餓死者を出したら日本の国民から怨嗟の声がマッカーサーにぶつけられ、円滑な占領の継続が困難になりかねないからこそ、日本の窮状に冷たい本国の尻を叩いてマッカーサーが頑張った、というだけのことであり、本件で吉田がマッカーサーにそれほど恩義を感じたとは思えない。。(太田)

三、ゼネスト中止命令

 「1936年(昭和11年)に42万人いた労働組合員は、戦争の勃発で労働運動が禁止され、解体されていたが、戦後に進駐したGHQ/SCAPは、日本に米国式の民主主義を植えつけるために、労働運動を確立することを必要と考え、意図的に労組勢力の拡大を容認した。第二次世界大戦後の激しいインフレの中で、日本共産党と産別会議により労働運動が高揚し、1946年(昭和21年)には国鉄労働組合が50万名、全逓信従業員組合が40万名、民間の組合は合計70万名に達した。これらの勢力がたびたび賃上げを要求して、新聞、放送、国鉄、海員組合、炭鉱、電気産業で相次いで労働争議が発生し、産業と国民生活に重大な影響を与えるようになっていた。
 8月には総同盟と産別会議、9月には全官公労が結成され、11月には260万人に膨れ上がった全官公庁共闘が、待遇改善と越年賃金を政府に要求したが、吉田茂内閣は満足な回答を行わなかったため、「生活権確保・吉田内閣打倒国民大会」を開催した。ここで挨拶に立った日本共産党書記長の徳田球一は、「デモだけでは内閣はつぶれない。労働者はストライキをもって、農民や市民は大衆闘争をもって、断固、吉田亡国内閣を打倒しなければならない。」と、労働闘争による吉田内閣打倒を公言し、日本の共産化を目指した。冷戦の兆しを感じていた米国は、日本をアジアにおける共産化の防波堤にしようと考え始めていたため、全官公労や産別会議等の過半数の労働組合を指導している共産党を脅威と考えるようになった。
 連合国の対日政策機関であるワシントンD.C.の極東委員会も、12月18日に民主化のための労働運動の必要性を確認しながらも、「野放図な争議行動は許されない」とする方針を発表した。この第3項で、労働運動は「占領の利益を阻害しない」こと、第5項で「ストライキその他の作業停止は、占領軍当局が占領の目的ないし必要に直接不利益をもたらすと考えた場合にのみ禁止される」として、労働運動も連合軍の管理下におかれることが決定された。また、首相の吉田茂も共産党との対決を意識し、内部分裂した社会党右派に連立を持ちかけるなど、革新勢力の切り崩しを図った。
 1947年(昭和22年)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。
 政争の目的の為に徒に経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如き者あるにおいては、私は我が国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。……然れども、かかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じない
 いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。・・・
 1947年・・・1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。 午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%B8%80%E3%82%BC%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88
 「1947年に日本共産党主導の二・一ゼネストに対し、GHQが中止命令を出したのをきっかけに、日本を共産主義の防波堤にしたいアメリカ政府の思惑でこの対日占領政策は転換された。・・・
 総司令官マッカーサー、民政局局長ホイットニー、局長代理ケーディスはこの対日政策の転換に反対したが、本国の国務省が転換を迫ったという。この転換は、1948年に設立されたアメリカ対日協議会の圧力による。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%86%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9

⇒既に高まっていた本国の圧力にマッカーサーが従っただけのことであり、本件で吉田がマッカーサーに恩義を感じたはずがない。(太田)

 で、この時、牧野が、吉田に対して、首相在任中、絶対に秘匿すべき事柄が生じ、なおかつ、後世の誰かにはいつかその秘匿事項を明らかにして欲しい場合は、自分が『島津斉彬言行録』復刻出版で後世に向けて「高度」な手掛かりを残したように、お前も何らかの方法で「高度」な手掛かりを残せ、と、指示していたのだとすれば、いや、仮にそこまで牧野が指示していなかったとしても、それくらいのことは、牧野の『島津斉彬言行録』復刻出版を踏まえて吉田自身が自分で考えついた可能性があるところ、吉田による、以上のような、人々に怪訝な思いを抱かせる諸言動は、その吉田が自ら残そうとして残したところの、手掛かり群・・牧野から見れば孫手掛かり群・・、なのではないか、と、いう気がしてきた次第だ。
 吉田は、岳父の牧野がシャーロキアンで、しかも、自分は何度も外務省時代に英国勤務をしている自他ともに許す英国大好き人間である以上、牧野との話のネタづくりのためにも、ホームズものは読み漁ったはずであって、シャーロキアンもどきくらいにはなっていたと想像され、牧野が、牧野自身も末期の共同正犯達の一人としてそれを日本に決行させることでその「執筆」に携ったところの、先の大戦の終戦で中締めとなるノンフィクション超長期日本史推理小説の全ての「共同正犯達」を発見する手掛かりを1944年11月に『島津斉彬言行録』出版の形で公表したにもかかわらず、義理の息子の自分すら牧野から終戦後に直接種明かしをされるまで、(後述する、1945年2月の近衛上奏に吉田が協力したことが示しているように、)「犯人」を見つけられなかったことに悔しい思いを抱き、自分が、「和製ホームズ」たりえなかったことに忸怩たる思いを抱きつつも、「犯人」としてかどうかはともかくとして、やはり長期にわたって秘匿すべき、ノンフィクション日本史超長期推理小説のエピローグ篇、の「執筆」、に関わることもあるだろうから、その「犯人」をいつかは誰かがつきとめることを期待して手掛かりを残してやろう、と決意したのではないか、とも。
 そんな頃だったか、たまたまネットで、原彬久(よしひさ)『吉田茂-尊皇の政治家』の書評を読んだところ、下掲のようなくだりに遭遇する。↓

 「吉田はなぜかサンフランシスコで開かれる講和会議に出席する気持ちはなかった。ここで著者<(原彬久)>は豊下楢彦を引用するのであるが《「首相の署名」を切望するダレスの意を受けて、天皇が吉田に影響力を及ぼし講和会議「出席」を決意させたのではないか、というのである。天皇制を守るために、誰よりも早期講和と日米体制強化を熱望する天皇が、講和会議「欠席」に傾く吉田を叱り翻意させたというわけである。》(190ページ)
 しかし昭和天皇の次の行動には少し首をひねりたくなる。《天皇とダレスの共同歩調》のくだり(181ページ)、《ダレスが(中略)講和・安保両条約の案文づくりにに関連して天皇との間に秘密のチャンネルを確保していたということである。豊下楢彦によれば、前年六月勃発の朝鮮戦争がもしアメリカの敗北に終われば天皇制の危機と捉えていた昭和天皇は、吉田とは全く別のルートで早くからダレスにアプローチしていたというのである。》
 そして焦点は米軍の駐留に基地の提供を求めるアメリカ側と、基地不要論を唱える吉田との間に天皇が介在したことである。
 《共産主義から天皇制を守るためにも「日米結合」に執念を燃やす昭和天皇が、この日米間の行き違いに不安を抱いたのは当然である。ダレスは(中略)天皇と会見の機会をもつが、このとき天皇はダレスに向かって、アメリカの条件に沿う形での基地貸与に「衷心からの同意」を表明している。》これを著者は《天皇の超憲法的行動》であった、と断じている。」(「不忠の『臣・茂』? 原彬久著「吉田茂」を読んで」より)
https://blog.goo.ne.jp/lazybones9/e/90770002ffdd2265ea2ec53e97188695

 さっそく私は、この本(電子版)を買って読むことにしたのだが、読む以前にこの時点で、日本の新憲法に武力放棄規定を入れさせた首謀者は昭和天皇である、との確信的ひらめきを得た。
 というのも、私は、以下のことを、(防衛官僚であったことから、)一つずつ、その都度一般の日本人達よりも痛切な思いを抱きつつ、既に認識するに至っていて、件の首謀者が昭和天皇ではないか、と、次第に疑いの念を強めつつあったからだ。
 順不同で列挙しよう。↓

A:「昭和天皇は、自分の長男で皇太子の明仁、及び明仁の後を襲うことになるそれ以降の諸天皇が、(軍令の最高責任者として)聖断を下さなければならない立場になることを回避させることを期して、皇族身位令第十七条皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス 親王王ハ満十八年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍ノ武官ニ任ス」
http://gyouseinet.la.coocan.jp/kenpou/koushitsu/kouzokushinirei.htm
を停止または廃止して、<1943年(昭和18年)12月23日に満十年に達した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81
後も、>明仁を陸軍及び海軍の武官に任官させなかった」(コラム#12208)
 これは、時期も時期だけに、大変な決断ではないか。一体どうして?

B:「四五年六月、終戦の方針を立てた昭和天皇は貞明皇太后の説得に臨んだ。実母と会う前には緊張感から嘔吐し、面会後はまる一日寝込んだ。」(コラム#12194)
 母が戦局を熟知していることくらいは昭和天皇にも分かっていたはずなのに、終戦不可避、間近し、と伝えるだけでそこまで緊張するだろうか?

C:「終戦翌年の1946年(昭和21年)4月より、学習院大学英文科教授のイギリス人であるレジナルド・ブライスを、英語の家庭教師として迎える。また、同年10月から1950年(昭和25年)12月まで、父・昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81 
 そこまでやるか、と言いたくなるくらいの、米国に媚びた姿勢としか見えないが?

D:上皇の天皇時代の不自然な慰霊の旅。↓
 「天皇<(現明仁上皇)>皇后両陛下の・・・日程
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/top/1
・・・の中で明確に慰霊を目的としたもの(と明記されているもの)は、以下の二つ・・<米>自治領北マリアナ諸島サイパン島・・・訪問(平成17年<(2005年)>)と、
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h17america/eev-h17-america.html
パラオ・・・訪問(平成27年)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h27palau/eev-h27-palau.html ・・
だが、「・・・≪今上≫陛下≪(現明仁上皇)≫ないし宮内庁/安倍内閣の判断はおかしい。
 (サイパンでの慰霊を既に行っていただいているところ、)いい加減、(一貫して本土扱いであった)硫黄島での慰霊を行っていただきたかったし、海保<船での宿泊>よりも自衛隊での宿泊を先行させていただきたかった・・・。↓
 「・・・足を運<ばれる>激戦地ペリリュー島では、日本政府が設置した「西太平洋戦没者の碑」に加え、米軍の慰霊碑にも供花<され、>・・・宿泊先には海上保安庁の大型巡視船を初めて利用<され>る・・・」
http://www.asahi.com/articles/ASH3S5GC6H3SUTIL02J.html?iref=comtop_list_nat_n02 ・・・」(コラム#7563)
 また、海保の船ではなく、自衛艦を使われるのが旧陸海軍軍人達の慰霊という慰霊目的に照らして筋だし、この巡視船に両陛下が宿泊する部屋を設ける工事をした(典拠省略)ことも、どうせカネをかけるのなら、海上自衛隊には、例えば、迎賓艇があって、「はしだて」が1999年に就役していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%A0%E3%81%A6_(%E7%89%B9%E5%8B%99%E8%89%87)
のだから、同艇を改装する方が、改装後にその部屋を別用途に活用できる・・同艇は病院船としても使用される(上掲)・・ことから、費用対効果上、より適切だったはずだ。
 これは昭和天皇の話ではないが、日本の上層における家論の継承性に鑑みれば、その子たる天皇は、昭和天皇の意向を受け継いでいると見るべき。
 天皇家の執念めいたものがひしひしと伝わってくるが・・。

E:そもそも、「≪昭和天皇も今上陛下(現明仁上皇)も、自衛隊の部隊や機関の公式訪問を一度もしておられない。
 今上陛下(現明仁上皇)は、≫<国内では、遅きに失したきらいはあるが、慰霊目的で平成6年に>硫黄島<にも>訪問<をされているが、それ>に続いて≪自衛隊部隊がいない≫父島訪問≪も≫されてい<るところ>、そちらでは「視察」を何か所かでされている<というのに>、≪自衛隊部隊がいる≫硫黄島ではされて<おらず、>・・・自衛隊部隊「視察」・・つまり公式訪問・・を徹底的に避けられていることが明確に分か<る>。」
 なお、昭和・今上両天皇が、自衛隊の栄誉礼
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%84%E8%AA%89%E7%A4%BC
を単独で受礼されたことがないばかりか、日本を訪問した外国元首が自衛隊の栄誉礼を受礼する際においてまで、国際慣行に反して巡閲に同行されてこなかったこと、外国を訪問された際に、これまた国際慣行に反して、同外国軍の栄誉礼を受礼する際に、巡閲に駐在武官等の自衛官ではなく、同外国の武官を随行させてこられたこと、
http://www.sankei.com/premium/news/161105/prm1611050018-n1.html
も思い出し・・・た。」(コラム#9370)
 これは、いかなる存念に基づくものだったのだろうか?

 Aは、昭和天皇が、1943年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が戦死し、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E4%BA%94%E5%8D%81%E5%85%AD
5月29日には、アッツ島で日本軍守備隊が玉砕した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%84%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
頃までには敗戦を予期し始めた、と、私は想像しており、カイロ宣言から、米英が日本の無条件降伏まで戦うと宣言したところ、その無条件降伏とは、日本の陸海軍が占領軍の管轄下に置かれて解体される、ということを意味する(注4)、と受け止めた上で、天皇制の継続(国体の維持)を確保するために、占領が形式上終了しても、実質的には占領を継続してもらい、日本の陸海軍が解体された状態、すなわち、日本が武装解除された状態を恒久化することを見返りとして連合国に提供することを決意したからだ、と私は考えるに至っている。

 (注4)「1943年11月27日にカイロ宣言が発された後、12月1日にはラジオを通じて「カイロ・コミュニケ」(Cairo Communiqué)が発され、連合国が日本の無条件降伏まで軍の配備を続ける(軍事行動を継続する)と宣言した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E4%BC%9A%E8%AB%87
 「米国の、国際慣行法をまとめた戦時法の手引き(野戦マニュアルFM27-10『陸戦法』)では無条件降伏について「無条件降伏は、軍隊組織を無条件に敵軍の管轄下に置く。両当事国による署名された文書を交わす必要はない。戦時国際法による制限に従い、敵軍の管轄下に置かれた軍隊は、占領国の指示に服する」(478条)と定義している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E9%99%8D%E4%BC%8F

 更に踏み込んで言えば、昭和天皇は、自分もそうであるところの北朝系の歴代天皇が、明治、大正両天皇と自分自身とを除き、軍事に直接には関わらなかったこと、かつまた、明治、大正両天皇(と自分自身)が軍事嫌いであったこと、をも踏まえつつ、自分の代で天皇制の継続が危ぶまれるような事態に陥ったのは、日本に国軍(国家の軍隊)が存在し、(国際法上)天皇がその日本の元首である以上、天皇が直接軍隊に関わろうと関わるまいと、観念的、かつ国際的、には、天皇が、即、国軍の総司令官であるとみなされるところ、その国軍が暴走したからなのであり、日本に武装放棄さえさせれば天皇制が恒久的に継続する可能性が顕著に高まるはずであると考え、そうすることとし、但し、それだけでは非武装の日本が外国の侵略を受けて天皇制が廃止されてしまうというリスクが残るので、連合国の中の世界覇権国である米国を全面的に信頼することにして、その米国に日本の国際的安全の確保を依存することとし、その担保として米国の軍隊を日本に駐留してもらおう、と決意した、と私は考えるに至っている次第だ。
 Bは、昭和天皇が、日本の敗戦は必至であること、天皇制の継続(国体の維持)だけを条件として降伏することとし、降伏時期を模索すること、この条件を連合国に受け入れてもらうために、占領が形式上終了しても、実質的には占領を継続してもらい、日本の国軍(陸海軍)が解体された状態、すなわち、日本が武装解除された状態、を恒久化することを見返りとして連合国に与えることにしたい、と、貞明皇后に申し出、この申し出を受け入れてもらったのだ、と私は想像するに至っている。
 (なお、私は、この時を含め、貞明皇后は、杉山構想を昭和天皇に対してついに明かすことがないまま、1951年5月に亡くなった、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
と見ている。
 昭和天皇にすら明かさなかったとすれば、他の子供達の誰にも明かさなかったはずだ、とも。)
 貞明皇后をもってすれば、昭和天皇が考えるようなことなどお見透しだったと思うのだが、彼女自身は、天皇制の存続にさほどの思い入れはなかったものの、藤原家出身の自分と、天皇家の当主である昭和天皇とは立場が違うし、昭和天皇にさえ杉山構想を明かさず、彼を傀儡として利用し、彼自身と天皇制とを窮地に追い詰めたことに自責の念と憐憫の情があったので、(ソ連の対日参戦こそまだだったが、)杉山構想が近々ほぼ完遂されるであろうことは分かっていたこともあり、昭和天皇の申し出を了としたけれど、退出する時点には昭和天皇は精神的にも肉体的にも疲労困憊するに至っていた、ということではなかったか。


[香淳皇后・昭和天皇・キリスト教]

 香淳皇后は、「1907年(明治40年)9月2日、学習院女学部幼稚園に入園。・・・幼稚園では皇族は他の在籍児童らとは別室で昼食をとるが、そのとき妹の信子女王の他、後に自身と結ばれる迪宮<(みちのみや)>裕仁親王(後の昭和天皇)と淳宮雍仁親王(後の秩父宮)と同室であった。教諭の野口幽香・・・は、この様子を見て迪宮と良子女王の縁組を予感した。・・・
 <3月6日の>皇后誕生日には恩師でもある<無教会派(公会主義)プロテスタント(注5)の、この>野口幽香を<毎度>招き歓談していたが、<1942>年初めて、野口は皇后からキリスト教(聖書)の講義を行うよう求められた。このことは女官長保科武子や女官伊地知幹子も支持し、皇后宮大夫広幡忠隆も尽力した。同年4月から1947年(昭和22年)まで、計15回にわたり野口から進講を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E6%B7%B3%E7%9A%87%E5%90%8E

 (注5)「1910年(明治43年)、東京二葉独立教会(現在:日本基督教団東中野教会)を設立する」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E5%8F%A3%E5%B9%BD%E9%A6%99
 「日本基督教団(・・・United Church of Christ in Japan)は、1941年6月24日に日本国内のプロテスタント33教派が「合同」して成立した合同教会であり、公会主義を継承する唯一の団体である。・・・
 1942年11月26日、富田満統理は昭和天皇に拝謁。 「畏くも天皇陛下におかせられては軍団多事の際、政務殊の外御多端に亘らせ給うにも拘らず、特別の思召をもって26日午前10時宮中において各教宗派官長、教団統理者に拝謁仰付けられた。」 富田満統理は、この日の光栄を次の如く謹話した。 「本日特別の思召を以って私共宗教団体の代表者に対し、拝謁を賜りましたことは、宗教界においては全くはじめての光栄でありまして宏大深遠なる聖慮の程洵に恐悦感激に堪えないところであります。申すまでもなく今日は大東亜戦争完遂のため、我国は総力を挙げてこれに邁進しているのでありますが、私共は特に宗教報国のために感奮興起して愈々一致協力祖国のため、大東亜共栄圏建設を目指して、凡ゆる時難を克服して行かねばならないと思います。この日の感激を銘記して超非常時局に當り、匪躬の誠を致して聖恩の万一に答え奉らんことを期せねばならないと存じます。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9F%BA%E7%9D%A3%E6%95%99%E5%9B%A3

⇒香淳皇后の戦中における実質的なキリスト教入信は、師が香淳皇后と昭和天皇の共通の「恩師」であったこと、かつ、無教会派キリスト教は国策に協力的で各派が合同したばかりであり、これを盛り立てることは国策に反することでは全くなかったので、女官長達が積極的に賛同したのは当然だが、私は、昭和天皇の後押しもあったと見ている。
 というか、昭和天皇は、明治天皇を崇敬しており(コラム#省略)、日蓮宗信徒の貞明皇后の秀吉流日蓮主義・・繰り返すが、日蓮主義については、コラム#12813参照・・に辟易し、対抗するための精神的寄る辺を密かに、(野口幽香に触発されて)無教会派キリスト教に求めていて、その影響で、香淳皇后も無教会派キリスト教に強い関心を抱いていたのではなかろうか。
 そして、かかる背景の下、誰にも文句を言われない絶妙のタイミングを選んで、香淳皇后はキリスト教の本格的勉強を始めた、と見たらどうだろうか。
 問題は、日本における無教会派キリスト教の祖とも言うべき内村鑑三が、キリスト教信徒になったのは、札幌農学校の校長ら米国人お雇い外国人の感化を受けたからであり、キリスト教の洗礼を受けたのは米メソジスト教会の宣教師からで、その後、米国に留学し、アマースト大学とハートフォード神学校でキリスト教神学の勉強をしている人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89
だという点だ。

 つまり、無教会派キリスト教は、米国を理想視するバイアスを内包しており、そのことが、昭和天皇・香淳皇后夫妻の、米国への揺るぎない信頼感を醸成した可能性が高い、と私は見ている次第だ。 蛇足ながら、吉田茂だって、妻の雪子がカトリック教徒であったことから、自身も隠れカトリック教徒であったと言ってもよさそうな人物だったけれど、カトリック教会は、当時まではプロテスタント中心の米国とは緊張関係にあり、また、先の大戦においては、日本にシンパシーを寄せていた(コラム#省略)ので、事情は全く異なる。(太田)

 そして、Cだが、昭和天皇・香淳皇后夫妻が、揺るぎない信頼感を抱いていた米国、と日本とが、恒久的に庇護者、被庇護者、としての麗しい関係を維持していくためには、皇位を継いでいく者達が米語を巧みに操り、米国の思想と習慣を身に着ける必要がある、と考えたからだろう。
 Dは、軍隊もどきの自衛隊が、天皇の公式訪問で認知されることで、軍隊へと生まれ変わる万が一の可能性を排除するためだろう。
 (私は、同じことを、最初は、戦後の政府の安保政策への迎合と受け止め、次いで、戦後の政府の安保政策への不快感の表明と受け止め、ついに、戦後の政府の安保政策変更を許さないとの意思表示であるとの受け止めへと至ったわけだ。
 正解に到達するまで、なんともはや、長年月がかかったものだ。)
 最後に、Eだが、他に手段が事実上ないので自衛隊が管理運用する政府専用機は使用せざるをえないけれど、他に手段がある場合は、たとえ、国費を余計にかけても、(できる限り公式接触の機会を作りたくない)自衛隊の輸送手段以外を使用するという強い意思表示だろう。
 サイパン訪問に関して言えば、(政府専用機のクルーは部隊とまでは言えないけれど、)宿泊可能な自衛隊の艦艇の場合は、それぞれが小なりとはいえ、れっきとした部隊である以上、それに乗艦して旅行し、宿泊することは、自衛隊の部隊の公式訪問にあたるからでもあるからだったに違いあるまい。
 蛇足ながら、上皇陛下に対する私の誤った期待をもたらしたものとして、(昭和天皇ともどもの)陛下の戦前史に係る的確な諸発言(コラム#省略)、と、皇太子時代における政府長期留学生帰国後の留学生達との懇談会の席上での中川八洋(注6)への注目(後日の東宮御所への招待)(コラム#省略)、があるところ、今にして思えば、前者は必ずしも史観の「適切性」を示すものではないし、後者は、(別のクルーだったので、中川の懇談会での発言を直接聞いていないのだが、)彼が自分の考えの中の日本を正常な国にすべき的な部分ではなく尊王部分を語り、それに(皇太子たる)上皇陛下が今時珍しいと関心を抱かれたということに過ぎなかった可能性が大だ。

 (注6)1945年~。東大工(宇宙)卒、同終始、科学技術庁入庁、スタンフォード大政治学科修士、筑波大教授、等。
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E5%85%AB%E6%B4%8B

 3 吉田茂と私の昭和天皇戦後日本米国属国化首謀者説

 養父吉田健三(1849~1889年)の「妻は、儒学者佐藤一斎<(注7)>の孫・士子(ことこ)。・・・
 <健三は、>狩猟が趣味で、自ら狩猟協会を立ち上げて副会長に就任している。因みに、会長には公爵近衛篤麿を擁立している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%89

 (注7)佐藤一斎(1772~1859年)。「朱子学が専門だが、その広い見識は陽明学まで及び、学問仲間から尊敬をこめて『陽朱陰王』と呼ばれた。門下生は3,000人と言われ、一斎の膝下から育った弟子として、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠<等。>・・・吉田松陰は玉木文之進への手紙の中で「林家、佐藤一斎等は、至って兵事をいふ事を忌み、殊に西洋辺の事共申候得ば、老仏の害よりも甚しとやら申される由」と書いて、西洋嫌いに失望している。・・・
 斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録<である>・・・言志四録<は、>・・・指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書だった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E

 「戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、<養父が亡くなった>1889年(明治22年)2月、耕余義塾<(注8)>に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業すると、10年余りに渡って様々な学校を渡り歩いた。

 (注8)主な塾生 吉田茂 – 内閣総理大臣 中島信行 – 衆議院議長 中島久万吉 – 商工大臣、古河電気工業初代社長 鈴木三郎助 – 味の素創設者 鈴木忠治 – 味の素第2代社長、内閣顧問 山梨半造 – 陸軍大将<ら>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%95%E4%BD%99%E5%A1%BE

 同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍を置くが、商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年中に慶應義塾・東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学しているがいずれも中退。1897年(明治30年)10月に学習院に入学、1901年(明治34年)8月に旧制学習院高等学科(のちの旧制学習院高等科、学習院大学の前身)を卒業した。同年9月、当時華族の子弟などを外交官に養成するために設けられていた学習院大学科に入学、このころにようやく外交官志望が固まった<。>

⇒「耕余義塾を別にすれば、最も注目すべきことが二つある。一つは、国粋主義者杉浦重剛率いる日本中学で吉田が薫染されたことである。杉浦はのちに(大正三年) 東宮御学問所御用掛に就いて皇太子( 昭和天皇) に倫理を進講するが、彼の儒教道徳論と皇室崇拝が吉田に与えた影響は深大である。日本中学は、文字通り日本主義運動の教育的実践の場であった。国体と教育の合一を目指す重剛の全人教育 が、わずか一年間とはいえ、少年吉田茂にすぐれて「日本的なるもの」を覚醒させていったことは間違いない。  
 いま一つ注目すべきは、学習院長近衛篤麿(文麿の父)の存在である。近衛家は五摂家筆頭の家門である。篤麿は、明治一八年から二三年までドイツ、オーストリアに留学してのち貴族院議員、貴族院議長になり、二八年<(1895年)> には学習院長 に就いている。学習院大学科は明治二七年に 一度廃止されたのだが、これを復活させたのが 近衛院長であった。彼が大学科復活を企図したのは、 陸海軍軍人エリートの養成に加え て 外交官の卵を育てようとしたからである。吉田が明治三四 年、学習院高等学科を出て更に進んだその行き先は、まさに近衛が外交官育成を目指して再興したこの大学科であったというわけである。」(原彬久『吉田茂-尊皇の政治家』※より)ということからして、耕余義塾を別にして、どの学校も飽き足らず、また、自分の進路も決めかねていた吉田茂が、幼い時から面識があった近衛篤麿のところへ、魚心あれば水心的に吸い寄せられていき、その結果として、吉田は、熱烈な秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になり、恐らくは、「兵事をいふ事を忌」んだ佐藤一斎の孫たる義母によって育てられたこととは関係なく、単に年齢的に薹が立っていたことから、陸海軍ではなく外務省を進路に選ぶこととなったのではないか。
 なお、杉浦から吉田が大きな影響を受けたとは思えない。
 杉浦は東亜同文書院院長も務めているので秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者と目されてはいたのだろうが、肝心の裕仁親王の同信奉者化に失敗しただけではなく、同親王の御后選びの際に「久邇宮家と結んで、山縣有朋に対抗した」ところ、同コンセンサス信奉度が不十分であったという感が否めないからだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E6%B5%A6%E9%87%8D%E5%89%9B ←事実関係(太田)

 <しかし、>大学科閉鎖に伴い1904年(明治37年)同年9月に<、当時、一般的にそうだったが、>無試験で東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官および領事官試験に合格し、外務省に入省する。同期入省者には首席で合格した広田弘毅<等がいる。>・・・
 
⇒「明治40年2月、吉田は・・・奉天総領事館詰の領事官補・・・として外交官生活のスタートを切り<、>・・・明治42年<(1909年)>3月、・・・ロンドン総領事館詰に任ぜられてイギリスに出発する直前、牧野の長女雪子と結婚している。吉田30歳、雪子19歳であった。・・・「牧野さんは当時場末の領事館補に、娘をやろうとは思わなかったろうと、下馬評専らであった」とは、同期入省の武者小路公共の言である・・・。」(※)ということからして、私の推測は、近衛篤麿が牧野に吉田を強く推薦したというものだ。
 篤麿は、東亜同文会初代会長を1898~1904年の間努めているが、(1904年に篤麿は亡くなっているところ、)牧野は第4代会長を1918~1936年の間努め、その後、その座を篤麿の子の文麿に譲っている
https://www.wikiwand.com/ja/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
ことから、近衛家と牧野とは極めて親しい間柄であったと考えられる上、篤麿と牧野は、ホンモノの秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者として同志であったと見てよく、篤麿が幼少の時から知っていたところの、学習院時代の教え子の、吉田、のアジア主義的志向の強さと人物とを見込んで、牧野に熱心に勧めた結果、薹が立っていて入省成績もばっとせず、しかも、賜下休暇で一時帰国している時くらいにしか牧野が直接吉田と会って瀬踏みをすることが不可能であったにもかかわらず、牧野は篤麿の仲人口を疑うことなく、雪子を吉田に嫁がせることにしたのではなかろうか。(太田)

 当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを<支那>大陸で過ごしている。<支那>における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた。中華民国の奉天総領事時代には東方会議<(注9)>へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官に就任する<(注10)>。

 (注9)東方会議は、元老山縣有朋の意向を受けて、当時、原敬内閣の陸相だった田中義一が1921年5月16日に開催を提案し実現した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1921%E5%B9%B4)
ことがあったのを、田中が首相になってから、久しぶりに、再度、1927年6月27日から7月7日まで、開催した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E4%BC%9A%E8%AD%B0_(1927%E5%B9%B4)
ものだ。
 (注10)「<当時、>吉田は、外務次官のポストを得ようとしたが、首相<兼外相>の田中義一にいったん拒絶され、スウェーデン公使に出されることになった。吉田は首相官邸に乗り込み、田中に向かって長時間に渡り、次官の自己推薦のための口舌をぶち、その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、外務次官になってもらうよ。まさか異論はないだろうね」ととぼけた口調でいわれ、吉田は驚きつつも次官就任を快諾した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 前掲
という有名な話があるが、(私自身の役所時代における、人事をやったりやられたりした経験に照らすと、)役所、しかも、外国勤務ポストが半分くらいを占める外務省のキャリア人事・・長大な玉突きになる・・を、短期間で変更することなど、(次官予定者をスウェーデン大使に回すバカチョン方式をとれば可能だが、それならその人物名が取り沙汰されるはずなのにその形跡が全くない以上そうではなかったとすると、)事実上不可能なのであって、実際のところは、吉田の岳父の牧野が、「戦後」吉田を首相に就けるためには、まず次官をやらせた上で英国か米国の大使をやらせて箔付けする必要があると考え、「同志」の田中に話をして決めたのであって、以上の挿話はメーキングだと思った方がよかろう。
 なぜ、メーキング挿話をでっち上げる必要があったのだろうか?
 戦後の外務省キャリア出の首相は、幣原、吉田、芦田の三人で、いずれも占領時代に首相に(初めて)なっている・・その後、外務省キャリア出の首相はゼロだ、ということは、占領軍との折衝が不可欠となる占領時代の首相候補として他の候補達に対して英語力で大いに比較優位に立てたからだろう・・ところ、「幣原は<、>外務省本流の政務局やその系譜を継ぐ亜細亜局、欧米局の経験がほぼなく、幣原派は傍流扱いされた通商局に多かった。亜細亜局を占める大陸派は軍との関係も深く、外務省の本流だった。このため、亜細亜局内に足場を欠く幣原は、十分な指導力を発揮できなかった。満州事変でも不拡大方針を関東軍に無視されると、省内の亜細亜派の意見に押し切られ、事変拡大を容認してしまった。」
https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E-%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%94%E8%AA%BF%E3%81%AE%E5%A4%96%E6%94%BF%E5%AE%B6%E3%81%8B%E3%82%89%E5%8D%A0%E9%A0%98%E6%9C%9F%E3%81%AE%E9%A6%96%E7%9B%B8%E3%81%B8-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2638-%E7%86%8A%E6%9C%AC-%E5%8F%B2%E9%9B%84/dp/4121026381
と、次官になるまでに、外務本省の枢要ポスト経験がある・・芦田均(1887~1959年)は、トルコ在勤時代に論文を書いて東大の博士号を取り、(ということは、恐らくだが、「内職」ばかりしているような人間であって職務・・外交官の仕事は人的ネットワークの構築and/or情報収集が仕事であり、時間をかければかけるほど仕事がはかどる・・に精励していないとみなされたこともあり、)しかるべき枢要ポストにつけてもらえなかったので、自分は次官にはなれないと外務省に見切りをつけて入省20年目の1932年に同省を辞め、その後衆議院議員をずっと務め、その間にジャパンタイムズの社長を務めたりしており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%A6%E7%94%B0%E5%9D%87
外務省以外でのキャリアが長いので吉田の比較対象にはなりえない・・のに対し、吉田にはなく・・本省勤務は文書課長心得のみ!・・、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 前掲
従って彼は、本来、次官になる「資格」などなかったにもかかわらず、そんな人物が次官になったことを外務省内外の人々に納得させるためには、御伽噺程度の代物ではあれ、何らかの「挿話」が必要だった、ということだろう。

⇒吉田は、紛れもない最強硬の秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者たる外交官として活躍を続けるわけだ。
 その上でだが、私は、山縣有朋が1922年(大正11年)2月に亡くなる前には、杉山元に白羽の矢を立て(すぐ下の囲み記事参照)、秀吉流日蓮主義/島津斉彬今センサス完遂構想の策定を命じていて、杉山はジュネーブ勤務、初代航空機課長を経ての1923年(大正12年)からの軍事課長時代にそれを概成し、1928年(昭和3年)の軍務局長時代にこの構想を完成すると共にその実施に着手した、と、見るに至っている
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html ←年代
ところ、当然、貞明皇后や西園寺と共に牧野もこの構想を知っていたけれど、牧野は、あえて、この構想を吉田には伝えなかったと見ている。
 その理由は二つあって、一つは、牧野と近衛家の縁、かつまた、パリ講和会議で吉田茂が近衛文麿と個人的にも親密な関係を構築していたはずであること、から、杉山構想を吉田に伝えると、口止めしても、それが、何かの拍子ででくの坊で傀儡としてしか使い物にならない文麿に更に伝わってしまう可能性があり、今度は文麿から第三者達へ構想がどんどん漏れて行ってしまう恐れがあったし、文麿が予見できない反応を示す恐れもあったので、そういったことを避けたかったこと、と、もう一つ、こちらの方が大きいのだが、構想を知った吉田が、構想完遂の一端を担ってしまうことを、吉田を「無垢」の状態で置いておいて終戦後に日本の戦後処理にあたらすことが念頭にあった牧野としては避けたかったこと、による、と私はふんでいる。(太田)


[杉山元が選ばれた理由]

〈杉山元帥伝記刊行会編(1969)『杉山元帥伝』、原書房〉から、杉山評を紹介しよう。↓

 「杉山(元)大尉は陸軍大学校を卒業し、参謀本部々附として第二部(情報担当)員となった。そのとき初めて英米班が作られ、杉山はその編成に参画した。杉山が後年大をなす素因の一つは情報勤務によって眼を世界情勢の大局に向けしめたところにあった」(pp.20-1)・・・
 「情報に就いての視野が広く、また、その構想<が>非凡であった」(p.23)。・・・
 「陸軍航空の発祥のころからこれに関係し(中略)航空への関心と理解の抜群であることは自他共に認めるところであった」(pp.26-7)・・・
 「杉山はインド駐在武官の末期、中近東の戦場を視察して、飛行機の活躍状況と機甲部隊の威力、すなわち近代戦の様相を実地について研究することができた」(p.29)・・・
 「近代戦で優先するものは航空と電探であるとして、その優先に献身的努力を傾注された」(p.256)
 もとより、インド駐在武官であったことから、杉山が、秀吉流日蓮主義者を含むアジア主義者達にとっての「解放」対象たる英領インド帝国、ひいては、その本国/宗主国たる英国を含む大英帝国全体、について通暁していたことも大きかったはずだ。
 以下は、白羽の矢が立った以後のことも含まれている。↓

 元陸軍大臣宇垣一成<の杉山評:>「陸軍省の課長として局長として次官として、軍務の整理や軍の科学化や、国家総動員の創始や、国民訓練の創設等の重大機務に、私を助けて参画されるところ・・・精励恪勤、承詔必勤、誠に敏腕」(pp.263-4)・・・」
https://twishort.com/R5Ubc から孫引き

 これに加えて、杉山夫人の啓子と貞明皇后との間に下田歌子を介した接点があったこと(コラム#12535)も考慮された可能性がある。

 [外務次官吉田茂<は、>ロンドン<海軍>軍縮会議のさなか、少なからず政治的な動きをしていた<。>・・・
 吉田は岳父牧野内大臣とともに最初から<英国と米国の>「七割」には拘泥していない。・・・
 例えば彼は、・・・<1930年>3月23日、牧野の手引きで海軍の長老山本権兵衛元首相と会う。
 軍令部長加藤寛治らの反「条約」に危機感を抱いた牧野に勧められて、吉田は「加藤(寛治)封じ」を山本に頼んだのである。・・・
 吉田はまた、山本との会見に先立って元老西園寺公望を興津・・・に訪ねる。・・・
 岡田啓介ら海軍主流派(条約派)とも吉田が絶えず連携していたことはいうまでもない。
 しかし、吉田のこうした「対米妥協」・「条約推進」の動き<は>、右翼および軍部強硬派から激しい反発を招<いた。>
 軍部はこのロンドン条約成立の過程で、反「米英」・反「宮中」を強めつつ、天皇側近牧野に連らなる体制側の”幕下”吉田茂への反目を深めていくのである。(※)]

⇒私見では、杉山元が陸軍省軍務局長になった1928年頃・・但し張作霖爆殺事件より後・・から杉山構想は実行に着手されたのであり、ロンドン海軍条約締結もその一環であって、一、杉山構想完遂のために必要最小限の陸軍経費・・戦争経費ではない!・・を確保する目的で、海軍経費の伸びを抑制するためであり、二、英米に対し、彼らの構築した国際秩序に日本が挑戦する意図があることを気付かせるのを遅らせるためである、とともに、三、若手士官達や民間のアジア主義者達等に対して「君側の奸」が軍事費を抑制して英米屈従政策を推進しているという印象を振りまき、彼らをテロやクーデタに駆り立てることで日本に杉山構想完遂のための有事体制を樹立するため、だった、というものだ。
 これは、リスキーであり、「君側の奸」である西園寺も牧野も、テロやクデータで殺される恐れがあることを自覚していたはずだ、と。
 だからこそ、彼らは、途中からは、吉田をできるだけ外地に置こうとした↓、とも。(太田)

 1931年より駐イタリア大使、但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた。・・・

⇒杉山構想を知らされてなかったこともあり、(ソ連(ロシア)ファクターを吉田がどう考えていたのかは定かではないけれど、)独伊と組んでも、英米と戦って勝てるわけがないのだから、吉田ならずとも、「ドイツとの接近<を>・・・警戒」するのは常識的には当然であり、いずれにせよ、吉田も、そしていわんや牧野も、「親英米派」などでは全くなかったのだ。(太田)

 1936年(昭和11年)の二・二六事件<の後、>・・・大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。

⇒このあたり、近衛、廣田、と、吉田、の関係が分かっていない人には腑に落ちないだろうが、私見では、寺内寿一らは、牧野/杉山の意向を受けてそうしたのだ。
 なお、牧野から、杉山元(事実上陸軍そのもの)に対して、(近衛にはもちろん教えるわけがないが、)吉田にも杉山構想を教えてはいないことを知らせてあったはずだ。
 他方、(恐らく牧野から、)廣田には(一切他言無用、近衛にも吉田にも教えるつもりはないと断った上で)杉山構想を教えてあった、と、私は見ている。
 廣田は、頭山満が組織した玄洋社の社員であり、その頭山は近衛篤麿らとも親密な関係にあった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 ☆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%B1%B1%E6%BA%80 ★
からだ。
 (ちなみに、廣田の妻は玄洋社の幹部の娘だ(☆)し、1944年の頭山の葬儀の葬儀委員長は、その時点では元総理であった広田弘毅が務めている(★)。)
 「1930年(昭和5年)10月、駐ソビエト連邦特命全権大使を拝命(任地モスクワ着任は12月)し、1932年(昭和7年)にかけて務めた。着任後、満州事変が勃発。政府は軍を直ちに撤兵させる旨を各国政府に通告するよう駐在大使・公使に訓令を出したが広田は慎重な態度をとり、ソ連に通告を出さなかった。関東軍は撤兵することなく永久占領の形でチチハルに居座り、駐在大使・公使が各国政府の信頼を失う中、モスクワだけが例外となった。」(☆)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%94%B0%E5%BC%98%E6%AF%85 前掲
ということは、既にその時点までに廣田が杉山構想を教えられていたことを示していると思う。
 (他方、頭山には、彼が民間人だったから当然だが、杉山構想が教えられることはなかったはずだ(★)。(太田)

 <そして、吉田は、今度は、>2か月後に駐イギリス大使となった。・・・

⇒原は、「吉田を「気の毒に思った」広田が、・・・彼に「駐英大使」のポストを用意した<ことが彼の>・・・「運命の岐れ路」であった。・・・吉田が広田内閣の外相であったなら、果して彼は広田の・・・A級戦犯として処刑された・・・「責任」と無関係でありえたであろうか。」と書いている(※)が、そうではなく、そういったことも念頭にあったからこそ、牧野が杉山元に「指示」して吉田が廣田内閣の一員にならないように陸軍から外務省に圧力をかけさせた上で、今度は廣田に対して吉田を海外に送り出すよう「指示」した、と私は見ているわけだ。(太田)

 駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。・・・
 [<やがて、>日独防共協定<(注11)締結が議論されるようになり、そ>・・・の重要性からして、主要在外公館の大公使から了解を得ておきたいというのが外務省および軍部の考えであった。

 (注11)共産「インターナショナル」ニ対スル協定=Abkommen gegen die Kommunistische Internationale。日独間で1936年(昭和11年)11月25日調印。
 「締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、1937年(昭和12年)11月にイタリアが原署名国として加盟し、日独伊防共協定と呼ばれる三国協定となり、1939年(昭和14年)にはハンガリーと満州国、スペインが参加したことによって6カ国による協定となった。
 しかし、同年8月23日締結の独ソ不可侵条約によって事実上の空文となった。その後、1941年(昭和16年)5月の独ソ戦開始により反共という概念が再び利用され、11月25日には本協定の改定が実施されるとともに、ブルガリア王国、ルーマニア王国、デンマーク、スロバキア、クロアチア独立国、フィンランド、中華民国南京政府(汪兆銘政権)が加盟している。1945年5月のドイツの降伏によって事実上失効した。
 1933年(昭和8年)に国際連盟を脱退した日本では、国際的孤立を回避するために同様に国際連盟から脱退したドイツおよびイタリアと接近するべきという主張が日本陸軍内で唱えられていた。また、共産主義国家であるソビエト連邦は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では1935年(昭和10年)7月に開催された第7回コミンテルン世界大会で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していると考えられた。また駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将は、かつて日露戦争の際にビョルケ密約によってロシア帝国とドイツ帝国の提携が成立しかけ、背後を気にする必要が無くなったロシアが兵を極東に差し向ける恐れがあった事例をひき、ユーラシアにおけるソビエト連邦とドイツの提携を断乎排除する必要があると唱えていた。
 ドイツ側の対日接近論者の筆頭であったのは、総統アドルフ・ヒトラーの個人的信任を得ており、軍縮問題全権代表の地位にあったヨアヒム・フォン・リッベントロップであった。リッベントロップはこの協定を、イギリスを牽制するためのものとして準備していた。国家社会主義ドイツ労働者党には、外務全国指導者のアルフレート・ローゼンベルクがいたが、日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えて躊躇していた。ヒトラーはリッベントロップを将来の外相であると評価していたが、外相となるには「手柄を挙げることが必要」と考えていた。
 一方でドイツ外務省は、日本が建国した満州国承認も行わず対日接近には消極的で、極東情勢に不干渉の立場をとっていた。コンスタンティン・フォン・ノイラート外相は「日本は我々になにも与えることができない」と評価していた上に、「第一次世界大戦において日本は、日独間に特に紛争があったわけでもないのに連合国側についた」とみなして日本に悪印象を抱いていた。
 さらには、リッベントロップが外務次官の地位を要求していたにもかかわらず、外務省側ではこれを拒否するなど両者には強い敵対関係があった。このため11月26日の調印式にいたるまで、ドイツ外務省はこの協定交渉を一切関知しようとしなかった。また、ドイツ国防軍は伝統的に親中華民国路線であり、政府の方針とは独自の中華民国支援路線をとっていた(中独合作)。・・・
 <リッベントロップの>この動きは国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス中将に察知されたが、彼は「対ソ同盟」を主張しており、国防軍の大勢と異なり、リッベントロップらと協力する動きを開始した。・・・
 大島からの報告を受けた日本陸軍参謀本部は、参謀総長閑院宮載仁親王が「ベルリンでの作業計画」を裁可し、交渉のために参謀本部欧州課独逸班長若松只一の訪独を承認した。・・・
 1936年(昭和11年)1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。・・・
 <しかし、>2月に二・二六事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。その後広田弘毅が首相となり、5月8日に外相有田八郎は駐独大使武者小路公共に「両国間に事項を限定しない漠然たる約束」をする趣旨の指令を行った。しかし参謀本部は大島少将に「日ソ戦が勃発した際に中立を守る」規定を盛り込むように指令した。・・・
 1936年・・・11月25日、ベルリンのリッベントロップ事務所で協定の調印式が行われた。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側は<当時駐英大使だった>リッベントロップが行った。・・・
 陸軍以外は協定締結に積極的ではなく、元老西園寺公望は「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本はむしろ非常な損をしたように思われる」ともらしており、<駐日ドイツ大使の>ディルクセンも日本外務省・海軍・財界の態度が冷淡であると報告している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E5%85%B1%E5%8D%94%E5%AE%9A

 ところが、他の大公使すべてが防共協定に賛意を示すなか、一人「反対」を表明したのが駐英大使吉田茂である。・・・
 防共協定の・・・秘密附属協定は、仮想敵を「コミンテルン」ではなく「ソ連」そのものとすることを明示しており、締約国の一報がソ連から攻撃あるいは攻撃の脅威を受けた場合、他方はソ連の助けとなる一切の措置をとってはならない(第一条)、という内容を含んでいる。・・・
 この秘密附属協定はほぼ完全に・・・駐独陸軍武官大島浩とナチス党外交部長リッベントロップとの間い・・・の密議でつくられたといえよう。(※)]

⇒原はあたかも大島が下剋上で防共協定を推進したような書きぶりだが、若松只一(1893~1959年)は、ドイツ駐在武官を務めた前歴もあり、かつ、大島とは違って陸軍の中枢を歩んだところの、対英米開戦時に杉山元参謀総長を参謀本部総務部長として支えることとなる人物であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%9D%BE%E5%8F%AA%E4%B8%80
(大島とは違って)ナチスドイツのいかがわしさを熟知していたと想像しているが、交渉の端緒を作っただけの大島に事実上代わって、この若松が、参謀本部直結で協定内容を詰め、その上で廣田首相が締結したものであり、その狙いは、第一に、ソ連の対日開戦を、日本が対英米戦を開始するまでの間は抑止し、また、開始後も当分の間、躊躇させるためであり、また、第二に、ナチスドイツを対日本軍を主目的とする中独合作
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%8B%AC%E5%90%88%E4%BD%9C
・・中華民国国民党政権は親ソ政権でもあった(典拠省略)・・から手を引かせるためだった、と私は見ている。
 西園寺の愚痴は、第二が担保されていない点を指摘したものだと思われる。
 (中独合作は、翌1937年8月の中ソ不可侵条約締結を契機にようやく解消される。(上掲))
 吉田や東郷の反対は、(吉田の赴任先の英国政府のナチスドイツ観も同様だった(典拠省略)が、)ナチスドイツのいかがわしさを見抜いていた故で・・東郷の妻はユダヤ系ドイツ人だった・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3
、かつ、二人とも杉山構想を教えられていなかったからだろう。(太田)

1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。(※)

⇒吉田が待命状態になったのも、牧野がそう取り計らったからだ、と、私は見ている。
 既に日本にとっての先の大戦は1931年に発動され、この頃は酣となっており、対英米開戦までには吉田を政府から遠ざけ、終戦まで「無傷」のままにしておく必要があったからだ、と。(太田)

 「1941年(昭和16年)10月、東條内閣に外務大臣として入閣<した>・・・東郷<は、>天皇と東條の意を受けて日米開戦を避ける交渉を開始した。まず北支・満州・海南島は5年、その他地域は2年以内の撤兵という妥協案「甲案」を提出するが、陸軍の強硬な反対と、アメリカ側の強硬な態度から、交渉妥結は期待できなかった。
 このため、幣原喜重郎が立案し、吉田茂と東郷が修正を加えた案「乙案」が提出された。内容としては、事態を在米資産凍結以前に戻す事を目的とし、日本側の南部仏印からの撤退、アメリカ側の石油対日供給の約束、を条件としていたが、中国問題に触れていなかった事から統帥部が「アメリカ政府は日中和平に関する努力をし、中国問題に干渉しない」を条件として加え、来栖三郎特使、野村吉三郎駐米大使を通じて、アメリカのコーデル・ハル国務長官へ提示された。
 その後アメリカ側から提示されたハル・ノートによって、東郷は全文を読み終えた途端「目も暗むばかり失望に撃たれた」と述べ、開戦を避けることができなくなり、ハル・ノートを「最後通牒」であると上奏、御前会議の決定によって太平洋戦争開戦となった。吉田茂は東郷に辞職を迫ったが、今回の開戦は自分が外交の責任者として行った交渉の結果であり、他者に開戦詔書の副署をさせるのは無責任だと考えたこと、自分が辞任しても親軍派の新外相が任命されてしまうだけだと考えてこれを拒み、早期の講和実現に全力を注ぐことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3

 「吉田がこのハル・ノートに初めて接したのは、11月27日である。
 この日、東条内閣外相東郷茂徳の意向で吉田に同ノートの写しが渡され、吉田はこれを外務省側の希望に沿ってさっそく岳父牧野伸顕にみせている。

⇒ここからも、引退していた牧野が、事実上の元老と見なされていたことが分かる。(太田)

 牧野は同ノートを一読するや、敵意横溢するその文面に反発してこう慨嘆する。
 「この書き方は随分ひどいな」・・・。
 しかし牧野は続ける。
 「そもそも明治維新の大業は、西郷、大久保など薩摩の先輩が非常な苦心を以て大帝を補佐して成就したものである。
 今日もし日米開戦するに至り、一朝にして明治以来の大業を荒廃せしむるようなことあらば、当面の責任者の一人たる外務大臣として、陛下および国民に対して申訳ないことであるのはもちろんだが、郷党の大先輩に対しても可向けできないというものだ」・・・。
 薩摩出身の牧野は、同郷の後輩である東郷外相に対して郷党意識を喚起しつつ、戦争回避による明治体制堅持を訴えたわけである。

⇒これは、「開戦直前まで日米交渉を継続したことが、アメリカ側からは開戦をごまかす「卑劣極まりないだまし討ち」として、終戦後に東郷が極東国際軍事裁判で起訴される要因の一つとなった」(上掲)ことが物語っているように、牧野は、開戦直前であることを知っていたからこそ、東郷に対して、米国を怒らせるべく、御託を並べて、あえて開戦直前まで日米交渉の継続を「指示」した、というのが私の見方だ。(太田)

 吉田の「対米開戦」回避工作が牧野の意向と重なりながら展開していくのは、いうまでもない。
 吉田は東郷との会談で、まず牧野の言葉を直接伝えるとともに、ハル・ノートが決して「最後通牒」ではないことを執拗に訴えている。
 吉田は回想する。
 「(ハル・ノートの)特に左の上の方にテンタティヴ(試案)と明記し、また『ベイシス・オブ・ネゴシエーション(交渉の基礎)であり、ディフィニティヴ(決定的)なものでない』と記されていた」・・・。
 つまり「実際の腹の中はともかく外交文書の上では決して最後通牒ではなかったはずである」・・・、というのが吉田の主張であった。
 彼は東郷にこういい放つ。
 「君はこのことを聞き入れなかったら外務大臣を辞めろ。
 君が辞めれば閣議が停頓するばかりか軍部も多少反省するだろう。
 それで死んだって男子の本懐ではないか」・・・。
 吉田は東郷との会見後、米駐日大使グルーと会う。
 グルーは「卓を叩いて語調も荒く」こう捲し立てた。
 「日本政府はあれを最後通牒なりと解釈し、日米間外交の決裂の如く吹聴しているが、大きな間違いである。
 日本側の言分もあるだろうが、ハル長官は(ハル・ノートが)日米交渉の基礎をなす一試案であることを強調しているのだ」・・・。
 吉田はグルーの申し入れを受けて「グルー・東郷会談」を東郷に迫るが、東郷は「言葉を濁して会う気配はなかった」・・・。
 このハル・ノートを「日本に対する挑戦状」(『時代の一面』)とみる東郷からすれば、グルーとの会談はもはや意味をもたないものであった。

⇒貞明皇后・牧野伸顕・杉山元は、かなり早期から1945年12月に対英米開戦と決めていた、と私は見ており、開戦直前の外相として、東郷を、使い捨てできる人物として杉山が起用した、ということだったのではないか。
 実際、東郷は、外務省を受け始めるまではドイツ文学者になる気だったのであり、29歳の時に3回目にしてようやく外交官試験に合格し、その時の成績も大したものではなかったようである上、英語圏での勤務は、43歳にもなってからの3年間の駐米大使館勤務だけであって(上掲)、短期間のものを含め、英、米、英、英、と4度にわたる英語圏での勤務のある吉田<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 前掲>
等の外交官に比して、英米にも英語にも土地勘において遜色があったことが、彼のハル・ノートの誤解に繋がったと思われるし、何よりも、彼は、駐ソ大使まで務めながら、二度目の外相の際、ソ連を全く理解しておらず、ソ連を仲介者とする和平工作を試みるという愚策を追求する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E8%8C%82%E5%BE%B3 前掲
ような、外交センスの欠如した人物だったのだから、まさに、うってつけだったわけだ。(太田)

 とまれ、「日米開戦」はこの頃すでに一個の既定事実として独り歩きしていた。
 吉田は東郷との会談後、秩父宮および高松宮に会って戦争回避を訴えるが、そのときの高松宮の言は印象的である。
 「君、もう遅いよ」・・・。
 確かに「軍部はすでに行動を開始し、連合艦隊は(ハル・ノートの数日前の)11月22日すでに千島列島沖で待機して」・・・いたのである。
 グルーのみならず、「かねてから親交のあった」クレーギー英国駐日大使とも「往復を重ね」て努力した吉田の「開戦回避」は、闇夜の”遠吠え”の如く空しく消えていった。

⇒クレーギーは、「日本軍の強さ」を強調しつつ、「日本との宥和」を本国政府に求めて不興を買った(コラム#省略)ところ、前者は正しかったけれど、後者は、杉山らが対英米開戦を至上命題としていた以上、間違いだった、ということになる。(太田)

 吉田が「対米開戦」阻止に動いて、しかもそれが「全く徒労に帰した」となれば、現実となった対米戦争を今度は早期和平にもっていこうというのは当然である。
 吉田の和平工作に最初のきっかけを与えたのは、開戦翌年のシンガポール陥落であった。・・・
 彼は天皇側近の一人松平康昌<(注12)>(内大臣秘書官長)から木戸内府の意中を聞いたとき、みずからの密計をいよいよ現実のものとして考え始めるのである」・・・。

 (注12)1893~1957年。「松平康荘の子として生まれる。・・・京都帝国大学法学部卒<。英仏留学。侯爵。>・・・妻は徳川家達<(前出)>二女の綾子。・・・息子に松平康愛(1916年生まれ)がいる、が、>軍人として1945年6月に若くして戦死した<。>・・・式部官長在任のまま死去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E6%98%8C
 松平康荘(やすたか。1867~1930年)は、「旧福井藩主家(越前松平家)第18代当主、侯爵。・・・父<は>松平茂昭(福井藩第17代藩主)<で>母<は>芳野菅子(漢学者芳野金陵の子女<で>・・・妻<は>節子(ときこ、松平慶永五女、松平斉民養女)<。>・・・<慶應義塾、英留学。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BA%B7%E8%8D%98
 松平茂昭(もちあき。1836~1890年)は、「越後国糸魚川藩7代藩主(越前松平家分家9代)、越前国福井藩17代(最後の)藩主。維新後は福井藩知事、侯爵となる。・・・養父<が>松平春嶽<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E8%8C%82%E6%98%AD

⇒先の大戦の対英米戦期に、薩摩の大久保利通の子(牧野伸顕「元老」)、長州の木戸孝允の甥の子(内大臣)、越前の松平慶永の孫(内大臣秘書官長)、尾張の徳川義勝の孫(徳川義寛侍従(前出))、そして近衛忠煕の曽孫(文麿)、ら、が天皇の周辺にいたわけだ。これは、偶然ではなく、牧野が、後世の人々へのメッセージ性も勘案して、というか、これも私の言う手掛かりとして、そういう人事を行ったのではないか、ということに今気付いた。(太田)
 
 つまり、・・・木戸らは、戦局有利のこのときを「和平の好機」としたのである。・・・
 「この(木戸の)話を聞いて私は、ひそかに私だけで考えていた近衛公をスイスに派遣し和平工作を進めることもあながち実現性がないでもないと、若干自信を持つことが出来た」・・・。
 吉田から計画を打ち明けられた近衛は「おどろいた風であった」・・・。
 吉田は近衛にこう説く。
 「海空からでは甚だ危険であるが、朝鮮、満州からシベリア鉄道を利用すれば多少の困難はあってもスイスまで行けないことはない。
 貴方はジュネーヴの湖で釣りでもしていてくれればよい。
 英米蘭各国との交渉は私が走り回る」・・・。
 かくして吉田は、近衛の希望で木戸内府に話を通すことになる。
 <1942>年6月11日付木戸日記はこうのべている。
 「吉田氏来訪、近衛公渡欧の案につき別紙の如き意見を公に提出したる趣を以て、余の意見を求めらる」・・・。
 しかし吉田の観測によれば、同計画は東条首相に気兼ねした木戸その人によって「握りつぶされた」・・・。
 当時「和平」への動きをみせていた近衛を警戒して、その言動を「充分取締まる必要がある」と木戸に圧力をかけていたのは、時の総理東条英機であったからである・・・。

⇒こんなもの、牧野の「指示」を受けて、木戸が、木戸日記にそのようなことを記すためだけに吉田を踊らせたに決まっています。
 その目的は、終戦後に、吉田を首相にして終戦処理に当たらせるために吉田の占領軍提出用の履歴書に吉田の「反戦」活動を盛って記すことができるようにすることだった、と。(太田)

 さて・・・昭和19年<(1944年)>7月には、・・・サイパン失陥をみるに至る。・・・
 もはや「早期終戦」しかないとする、時の軍需次官岸信介(国務相)と、あくまで「戦争継続」を主張する東条首相との対立は、ついに内閣そのものを瓦解させる。

⇒この頃から始まる岸の「反戦」活動については、今のところ、(吉田のケースとは違って、)彼の自発的な動きだと受け止めているが、詳細は、早ければ次回のオフ会の「講演」原稿あたりで、岸論を展開する折に譲る。(太田)

 以後、小磯内閣を経て昭和20年4月、米軍の沖縄上陸と踵を接するかの如くついに終戦内閣が生まれるのである。
 天皇に最も信任の厚い鈴木貫太郎首相の登場であった。
 実はこの鈴木内閣誕生に前後して、・・・駐英大使を辞して「浪々の身」になった昭和14年以後6年余の間、憲兵から「英米派」の危険人物として、すなわち「外事要視察人」として監視されてきた吉田は、・・・ついに・・・昭和20年4月15日<に>・・・憲兵隊に連行、逮捕される・・・のである。
 時を同じくして近衛の側近殖田<(うえだ>)俊吉<(注13)>、ジャーナリスト岩淵辰雄<(注14)>が逮捕されている。

 (注13)東大法卒、大蔵省に入り、田中義一内閣総理秘書官等を経て1933年退官、「第二次世界大戦末期に近衛文麿の側近として吉田茂らと戦争早期終結の工作に加わるが、東京憲兵隊にヨハンセングループとして検挙された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%96%E7%94%B0%E4%BF%8A%E5%90%89
 (注14)1892~1975年。早大文中退、政治記者、政治評論家。「岩淵は1936年3月から反統制派の新聞記者として知られていた。その年彼は憲兵隊に呼ばれ、<二・二六>事件をめぐる状況や、統制派の中国侵略計画について批判的な記事を書くことを禁じられた。同年9月までには、彼は<支那>は華北において対日長期消耗戦を行う用意があると確信するようになり、1937年には、近衛文麿に説いて総理就任を固辞させ、日本の侵略の責任をまともに軍部に負わせようとしたが、果たせなかった。その一方で岩淵は早くから皇道派を使って統制派を追放することを唱え続けていた。彼の見るところ、皇道派は陸軍内部で主な対抗派閥であるばかりでなく、軍は政治に関与せずの原則を掲げ、かつ反ソ反共思想であるという点で、彼と同じく「自由主義的」価値観を持っていた。
 太平洋戦争末期の1945年初め、岩淵は近衛や吉田茂を中心とした、いわゆる「ヨハンセングループ(吉田反戦グループ)」による早期終戦の和平工作に参加して「近衛上奏文」の草稿作成に関与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%B7%B5%E8%BE%B0%E9%9B%84

⇒殖田俊吉は1927年の東方会議の時に、吉田茂と接点があり、
https://w.atwiki.jp/kingendaishiryo/pages/14.html
恐らく、吉田が近衛に紹介したのだろう。
 (上掲を読むと、陸軍出身の田中義一の(殖田が自分自身と比較しているのであろうところの)優秀さが良く分かるが、そこから、例えば、杉山元の優秀さが、更に推し量れる、というものだ。
 なお、張作霖爆殺事件が起こった1928円6月4日は、杉山が、国際連盟陸軍代表から(8月10日に)軍務局長になる
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E7%9C%81
直前であり、まだ、杉山構想の最終的な詰めをしていた、と見るのが自然なので、この爆殺事件自体は杉山構想に依拠したものではないと思っている次第だ。)(太田)

 これら逮捕が陸軍中央の決定であったことはいうまでもない。・・・

⇒憲兵は陸軍大臣の所管であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E5%85%B5_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D)
吉田らの逮捕は、陸軍大臣が4月7日に杉山から阿南惟幾に代わった直後だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
が、吉田は「元勲」牧野の「息子」であり、恐らくは、杉山が、自分の「同志」たる上官筋でもある牧野に対して、吉田逮捕について予め伝え、その了承を取り付けていたに違いない。
 牧野は、(穏便に済ますとの意向が杉山から伝えられていたことだろうが、)それが、吉田にとって更に勲章になると考え、「快諾」したことだろう。(太田)

 もともと・・・対<英>米開戦前、陸軍防諜当局は、国の秘密事項がすぐさま英米公館などに握られてしまうのは、「親英米」政治家・外交官が英米側と何らかの「密絡」をもつためだと睨んでいた。
 その彼らがついに「原田メモ」なるものを手に入れたのである。
 西園寺の秘書原田熊雄<(注15)>が記した国家重要情報に関する記録の一部である。

 (注15)1888~1946年。「地質学者・原田豊吉・・・の長男として・・・生まれる。・・・
 学習院高等科から京都帝国大学へと進学し、同級生の近衛文麿や木戸幸一、織田信恒など華族の子弟たちと交流をもった。この人脈は、のちに「宮中革新派」と呼ばれるようになる華族の政治的グループ(十一会)への関与に見られるように、彼の政治的背景を形作ることとなった。
 1910年(明治43年)、祖父・原田一道の死去に伴い家督を継承し、1911年(明治44年)1月23日、男爵を襲爵。母親がハーフ([ユダヤ系]ドイツ人武器商人と日本人妻との娘)のため、クォーターである熊雄は日本最初期の混血の華族となった。
 京都帝大卒業後の1916年(大正5年)に日本銀行に入行するが、6年後に退行。宮内省嘱託として<欧州>を見聞した後、1924年(大正13年)から加藤高明内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。
 1926年(大正15年)7月、住友合資会社に入社。事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月、元老・西園寺公望の私設秘書に就任。このことは日銀退行時から西園寺と近衛や木戸の間で話が進められていた。・・・
 1931年(昭和6年)1月17日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、死去するまで三期15年を務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E8%B1%8A%E5%90%89 ([]内)

 陸軍はこの「原田メモ」によって、「吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別荘にあって、クレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実」を知ることになるのである(同前)。・・・
 東条内閣の時代に牧野の秘書下<園>佐吉<(注16)>が逮捕されたのは、この文脈に照らして極めて示唆的である。

 (注16)『牧野伸顕伯』(人文閣(昭15))という著作がある人物らしい、というくらいしか分からなかった。
https://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp/denki_ma.html

 さて終戦の年に入るや、・・・陸軍防諜当局・・・に一つの重大転機が訪れる。
 「近衛上奏」である。・・・
 陸軍が統制派を中心に国家社会主義から更に科学的社会主義ともいうべき共産主義へと向かって「親ソ連」に染色されているという<、この上奏の中で近衛が唱えた>説は、当時根強く流伝していた。・・・
 これについては、戦後、吉田も同じことを言っている。
 「現に戦争中にも軍部は大分、左翼化していた。
 満州国の如きは右翼の連中のやったことではなくて、左翼の思想で作られたのである」(『大磯随想』<(注17)>)。

 (注17)雪華社(1962年9月)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3034999

⇒吉田は、これがトンデモ流言飛語の類の話であったことを戦後に知ったはずにもかかわらず、こういうことを記したのは、近衛上奏文の作成に当時関与した自分を正当化しておく方が無難だと思ったからだろう。(太田)

 ところで、吉田が逮捕された直接の理由は、ほかでもない、この近衛上奏文の作成に彼自身関与したからである。
 吉田の話を聞こう。
 「忘れもしない、その年の2月13日夜、近衛公が平河町の私の家へ訪ねて来た。
 (中略)近衛公はその夜、翌日拝謁の際に捧呈する内奏文の草稿を示してくれた」が、「私は公のこれら意見には全く賛成であったので、2人して内奏文の補校に努めるとともに、私はその写しをとり、夜の更けるまで語り合った」・・・。
 「写し」は「牧野伯に見せて欲しいという公の希望」に従ってつくられたものだが、実は「これが憲兵隊に捕われる証拠品の一つ」となったのである・・・。
 留置場での吉田はおおむね厚遇された・・・。・・・
 5月2日、東部軍法会議に書類が送付され、ついに吉田は不起訴処分となるのである。
 ・・・兵務局を中心とした幕僚は強く起訴を主張したが、けっきょく、阿南陸相の裁断で不起訴と決定した・・・。

⇒予定通りといったところだが、少なくとも、卒業当時の東大法基準では大秀才であった岸信介でさえ、ほぼ同じ内容のトンデモ流言飛語を信じていた(コラム#省略)のだから、大秀才とは到底言えそうもない吉田を、これを信じていたからといって批判するのは酷かもしれないが、甚だもって情けない限りではある。
 もちろん、何度も指摘しているように(コラム#省略)、東大法では(というか日本のどこの法学部でも・・法科大学院ができてから以降は知らないが・・)、論文を全く書かずに卒業することができ、その場合、学問的トレーニングを一切受けないから、陰謀論とまともな仮説とを弁別する能力もまた身につけることができない、というハンデを卒業生は負っている。
 しかし、全てをこのハンデのせいにするわけにはいくまい。
 結局のところ、岸も吉田も、(吉田の場合は、たとえ岳父の牧野に問いただしていたとしても、杉山構想を伝えることに繋がりかねないので何も教えてくれなかったのではないかと想像されるところ、)陸軍の中枢に位置する軍人に、フランクに話ができるような友人がいなかった、というか、作れなかった、いや、更に端的に言えば、作ろうとする努力が極めて不十分だった、ということなのだろう。
 そんな友人がおれば、そんなトンデモ流言飛語など笑い飛ばされて目が覚めたことだろう。
 なお、吉田は、駐英大使だった時の駐在武官であったことから、陸軍の辰巳栄一とは親しかったけれど、辰巳は、大島がドイツに関してそうであったのと同様、英国に関する駐在武官要員としての「色物」キャリアを歩んだ人物であり、二人とも陸軍の中枢に位置する軍人ではなかった。
 (ちなみに、辰巳栄一は、1942年9月から1945年3月まで東京勤務であり、1942年10月からは中将だったので吉田と、当時も交流があった可能性が高い。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%B7%B3%E6%A0%84%E4%B8%80
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E6%B5%A9 (太田)


[四つの共同謀議説]

一、共同謀議:統制派アカ説(近衛上奏文) 

 「海軍には支那事変の勃発以前から陸軍統制派アカ論が存在した。海軍大将の山本英輔<(注18)>は、斉藤実内府に送るの書(昭和10年12月29日)の中で、政府が一向に荒木、真崎の陸軍皇道派の要望に応えない為に、革新将校が「意気地がなく手緩い、最早上官頼むに足らず、統制派の方がマシだ」といい、我が国体に鑑み皇軍の本質と名誉を傷つけることなきを立て前とし、大元帥陛下の御命令にあらざれば動かないと主張する皇道派を見限り、統制派の勢力が拡大しつつあることを指摘し、「始めは将官級の力を藉りて其目的を達せんと試みしも容易に解決されず、終に最後の手段に訴えて迄もと考える方の系統がファッショ気分となり、之に民間右翼、左翼の諸団体、政治家、露国の魔手、赤化運動が之に乗じて利用せんとする策動となり、之が所謂統制派となりしものにて、表面は大変美化され居るも、其終局の目的は社会主義にして、昨年陸軍のパンフレット<(注19)>は其の真意を露わすものなり。

 (注18)1876~1962年。「海軍兵学校第24期、海軍大学校第5期卒業。・・・ドイツ駐在武官や海軍大学校校長、練習艦隊司令官等を経て、1927年(昭和2年)に新設された海軍航空本部の初代本部長に就任した。その後は横須賀鎮守府司令長官や連合艦隊司令長官といった要職を歴任している。
 政治的にはロンドン海軍軍縮条約に反対しており、いわゆる艦隊派に属していた。また、陸軍皇道派の活動に理解を示していたことから1936年(昭和11年)の二・二六事件の際には、一時陸軍から暫定内閣の首班候補に擬されたが、首相には広田弘毅が就任し、山本英輔内閣は誕生しなかった。事件後、陸軍将校の被告達や真崎甚三郎陸軍大将との関係が濃いと見られたことから危険視され予備役に編入された。この時に中村良三、小林躋造の両大将も予備役に編入されている。なお海軍は二・二六事件に強硬な態度を取り、軍事参議官会議で、末次信正、中村、小林は海軍兵力による武力討伐に賛成したが、山本は反対であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8B%B1%E8%BC%94
 (注19)陸軍パンフレット=国防の本義と其強化の提唱。「原案は、いずれも東京帝国大学への派遣学生であった池田純久(当時少佐・経済学部)、四方諒二(当時少佐・法学部)らによって作成され、鈴木貞一班長<と、次の>・・・根本博班長<と>を中心とした新聞班の検討を経たのち、永田鉄山軍務局長の承認、林銑十郎陸軍大臣の決裁を得て発行された。内容は北一輝の『日本改造法案大綱』をより具体化したようなものであった。
 同パンフレットの内容は陸軍主導による社会主義国家創立・計画経済採用の提唱であったため多くの論議を呼んだ。・・・
 作成に関与したのは統制派に属する将校たちだったが、当時対立していた皇道派も表立っては反対しなかった。・・・
 「朝日新聞」は掲載をしなかったため陸軍から呼び出されたが、10月6日の社説で「啓蒙的価値あり」と支持を表明した。「毎日新聞」は10月7日の社説で、パンフレットに直接の言及は無かったが「軍事費の膨張は仕方ないこと。異論などあるはずがない」と軍への賛同を示した。・・・
 革新系の中野正剛や赤松克麿は賛意を表明し、なかでも社会大衆党の書記長麻生久は「パンフレットに沿って進まないものは、社会改革活動の落伍者である」との熱烈な賛辞をおくった。・・・
 美濃部は「陸軍発表の国防論を読む」という論文で「国家既定の方針を無視し、真に挙国一致の聖趣にも違背す」と批判した。美濃部は陸軍の怨嗟を受け、すぐに天皇機関説問題として糾弾されることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%98%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E3%81%A8%E5%85%B6%E5%BC%B7%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%8F%90%E5%94%B1

 林前陸相、永田軍務局長等は之を知りてなせしか知らずして乗ぜられて居りしか知らざれども、其最終の目的点に達すれば資本家を討伐し、凡てを国家的に統制せんとするものにて、ソ連邦の如き結果となるものなり」と警告を発していた・・・。・・・

⇒(第一次世界大戦の時の欧州諸国の前例に倣い、)有事下にある日本も総動員体制の構築が必要である、というのは、欧米全体を敵視する「統制派」だろうが、ソ連を最も敵視する「皇道派」だろうが、陸軍の当時のまともな将校達共通の常識であり、この陸軍にとっての常識を国民の常識とするために、件のパンフレットが作成されたというのに、山本は、それをスターリン主義の情宣文書的なものと見なしたわけであり、海軍の将校達の上澄みの知的能力と彼らが海軍で受けた教育内容が東大法卒者に毛が生えた程度であったことが推し量れるというものだ。
 恐らく、(海兵が陸士よりも難易度が低かった上、)陸軍大学校とは違って、海軍大学校の教育内容に、(陸大に比して技術面の比重が大きくならざるを得ないというやむなき事情に加えて、)人事・社会事象を的確に把握する力・・学問的精神・・の涵養に資するものが一切なかったのだろう。
 また、彼らにすら、陸軍上層部に、ざっくばらんに話ができる友人がいなかったらしいことは更に衝撃的だ。
 それにしても、「小林躋造海軍大将<は、>・・・岡田啓介海軍大将から陸軍内に斯くの如き恐るべき動きのある事を薄々聞いて<いた>」というのだから、どうやら、この山本説は、齋藤實→(その後継首相の)岡田啓介→小林躋造、という経路で伝わっていったようであるところ、この3人の海軍将官達の中のただ一人として、この話に疑いの念を抱かなかったようであることには言葉もない。
 齋藤と岡田は実に首相、小林だって翼賛政治会総裁や国務大臣、を務めているのだから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%AE%9F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E5%95%93%E4%BB%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9E%97%E8%BA%8B%E9%80%A0 
戦後首相を務めた吉田や岸を嗤えない、というか、戦前に比して、戦後、歴代首相の知的レベルが落ちたとは必ずしも言えない、わけだ。(太田)

 昭和18年1月、近衛文麿は参考として木戸に書簡を送り「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と告げた。・・・

⇒恐らく、近衛も、海軍の将官達の誰かから、この山本説を聞かされたのだろうが、軍部内の或一団・・統制派!・・の「所謂革新政策の全貌」とは一体どんなものだったのか、知りたいものだ。(太田)

 同年4月、中野正剛と共に東條首相を批判していた三田村武夫<(注20)>代議士が荻外荘を訪問し近衛と会談した。

 (注20)1899~1964年。「岐阜県揖斐郡川合村(現・大野町)生まれ。警察講習所(現・警察大学校)卒業。内務省警保局、拓務省管理局勤務を経て、1937年、衆議院議員に当選し議員活動を開始。・・・
 1943年9月6日 – 警視庁に逮捕される(言論、出版、集会、結社等臨時取締法違反)
 1946年2月 – 公職追放
 1951年8月 – 追放解除
 1963年11月 – 第30回衆議院議員総選挙に自由民主党(岐阜1区)から立候補、当選」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%94%B0%E6%9D%91%E6%AD%A6%E5%A4%AB

 三田村は1928年(昭和3年)6月から内務省警保局、拓務省管理局に勤務し、左翼運動の取締に従事しながら国際共産主義運動の調査研究に没頭した後、衆議院代議士となり、第七十六回帝国議会衆議院の国防保安法案委員会(昭和16年2月3日)では、日本の上層部が戦時防諜体制の大きな抜け穴になっていることを問題視して近衛首相を叱咤し、世間から危険視されても国家の為に徹底的に、第三国の思想謀略、経済謀略、外交謀略、政治謀略、中でも最も恐ろしい、無意識中に乃至は第三者の謀略の線に踊らされた意識せざる諜報行為に対する警戒と取締を強化するように政府(第二次近衛内閣)に要求していた。
 荻外荘の近衛を訪問した三田村は、戦局と政局の諸問題について率直な意見を述べ、「この戦争は必ず敗ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と近衛を詰問したところ、近衛は珍しくしみじみとした調子で、第一次第二次近衛内閣当時のことを回想し、「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力に操られていたような気がする-」と述懐した。・・・

⇒海軍将官達から聞いていた陰謀論とほぼ同じものを、相互に全く交流がなさそうな、内務省の役人上がりの代議士からも、別途聞かされた結果、近衛は完全にこの陰謀論を信じ込んでしまったわけだ。
 この三田村に至っては、高等教育を全く受けていないのだから、そもそも、マルクス主義とスターリン主義の違いも、総動員体制のなんたるかも、全然分かっていなかったのではなかろうか。(太田)

 <以上>と同じ趣旨の<こと、端的に言えば、アカたる陸軍統制派による陰謀論、>・・抑々満洲事変・支那事変を起し、之を拡大し、遂に大東亜戦争に迄導き来れるは、是等軍部内一味の意識的計画なりしこと今や明瞭なりと思はる<、という陰謀論>。・・<が、>昭和20年2月14日に・・・木戸内大臣・・・侍立<の下で、>・・・近衛から昭和天皇に上奏された・・・。・・・
 <また、>上奏の前、近衛は書き上げた「近衛上奏文」を持って吉田茂邸を訪れた。吉田もこれに共感し、牧野伸顕にも見せるために写しをとった<。>・・・

⇒吉田もまた、陸軍統制派アカ論に同意だったわけだが、そもそも、彼が、それ以前から陰謀論に傾いていたのかどうか、また、仮に傾いていたとしてそれがどちらかと言えば自分で到達した、それとも、どちらかと言えば他人から聞いた、陸軍統制派アカ論的なものだったのか、といったことを知りたいところだ。
 いずれにせよ、このレベルの陰謀論に同意した、ということは、吉田も、そして、近衛その人も、およそ高等教育を受けた人間であるとは言い難い。
 もう一度繰り返しておこう。
 この2人が、それぞれ、東大法、京大法卒だったことは偶然とは思えない。
 (その前身を含む)東大法学部から始まったと言ってよい、日本の大学の法学部は、論文を書かせない以上、高等教育の場たりえないのだ。
 (法科大学院ができてからの法学部がどうなっているのかは知らないが・・。)
 (もとより、吉田や岸や近衛の青年時代の日本の(潜在的競争相手たる)同世代人口は戦後長い間のそれよりも少なかった上に、戦前の東大法であれ、カネ等の面から、限られた者しか旧制高校(ないしその相当校)に進学しなかったこと、及びその学生のレベルが、陸士>海兵、出身者のレベルより下だった(コラム#省略)、ということも忘れてはなるまい。)(太田)

 三田村は、近衛上奏文を「近衛が自分の経験と反省を述べ、自分が革命主義者のロボットとして躍らされたのだと告白するもの」と評し、敗戦後に長年にわたる自分の調査研究と政治経験、そして自分が入手した企画院事件、近衛文麿のブレーントラスト昭和研究会に結集していた企画院革新官僚および朝日新聞社出身のソ連スパイ尾崎秀実や三木清ら共産主義者の戦時中の好戦的な言動と思想、ゾルゲ事件、ソ連およびコミンテルンの世界戦略に関する多数の証拠資料に依拠して、近衛上奏文に該当する具体的事実を解剖し、近衛内閣の軍事外交内政政策の背後にソ連の対日諜報謀略活動があったことを指摘した。三田村の資料と論究は1950年3月に「戦争と共産主義-昭和政治秘録」(民主制度普及会)として出版され、馬場恒吾(読売新聞社長)、南原繁(東大総長)、島田孝一(早稲田大総長)、小泉信三(元慶応義塾大学塾長)、田中耕太郎(最高裁判所長官)、飯塚敏夫(元大審院判事)の賛辞と支持を得た。これは後に遠山景久によって復刊され、晩年の岸信介(元首相)に大きな衝撃を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%B8%8A%E5%A5%8F%E6%96%87

⇒岸は吉田よりも(年次こそ違うが)東大法ではるかに「秀才」だったわけだが、この時点まで、統制派アカ論の存在すら知らなかったというのだから、かつまた、(極東裁判の論告等を通じて連合国製の共同謀議なる陰謀論をさんざん聞かされていながらそれと突き合わる努力を行った様子もなく、)聞いた途端にこの統制派アカ論を信じ込んでしまったというのだから、もはや平均的国民未満の知的レベルだ。
 この吉田と岸が、首謀者たる昭和天皇の指示を意識的/直接的ないし無意識的/間接的に受けて、どちらも結果としてではあるけれど、戦後日本の属国化戦略を制度化し、それぞれの「家」の更に劣化した子孫・・麻生太郎に至っては、シャーロキアンどころか、マンガ愛好家だ・・が未だに吉田と岸によって、結果として制度化されてしまったところの、戦後日本的「統治」、を続けているのだから、もはや、プロト日本文明回帰を押しとどめての日本文明の復活など望むべくもない、と言うべきだろう。
 (岸に関しては、簡単に後述。)(太田)

二、共同謀議・極東裁判説 

 「連合国によって東京市ヶ谷に設置された極東国際軍事法廷により、東条英機元内閣総理大臣を始めとする、日本の指導者28名を「平和愛好諸国民の利益並びに日本国民自身の利益を毀損」した「侵略戦争」を起こす「共同謀議」を「1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日」にかけて行ったとして、平和に対する罪(A級犯罪)、通常の戦争犯罪(B級犯罪)及び人道に対する罪(C級犯罪)の容疑で裁いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4

 ベルト・レーリンクの反対意見(単なる征服戦争説)より:「帝国日本の膨張を「征服戦争であり、不法な拡張であった」と規定し、「新秩序」を構築してアジアを解放しようとしたという被告側の主張を認めなかった。日本の覇権主義は1937年以後の日本政府要人の言動と政策によって確認され、状況に伴って変貌した態度にてアジア解放に対する偽善が露出すると説明した。例えは、1940年に東インド諸島の独立を支持するといった日本が1941年の戦争開始後の段階では日本に頼るよう画策し、やがて占領後には会合・結社までも禁止し、日本の領土として帰属させ、1944年に入って戦勢が不利になるとまた独立を約束しながら対日協力を誘導しようとしたと指摘した。

⇒独立を約束すること、と、戦時の現地人抑圧、とは次元の異なる話。(太田)

 結局、「共栄圏」スローガンは「日本のためのアジア」構築の策略であったという。・・・
 「新秩序」を立てようとした日本の野望が大戦の原因であったという点に疑いの余地がない。・・・ 
 「アジア人のためのアジア」というスローガンが支えた「新秩序」の概念に真実性があったか、それともドイツの国家社会主義のようなもう一つの内在的、理念的侵略の手段であったかを判断することは本裁判に本質的な関わりを持つ。本裁判に提示された証拠によれば「新秩序」概念は事実上は侵略の手段それ以上のものではなかった・・・。・・・」(上掲)

⇒戦時の現地人抑圧の証拠がいくらあろうと、そんなものは、独立させる意思が日本になかったことの傍証にすらならない。(太田)

 アンリ・ベルナールの反対意見(単なる征服戦争説)より:「日本の侵略陰謀の直接的証拠はなく、東アジアを支配したいという希望の存在が証明されたにすぎないから平和に対する罪で被告を有罪にすることはできない。」

⇒この二人の裁判官の意見は(ラダ・ビノード・パールの意見とともに)相対的にだが、全裁判官中最もまともだ。
 共同謀議・極東裁判説、に賛同した残りの裁判官達は、職業倫理に欠けているまさに曲学阿世達である、と断罪されるべきだろう。
 (傍論ながら、ベルナールが、「侵略戦争が犯罪になったのは1928年の不戦条約でなく、1945年8月のロンドン協定からであるとし」た点は面白いが立ち入らない。
 但し、「東アジアを支配したいという希望の存在が証明された」は残念な点。
 そんなことの証拠など、仮に終戦時焼却文書が全て無傷であったとしても、見つけることはできないはずだ。) 
 さて、極東国際軍事裁判所が設立されたのは1946年1月19日だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4 前掲
が、この時までに、「インド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。インドの民衆に伝わると国民的反発を各地で呼び、大暴動が勃発。インド独立運動の本格化につながっ<ており、>[要出典]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89
日本が先の大戦で勝利し、英国が敗北した、という自覚が英国には生じていた・・同じような自覚がオランダにも生じていた(典拠省略)・・と私は見ており、だからこそ、負けた自覚が皆無の米国では、(東京大空襲や原爆投下といった戦争法規違反を犯したという負い目もあって)余り見られなかったところの、英国・・及びオランダ・・で、戦後長きにわたる根強い反日感情の持続があった、と私は見ている次第だが、当然、それは、日本が周到になプログラムを策定し、それを実践したからだと想定せざるをえず、しかしながら、ドイツとは違って、日本はナチスドイツのように、(日本と違って敗北に終わったものの、それなりの)プログラムを策定したところの、ナチスのような団体があったわけではないので、止む無く、個人群の緩やかな結合というイメージに基づく共同謀議説を唱えるに至ったのだろう。
 なお、統制派アカ説は、極東裁判にソ連も裁判官や検事を送って参加している
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4 前掲
以上、公式に採用できないのは当然だが、裁判官達や検事達の中から、後になってからでさえ、統制派アカ説に言及した者が全く出なかったことは、いかにそれが荒唐無稽なものであるかを示していると言えるのではないか。(太田)

三、共同謀議・バーガミニ説 

 この説(コラム#10427以下)は、(西園寺は埒外と見なしている点や、大川をマークしている点では極東裁判説と同じだが、)共同謀議の起点を極東裁判説よりも7年前とした点と、牧野、杉山に着目した点や、いわゆる青年将校達と杉山との接点に注目した点、で優れている。
 (天皇が黒幕であると喉まで出かかっている点でも極東裁判説と同じだと言えよう。)
 もっとも、この二つの共同謀議説は、どちらも、統制派アカ説よりは、遥かに筋がいいと言えよう。
 他方、この二つの共同謀議説に共通する問題点は、太田コラム愛読者諸氏なら周知のことながら、共同謀議に基づく計画が策定されたのは、少なくとも19世紀後半まで、或いは16世紀後半まで、そして考えようによっては13世紀後半まで、遡るという点と、計画(plan)だけではダメで、プログラム(program)が策定されなければならないところ、秀吉が策定し、実行して以来、数世紀にわたってプログラムが策定されることがなかったところ、それが、今度は、いつ誰によって策定されたか、更に、それがいつ、実行に移されたか、を明らかにできなかった点だ。

四:共同謀議・太田説

 細部は省略するが、太田説が、聖徳太子コンセンサス、桓武天皇構想、日蓮主義、秀吉構想(この言葉は初登場)、島津斉彬コンセンサス、杉山構想、という流れからなることはご承知の通りだ。
 共同謀議の起点を厩戸皇子と見るか、日蓮と見るかは微妙なところだが・・。
 ここでは、杉山構想策定時期の推定を行っておきたい。
 社会教育研究所との関わり前後の杉山元の事績は次の通りだ。↓

1915~1918年 杉山元 インド駐在武官
1918年 杉山元 第一次世界大戦の中東戦線視察
        国際連盟空軍代表随員
        陸軍飛行第2大隊長
1921年3月 日本社会教育研究所開所(後、大学寮)(コラム#10427)
1922年2月1日 山縣有朋死去
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E6%9C%89%E6%9C%8B
1922年?月 杉山元 陸軍省航空課長(初代)
1923年 杉山元 陸軍省軍事課長
 ?  杉山元 国際連盟陸軍代表・・3年間務めたのでは?
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/S/sugiyama_h.html
1928年6月4日 張作霖爆殺事件(村岡長太郎関東軍司令官/河本大作関東軍参謀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E4%BD%9C%E9%9C%96%E7%88%86%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1928年?月?日 陸軍兵器本廠附(コラム#10435)
1928年8月10日 杉山元 陸軍省軍務局長
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%8B%99%E5%B1%80
1930年8月1日 杉山元 陸軍次官
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
1931年3月 三月事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 私は、杉山は、(陸軍に係る全重要情報が集約される)軍事課長時代に杉山構想を概成し(コラム#省略)、軍務局長になってからそれほど時間が経っていない頃に完成した、と見ているところ、張作霖爆殺事件の時には、異動待ち状態であったこともあり、それに関与しておらず、三月事件を企画した時点までに杉山構想が実行に着手された、と、現在のところ、考えている。
 但し、支那における連携相手として、毛沢東の中共(中国共産党)を選択したのは、(彼が同党の事実上の最高権力者になった)1935年になってからである、とも。

 そして、満州事変には、支那における連携相手を炙り出す目的もあった、とも。

 さて、・・・鈴木内閣は敗戦とともに総辞職した。
 後継首班の大命は、東久邇稔彦王に降下する。
 明治18年の内閣制度発足以来初めての「皇族総理」すなわち「宮様内閣」の誕生であった。
 吉田茂が戦後政治に登場するのは、まさにこのときである。
 東久邇内閣発足時の重光<(注21)>外相を更迭して、その後釜に吉田が収まったからである。・・・

 (注21)重光葵(まもる。1887~1957年)。「大分県大野郡三重町(のち大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・・・の次男として生まれた。・・・第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。文官高等試験外交科合格後の1911年(明治44年)9月、外務省に入省<。>・・・
 日本<が>国際連盟から脱退<した>・・・ころ重光は「欧米の国々は民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。・・・
 駐英大使<として、>・・・重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が<独伊>との日独伊三国同盟を締結し、戦争中の<英仏>のみならず、まだ参戦していない<米国>の対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。
 1941年(昭和16年)12月8日(日本時間)、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まる。日本は東南アジアの<英蘭米>などの欧米の植民地を次々と占領。外交官として重光はこれに対し「日本はいやしくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」と怒っている。 同年12月19日、駐英大使を被免、・・・駐華大使の発令を受ける。
 東條英機内閣・小磯国昭内閣において外相を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対した。しかしながら、東條首相のブレーンとして自らの主張を現実にするため、1943年(昭和18年)11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。・・・
 戦後日本を占領したGHQは、占領下においても日本の主権を認めるとしたポツダム宣言を反故にし、行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く方針を示した。公用語も英語にするとした。重光葵は、マッカーサーを相手に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを要求。その結果、占領政策は日本政府を通した間接統治となった。・・・
 A級戦犯<として、>・・・禁固7年・・・判決<を受ける。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%85%89%E8%91%B5

⇒重光は、吉田に比してナイーブな人物であるという印象を受けるが、思想的には吉田と似通っているところ、牧野の手はずの下で表舞台から斥けられたおかげで対連合国的に無傷のまま終戦を迎えることができた吉田とは違って、彼は、終戦後の占領下での活動を(後述するように)殆ど封じられてしまう。(太田)

 この外相交代劇の主導力の一つは、実は吉田茂・殖田俊吉とともに憲兵隊に逮捕されたあの岩淵辰雄であった。
 発足したばかりの東久邇内閣に、戦時中同じ「和平派」であった近衛文麿(国務相)、小畑敏四郎<(注22)>(国務相)が入閣して吉田を「置き去り」にしたことに怒った岩淵が、「外相」を重光から吉田に替える計画をまず近衛と小畑に了解させ、その計画を東久邇の信任厚い緒方竹虎書記官長にもち込んでいる・・・。

 (注22)小畑敏四郎(おばたとしろう。1885~1947年)。「<土佐藩士出身の>男爵小畑美稲の四男<。>・・・大阪陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1904年(明治37年)に陸軍士官学校を卒業(16期優等)。・・・陸軍大学校を卒業(23期優等)。・・・1926年(大正15年)に参謀本部作戦課長に抜擢<。>・・・1931年(昭和6年)12月、・・・再び参謀本部作戦課長<。>・・・
 荒木<やそ>の盟友である真崎甚三郎参謀次長の腹心として、皇道派の中枢と目されることになる。しかし同時期に参謀本部第2部長となった永田鉄山と対ソ連・支那戦略を巡って鋭く対立、1933年(昭和8年)6月の陸軍全幕僚会議で対ソ準備を説く小畑に対し、永田は対支一撃論を主張して譲らなかった。この論争が皇道・統制両派確執の発端となる。・・・
 1934年(昭和9年)1月に荒木陸相が辞任、後継を期待された真崎も閑院宮載仁参謀総長の反対により教育総監に回り、皇道派は大幅な後退を余儀なくされる。小畑は同年3月に陸大幹事、1935年(昭和10年)3月に陸軍大学校長となるが、陸軍内部の抗争は激化し、同年7月には真崎教育総監が更迭され、相沢事件で永田が斬殺される事態となる。1936年(昭和11年)2月、二・二六事件が勃発、部下である陸大教官の満井佐吉が事件に連座しており、小畑も監督責任を問われることになる。・・・同年3月には中将に進むが、粛軍人事により皇道派の一掃が図られ、小畑も同年8月に予備役に編入された。その後1937年(昭和12年)には、日中戦争にあたって召集を受け留守第14師団長に任ぜられたが、健康上の問題で召集解除となった。
 太平洋戦争の戦局が悪化すると、かねて親しい近衛文麿の、東條内閣打倒による終戦工作に関与し、憲兵隊の監視下に置かれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%91%E6%95%8F%E5%9B%9B%E9%83%8E

 折しも終戦連絡中央事務局(日本政府の対GHQ連絡調整機関)の所属問題で、同事務局を外務省の外局にしようとする重光と、これを内閣直属にしたいとする緒方とが対立していた。
 しかも、東条英機ら戦犯容疑者の逮捕が相次いだのを機に、ひとり強硬に内閣改造を唱える重光は明らかに政治的孤立に陥っていた。
 首相を除く閣員総入れ替えを迫る外相重光に、首相東久邇はこう申し渡す。
 「先般の(重光の)御進言を考慮し、木戸(内府)とも相談せるも、此際大がかりの改造は困難にして漸次実現する為め先づ風当りの強き貴大臣より更迭を希望する旨、(木戸より)要望あり」・・・。
 重光が即刻辞表を提出したのは、いうまでもない。
 いわば「吉田入閣」推進の勢いが「重光更迭」の流れと奇しくも合一した地点で「吉田外相」が実現したというわけである。

⇒吉田は、1945年8月15日の終戦の直後に、岳父の牧野伸顕(~1949年1月25日)から、(他言絶対無用との条件付きで)島津斉彬コンセンサスが杉山構想の実施によってほぼ完遂された旨を教えられた、と見る。
 (他方、昭和天皇は、終戦まではもちろんのこと、終戦後も、そういったことは貞明皇后を含め、誰からも教えられることはなく、亡くなるまで全く知らないままだった、と私は見ている。
 終戦後に杉山構想について教えられたのは吉田だけだ、と私は見ている次第だ。
 どうして、吉田にだけは教える必要があったかだが、吉田は、牧野が自身による序文付の『島津斉彬言行録』を1944年11月5日付で出版した時に、その出版目的は何なのか、と、かねてから不思議に思っていたことを牧野に問い質すとともに、本当のところ、あなたは一体何者なのか、そしてこの大戦にどのように関わったのか、とも牧野に問い質した筈であり、その時、牧野は、いずれ必ず教えると答えた可能性が高いし、また、これらの疑問に答えてやらない限り、終戦後に吉田に担わせる予定の「苦役」のよってきたる背景を吉田に的確に理解させることはできないと牧野が考えるのが自然だからだ。
 なお、杉山構想を戦後新たに誰かに教えることは絶対に控えなければならなかった。
 というのも、杉山構想中の、アジア(ひいては非欧米世界全体)の解放、と、ソ連(ロシア)の抑止、に関しては、終戦時点では「ほぼ」完遂されただけであって、引き続き、前者についてはソ連以外の欧米植民地宗主諸国、後者については、米英等、を対象に完全に行わせなければならなかったところ、これら諸国が、日本が実は戦勝国なのであって、その戦勝国から自分達敗戦諸国が行うべき任務を強制された、のではなく、誰からの強制でもなく自分達自身の意思でそれを行っているという錯覚を抱かせ続ける必要、と、それに加えて、中共が実は日本との同盟勢力であった、ということを、中共の国力が狭義の欧米世界に対抗できる程度の規模になるまでは秘匿する必要、があったからだ。)
 そしてその上で、(自分個人としては反対であるし、お前も反対だろうが、)天皇制を維持したいとの昭和天皇の希望を認めた貞明皇后の意向(注23)にも言及しつつ、昭和天皇が、天皇制維持を連合国に確実に飲ませるために、日本の恒久的武装放棄、と(、それだけでは日本が丸裸状態になってしまうので、併せて)、恒久的な米軍駐留、とを望んでいる旨を知るところとなった以上は、この昭和天皇の希望の実現に向けて我々父子は努力するほかなかろう、とも、牧野は吉田に伝えた、と。

 (注23)「戦中、・・・貞明皇后を訪れ<た>・・・関屋衣子・・・が「今のままでは日本が負ける」と言うと貞明皇后は「はじめから負けると思っていた」と語り、「もう台湾も朝鮮も思い切らねばならない。昔の日本の領土のみになるだろうが、勝ち負けよりも、全世界の人が平和な世界に生きていくことを願っており、日本としては皇室の残ることが即ち日本の基です」と力強く述べたという。」
https://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/k8/181007.htm
 関屋衣子(キヌ)は、1921~1933年の間宮内次官を務めた関屋貞三郎の妻で、日本聖公会聖アンデレ教会信徒。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B1%8B%E8%B2%9E%E4%B8%89%E9%83%8E
 (貞明皇后は、一貫して天皇制維持に必ずしもこだわってはいなかったといったことを記したことがある(コラム#省略)が、改説する。)

 その上で、牧野は吉田に対して、一、終戦処理内閣たる東久邇内閣は早晩総辞職するだろうから、その後継首相には、そのためにこそ自分が保護し温存してきたお前がなってGHQ・・実質は米国・・の力を借りて、恒久的武装放棄と米軍の恒久的日本駐留を核心とする、戦後日本の基本体制を確立せよと申し渡していて、二、その後、重光外相の辞任が不可避になった折、改めて牧野から、GHQとのコネをできるだけ早期に築いた方がよいので、とりあえず、まずお前はその後任の外相になれ、と指示した、と見ている。
 この牧野の指示に対し、吉田は、恐らくは驚愕し、反芻の時間を過ごした後だろうが、自分としては、さしあたり外相になるのも、いずれ首相になるのも、吝かではないけれど、東久邇のすぐ後の、新憲法に日本の恒久的武装放棄を盛り込めとの指令の発出をGHQに求めよ、との天皇の意向をGHQに繋ぐとともに、それを受けてGHQから発出されるであろう指令を盛り込んで策定した憲法改正政府案を国会に上程することとなる、売国奴的首相、には自分は絶対になりたくないので、幣原を首相にすることとし、そのような不名誉極まる役は彼にやらせて欲しい、ついては自分に幣原を説得させて欲しい、と抵抗し、牧野が(天皇の了解をとった上で、)止む無くその話を飲んだ、とも。(太田)

 こうして敗戦からわずか一ヵ月後の9月17日、戦後史における政治家吉田茂の第一歩が刻印されることになるのである。・・・
 東久邇内閣における吉田の外相在任は、わずか3週間である。
 10月9日、同内閣が総辞職したからである。
 数日前マッカーサー元帥から発せられた東久邇内閣宛”自由の指令”(「政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」)があまりに「過激」な内容であっただけに、東久邇自身その対応に窮したというわけである。
 「天皇に関する自由討議」、「政治犯の即時釈放」、「思想警察の廃止」などを政府に命ずるこの”自由の指令”は、敗戦の悪夢覚めやらぬ「宮様内閣」にはこの上ない痛撃であったに相違ない。
 東久邇内閣に代わって政権を引き継いだのが、幣原喜重郎内閣である。
 吉田は幣原内閣になっても外相として留任するが、同内閣自体、翌21年4月までの命脈であったため、吉田の外相在任は東久邇・幣原両内閣を通しても7ヵ月という短いものであった。」(※)

⇒原は、幣原の首相就任のいきさつに全く触れていないが、これはまことに遺憾な手抜きだ。
 すぐ下の囲み記事参照。(太田)


[幣原首相誕生のいきさつ]

 「<吉田茂は、>終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。 短期間のうちに東久邇宮内閣が立ち行かなくなると東久邇、木戸幸一、近衛文麿らは吉田に後継首相となるよう説得に当たったが固辞。同年10月には吉田も後押しした幣原が首相に担ぎ上げられ、吉田は引き続き幣原内閣の外務大臣に就任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

 吉田の岳父で事実上の元老である牧野は、東久邇の後は吉田首相にするつもりだったけれど、吉田は、上述↑の理由からこれを固辞するとともに、自分の代わりに、幣原を、牧野、ひいては昭和天皇に推薦し、2人の了解を取り付けた上で、無条件ですら占領下であるし高齢でもあることから首相になりたくなかった幣原を「脅迫」して重い荷物を背負いこむことになる首相を受けさせた、と私は見ているわけだ。↓

 「幣原喜重郎<は、>・・・戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任<たが、実は、>本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていた<くらいだったのに>、同じく指名を固辞した吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E

その幣原は、「1945(昭和20)年8月15日<、>・・・外出先で玉音放送を聞<き、>電車で帰途に就くと、車内で30代とみられる男が叫んでいた。「なぜ戦争をしなければならなかったのか」。他の乗客たちも「そうだそうだ」と騒ぎ出す。・・・
 幣原はすぐに意見書「終戦善後策」をまとめる。四か条からなる「善後策」の第四条には「政府は我敗戦の原因を調査し、其結果を公表すること」を入れた。
 幣原はこの「善後策」を携えて、吉田茂外相を訪ねる。」
https://books.j-cast.com/2018/04/01007124.html
こととあいなったということになっているところ、想像するに、東久邇宮の後の首相になってくれないかと話すために、外相の吉田が幣原を呼び出したのだろうが、その時、幣原がこんな(そんな調査をするまでもなく自分(吉田)は牧野から杉山構想を聞かされたので分かっている)ことを持ち出したので、首相になれば、政府としてその調査もできるのでは、と、付け加えたのではないか。
 (なお、吉田は、杉山構想を明かされていた人物は何も語ろうとはしない上に、その相当部分は戦犯として逮捕されて、そもそも調査ができなくなるだろうから、調査は失敗に終わることを見通していたはずだ。)
 ところで、傑作なのは、吉田は、幣原という人物を、本来、全く評価していなかったはずであることだ。↓

 「「幣原外交」に対<して>吉田<は>厳しい批判<をしてい>る。幣原は一般には軍部と対立し、田中義一の武断外交と対置されて、平和外交を貫いた「正義の士」のように祭り上げられることが多いが、当時から実は評判の悪い人だった。吉田は幣原外交の欠陥を「中国のように(法秩序が崩壊し)混乱状態にある国に対して、文字どおり法律的な態度をとることには無理があった」とする。当時の満州は匪賊、馬賊も交えたシナ軍閥、満州軍閥が割拠する混乱の渦中にあり、そうした中で現地に進出した日本人はシナ人から「排日運動」という・・・不当な圧迫を受け続けていた。英国政府などは、かかるシナの非合法な自国民圧迫については軍隊を派遣するなど断固たる措置を取って、シナに進出している自国民を保護したが、幣原はシナがあたかも日本や欧州同様の先進国であるかのごとき仮想空間と見立てて法律家のように望んだのである。現地では法律なんかどこ吹く風の権謀術数が横行していたにもかかわらずである。しかも幣原は三菱財閥に連なる大金持ちのエリートで庶民を馬鹿にし、十分な説明責任を果たそうとしなかった。こうした幣原の高踏的な傲慢さが、・・・多くの反対者を<生み、>、後の軍部中心の満州政策(満州事変、満州国独立へとつながる)への道を開いた<、と。>」(吉田茂『日本を決定した百年』の書評より)
https://www.amazon.co.jp/-/en/gp/customer-reviews/R2FCWI7X0YRUQ9?ASIN=4122035546

 いや、まさに幣原が自分にとって低評価の人物だったことこそがミソなのであって、恐らく、吉田は、日本の惨めな敗戦の大きな原因の一つはあなたが作った、あなたが外相で私が外務次官の時、さんざんそうなりかねないですよ、と意見具申したのにあなたは耳を貸さなかったが、その罪滅ぼしのために、もうそれほど先が長くないあなたに、今回、是非とも首相を引き受けて欲しい、これは、天皇陛下の強い思し召しであって、陛下をお救いすることでもある、だからこそ天皇は直々あなたに声をかけられたのですぞ、と、「脅迫」したのだろう。
 その上で、吉田は、昭和天皇の意向であるところの新憲法に武装放棄規定を含めよとの指令を発出してくれるよう、GHQに依頼するとともに、この指令発出依頼は、天皇からではなく首相たる幣原(自分)個人からのものだったとGHQは口裏を合わせて欲しいと申し添えて欲しい、と幣原に対し、これが「依命指示」であることを匂わせた、と私は見ている。
 そして、幸い、「旧憲法下最後の<、>そして戦後初の<、>総選挙となる1946年(昭和21年)4月10日の第22回衆議院議員総選挙」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E
があるので、その結果いかんにかかわらず、その選挙が終わったら、あなたは首相を辞せばいいので、針の筵に座らなければならないところの、首相在任の期間はわずか半年だ、その後は(その時点ではまだ旧憲法下なので、元老格の義父の牧野の指名で)自分が首相を務め、憲法を成立させてもよい、とも幣原に伝えたのではなかろうか。
 更にまた、非武装規定を持った憲法だけでは日本は無防備状態になってしまうので、日本の占領終了前後の時期には、GHQの協力の下、自分は再び首相に就任し、米軍の駐留を事実上恒久化する条約を米国と締結するつもりでいる、とも。
 吉田は、こうして、幣原に無理やり首相を引き受けさせることに成功した、と、私は見ている次第だ。
 そして、この総選挙が終わった後、幣原が首相を辞め、吉田が首相となる。
 ところで、「1946年(昭和21年)の総選挙で日本自由党が第一党になり、鳩山総裁が首相の指名を待つばかりとなったが、就任を目前にして戦前の統帥権干犯問題を発生させたこと等をGHQが問題視、同年5月7日(GHQの処分決定は同年5月3日)公職追放とな<った>(軍国主義台頭に協力したとの理由の他に戦前政友会の総裁の時にナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラーの行政政策を成功と言った事と戦後のアメリカを批判したことが各新聞の記事に載ったとの理由 ─ 統帥権や滝川事件を参照のこと)<ところ、>公職追放に際し鳩山は吉田茂を後継総裁に指名し<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B1%B1%E4%B8%80%E9%83%8E
という背景の下、相対的第一党の党首となった吉田が天皇によって首相に任命された、ということになっているが、そうではあるまい。
 憲政の常道は「停止」されて久しかったし、未だ占領下にあり、ある意味では、有事がまだ続いているとも言えたし、そもそも自由党は衆議院の相対的第一党でしかなく、連立相手も閣外協力の相手もこれから探そうという状況だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC22%E5%9B%9E%E8%A1%86%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B7%8F%E9%81%B8%E6%8C%99
のだから、天皇は(GHQに拒否権こそあったけれども、)誰をを首相に任命しても全く構わなかった。
 むしろ、選挙結果いかんにかかわらず、この時点での幣原の辞任と吉田の任命は、幣原が首相に任命される前から、天皇と牧野、そして、吉田自身、の「合意」で事実上決まっていた、というのが私の見方だ。
 では、どうして吉田は、自由党の総裁になることからすら逃げ回った・・私見では逃げ回ったフリをした・・のだろうか。
 それは、吉田が首相指名権を事実上持つ牧野の義理の息子だったから、自分がなりたくて牧野に「指名」してもらった、的な噂が立つことを何がなんでも避けようと思ったからだろう。
 とまれ、こういう次第で、「第1次吉田内閣は、・・・1946年(昭和21年)5月22日<に>・・・外務大臣・貴族院議員の吉田茂が第45代内閣総理大臣に任命され、<発足したところ、> これが旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣となった。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E6%AC%A1%E5%90%89%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3


[「日本外交の過誤」について]

一、始めに

 「戦争調査会は、1945年(昭和20年)11月に幣原喜重郎内閣により設置された日本の大東亜戦争に関する調査、審議機関である。設置当初は大東亜戦争調査会という名称であったが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令により、1946年(昭和21年)1月に戦争調査会と改められ、同年9月にGHQの意向を受けた第1次吉田茂内閣により廃止された。・・・
 <幣原>内閣では敗戦の調査だけではなく、過去の満州事変にまで遡って戦争発生の原因を調査する考えを示した。・・・
 牧野伸顕と若槻禮次郎に対して総裁就任の打診をしたが、いずれからも辞退されたため、1946年2月26日に首相兼務というかたちで幣原が自ら総裁に就任し、首相退陣後も調査会が廃止されるまで務めた。・・・
 <また、>芦田均が・・・副総裁に就任した。・・・
 選定された委員は調査会に置かれた政治外交、軍事、財政経済、思想文化、科学技術の5つの部会に配属された。・・・
 <但し、軍事に係る>第二部会は廃止まで1度も部会を開催しなかった。・・・<この>第二部会は他の部会と異なり、委員は設置されていない<が、>・・・
臨時委員(部会長)飯村穣 元憲兵司令官、陸軍中将
臨時委員     戸塚道太郎元横須賀鎮守府司令長官、海軍中将
臨時委員     矢野志加三 元海軍総隊参謀長、海軍中将
臨時委員     宮崎周一 第一復員省史実部長、元参謀本部第一部長、陸軍中将
臨時委員     上月良夫 第一復員次官、元第17方面軍司令官、陸軍中将、復員庁第一復員局長
臨時委員     三戸寿 第二復員次官、元海軍次官、海軍中将
臨時委員     前田稔 復員庁第二復員局長、元第10航空艦隊長官、元海軍中将」
<が発令されている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E4%BC%9A
 という次第なのだが、コラム#9965から10245まで、実に91回にわたるシリーズでこの戦争調査会で行われた議論等を紹介しているので、当時の私の先の大戦観が未熟であったことを念頭に置きつつ、関心のある方は読んでいただきたい。
 この調査会は、GHQによって途中でつぶされるわけだが、それ以前の問題として、(牧野が総裁就任を断ったのは当たり前だが、)若槻が総裁就任を断った時に述べたことが、結局自身が総裁になる羽目になった幣原にも当てはまり(コラム#9969)、調査対象として俎上に載せられるべき人物が総裁になってはいけないのに総裁を務めたこともさることながら、旧軍人の積極的協力が得られず、軍事に係る部会が事実上機能マヒのまま推移したことが致命的だった。

二、日本外交の過誤

 ところが、吉田茂は、この一度挫折した試み的な試みを、その後、(恐らくGHQに知らせることなく)スケールダウンした形で改めて行っている。↓

 「吉田茂は、2度目の首相当時の(まだ講話前の)1951年1月上旬、外務省政務局政務課長を箱根の別荘に呼び、次のような指示を与えました。
 「・・・日本外交は、満州事変、支那事変、第二次世界大戦というように幾多の失敗を重ねてきたが、今こそこのような失敗の拠ってきたところを調べ、後世の参考に供すべきものと思う。これらの時代に外交に当たった先輩、同僚の諸君がまだ健在の間に、その意見を聞いておくのもよいだろう。
 以上のようなことを、上司とではなく君たち若い課長の間で研究を行ない、その結果を報告してもらいたい」」(コラム#4368)

 これを受けて吉田に提出された「日本外交の過誤」がどんなものだったかについても、関心ある方は該当シリーズ(上掲から始まる、コラム#4378に至る全6回のシリーズ)を、やはり、当時の私の先の大戦観が未熟であったことを念頭に置きつつ、読んでいただきたい。
 さて、外務省OBの「小倉和夫は、「吉田茂は、<その>月末に日本を訪問する予定のジョン・F・ダレス特使との講和条約に関する交渉方針を練っていた。・・・アメリカ側が日本に要求してくる最大のポイントは、日本の再軍備であることを十分意識していた。しかし、吉田は、信念として、日本の安易な再軍備には反対であった。・・・再軍備はしない–そう日本国民が固く決意している以上、それをくつがえすことはできない。しかし、その決意が真に堅固たるものであるには、軍部の暴走を許した過去の反省が深く鋭いものでなければならなかった。吉田茂の頭と心を支配していたこうした思いが契機となっ<て>」(16頁)吉田は上記のような指示を行ったのではないか、と記してい<る>」(コラム#4368)ところ、この小倉の推測が完全に誤っていることは、本稿の吉田の部分を全部読めば自明だろうが、では、吉田の狙いは一体何だったのだろうか。
 私は、杉山構想が漏れていないかどうかを確認するためだったと考えるに至っている。
 海軍を除けば、陸軍と最も近いところで仕事をしていた外務省が、そのOBを含めて、杉山構想的なものの所在に依然全く気付いていないとすれば、漏れていない、とほぼ断定することができるからだ。
 実際は、それどころか、先の大戦に日本は勝利した的な見方の萌芽すら、「日本外交の過誤」中に見出すことはできない。

 さぞかし吉田は、胸をなでおろしたことだろう。

 「しかし吉田が外相の地位にあったこの7ヵ月間、両内閣が直面した諸課題は、早くも戦後に日本の命運にかかわる含蓄を秘めていた。
 例えば・・・吉田が東久邇内閣外相になって10日後の9月27日、敗戦国元首たる天皇は連合国最高司令官マッカーサーを訪問した。・・・
 天皇はこうのべたという。
 「私は、戦争遂行の過程で発生したすべての事態に全責任を負う。
 私は、日本の全指揮官と全政治家の行動にも責任を負う。
 私の運命に関する貴下の判断がどのようなものにせよ、それを下していただきたい。
 私は全責任を負うものである」・・・。

⇒この時点で、天皇は、自分が死刑になったとしても、それでもって、自分以外の政府関係者の無罪放免を勝ち取ることができればよしとしていたわけであり、それに加えて、日本の恒久的武装放棄を日本の新憲法に盛り込ませることとの引き換えで、天皇制の存続を図ろうともしていたわけだ。
 しかし、この両者は、論理的に両立させることは困難だ。
 死刑に処せられるような大罪を犯した天皇が出現した瞬間に、天皇制そのものの権威もまた失墜してしまうからだ。
 結局、前者は実現せず、後者は実現することになる。(太田)

 一方、幣原内閣がかかわった最重要案件の一つは、新憲法制定(法的には明治憲法の「改正」という手続きをとった)問題であった。・・・
 新憲法に関連して日米関係者が外相官邸に集まったのは、・・・21年<(1946年)>2月13日である。・・・
 松本案が正式にGHQ側に提出されて・・・からわずか5日後であった。・・・
 ホイットニー准将は吉田らに米国案を差し出し<た。>・・・
 吉田・・・の顔は驚愕と憂慮の色を示した・・・。
 吉田は・・・のちにこう振り返る。
 「第一条は『天皇は国のシンボルとする』というわけで、これはトンデモないものを寄こしたものだと思った」・・・。・・・
 そもそも新憲法に対する吉田の姿勢は消極的であるというよりも、むしろ無関心であったといってよい。
 岩淵辰雄が「吉田外相」実現のあと、吉田に「これでこちらの陣営はそろった。僕の懸案である憲法改正に手をつけよう」ともちかけたところ、吉田は「それは大問題で、外務大臣の権限外ですね」・・・と素っ気なくこれを拒んで岩淵を怒らせている。・・・
 当時、天皇が「(憲法改正は)左程急がずとも改正の意思を表示し置けば足ること」・・・として憲法改正に慎重であったことは、吉田の憲法改正への「無関心」に通底するものであった。・・・

⇒天皇も吉田も、GHQ側から新憲法への武装放棄条項盛り込みが指令されるか、それを盛り込んだ新憲法草案が提示されることを知っていたからこそ、日本政府として憲法草案を起草することに熱意がなかった、というのが私の見方だ。
 だから、米側から憲法草案が提示された時の吉田の驚愕と憂慮は演技に過ぎず、だからこそ、後になってからさえ、日本の主権の所在の天皇から国民への移行を規定した第1条
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC1%E6%9D%A1
だけに言及し、日本の主権を否定したに等しいところの、しかし、自身忸怩たる思いがあったはずの武装放棄を規定した第9条に吉田は言及しなかったのだ。(太田)

 吉田が幣原に代わって旧憲法下最後の「大命」を拝して組閣したのは、・・・昭和21年<(1946年)>5月である。
 実はこれより一ヵ月ほど前(4月10日)、マッカーサー指令の新選挙法によって戦後初の総選挙が実施されている。
 その結果、鳩山一郎率いる日本自由党(140議席)が、旧日政会(大日本政治会)の流れを汲む日本進歩党(94議席)、旧無産政党を結集した日本社会党(93議席)などを抑えて第一党に踊り出る。・・・
 鳩山は社会党の「閣外協力」を当て込んで、いよいよ自由党単独内閣の組閣工作に入るのである。
 しかし、・・・5月4日、マッカーサーの「鳩山追放」覚書(5月3日付)が日本政府宛に卒然として発せられた。・・・<(注24)>

 (注24)「1946年(昭和21年)1月4日附連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、以下の「公職に適せざる者」を追放することとなった。
戦争犯罪人
陸海軍の職業軍人
超国家主義団体等の有力分子
大政翼賛会等の政治団体の有力指導者
海外の金融機関や開発組織の役員
満州・台湾・朝鮮等の占領地の行政長官
その他の軍国主義者・超国家主義者
 上記の連合国最高司令官覚書を受け、同年に「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)が勅令形式で公布・施行され、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。・・・
 政治家は衆議院議員の8割が追放された・・・。
 GHQ下で長期政権を務めた吉田内閣時代は、名目は別にして実質としては吉田茂首相とソリが合わなかったために公職追放になったと思われた事例について、公職追放の該当理由がA項からG項までに区分されていたことになぞらえ、吉田のイニシャルをとってY項パージと揶揄された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E8%81%B7%E8%BF%BD%E6%94%BE

 さて、「追放」確定とともに鳩山の意中にまず浮かんだ次期首班候補は、実は・・・<彼が>親密<である>・・・吉田であった。・・・
 しかし、・・・「首班」を引き受けるよう求められた吉田は、これをにべもなく断っている。
 そこで浮上したのが、・・・古島一雄<(注25)>であり、・・・松平恒雄<(注26)>である。

 (注25)こじまかずお(1865~1952年)。当時貴族院議員だったが、「日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放となった際に、後継総裁の一人に擬され、鳩山ら自由党首脳に就任を懇請されるも、これも老齢を理由に固辞し、幣原内閣の外相だった吉田茂を強く推薦した。以後、占領期の吉田の相談役となり「政界の指南番」と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%B3%B6%E4%B8%80%E9%9B%84
 (注26)つねお(1877~1949年)「松平容保の六男<。>・・・学習院から第一高等学校を経て、1902年(明治35年)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、外交官及領事官試験に首席合格して外務省に入省。・・・二・二六事件で殺害された斎藤実内大臣の後任に擬せられたが、秩父宮が岳父が青年将校の標的になることを懸念してこれに反対したため、かわって3月6日に国政に関与しない宮内大臣に任じられ・・・9年3か月にわたり在職したが、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)に<米>軍による5月25日の山手大空襲で明治宮殿を焼失した責任を負って辞任した。
 戦後は枢密顧問官に任じられる。また、一時は大命降下を目前にして公職追放になった日本自由党総裁の鳩山一郎の後継に擬せられ、本人もこれを受ける意思があることを表明したが、数日後に鳩山と直接会ってみたところまったく折が合わず、この話は立ち消えとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E6%81%86%E9%9B%84

 しかし前者は本人の拒絶により、後者は自由党内の強い反対によって、ともに水泡に帰す。・・・
 吉田は鳩山から<再度>・・・推挙されてもなお固辞するが、・・・吉田と縁戚関係にある武見太郎によれば、幣原は牧野に「吉田首班」の了解を求めるが、牧野は吉田が外国のことは知っていても内政には疎いとして幣原の要請を拒んでいる・・・。
 しかし吉田は「鳩山追放」覚書から10日後の5月4日、ついに「次期首班」の受諾を正式に鳩山に伝える。
 松野鶴平<(注27)>の執拗な説得に負けたのである。・・・

 (注27)1883~1962年。当時は自由党総務。中学中退。政友会の衆議院議員として活躍。米内内閣で鉄道大臣を6か月間務める。松野の説得に「吉田茂は根負けして総裁となり、第一次吉田内閣が発足する。鶴平は党務に弱い吉田首相の私的政治顧問として、吉田内閣を支えることになる。政界の寝業師として、同年の抜き打ち解散を吉田首相に進言したり、吉田派と鳩山派の政権抗争では仲介役を務めた。」後に参議院議長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%B6%B4%E5%B9%B3

⇒「注24」からも想像できるように、吉田は、外相時代に、マッカーサー/GHQと緊密な協力関係を樹立していた可能性が高く、鳩山の追放を総選挙後まで引き延ばした上で行わせることによって、鳩山を自分の後任を慌てて選ばなければならない状況に追い詰め、恐らく事前に籠絡していたと思われる松野らを使って、三顧の礼をもって自分が後任の総裁に迎えられるように仕組んだのだろう。
 それは、まだ旧憲法下だったので岳父の牧野が事実上首相の指名権を握ったままであったことから、牧野がいきなり吉田が幣原の後継首相に指名した場合、情実お手盛り人事、との誹りを受ける恐れがあったから、少なくとも相対第一党の総裁に収まって恰好をつけなければならない、しかも、総裁になることすら逃げ回ったフリをしなければならないと考えて、吉田がそうした、というのが、既述部分も含め、私の見方であるわけだ。(太田)

 彼は自由党総裁と総理就任を引き受けるにあたって鳩山に四つの条件を出す・・・。・・・
 第一に政党の人事は鳩山が抑え内閣の人事は吉田に任せること、第二にカネの心配は鳩山がすること、第三に総理を辞めたくなったらいつでも辞めること、そして第四に鳩山のパージが解けたらすぐに政権を返す、というものであった・・・。

⇒四番目の条件は、全文が書かれていない、というのが私の見解だ。
 「すぐに政権を返す」の後に、「但し、占領終了が間近になったら、それまでに鳩山が追放解除になっていて首相に就任していたとしても、もう一度吉田に政権を戻す」が付いていたのではないか、と。
 吉田は、新憲法に武装放棄が盛り込まれるので、日本は占領後の安全保障を米国に依存せざるを得ないので、そのための条約を米国と締結しなければならず、そこまでは、新憲法を成立させることになる自分の責任で行わなければならない、と、鳩山に説明したのではないか。(太田)

 当時の侍従次長木下道雄は、・・・<1946年>3月19日)における天皇の言葉をこう記している。
 「御退位のことにつきては、しかるべき時期を見て結構さるることを可とせらるるにあらずやと思わるる御言葉ありき」・・・。

⇒他方、昭和天皇は、GHQが自分を罰さないのなら、自分で自分を罰するべく、退位したい、という思いを引きずっていたわけだ。(太田)

 ところで吉田は・・・憲法9条に関連して、・・・衆議院本会議(6月28日)で・・・「自衛権」と「自衛権による戦争」を許さないことが憲法9条の含意であるとした・・・。・・・

⇒もちろん、これは、昭和天皇の考えだった。(太田)

 とまれ、吉田内閣の命数は1年で尽きた。
 「二・一ゼネスト」禁止を命じたマッカーサーが、その1週間後吉田に求めた総選挙(4月25日)の結果、比較第一党の日本社会党主導による連立政権(日本社会党・民主党・国民協同党)が生まれたからである。・・・

⇒新憲法が成立していたので、この政権樹立に、初めて、牧野(~1949年1月25日)(注28)/昭和天皇が全く関与できなくなり、吉田は、芦田均を総裁とする民主党と連立を組まない限り、首相の座を去らなければならなくなったわけだが、日本の主権回復前後まで首相を続けるわけにいかないのは自明だったことから、吉田としては、この際、と、喜んで退陣したはずだ。

 (注28)新憲法成立までの間、もう一人、本来ならば首相指名に関与できた人物が、終戦時に内大臣だった木戸幸一だが、それは、幣原の指名の時までだった。↓
 「1945年12月6日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し木戸を逮捕するよう命令を発出(第四次逮捕者9名中の1人)。<木戸は、>A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留、起訴された。
 極東国際軍事裁判(東京裁判)では、昭和天皇の戦争責任などに関して、自らの日記(『木戸日記』)などを証拠として提示した。東京裁判期の日記と併せ公刊されている(東京大学出版会)。日本語で372枚にも及ぶ宣誓供述書で「隠すところなく、恐るるところなく」、いかに自分が「軍国主義者と戦い、政治的には非力であったか」を述べ、当時の政府や軍部の内情を暴露して天皇免訴に動いた。
 しかし、結果的には連合国との開戦に対して明確に反対しなかったことから、<英>代表検事であるアーサー・S・コミンズ・カーからは、「“天皇の秘書”であるなら、親英米派であった天皇の意向に沿って行動するのが道徳であろう」として、「不忠の人間」であると強く批判された。結局、木戸の日記や証言は天皇免訴の決定的証拠にはならず、東條の証言によって天皇の免訴は最終的に決定することになった。
 この『木戸日記』は、軍人の被告らに対しては不利に働くことが多かったため、軍人被告の激しい怒りを買うことになった。武藤章や佐藤賢了は、巣鴨拘置所と法廷を往復するバスの中で、木戸を指差しながら同乗の笹川良一に向かって「笹川君! こんな嘘吐き野郎はいないよ。我々軍人が悪く言われる事は、別に腹は立たんが、『戦時中、国民の戦意を破砕する事に努力してきました』とは、なんという事をいう奴だ。この大馬鹿野郎が」と吐き捨て、それを聞いていた橋本欣五郎も「本来ならこんな奴は締め上げてくれるんだが、今はそれもできんでね」と罵り、木戸もこの時ばかりは、顔を真っ赤にして俯きながら手持ちの新聞紙で顔を覆い隠したという。
 その木戸も終身禁固刑の判決を受け、服役する。木戸に対する判事団のジャッジは、荒木貞夫・大島浩・嶋田繁太郎と並んで11人中5人が死刑賛成、といったわずか1票差で死刑を免れたという結果だった。
 1955年(昭和30年)に健康上の理由から仮釈放され、大磯に隠退する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80
 なお、木戸も、杉山構想を知っていたからこそ、先々のことを考え過ぎて、自分の日記に事実を歪曲したことまで書き込むという(、杉山自身が一切やらなかったところの、)拙劣なことをやってしまった、ということだろう。

 もちろん、第一党の党首を引きずりおろしたり、ゼネストを中止させたり、総選挙を命じたり、と、GHQはオールマイティーだったのだから、私の想像では、吉田は、既に、マッカーサーから、日本の主権回復前には首相に戻してもらう約束を取り付けていたはずだ。(太田)

 野に下った吉田が再び「政権」に呼び戻されたのは、それから1年数カ月後の昭和23年10月である。
 片山内閣がわずか8カ月間で倒れ・・・、片山内閣外相芦田均が同じ3党連立の枠組みで後継内閣をつくるが・・・、これまた7カ月で潰えた・・・。
 前者は主として社会党内における左右両派の角逐、内紛のゆに、後者は民主党のこれまた内紛と大規模な贈収賄スキャンダル(・・・昭和電工疑獄事件<(注29)>・・・)等によって脆くも崩れ去ったのである。

 (注29)「疑惑に先に手を付けたのは警察であった。当時、捜査2課長で後の警視総監を務めることになる秦野章らは、内偵を進めていくうちに政界がらみの大きな汚職事件になると確信し、政府がつぶれるという危機感すら抱いたが、それでも捜査を進めた。捜査の過程ではGHQ職員らも金を受け取っていたことが発覚。政財界だけなく、GHQも関わる三つ巴の構造汚職であることを掴む。このためこれを察知したGHQは圧力をかけ、捜査から警察を締め出し、GHQのいうがままに動く検察主導で行わせるよう工作した。・・・検察の捜査ではGHQへの疑惑は全く出なかった。
 大蔵官僚・福田赳夫(後の首相)や野党・民主自由党の重鎮・大野伴睦(後の自由民主党副総裁)の逮捕に始まり、やがて政府高官や閣僚の逮捕にまで及んだ。栗栖赳夫経済安定本部総務長官、西尾末広前副総理が検挙され芦田内閣は総辞職をもって崩壊し、民主自由党の吉田内閣の成立をもたらした。その後、前首相であった芦田均自身も逮捕されたが、裁判では栗栖以外の政治家は無罪となった。・・・
 この事件をGHQ参謀第2部が民主化を進めようとする民政局のメンバーを排除するとともに、保守派内閣の成立を図った陰謀とする説が有力である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E9%9B%BB%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 
⇒捜査の端緒はGHQではなかったわけだが、この捜査を知ったマッカーサーが、予定よりやや早いけれど、吉田を首相に戻してやろう、と、この事件の捜査を、(GHQの民政局主要メンバー達を排除するためと併せて)利用した、と見る。
 後述するように、吉田は、この時のことで、マッカーサーに深い感謝の念を抱き続けることになる、とも。(太田)

 東京裁判・・・<で>昭和23年11月12日、・・・A級戦犯被告25名の全員有罪が宣告された・・・。・・・
 吉田は11月に入ってからわずか2週間足らずのうちに、3回立て続けにマッカーサーと会談している。
 11月5日、11日、そして判決当日の12日である。・・・
 「退位」に傾いている天皇を「留位」の方向に説得して欲しいというマッカーサーの要望を受けて、・・・吉田の天皇への説得工作は、戦犯判決の日である12日ぎりぎりの時点までかかった・・・。
 吉田はやっと説得に成功して、11日の夕方口頭でそのことを(マッカーサーに)報告に来たと考えられる」・・・。
 しかし「天皇退位」問題は、これをもって終息したわけではない。
 この問題が最終決着をみるのは、「(アメリカで)講和条約が批准された昭和27(1952)年3月」であった・・・。・・・
 当時<昭和天皇>「退位」論者であった田島道治(大日本育英会会長)を宮内府長官に任命したのは、同じく「退位」を持論としていた芦田均首相であるが、その田島が正式に長官になったのは、昭和23年6月である。
 <この>田島が起草した「謝罪詔勅草稿」・・・は、・・・東京裁判判決の日を睨んで書かれたものであった・・・。・・・
 この草稿で、天皇は戦争で国民に塗炭の苦しみを与えたことに「憂心灼(や)クガ如シ。朕ノ不徳ナル、深ク天下ニ愧ヅ」とみずからを激しく責めている・・・。・・・
 ・・・芦田政権が倒れて第二次吉田内閣が成立したのが(昭和23年)10月、つまり吉田政権誕生から東京裁判判決前後までのある時点で、「謝罪詔勅」公布の取り止めが決定された<と思われる。>・・・
 <しかし、>昭和27年5月3日<ということに決した>独立記念式典における天皇の「お言葉」のなかに「謝罪」を挿入する<ことを改めて天皇が発意し、>・・・みずから<その要点を>田島長官に口述している。
 <その時に>田島<が作成した>文案は、・・・当然・・・旧稿「謝罪詔勅草稿」と・・・近侍し<たものになっ>た・・・。・・・
 <ところが、>首相吉田<はこれを>嫌<い、>・・・<謝罪は消え、それどころか、>「退位せず」の決意が宣明され<た>・・「お言葉」<を決めた。>・・・
 
⇒昭和天皇は誰からも杉山構想を教えられていなかったので日本の終戦は敗戦だと思いこんでいるのに対し、吉田は牧野から杉山構想を教えられていたので日本の終戦は勝戦であることを知っていたことから、昭和天皇は国民に対する贖罪感情に苛まれ続けたのに対し、吉田は全く必要がない謝罪を天皇が行おうとするのを断乎止め続けた、というのが一つの理由だ、と私は見ている。
 同じことが、杉山構想を明かされていたとは思えない寺本熊一(注30)中将と確実に杉山構想を明かされていたはずの阿南惟幾陸相のそれぞれの終戦の日における割腹自殺の際の遺書(注31)の内容の違い・・前者は天皇と戦死者に詫びているのに対し、後者は天皇にだけ詫びている・・についても言えよう。

 (注30)1889~1945年。「仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業。・・・1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業<。>・・・<駐米>大使館付武官補佐官<を務めている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%9C%AC%E7%86%8A%E5%B8%82
 (注31)阿南:「一死以て大罪を謝し奉る 昭和二十年八月十四日夜 陸軍大臣 阿南惟幾 花押 神州不滅を確信しつつ」 辞世の句「大君の深き恵に浴みし身は 言ひ遺こすへき片言もなし」
 阿南の後任の陸軍航空本部長<の>寺本熊市中将:「天皇陛下と多くの戦死者にお詫びし割腹自決す」と遺書を残して自決して<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%8D%97%E6%83%9F%E5%B9%BE
 阿南の遺言と辞世の句双方での昭和天皇への言及は、彼が侍従武官だったことがあって同天皇と親しい関係にあったにもかかわらず、同天皇を騙し続けたことが念頭にあってのものと思われるのに対し、寺本の遺言での同天皇への言及は、単なる常套句だろう。

 ところで、この私の論理が破綻しているようにも見えるのが、9月12日における、(杉山構想の主であるところの、)杉山元の拳銃自殺の際の遺書(御詫言上書)の内容だ。↓

 「大東亜戦争勃発以来三年八ヶ月有余、或は帷幄の幕僚長として、或は輔弼大臣として、皇軍の要職を辱ふし、忠勇なる将兵の奮闘、熱誠なる国民の尽忠に拘らず、小官の不敏不徳能く其の責を全うし得ず、遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り、数百万の将兵を損し、巨億の国幣を費し、家を焼き、家財を失ふ、皇国開闢以来未だ嘗て見ざる難局に擠し、国体の護持亦容易ならざるものありて、痛く宸襟を悩まし奉り、恐惶恐懼為す所を知らず。其の罪万死するも及ばず。
謹みて大罪を御詫申上ぐるの微誠を捧ぐるとともに、御竜体の愈々御康寧と皇国再興の日の速ならんことを御祈申上ぐ。
昭和二十年八月十五日 認む   恐惶謹言
陸軍大将 杉山 元(花押)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83

 しかし、果してそうだろうか。
 この杉山の遺書は、終戦日より後において、相当推敲を重ねて作成されたものだろう。
 本当に予め用意されていたものだとすれば、日付くらいは空けておいて自殺当日に日付を書き入れるはずなのに、8月15日付になっているのは、実はそうではなかったことを隠すため、と想像されるからだ。
 「<杉山は、>既に「御詫言上書」は終戦の日に書き上げて自決の覚悟もしていたようだが、これを妻に明かしたのは23日になってからであった。」(←直接の典拠は付されていない。(上掲))ということになっているが、杉山は、阿南の遺書を読んだ上で、その遺書を読んで怪訝な印象を抱く者が絶対に出現しない保証はないと考え、杉山の遺書だって、実のところは、天皇に対してだけ(騙したことを)詫びているのだが、念のため、明白なウソとまでは言えないけれど、誤解されるであろう内容・・あたかも戦死者や一般国民にも詫びているかのような内容・・にあえてしたのだろう。
 付言すれば、「遂に聖戦の目的を達し得ずして戦争終結の止むなきに至り」だって、事実と誤解されるだろうが、実は、昭和天皇の心中を忖度したものに過ぎないとも言えるわけだし、そもそも、終戦時点で、聖戦の目的は「ほぼ」完遂されただけだから、「目的」を完全には「達し得ずして戦争終結の止むなきに至」ったというのはウソではないわけだ。
 では、天皇に謝罪も退位も吉田がさせなかった他の理由・・より重要な理由・・とは何か、それは後で述べることにしよう。(太田)

 <話を戻すが、>マッカーサーが「二・一ゼネスト」禁止命令の一カ月半後(昭和22年3月17元)に「今や(対日)講和条約締結のための諸条件は熟している」と言明したこと、そしてマーシャル国務長官がその7週間後(5月7日)、国務省内に対日講和条約の起草機関設置を考慮中である旨のべたことは、アメリカの対日占領に一つの曲がり角が来たことを示していた。・・・
 昭和23年1月に<は>ロイヤル陸軍長官が「日本は全体主義的脅威に対する防壁である」と演説し、三カ月後の同年4月には訪日後のドレーパー陸軍次官が「日本を復興させることが米国の利益に合致するようになった」と談話報告している。・・・

⇒このような背景、文脈の下で、マッカーサーは、(私見では吉田茂との約束に従い、)1948年(昭和23年)10月15日に吉田を首相へと復帰
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E6%AC%A1%E5%90%89%E7%94%B0%E5%86%85%E9%96%A3
させたわけだ。(太田)

 翌年(昭和24<(1949)>年)2月・・・に・・・陸軍長官ロイヤルが日本復興の助っ人ドッジを伴って訪日し<、>・・・「一国民の生計が他国の慈悲にたよっている限り政治的自由はあり得ない」<として、>・・・「日本の経済的自給体制をすみやかに確立する・・・」<ために、>・・・経済復興策・・ドッジ・ライン・・を日本政府に指令した・・・。・・・
 <翌>昭和25<(1950)>年・・・4月25日<、>吉田は・・・「講和の瀬踏み」をさせる<ために>・・・池田蔵相<を>派米<させる。>・・・
 マッカーサーには、「米国財政経済事情の視察」が池田訪米の目的である旨を伝えていた・・・だけに、・・・<それは、>一つの冒険であった。・・・
 吉田が池田に示した「講和」の基本構想は、・・・第一に日本は早期講和を望むこと、第二に米軍の日本駐留を日本側からオファーしてもよいというものであった・・・。・・・
 <そんなところへ、>6月25日、朝鮮戦争が勃発した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89 >
 吉田は・・・10月初旬以降、二つのグループをそれぞれ別個に都合数回に亘って招集している。
 一つは小泉信三・有田八郎ら有識者の会合であり、いま一つは下村定<(注32)>・辰巳榮一ら軍事専門家の会合であった。・・・

⇒その直前の、1950年(昭和25年)7月8日に司令部を東京に置きマッカーサーを司令官とする国連軍(朝鮮半島)が成立する
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A3%E8%BB%8D_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6)
と共に、8月10日に警察予備隊令(ポツダム政令)に基づき警察予備隊が設置されたこと、また、遡れば、「日本に再軍備を認める事は、時の陸軍長官ケネス・ロイヤルから国防長官ジェームズ・フォレスタルに提出された答申「日本の限定的再軍備」で1948年(昭和23年)5月に確認された既定の事項だった」こと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A
を原が記してくれていないのは不親切極まる。
 さて、下村定(注32)は、(事実上、)石原莞爾の後任として参謀本部作戦部長(第1部長)に就任しているが、石原にすら杉山構想は開示されなかった(コラム#省略)ところ、わずか在任4カ月で解任され、爾後、陸軍本省/参謀本部勤務から遠ざけられていたことから、同構想は下村にもついに開示されることはなかったと私は見ている。

 (注)さだむ(1887~1968年)。「名古屋陸軍幼年学校を経て、・・・陸軍士官学校第20期<、>・・・陸軍大学校第28期を首席で卒業。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E6%9D%91%E5%AE%9A

 その下村が、北支那方面軍司令官の時に終戦となり、「陸士同期<の>東久邇宮稔彦王が首相を務める内閣で陸軍大臣を務め、続く幣原喜重郎内閣でも留任し、日本陸軍(帝国陸軍)で最後の陸軍大臣とな<り、>・・・公職追放」(上掲)され、その後に追放解除されていた(と思われる)下村を吉田が「起用」したわけだ。(太田)

 <翌昭和26(1951)年>1月25日・・・羽田に就いたダレスは、1月29日の第1回会談でこう切り出す。
 「3年前(平和)条約ができれば、日本にとって今日にくらべよほど悪条件のものができたろう。今日われわれは勝者の敗者に対する平和条約を作ろうとしているのではない。友邦として条約を考えている」・・・。・・・
 このあと・・・両者<は>「挨拶のため」マッカーサーを訪問する<。>・・・
 吉田はマッカーサーに向かって、自分がダレスの「再軍備」要求に苦しめられているその窮状を訴えるが、マッカーサーの反応は吉田に「軍配」をあげるものであった。
 すなわちマッカーサーは「日本に求めるものは、軍事力であってはならない」のであって、むしろその「軍事生産力」と「労働力」を十分に活用すべきことをダレスに説くのである。
 吉田がマッカーサーに事前工作をして、すでに彼を「味方」に引き入れていたことはいうまでもない。・・・

⇒この前後の、「警察予備隊は、朝鮮半島に出動した在日米軍の任務を引き継ぐものとして創設されており、朝鮮戦争開戦時において在日米軍が行なっていた任務がほとんど治安維持のみであったことから、上述のとおり、当初は軽装備の治安部隊に近いものとして構想されていた。しかし朝鮮戦争の戦況悪化、ことに11月25日の中国人民志願軍参戦を受けて、マッカーサーは、自由主義陣営が極東において共産主義陣営とまさに対峙しつつあるという危機感を強め、警察予備隊を重武装化する方針を示した。
 ソウル再陥落の前日となる1951年(昭和26年)1月3日、マッカーサーは、「朝鮮戦争における要求に匹敵する優先度」を持つものとして、警察予備隊に必要とされる兵器リストを<米>陸軍省に提示した。これはM26パーシング307両を含む760両に及ぶ装軌車両など、ほぼ米軍の4個歩兵師団に相当するものであった。2月9日、<米>統合参謀本部はこの要請を基本的に承認したものの、国務省の反対やマッカーサーの更迭などによって、重装備化は遅延を余儀なくされた。しかし警察予備隊の第5期訓練より、これら重装備については在日米軍の保有機材を使って訓練が開始されており、保安隊に改編される直前には、既に軽戦車や榴弾砲など、一部重装備の供与が開始されていた。
 警察予備隊の創設、および再武装化はポツダム宣言や日本国憲法第9条に抵触するものであるとして、ただちに極東委員会でソビエト連邦の反発を招いた。また、日本国内でも左派・共産主義者が連携し、国会でも重要な議題となり、最高裁判所に違憲訴訟が起こされた。吉田は自前での装備品調達は諦め、当面は国連軍から貸与(レンタル)されるという形でこの批判をかわした(装備品が自弁主義となったのは1954年の日米相互防衛援助協定以降)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E4%BA%88%E5%82%99%E9%9A%8A
といった動きも原は記してくれていない。
 この時点で、吉田は、政府憲法解釈・・立ち入らないが、既に一度変更されていた・・を例えば芦田修正に係る芦田の解釈に従って変更した上で再軍備に着手することを真剣に考えたに違いないが、それを行えば、(それこそ後の1959年から1960年に至る安保闘争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BF%9D%E9%97%98%E4%BA%89
どころではない)大反対闘争が起きて、米国によって日本の主権回復が大幅に遅らされる可能性が極めて大きいと判断し、その旨をマッカーサーに伝え、マッカーサーとしては、まだ米大統領になる夢を捨てていなかったことから、日本の占領統治に失敗したかのような事態の生起を恐れ、吉田と対ダレス共同戦線を組むことを飲んだ、と見る。
 本件はギブアンドテイクであり、吉田はマッカーサーにさして恩義は感じなかったことだろう。(太田)

 <結局、>吉田は・・・講和後には「再軍備」(保安隊)を発足させることを確約<することで、>・・・ダレスの「再軍備」論を抑えることに成功したの<だが、>・・・7月になって吉田が国会などで基地「不要」論を唱えたことによって(間もなく吉田は基地「必要」論に軌道修正する)、吉田に対するダレスの不満はのっぴきならぬものとなるのである。
・・・
 <他方、>ダレスは・・・帰国する前日すなわち2月10日、天皇と会見の機会をもつが、このとき天皇はダレスに向かって、アメリカの条件に沿う形での基地貸与に「衷心からの同意」を表明している・・・。・・・
 天皇の超憲法的行動であった。・・・

⇒ここでの吉田や天皇の行動に首を傾げている原に代わって、(既述したこととの重複を厭わず、)私なりの説明を、この際、行おう。
 こういうことではなかったか。
 昭和天皇は、一、日本の軍事力の存在自体が、天皇制の存続を危うくすると考え、戦後の新憲法に武装放棄規定を織り込もうと考え、日本政府に対して織り込めと占領軍に指示してもらおうとすると共に、二、(自身以外の政軍指導者達の免責と引き替えに)自身は退位するか占領軍によって処罰されることを望み、その考えを、木戸⇒牧野、のルートで吉田に伝えたところ、吉田は、(恐らく)牧野(及び貞明皇后?)から昭和天皇の希望はできるだけ実現してあげて欲しいと申し渡されていたことも踏まえ、一が極東委員会のメンバー諸国からの昭和天皇退位/処罰要求ないし天皇制廃止要求を回避するためには最善の方法だろうが、昭和天皇退位/処罰は、天皇制の維持を困難にする、と昭和天皇を説得し続けることになった。
 いずれにせよ、武装放棄規定の織り込み指示を占領軍に求めなければならないわけだが、(吉田としては、日本の主権回復後に改正される可能性はゼロとは言えないものの、旧憲法が一度も改正されなかったこともあり、)新憲法の武装放棄規定が恒久化する恐れがあり、武装放棄自体が主権放棄に等しいことから、前述したように、そんな要求を占領軍に行う役割を果たす首相にだけは絶対なりたくなかったので、幣原にその役目を代わってもらうことにし、自分は、(日本が主権回復後、米軍等が撤退すれば、日本の安全を保つことができなくなることから、)主権回復時に爾後米国に日本防衛を事実上約束させる条約を米国との間で結ぶ首相を務めさせて欲しいとし、主権回復前の適当な時期に吉田を首相に就けることを占領軍に約束させたい、と、天皇に申し出、天皇の了解をとった、と。
 そうしたら、マッカーサーがそれを約束してくれ、日本の主権回復の時期が近付いてきた時に首相に再任させるよう取り計らってくれたことで、吉田はマッカーサーには大きな恩義を感じるようになった。
 そんなところへ朝鮮戦争が勃発し、米本国政府からの日本再軍備要求が突き付けられたが、マッカーサーは、警察予備隊なる治安維持までしか行わないところの、部隊ならぬ機関、の設置にとどめ、その後のこの警察予備隊の実質的な軍隊化要求に対してもサボタージュを続けていたさ中に、朝鮮戦争を巡る衝突から、トルーマンに解任されてしまう。
 この時点において、天皇の反対・・前門の虎・・は無視するとしても、これも前述したように、(例えば芦田改正を利用するなりして)解釈改憲を行うことによって再軍備を断行しようとしても、既に時機を失していて、左翼を中心とする広範かつ激しい反対運動を招来すること・・後門の狼・・は必至であり、そうなると、日本の治安悪化を「憂慮」した米国等によって占領が長期化する恐れが大きい、と吉田は判断したと見るわけだ。
 そこで、吉田は、日本の主権回復時点において、朝鮮国連軍が任務を終了したら米軍は日本から撤退するものとするが、米国が自国の安全保障上の理由から日本に米軍の再駐留を求めた場合は、駐留期限を切った形で、国会の事前または事後の承認を条件に、それを認める、といった内容の条約を米国と締結しようと画策を始める。
 (朝鮮国連軍が任務を終了するようなことは見通しうる将来にかけてないだろうし、万一、そうなったとしても、米国は日本駐留を続けようとするだろうから、米軍の日本駐留は続き、この米軍駐留の反射的利益として、日本の国際的安全は事実上担保され続けるだろう、と、吉田は見たのではなかろうか。)
 これは、日本の世論に自国の安全保障に不安を抱かせ、日本において中長期的に再軍備機運を醸成させることを狙ったものだった、と考えるわけだ。
 しかし、(誰が天皇にご注進したのか知りたいところだが、)天皇は吉田のこの画策を知り、自ら直接ダレスに対して主権回復後の引き続きの米軍駐留を求め、吉田の画策を挫折させた、と。(太田)

 それから2カ月後の4月16日、<ダレス>は日本との第二次交渉のため再び東京に舞い戻った。
 トルーマン大統領から<4月11日に>罷免されたマッカーサーの離日と奇しくも同じ日であった。・・・
 <当時、>台湾政府を中国の代表とするアメリカと、北京政府を中国の代表とみるイギリスとの深刻な対立<が生じていたのだ。>
 <そもそも、>「対日平和条約」の英国案は、日本側からすれば、米国案に比べてはるかに厳しいものであった。
 例えば第40条(「条約の実施」)は、日本の批准は、(条約)発効の要件ではない」としている。
 つまり第40条は講和条約を戦勝国が一方的に日本に押しつける可能性を想定しており、したがって日本の国民感情を害するのは自明である。
 この英国案に対する・・・「親英派」・・・吉田の憤りは並のものではなかった。・・・

⇒吉田は牧野・・既に1949年1月に亡くなっていた・・から杉山構想を明かされており、英国は日本に敗北したという認識を抱いていた(と私は見ている)ところ、英国が、形の上だけでも、日本が敗北したことを歴史上明確にしておきたいことが吉田にも理解できたはずなので、彼の憤りなるものは、彼の演技に過ぎなかったはずだ。(太田)

 米英合意案が得られ、なおかつ「中国代表」問題で・・・独立後の日本が台湾政府と北京政府のいずれかを選択して、その政府と二国間平和条約をむすぶことで・・・妥協が成立したのは、何といっても、東西冷戦の実態が前年10月中共義勇軍の朝鮮戦争参戦によってますます危機的様相を強めるなか、自由主義陣営の結束を維持しようとするダレスの大局論にイギリスが同調したからだといえよう。・・・


[吉田茂首相の対支戦略]

 1951年9月8日調印され、1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84 前掲
の発効日の「1952年4月28日 、日本政府と国民政府の間に日華平和条約が締結された。吉田茂首相は、中華民国国民政府を相手として平和条約を締結したにもかかわらず、必ずしも国民政府を戦後中国の正統政府として認めたわけではなかった。
 戦後の米ソ対立が深まるに伴 「二つの中国」政府が生じ、対日講和会議における中国代表権問題 をめぐり、関係各国、とりわけ英米の間で意見が対立していた。サンフランシスコ講和会議に北京政権も台北政権も招聘されることはなかった。吉田はサンフランシスコ会議後、内外の諸状況を勘案し、台北の国民政府を選択し、日華平和条約を締結したのである。
 従来の研究では、日本は日華平和条約の締結によって、国民政府を中国の正統政府として認めた、そして吉田が国民政府したのはアメリカからの圧力に屈したという見解が支配的である。
 しかしながら、戦後の吉田外交は、日華平和条約の締結もかかわらず、国民政府に対する「適用範囲」条項を設けることによって、国府の正統性を保留する形で北京政府との将来的政治関係の道を残そうとした。国民政府を中国の正統政府として認めたわけではなかったのである。・・・
 吉田は、日華平和条約締結前の1951年1月に来日したアメリカ国務長官顧問ダレスに対し、「中国の民衆を共産党の勢力下から離す方策」を提案し、北京政府に対する「逆滲透」構想を示した。
 ダレスから具体的な返事は得られなかったが、吉田は、彼独自の中国政策についてアメリカの理解を得ようとしたのである。
 ダレスの帰国後、吉田はGHQ最高司令官リッジウェイを介してメモをダレスに届け、「共産主義が中国人の精神を征服し中国人固有の個人主義を払拭してしまつたとは考えられない」と再び訴えたのである。
 ここで注意すべきは、吉田は「逆滲透」構想を提案しながらも、常に中国人の国民性や中ソ分離を強調したことである。
 「逆滲透」構想について、井上正也がもっとも詳細な分析を行っている。井上は、インテリジェンスの観点から、吉田の共産主義に対する情報工作、秘密工作に着眼し、吉田の経済外交を肯定しつつ、その強烈な反共的性格を指摘した。

⇒反共的性格と言っても、それが、反中共的性格ではないことは、ご存知の通りだ。(太田)

 ただし興味深いことに、吉田は、日華講和の前、中国が共産政権になっても敵視する必要はないという中国観をしばしば示していた。例えば、1948年11月の国会答弁で吉田は中国の共産化について「 国民政府が倒れて共産党政府ができても、これは通俗にいう共産党政府でないだろう… 中国人は中国人の一種の性格があって、かりに共産党政府ができても、それがソビエトと相通ずるものと私は思わない」と述べ、率直な共産中国観を表した 。

⇒吉田の支那勤務は、1928年7月までで最後であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8B%E5%8B%99%E6%AC%A1%E5%AE%98%E7%AD%89%E3%81%AE%E4%B8%80
その時点では、(日本大好き人間の)毛沢東が中共の実権を握ったのは1935年8月のことであることから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
杉山元ですら、まだ、支那における提携相手を模索中だったはずであって、中共が支那を掌握してもそれが「共産党政府でない」とか「ソビエトと相通ずるものと<は>・・・思わない」という考え方に、吉田が独力で到達できたとは思わない。
 だから、吉田は、私が牧野が彼に明かしたと見ている杉山構想が、最終的に帝国陸軍の支那における提携相手として毛沢東の中共を選び、その中共に支那を掌握する道筋をつけてやる、という方針を包含することとなった、ということを知っていて、杉山構想における中共観を受け売りで語っただけだ、と、思うのだ。(太田)

 また、1954年9月から11月、欧州外遊中の吉田は、フランシ仏首相に「自由陣営が中共をソ連から引き離すことが急務である」と伝え、イタリア首相シェルバには中国の海外華僑および貿易という手段をもって、中ソ分離の工作を行うべきであると提言した。
 そしてイーデン英外相との会談では、吉田はアメリカが中国を国際社会に回復させることに反対する政策について、「まったく理解できない」と語り、アメリカの対中政策の再考を求めるという姿勢を示した。アイゼンハワー米大統領との会談においても、 アジアにおいて共産主義に対抗するために、日米英の協力が必要であると訴えた。しかしながら、退陣間際の吉田に対するアイゼンハワーの態度は冷淡なものであった。

⇒むしろ、法的には米国の属国でしかない日本の首相の吉田が、よくもまあアイゼンハワーに説教したものだ、と言いたくなる。(太田)

 陳肇斌が指摘したように、吉田の「逆滲透」構想は、西側諸国からの支持を得られなかったものの、アメリカの対中封じ込め政策とは異なるアプローチとして注目に値しよう 。
 つまり、吉田の「逆滲透」構想は、中国人の国民性や中ソ分離という視点に立ち、井上正也が指摘したような北京不承認というわけではなく、むしろ一種の対中「チトー化」・ 対中接近策ともいえる。

⇒吉田は、杉山らが毛沢東の中共を提携相手として選んだ理由をきちんと理解していたわけではないので、結論はそっくりそのままいただきつつも、「中国人の」阿Q的「国民性」を毛沢東が叩き直そうとしていることを知らないまま、適当なことを言い散らしていた、と見る。(太田)

 他方、日華平和条約が締結された直後の1952年6月、吉田は国会答弁において、日華平和条約があくまでも「吉田書簡」の線に沿って結ばれたものであり、日華平和条約は中共政権についての関係はない」と明言した。
 この発言は、日華平和条約と北京政府に対する承認の問題は切り離すことができるという吉田の認識を表したものであった。
 つまり、吉田は、日華平和条約の締結によって、どちらの中国政府を選択ないし承認す、という二者択一の問題ではないことを明らかにしたのである。
 実際、同日の答弁において、吉田は「中華民国政府と条約ができたからと言って、中共との関係がそのために悪化したとは考えられません … 将来は将来であります。併し目的は終りに一中国全体との条約関係に入ることを希望」するとも述べている。
 吉田は、日本が国府と日華平和条約を結んだとしても、それは北京政府を否定することを意味せ ず、将来における北京政府への政治的承認を模索していたのであった 。
 しかも彼は 、1954年1月の国会答弁で、もし北京が日本と国交を結ぶ用意があれば、喜んで応じると言明した 。
 吉田は、北京に対して 、政治的に極めて積極的なアプローチをとる姿勢を示唆していたのである。
 以上の考察を踏まえ、次のような・・・指摘<を>したい 。
一、日華講和後の吉田「逆滲透」構想は、反共主義それ自体が目的であったというよりも、毛沢東の「チトー化」を促すことで、対中接近を図るというものであった。
二、日華講和において国民政府の正統性を保留し、北京との将来の政治関係の余地を保とうとした吉田の立場に照らし、日華講和後の吉田の言説は講和前と連続していた 。
三、吉田政権の対中・対華外交は、国府と北京の中国正統性を暫定的に保留し、究極的には北京承認を志向するいわば「正統政府保留外交」であった。」
 (立教大学法学研究科法学政治学専攻博士課程1年チョン・シンホン(CHUNG, Hsin Hung)「東アジア冷戦における吉田対華外交 1952-1954」より)
https://www3.rikkyo.ac.jp/research/initiative/aid/interior/SFR/fy15_seika-koukai/_asset/pdf/15_insei_20.pdf

⇒中華人民共和国建国から3カ月後の1950年1月、<英国の>アトリー首相<は、>・・・<欧米>で真っ先に中国共産党政権を承認した<。>」
https://mainichi.jp/articles/20200717/ddm/002/070/111000c

という背景も踏まえれば、繰り返しになるが、吉田の、この米国とは一味も二味も異なる対中共戦略は、彼の支那通としての見識に基づくものと言うよりは、吉田が牧野から明かされるに至っていたと私が見ているところの、杉山構想・・この部分は山縣有朋自身の構想(コラム#省略)に由来している!・・、に基づいて、帝国陸軍が毛沢東の中国共産党の親日志向性を見抜いて、同党と事実上の対中国国民党共同戦線を構築して支那で戦い、中国国民党政権を打倒した、ということを知っていたからこそだろう。(太田)

 それはともかく、講和会議開催まであとわずか1カ月余りの時点で・・・「日米安保協定」の性格を大きく変える新提案がアメリカ側から出された・・・。
 7月30日、シーボルト大使は日本側に対して・・・いわゆる「極東条項」の追加・・・を申し出たのである。・・・
 条約の適用地域(日本国)とは別の地域における軍隊の使用を認める条項は、他の防衛条約にはないものであった・・・。
 しかもここで重要なのは、駐留米軍の行動が条約上「極東」に限定されるものではない、ということである。
 駐留米軍は「極東の平和と安全のためならば極東の地域の外に出て行動してさしつかえない」のである・・・。
 つまり米軍に基地を提供している日本は、この極東条項によって広くアメリカの世界戦略にコミットすることになったわけである。・・・

⇒吉田には、朝鮮国連軍の後方基地としての日本の役割の継続に特段異論はなかったはずだ。(太田)

 <それ以上に大きい問題は、>吉田<は>・・・講和会議に全権として出席する意向を持っていなかった<ことだ。>・・・
 <一方、>ダレス<は、吉田どころではなく、何と、>天皇を講和・安保両条約調印に関与させようとした・・・。・・・
 イギリスもまた、むしろアメリカ以上に踏み込んでこれを主張している。・・・
 <止むなく、>吉田はついに講和会議出席を決意した。

⇒日本の非武装を前提にした、しかも、米軍駐留をそのまま継続させる内容の安保条約など、吉田にとっては唾棄すべき代物以外の何物でもなかったのであり、こんな安保条約は、講和条約の調印とは切り離して自分だけが署名(調印)するつもりだったのに、講和条約への調印とセットでサンフランシスコで同じ日に安保条約に署名(調印)するように求められたので、抵抗したのだろう。
 吉田が、新憲法に武装放棄規定を織り込む指示をGHQに要請する首相になることを回避したことを想起して欲しい。(太田)

 「欠席」から「出席」に心変わりしたその理由は未だ明らかではない。
 しかし豊下楢彦は、この問題への「天皇の介在」を立論する。
 「首相の署名」を切望するダレスの意を受けて、天皇が吉田に影響力を及ぼし講和会議「出席」を決意させたのではないか、というのである。
 天皇制を守るために、誰よりも早期講和と日米体制強化を熱望する天皇が、講和会議「欠席」に傾く吉田を叱り翻意させたというわけである・・・。

⇒ここは、豊下の言う通り・・但し、まぐれ当たりか?・・である可能性が高い。(太田)

 条約締結の最高責任者として当然調印の責に任ずべき首相がなぜ講和会議出席を避けようとしたのか、これを解き明かす確たる資料は見当たらない。・・・

⇒そんな資料など、天皇としても吉田としても残すわけがなかろう。(太田)

 吉田が受諾演説を行なった翌9月8日、調印式が行なわれた。・・・
 安保条約の調印式は、平和条約調印終了5時間後すなわち8日午後5時から・・・始まった。
 アメリカからアチソン、ダレスら4人、日本からは吉田1人が同条約に署名した。・・・

⇒これは、安保条約については、日本政府(内閣)ではなく、天皇の「脅迫」に屈するほかなかったところの、吉田個人しか責任を負えない・・より端的に言えば、昭和天皇だけが責任を負っている・・ということを後世の誰かに気付いてもらうための吉田なりに残した手掛かりだった、というのが私見であるわけだ。(太田)

 <その後、>吉田<は、>・・・警察予備隊を保安隊に改編し、海上に警備隊を新設する保安庁法(昭和27年7月成立)、日本の防衛力増強を義務づけたMSA協定(昭和29年4月成立)、保安隊を陸海空三軍方式に改組する防衛二法(昭和29年6月成立)<を手掛ける。>・・・

⇒その後、吉田(内閣:~昭和29年12月10日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 前掲
が、日本国における国際連合の軍隊の地位に関する協定(昭和29年2月19日調印開始、6月11日発行。締結国:韓、米、英、泰(後に締結)、加、土(後に締結)、豪、比、ニュージーランド、エチオピア、希、仏、コロンビア、白、南ア、蘭、ルクセンブルク)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%80%A3%E8%BB%8D_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6)
を手掛けたことを原が記していないのは遺憾では済まない。(太田)

 吉田にとっては、「皇室すなわち国家」である。
 皇室がわが民族の始祖、宗家」であればこそ、「皇室を尊崇するのが、人倫の義であり、社会秩序の基礎」である(『回想十年』第四巻)というのが吉田の天皇観である。
 しかもこの「尊皇」の思想こそが彼の政治行動を突き動かす原衝動ともいうべきものであり、一個の美学でさえあったといってよい。
 吉田からすれば、アメリカが「国体護持」ないし「天皇制維持」を敗戦国日本にもたらしたとき、同国の占領統治はあらゆる意味において許されるものであった。
 天皇に対する吉田の絶対的帰依は、戦前においても戦後においてもその表われ方に変わりはない。
 戦前戦中の軍国体制下にあって吉田が「英米派」として「三国同盟」に反対し、なおかつ軍部の独善的政治支配に反旗を翻したのは、何も民主主義のためではない。
 明治維新に再興した天皇体制を軍部の「反体制」的妄動から守るためであった。
 一方、戦後政治において彼が闘った相手は、もちろん反体制共産勢力である。・・・

⇒原は、『吉田茂』の副題を「–尊皇の政治家–」としているが、私には、到底、吉田が尊皇家であったとは思えない。(すぐ下の囲み記事参照。)


[吉田茂と天皇/天皇制]

 吉田茂が尊皇家・・昭和天皇崇拝者や天皇制堅持論者・・であった形跡はない。
 そのことは、彼を育てた人々を振り返ってみれば自ずから明らかだろう。
 まず、佐藤一斎は、「三男・立軒の次女・士子(ことこ)<が>、実業家の吉田健三に嫁ぎ、吉田茂の養母となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E
ことから、士子を通じて吉田に影響を及ぼしたはずだが、佐藤が著した「言志四録<は、>一斎が後半生の四十余年にわたり記した随想録。指導者のための指針の書とされ、西郷隆盛の終生の愛読書だった<>」(上掲)とはいえ、尊皇だの尊王だのとは無縁の生き様ノウハウ本でしかなく、
https://www.chichi.co.jp/specials/genshi_shiroku/
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4364
また、私見では西郷自身は、勤王家ではあっても、
https://rekijin.com/?p=26379
さしたる人物ではなかった(コラム#省略)し、教育者としてだけは傑出していたところの、尊皇家の理念型とも言うべき吉田松陰
https://webronza.asahi.com/politics/articles/2019040800007.html
が、「玉木文之進への手紙の中で「林家、佐藤一斎等は、至って兵事をいふ事を忌み、殊に西洋辺の事共申候得ば、老仏の害よりも甚しとやら申される由」と書いて、<その>西洋嫌いに失望している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E
ことも踏まえれば、佐藤は生き様ノウハウベストセラーを著した儒学専門家以上でも以下でもなかった、と見てよさそうだ。
 ダメ押しだが、佐藤による「重職心得箇条<は、>・・・佐藤一斎が、その出身地である岩村藩の為に作った重役の心構えを書き記したものであり、聖徳太子の十七条憲法に擬して十七箇条に説かれてある」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E8%81%B7%E5%BF%83%E5%BE%97%E7%AE%87%E6%9D%A1
ところ、その内容(上掲)には、天皇への言及どころか、日本への言及すらない。
 次に、吉田の養父の吉田健三だが、「板垣退助や後藤象二郎、竹内綱ら、自由党の面々と誼を通じて同党を経済的に支援した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%81%A5%E4%B8%89
人物だが、後藤を父親代わりになって養育した吉田東洋は「勤王嫌い」であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B4%8B
後藤自身は、板垣や福澤諭吉が親友であり、この2人とも秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったので、後藤もそうだったのだろうが、彼に勤皇家の気配はない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%B1%A1%E4%BA%8C%E9%83%8E
 但し、板垣だけは、正真正銘の勤皇家だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E9%80%80%E5%8A%A9
 では、実父の竹内綱はどうか。
 「板垣退助が創立した愛国社の再建に取り組むことになる。翌年、愛国社は国会期成同盟に改称されたが、竹内はこの国会期成同盟を足場にして、後藤象二郎らとともに国会開設・自由民権を掲げ、自由党結成の原案を作成した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E7%B6%B1
と、吉田健三と瓜二つの経歴だが、やはり、本人に、勤皇家の気配はない。(上掲)
 吉田茂が10歳15歳までの5年余にわたって教育を受けた小笠原東陽はどうか。
 「美作勝山藩士の小笠原忠良の三男として生まれ、・・・26歳で昌平坂学問所に入り、佐藤一斎、安積艮斎に学び、林鴬渓の門下生となる。31歳の時に姫路藩に仕官し、藩の学副督になる。36歳の時、藩主酒井忠績に対し、同志20余名と共に徳川氏と生死をともにすべしと主張するも受け入れられず、職を辞した。
 明治維新後、1869年(明治2年)に池上本門寺から招聘され、僧に漢学を教える・・・。
 羽鳥(現在の神奈川県藤沢市)に移り、1872年(明治5年)3月に、羽鳥村名主の三觜八郎右衛門に招かれ読書院(5年後に耕余塾改称)を開き、教育指導を行う。
 58歳で没し、墓所は汲田墓地に所在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E6%9D%B1%E9%99%BD
というわけで、小笠原はゴリゴリの佐幕派だった人物だ。
 (ちなみに、小笠原は、墓所から日蓮宗信徒ではなかったのだろうが、池上本門寺とのご縁からして、秀吉流日蓮主義者であった可能性はある。)
 なお、杉浦重剛率いる日本中学に1年間在籍したことで吉田が杉浦の尊皇論等に薫染されたとは思えないことは既に記したところだ。
 最後に、学習院院長時代に吉田を見初めて、牧野の娘婿に吉田を強く推したと私が想像している近衛篤麿はどうか。
 ちょっと驚くことに、篤麿の事績に、尊皇めいたものは見当たらない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF
http://tsubouchitakahiko.com/?p=4525
 これは、篤麿を育てた祖父の忠煕から、孝明天皇(や明治天皇)観を叩きこまれていて、秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者としては、天皇家に対して、傀儡として活用する以外のことは一切期待してはならない、という、旧摂関家の中枢にあるまじき考えを篤麿が抱いていたからだとしても私は驚かない。

 これ以上の説明は不要だろう。

 原が引用している吉田の『回想十年』は1957年1月に上梓されたもの
https://www.amazon.co.jp/%E5%9B%9E%E6%83%B3%E5%8D%81%E5%B9%B4%E3%80%88%E7%AC%AC3%E5%B7%BB%E3%80%89-1957%E5%B9%B4-%E5%90%89%E7%94%B0-%E8%8C%82/dp/B000JAXIMS/ref=sr_1_11?adgrpid=138316174721&hvadid=588845935669&hvdev=c&hvqmt=e&hvtargid=kwd-334544907833&hydadcr=16034_11399741&jp-ad-ap=0&keywords=%E5%9B%9E%E6%83%B3%E5%8D%81%E5%B9%B4&qid=1654430773&sr=8-11
だが、同趣旨のことを、吉田自身が戦前、私的に言ったり書いたりしたことなどないはずであり、『回想十年』の件の記述は、吉田が(戦前にはそのような機会がなかったけれど、)戦後、天皇に対して「不忠」であったことを覆い隠すためのウソだ、と、私は見ている。
 (もとより、反証が出現したら、この私の見方は撤回するが・・。)(太田)

 日米安保条約は、日米それぞれが侵略されたとき互いに助け合うという相互防衛条約とはならなかった。
 その含意は、日本が集団的自衛権の行使能力を備えるまで日米対等の相互防衛条約はありえない、ということである。
 独立後2年8カ月間、吉田政権はこの「駐軍協定」としての安保条約に安住し寄りかかる立場をとり続けた。
 吉田のこうした対米姿勢は、国民の対米依存が意識、無意識のうちに一つの慣性となり惰性となっていく姿と重なっていう。

⇒その逆だった、というのが、私の見方であるわけだ。(太田)

 しかし、・・・吉田はみずからこういう。
 「憲法第9条は、いわゆる不磨の大典の一条項として、将来に亘って変らざる意義を持つものというよりも、どちらかといえば間近な政治的効果に重きを置かれた傾きがあった」・・・。
 つまり憲法第9条は「侵略国日本」・「好戦国日本」の汚名を一掃してくれたという意味ではその歴史的使命を果たし終えた、というのが吉田の主張である。
 吉田は更にこうもいう。
 「いつまでも他国の力を当てにすることは疑問であった、自らも余力の許す限り、防衛力の充実に努めねばならない」・・・。
 国家国民の安全確保をめぐって他国と対等に助け合うことを妨げる憲法第9条がいずれ変更されなければならぬという考えは、長らく吉田の胸間に沈殿していたといえよう。」(※)

⇒吉田が昭和天皇に先の大戦に係る謝罪や退位をさせなかったことに関して、既述したものの他の、より本質的な理由についてだが、謝罪させなかったのはそれが退位に直結するからだし、退位させなかったのは、支那勤務が長かった吉田には、女真人の植民地だった歴史を引きずった英国の半植民地下の支那の阿Q達の姿を熟知しており、日本を米国の属国に昭和天皇がしてしまったことの結果として、日本の国民が阿Q的なものへと劣化していく将来が見えていて、昭和天皇に、天皇のままでそれを目撃させ、自分が何という取り返しのつかないことをしてしまったかを悟らせたい、逃げるのは許さない、という思いがあったのではないか、ということだ。
 吉田のこの思いを担保していたのが、皇室典範第4条・・皇位を継承するのは天皇が崩じたとき(のみ)・・だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84
 残念ながら、昭和天皇が亡くなった1989年1月時点は、日本の経済が高度成長末期のバブルの頂点にあって国民の阿Q化がまだ顕在化していなかった時代であり、同天皇は、結局阿Q化を直視させられなかったわけであり、吉田のこの願いは成就されなかったが・・。
 但し、ダメ元で、吉田は、いつの日か心ある日本人達が、これは到底放置できないと声を上げ始めてくれるかもしれない、という期待の下、「<米>軍が引き続き日本国内に駐留し続けることが骨子となっている。条約の期限は無く、駐留以外に援助可能性には触れているが、防衛義務は明言されていない。また、内乱への対応の言及もあ<る>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%90%88%E8%A1%86%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%AE%89%E5%85%A8%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E6%9D%A1%E7%B4%84
上、極東条項まである(前出)という出来の悪い安保条約を、一見無気力に、しかし実はあえて、米側の要求を値切ることなく受け入れ、締結した、と、私は見ている。
 しかし、吉田が危惧した通り、国内で、再軍備を求める声は高まることはなかったところ、(死ぬまで杉山構想を知らされなかったと私が見ている)岸信介が首相になって、愚かなことに、「防衛義務の明言・内乱条項の削除などを行った新日米安保条約<を>締結<し>、1960年6月に発効<することとなり、>旧日米安保条約第4条及び新日米安保条約第9条の定めにより、旧日米安保条約は1960年6月23日に失効した」(上掲)ことによって、再軍備へのモメンタムは完全に失われてしまい、吉田は、(間違いなく傷心のうちに)1967年10月20日に死去することになる。
 最後に、1964年4月11日(現地時間)のヴァージニア州ノーフォークでのマッカーサーの葬儀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC
に吉田が出席した理由についてだが、既述したように、吉田を、日本の主権回復の前に再び首相に復帰させる手筈を、約束通りにマッカーサーが整えてくれた恩義に対する返礼だった、というのが私の見方だ。
 そのおかげで、武装放棄状態にされ、その後も武装放棄状態に等しいままであったところの、日本、に、主権回復後、安全は確保される一方で日本の米国属国性が、この上もなくはっきり読み取れるところの、安保条約・・日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約・・を(結果的には岸のせいで暫時の間だけに終わってしまったが、)吉田はもたらすことができたのだから・・。(太田)


[吉田茂と岸信介]

 「<1953>年2月、岸が<欧州>外遊の挨拶を兼ねて吉田を訪ねたとき、興味深いことに、吉田は2カ月後に迫った参議院選挙(4月24日)への出馬を岸に促している。・・・
 吉田が岸に衆議院ではなく、政治力に欠ける参議院への立候補を説いたのは、政界復帰するであろう岸が保守再編の台風眼となって自身の足元を揺るがしかねないという吉田独特の勘が、すでにこの当時働いていたのかもしれない。
 確かに岸への吉田の警戒心は的中した。
 岸は1カ月後の「バカヤロー解散」、それに続く総選挙に当選するや、鳩山・重光らと相謀りつつ公然と「反吉田」・「政界再編」へと突き進むのである。
 かくして、戦後政治の表舞台に再び姿を現した岸、自由党内にいま一度復権した鳩山、そして吉田に「防衛力増強」を約束させた重光が、これを機に「憲法改正」・「自営軍創設」を大義にしつつ「反吉田」の流れを加速させていくのである。」(※)

⇒吉田の警戒心はそんな「低次元」のものではなく、憲法改正ないし憲法政府解釈変更による再軍備が当時既に世論動向に照らし殆ど不可能になっていた中で、岸が権力を握ったら、安保条約改正によって米国に日本防衛義務を課す等を実現するという安易な道を追求するのは必至であり、それに岸が成功するようなことがあれば、日本の再軍備は永久に不可能になってしまうことへの強い警戒心だった、というのが私の見方だ。
 やがて、首相になった「岸は安全保障論議で吉田茂とは鋭く対立したが、親戚関係にあり、安保改定に当たっては同条約締結時に首相の任にあった吉田に敬意を表した。神奈川県大磯町の別荘に隠棲していた吉田の許にたびたび足を運び、吉田もその都度丁重な礼状をしたため、家人をもって岸邸に届けさせたという。また、皇學館大学では吉田の後任の総長を務めている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E4%BF%A1%E4%BB%8B
 (ちなみに、「吉田<の>・・・長女:桜子(夫・吉田寛は外交官だったが若くして病死。首相岸信介・佐藤榮作兄弟は父方の従兄弟、外相松岡洋右の甥にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 )

ということになっているが、それは公表ベースの話なのであって、この時の吉田は、岸に対し、安保改定を止めるように説得に努めたけれど、物別れに終わった、というのが本当のところだった、と私は見ている。(太田)

 4 改めて私の昭和天皇戦後日本属国化戦略首謀者説について

 「昭和20年8月15日、玉音放送によって、日本の敗戦が国民に知らされました。この時、昭和天皇が心を痛めていたのは、自分の臣下であった者が、戦争犯罪人として裁かれることでした。「自分が一人引き受けて、退位でもして、収めるわけにはいかないだろうか」。昭和天皇は、木戸内大臣にそう洩らされたといいます。・・・

⇒何度も繰り返して恐縮だが、そんなことをすれば、一天皇の権威の失墜にとどまらず、天皇制そのものの権威が失墜し、内外からの圧力が一挙高まって、天皇制を維持することが困難になることは日の目を見るよりも明らかであったというのに・・。(太田)

 昭和20年(1945)9月27日、昭和天皇がダグラス・マッカーサーを訪れ、会見しました。・・・
 マッカーサーは回顧録に次のように記します。
 「天皇の話はこうだった。『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(『マッカーサー回顧録』1963年)
 また、この時、同行していた通訳がまとめた天皇の発言のメモを、翌日、藤田侍従長が目を通しています。藤田は回想録にこう記します。
 「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。 『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
 一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
 『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。
 会見は当初、15分の予定でしたが、35分にも及び、会見終了後、マッカーサーの天皇に対する態度は一変していました。感動した彼は予定を変えて、昭和天皇を玄関にまで出て見送るのです。マッカーサーの最大の好意の表われでした。」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4383

⇒昭和天皇は周りの制止を振り切って、自分に戦争責任があることをマッカーサーに伝えたわけだが、米国政府が既に昭和天皇の戦争責任には目をつぶって追及しないことにしていた(典拠省略)こと、と、天皇のこの発言のおかげでマッカーサーと昭和天皇との間にケミストリーが生じたことで、たまたまだが、(その限りにおいて、)結果オーライになったわけだ。(太田)

 「1945年(昭和20年)10月4日のことである。この日、マッカーサーは、東久邇宮内閣の国務大臣であった近衛文麿に、憲法改正を示唆した。・・・
 なお、この日、総司令部は、治安維持法の廃止、政治犯の即時釈放、天皇制批判の自由化、思想警察の全廃など、いわゆる「自由の指令」の実施を日本政府に命じた。翌5日、東久邇宮内閣は、この指令を実行できないとして総辞職し、9日に幣原喜重郎内閣が成立する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
 「GHQが日本国憲法の作成を急いだのは、極東国際軍事裁判で「天皇を戦犯に」という声が大きい中で、天皇を象徴にしてしまって中央突破する作戦だったとも・・・ベアテ・シロタ・ゴードン<の>自伝の『1945年のクリスマス』<に>・・・記してある。」(コラム#12699)

 「幣原喜重郎<は、>・・・戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任。本人は首相に指名されたことを嫌がって引っ越しの準備をしていたが、同じく指名を固辞した吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E

⇒前述した吉田の恐喝を受け、更に、昭和天皇の懇願を受け、幣原は忍び難きを忍び、首相に就任したわけだ。(太田)

 幣原の再登場を聞いた古手の政治記者が「幣原さんはまだ生きていたのか」と言ったという逸話が残るほど、当時の政界では忘れられた存在となっていたが、親英米派としての独自のパイプを用いて活躍した。ただし、吉田が幣原を首相に推したのは吉田の政治的な地位作りのためであったともいわれている。

⇒そんなやわな理由ではなかったということを既に説明した。(太田)

 「<幣原は、>1945年10月11日、マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問。挨拶という体裁ではあったが一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された。
 この後もマッカーサーとは1946年1月24日に会談。この会談で幣原は平和主義を提案、皇室の護持と戦争放棄の考えを述べたとされる。その前の12月、幣原は風邪で倒れ、病床で「つくづく考えた」のであった。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である。
 1946年2月22日、GHQ側から渡された憲法草案の受け入れを閣議決定。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E (太田)

 幣原は、1946年1月24日のマッカーサーへの戦争放棄の申し入れについて、後に、次のように語っている。↓

 「豪州その他の国々は日本の再軍備を恐れるのであって、天皇制そのものを問題にしている訳ではない。故に戦争が放棄された上で、単に名目的に天皇が存続するだけなら、戦争の権化としての天皇は消滅するから、彼らの対象とする天皇制は廃止されたと同然である。もともとアメリカ側である濠州その他の諸国は、この案ならばアメリカと歩調を揃え、逆にソ連を孤立させることが出来る。
 この構想は天皇制を存続すると共に第九条を実現する言わば一石二鳥の名案である。尤も天皇制存続と言ってもシムボルということになった訳だが、僕はもともと天皇はそうあるべきものと思っていた。元来天皇は権力の座になかったのであり、又なかったからこそ続いてきたのだ。もし天皇が権力を持ったら、何かの失政があった場合、当然責任問題が起って倒れる。世襲制度である以上、常に偉人ばかりとは限らない。日の丸は日本の象徴であるが、天皇は日の丸の旗を護持する神主のようなものであって、むしろそれが天皇本来の昔に還ったものであり、その方が天皇のためにも日本のためにもよいと僕は思う。
 この考えは僕だけではなかった<。>

⇒そう。それは、名前を絶対に明かすわけにいかなかったところの、昭和天皇その人だった、ということを私は主張しているわけだ。(太田)

 <しかし>、国体に触れることだから、仮にも日本側からこんなことを口にすることは出来なかった。憲法は押しつけられたという形をとった訳であるが、当時の実情としてそういう形でなかったら実際に出来ることではなかった。
 そこで僕はマッカーサーに進言し、命令として出して貰うように決心したのだが、これは実に重大なことであって、一歩誤れば首相自らが国体と祖国の命運を売り渡す国賊行為の汚名を覚悟しなければならぬ。松本君にさえも打明けることの出来ないことである。したがって誰にも気づかれないようにマッカーサーに会わねばならぬ。幸い僕の風邪は肺炎ということで元帥からペニシリンというアメリカの新薬を貰いそれによって全快した。そのお礼ということで僕が元帥を訪問したのである。それは昭和二十一年の一月二十四日である。その日、僕は元帥と二人切りで長い時間話し込んだ。すべてはそこで決まった訳だ。・・・
 マッカーサーは非常に困った立場にいたが、僕の案は元帥の立場を打開するものだから、渡りに舟というか、話はうまく行った訳だ。しかし第九条の永久的な規定ということには彼も驚ろいていたようであった。僕としても軍人である彼が直ぐには賛成しまいと思ったので、その意味のことを初めに言ったが、賢明な元帥は最後には非常に理解して感激した面持ちで僕に握手した程であった。
 元帥が躊躇した大きな理由は、アメリカの戦略に対する将来の考慮と、共産主義者に対する影響の二点であった。それについて僕は言った。
 日米親善は必ずしも軍事一体化ではない。日本がアメリカの尖兵となることが果たしてアメリカのためであろうか。原子爆弾はやがて他国にも波及するだろう。次の戦争は想像に絶する。世界は亡びるかも知れない。世界が亡びればアメリカも亡びる。問題は今やアメリカでもロシアでも日本でもない。問題は世界である。いかにして世界の運命を切り拓くかである。日本がアメリカと全く同じものになったら誰が世界の運命を切り拓くか。」(昭和二十六年二月下旬 幣原喜重郎)
https://www.benricho.org/kenpou/shidehara-9jyou-text.html

⇒私が引用した最後の段落で幣原が言っていることはナンセンスだ。
 日本の武装放棄は、日本の米国への安全保障依存、つまりは米国の属国化とセットだったのであり、これは、日米の軍事一体化どころではない、日米の一体化を意味していたからだ。
 マッカーサーはこういった幣原の言い方等が念頭にあって、後に日本人12歳論を唱えたのだろう。(太田)


[幣原喜重郎] 

 1872~1951年。

 「堺県門真一番村(現・大阪府門真市)の豪農の家に生まれた。兄・坦は教育行政官、台北帝国大学初代総長。大阪城西側にあった官立大阪中学校(のち京都に移転、第三高等中学校となる)から、第三高等中学校(首席卒業)を経て、1895年(明治28年) 東京帝国大学法科大学卒業。濱口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争ったという。
 大学卒業後は農商務省に入省したが、<その年に>・・・外交官試験に合格し、・・・<翌>1896年(明治29年)・・・外務省に転じた。

⇒恐らく、高文と外交官試験を受けて前者は落ちたので、農商務省に入り、再び外交官試験を受けて合格した、ということだろう。
 なお、陸軍省、海軍省、外務省、以外の一般官庁の中では、当時の農商務省は二流官庁であり、これは、幣原が高文ではなく外交官試験の方の勉強に力を入れていたことを示唆しているのか、それとも、彼が(大蔵省に「現役」で入った)濱口と競い合ったというのが神話で幣原の成績がさほどでなかったのか、判断するのはむつかしいが、恐らくは後者なのではないか。(太田)

 外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て1915年(大正4年)に外務次官となり、1919年(大正8年)に駐米大使。第一次世界大戦後に<米>大統領ウォレン・ハーディングの提唱で開かれた国際軍縮会議、ワシントン会議においては全権委員を務める。
 外務大臣になったのは1924年(大正13年)の加藤高明内閣が最初であった。以降、若槻内閣(1次・2次)、濱口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任した。
 彼の1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立した。

⇒「最近の研究によってその認識はあらためられつつある。・・・熊本史雄<(注33)>・・・はこの点、最近の研究を踏まえ、両者の基本的同質性を指摘している。

 (注33)筑波大卒、同大院博士課程、後に同大博士(文学)、外交史料館勤務、駒澤大文学部専任講師、准教授、LSE客員研究員、駒澤大文学部歴史学科日本史学専攻教授。
https://researchmap.jp/read0127409

 すなわち、一、満蒙権益の重視、二、対英米協調路線、三、通商政策進展、四、中国内政不干渉の4点にわたって両者は同質的であるという。・・・
 そして両者の相違は、人的ネットワーク・下僚の差配の点にあったという。田中は陸軍内部を母体に権力基盤を獲得したが、幣原は通商政策局に数少ない幣原派を築いたにすぎず、それは北京関税会議において外務省内部で機能せず、第二次幣原外交でそれはさらに顕在化した。満州事変時外務省内部で力が強かったのは強硬派の亜細亜局の谷正之らであり、それに幣原は押し切られていったという。幣原は外務省内部を支配する政務局出身者を掌握していなかったから、そうなったのも当然でこのように幣原は人的ネットワーク・下僚の差配は巧みでなかった。」
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/22820
ということらしいのだが、皆さんには既にお分かりのように、私見では、田中は秀吉流日蓮主義者/島津斉彬コンセンサス信奉者でかつ杉山構想を知らされていたのに対し、幣原は同信奉者ではなく、当然、杉山構想も知らされなかった、という「基本的同質性」ならぬ「基本的異質性」が両者の間にはあったのだ。(太田)

 ワシントン体制に基づき、対米英に対しては列強協調を、民族運動が高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し、東アジアに特別な地位を占める日本が中心となって安定した秩序を形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年(大正14年)の五・三0事件<(注34)>においては、在華紡(在<支>の日系製糸会社)の<支那>人ストライキに対して奉天軍閥の張作霖に要請して武力鎮圧するなど、権益の擁護をはかっている。

 (注34)「1925年5月30日に中国・上海でデモに対して上海共同租界警察が発砲し、学生・労働者に13人の死者と40人余りの負傷者が出た事件。・・・
 <その>起因<だが、>・・・5月15日、上海にある日系資本の内外綿株式会社の第8工場にて、ネオ・ラッダイト主義を標榜した暴動が発生。これに対し工場側当事者が発砲し、共産党員の工員顧正紅が重<傷>を受け、翌日死亡。また10人以上の重軽傷者が出た。
 これが発端となり、上海では学生らを中心としてビラ配布、演説等の抗議活動を行い、また24日には顧正紅を殉教者として大規模な葬儀が行われた。
 また、運動は各都市に伝播し、29日には青島において日本の紡績工場でストライキが起こった。これに対し日本軍と北洋政府の張宗昌、温樹徳らが大規模な弾圧を加え、8人の死者と数十名の負傷者、70数名の逮捕者を出している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E3%83%BB%E4%B8%89%E3%80%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 1926年(大正15年)に蔣介石が国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉の方針に基づき、<米国>とともに<英国>による派兵の要請を拒絶。しかし、1927年(昭和2年)3月に南京事件が発生すると、軍部や政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相が政策転換を求めるなど批判が高まった。こうした幣原外交への反感は金融恐慌における若槻内閣倒閣の重要な要素となった。
 1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約を締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年(昭和6年)夏、広東政府の外交部長陳友仁が訪日し、張学良を満洲から排除し満洲を日本が任命する政権の下において統治させ、中国は間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相は一蹴した。その後、関東軍の独走で勃発した満州事変の収拾に失敗し、政界を退いた。幣原外交の終焉は文民外交の終焉であり、その後は軍部が独断する時代が終戦まで続いた。
 なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理の銃撃による負傷療養期間中、宮中席次の規定により次席であった幣原が内閣総理大臣臨時代理を務めた。立憲民政党の党員でなかった幣原が臨時代理を務めたことは野党立憲政友会の批判の的となり、また同じく批判されたロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁でしたことが天皇への責任転嫁であると失言問題を追及された。その際の首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。・・・
 <ちなみに、>三島由紀夫<は、>幣原について、「世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻<が>看過されてゐる」、「不忠の臣」と述べ批判している。・・・

⇒本来典拠にあたるべきだが、これだけだと、幣原の首相臨時代理期間は短いので、幣原が金融政策や経済政策を所管する大臣であったことはない以上、全く筋違いの批判だろう。
 三島の政治論は、何事によらず、真面目に受け取ってはなるまい。(太田)

 <また、>濱口雄幸が立憲民政党の総裁になった際、中学校時代からの友人であり懇意であった幣原に副総裁になるよう要請した<が、>その頃幣原は外務大臣は政党と関係を持つべきでないとする信条を持っており、拒絶したという。・・・

⇒この幣原の発想は意味不明だ。(太田)

 第2次若槻内閣の総辞職以降は表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿に今後の見通しを訊かれ、「南部仏印に向かっている陸軍の船団をなんとか呼び戻せませんか?それが出来ずに進駐が実現すれば、絶対アメリカとの戦争は避けられません」と直言した逸話が残っている。・・・

⇒もちろん杉山らもそう考えていて、だからこそ、南部仏印進駐を断行したのだ。
 幣原にそれが分かっていたのならば、当時の一般官庁のキャリア官僚達が霞んでしまうほどの超エリート集団である陸軍上層部の大部分にも分かっていたはずだと考えない方がおかしいのだ。(太田)

 戦後の1945年10月9日に、10月5日の東久邇内閣の総辞職を受け内閣総理大臣に就任。・・・
 東久邇宮内閣総辞職後にマッカーサーから後任総理について尋ねられた時、世間から忘れ去られていた<ところの、自分が次官だった時の外務大臣だった>幣原をマッカーサーに推挙したのは吉田であった・・・
 [幣原喜重郎外相の下で次官を務めていた際、省内の文書が次官の吉田の決裁後に大臣である幣原の下に届けられると、能書家として知られていた幣原が文面を全て校正してから決裁をすることを知って、「大臣の所に行った文書は書き直されてしまうのだから、大臣の決裁を貰ってからでないと次官の決裁は出せない」と皮肉を述べたところ、この話が幣原に伝わってしまい、暫くの間二人の仲は険悪になったと言われている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 ]

⇒くどいようだが、やはり、(この挿話だけからでも、)吉田が幣原を首相に推薦したのはおかしいと思わない方がおかしい。(太田)

 1945年10月11日、マッカーサーに新任の挨拶を行うために連合国軍最高司令官総司令部を訪問。挨拶という体裁ではあったが一時間にわたる会談となった。マッカーサーからはポツダム宣言に沿って憲法改正を行うこと、人権確保のための改革を行うこと、厳冬期対策を急ぐべきことの要求が出された。
 この後もマッカーサーとは1946年1月24日に会談。この会談で幣原は平和主義を提案、皇室の護持と戦争放棄の考えを述べたとされる。その前の12月、幣原は風邪で倒れ、病床で「つくづく考えた」のであった。幣原の憲法草案が保守的でGHQから拒否されたというのは誤解であり、GHQから拒否されたのは、幣原・マッカーサー会談の後に出来た国務大臣松本烝治を長とする憲法問題調査会(松本委員会)がまとめた「松本案」である。
 1946年2月22日、GHQ側から渡された憲法草案の受け入れを閣議決定。同日、天皇を訪ね経緯と内容を報告した。・・・
 <ちなみに、>幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女。したがって喜重郎は加藤高明(春路夫人が弥太郎の長女)や岩崎久弥(弥太郎の長男、三菱財閥3代目総帥)、木内重四郎(磯路夫人が弥太郎の次女)らの義弟に当たる。ただし春路・久弥・磯路の3人は弥太郎の正妻・喜勢が産んだのに対し雅子は妾腹の出である。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%8E%9F%E5%96%9C%E9%87%8D%E9%83%8E

II 幕末・維新主役諸家の至終戦史

 1 徳川諸家

  (1)徳川宗家

   ア 家達(いえさと。1863~1940年)

 どうして徳川宗家がここに出てくるのかと怪訝に思われるかもしれないが、それは、最後の将軍徳川慶喜は徳川宗家を短期間とはいえ、継承し、その時、初めて、徳川宗家は、秀吉流日蓮宗家になったのであって、それ以降の徳川宗家は、すぐ後で言及するように、いわば、ゴッドマザーとして徳川宗家に君臨したところの、天璋院によって秀吉流日蓮宗家として堅持されるからだ。
 
 「田安家当主・徳川慶頼<(注1)>の三男として誕生した。・・・<母は、その>側室<の>高井氏(生家は津田氏、津田梅子の母と姉妹)・・・

 (注1)よしより(1828~1876年)は、「一橋徳川家2代当主徳川治済<(はるさだ)>の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。・・・正室は閑院宮美仁親王娘」の徳川斉匡(なりまさ。1779~1848年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%8C%A1
の子で、母は、「奥医師篠崎三伯養女、武藤三益女<。>・・・正室<は>暉姫(1826年 – 1840年) – 徳川家慶娘<、>継室<は> 閑院宮孝仁親王娘<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E9%A0%BC

⇒家達の母はそれなりだが、父の慶頼の母も、祖父の治済の母も不詳に近い、とはいえ、この父も祖父も閑院宮家から正室ないし継室を迎えており、田安家は秀吉流日蓮主義家になっていたと思われ、天璋院(下出)もそう考えたのではないか。(太田)

 1865年・・・に御三卿田安徳川家7代当主、徳川慶喜の隠退謹慎後の1868年・・・に徳川宗家16代当主とな<る。>・・・

⇒この経緯については、「14代将軍家茂には自身の後継に亀之助を据える考えがありましたが未だ幼少のため実現せず、15代将軍には同じ御三卿の一橋慶喜が就任しました。しかし、慶喜は<1867>年に大政を奉還し、翌年の鳥羽・伏見の敗戦後には寛永寺において謹慎に入ります。当主不在となった徳川家では天璋院(13代将軍家定継室)や静寛院宮(14代将軍家茂御台所、和宮)らの尽力があり、亀之助に徳川宗家の相続が認められました。」
http://www.tokugawa.ne.jp/2011.08.11rinnnouji.htm
ということくらいしか分からなかった。
 要は、生前の家茂の意向を尊重した、ということか。(太田)

 家達の英国滞在中、日本では天璋院が義弟(天璋院は徳川家定に嫁ぐ前に近衛家の養女になっていた)にあたる近衛忠房の娘近衛泰子(近衛篤麿公爵の妹・近衛文麿公爵の叔母)と家達の縁組をまとめていた。オックスフォードかケンブリッジへの進学を希望していた家達のもとに1882年(明治15年)秋に婚儀を心待ちにする天璋院から帰国を求める手紙が届いたため、留学を切り上げて日本に帰国することになった。・・・
 帰国間もない11月6日に近衛泰子と結婚。彼女との間に嫡男家正をはじめとする一男三女を儲ける。・・
 明治初期に駿河静岡藩主(知藩事)を務める。廃藩置県後に貴族院議員となり、1903年(明治36年)から1933年(昭和8年)までの30年にもわたって第4代から第8代までの貴族院議長を務めた。またワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピック組織委員会委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長、恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長なども歴任。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%81%94
 近衛泰子(ひろこ。1872~1944年)の母は、島津一門四家の加治木島津家当主の島津久長の女子で
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E9%95%B7_(%E5%8A%A0%E6%B2%BB%E6%9C%A8%E5%AE%B6)
島津斉彬の養女であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E6%88%BF
「日本赤十字社篤志看護婦人会会長、撫子会会長、愛国婦人会理事を務めて婦人看護に重きをなし、特に日露戦争での後方支援に活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B3%B0%E5%AD%90

⇒近衛家が江戸時代中にはついに果たせなかったところの、徳川宗家の秀吉流日蓮主義信奉家化を、慶喜と天璋院の力でついに果たした、と言ってよかろう。
 徳川(近衛)泰子の事績も敬服に値する。(太田)

   イ 家正(1884~1963年)

 「1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学政治科を卒業する。同年外務省に入省し外交官補となる。1925年(大正14年)シドニー総領事、1929年(昭和4年)カナダ公使、1934年(昭和9年)トルコ大使となる。1937年(昭和12年)に外務省を退官した。
 1940年(昭和15年)7月15日、父の薨去に伴い公爵を襲爵し、貴族院議員となる・・・。1946年(昭和21年)に最後の貴族院議長に就任し(最後の貴族院副議長は一橋徳川家の徳川宗敬)、貴族院と華族制度の廃止を見届けた。・・・
 妻は薩摩藩主島津忠義の十女・正子(なおこ)で、その結婚は2人が誕生する前に、13代将軍徳川家定の正室であった天璋院の遺言によって既に決められていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%AD%A3

⇒天璋院が念には念を入れたことが分かる。
 その象徴的意味がもたらした効果は、徳川諸家のみならず、旧幕臣達や、御三家、御三卿、親藩、の旧家臣達にも及んだ、と見たい。
 繰り返すが、彼女は、島津斉彬が天璋院に与えた使命を、ようやく維新後に、しかし、斉彬の期待を超えて見事に果たした、と言えそうだ。(太田)

  (2)尾張徳川家

   ア 徳川義札(よしあきら。1863~1908年)

 「讃岐高松藩主松平頼聰の次男。・・・生母不明<。>・・・明治9年(1876年)5月9日、尾張徳川家当主徳川慶勝の養子となり、明治13年(1880年)9月27日に家督を相続する。明治17年(1884年)7月、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学、明治20年(1887年)10月に帰国する。・・・
 正妻は慶勝の四女・登代姫(離婚)。後妻は慶勝の七女・良子。
 明治41年(1908年)に徳川義親(松平春嶽の五男)を長女・米子の婿養子とし、同年に義礼が死去すると義親が家督を相続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E7%A4%BC

⇒幕末、右往左往した高松藩松平家・・松平頼聰の父でその責めを負うべき頼恕(よりひろ)の父は水戸藩主徳川治紀!・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%A0%BC%E6%81%95
に尾張藩の慶勝・・の母は徳川治紀の女子!・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%8B%9D
が、叔父として、義札に、一度ならず二度までも救いの手を差し伸べたといったところか。(太田)

   イ 徳川義親(よしちか。1886~1976年)

⇒「父は越前松平家・松平慶永(春嶽)<、>・・・母<は>糟屋婦志子・・・で、1908年に尾張徳川家の婿養子となり、家督を相続」した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E8%A6%AA
ものだが、コラム#9902で詳述したので繰り返さないが、1931年の三月事件の「資金として、参謀本部の機密費と清水行之助が徳川義親から借りた資金20万円を充てることが計画された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6?msclkid=510b6508d05e11eca4b3725a4bc75b2b
ことをここで付け加えておこう。
 杉山構想の(恐らくは)実行着手・・結果的に未遂に終わった・・に義親は重要な役割を果たしているわけだ。
 ということは・・。
 義親は、文字通りの秀吉流日蓮主義者だった徳川慶勝と秀吉流日蓮主義者とは言い切れないけれど幕末に活躍した松平春嶽が協力して作り上げたと言えよう。
 ちなみに、糟屋「婦志子は、徳川家定夫人・天璋院の御用人、糟谷十兵衛の4女」だ。
https://blog.goo.ne.jp/onecat01/e/e636ee9a699fed95c85ed6ae3f19fe03 (太田)

  (3)徳川義恕家

   ア 徳川義恕(よしくみ。1878~1946年)

 「旧尾張藩主徳川慶勝の十一男として生まれる。兄の一人、徳川義宜は尾張藩主を務めたが、義恕が生まれる前に亡くなっている。なお、名前の「義恕」は父・慶勝が当初高須松平家時代に名乗っていたものと同じ諱である。
 慶勝は義宜が亡くなったのに伴い、1875年(明治8年)に尾張徳川家を再継承したものの、嗣子に恵まれなかったため高松松平家から義礼を養子に迎えていた。義恕はその後に生まれたため、1888年(明治21年)6月に分家して一家を建て、慶勝の功績で男爵となった。ちなみに義恕は慶勝の正室・隼子(矩姫)に実子同様に育てられ、成人するまで自分が家を継ぐものと思いこんでいたという。
 1902年(明治35年)7月に学習院中等科を卒業する。卒業後、陸軍に一年志願兵として入る。その後、陸軍歩兵少尉に任官した。日露戦争に出征し、軍功により勲六等を与えられた。1912年(大正元年)、侍従に転じる。1927年(昭和2年)、退職する。・・・
 妻: 津軽承昭の娘・寛子(のりこ)
  長男: 義寛 – 嫡男(尾張徳川家分家次代)。1936年に侍従となり侍従次長を経て、1985年、侍従長に就いた。
  次男: 津軽義孝(よしたか) – 津軽氏第14代当主。外祖父・津軽承昭の養子であった津軽英麿(ふさまろ、伯爵)の養子となる。日本中央競馬会顧問、財団法人馬事文化財団名誉顧問、財団法人日本博物館協会会長などを歴任。外孫(義孝四女)の津軽華子は常陸宮正仁親王妃となった。
  三男: 義忠(よしただ) – 妻・礼子(あやこ)は黒田長敬(筑前秋月藩)の長女。義忠は敗戦後、華族令の廃止等で著しく困窮、運転手など職を転々とし、最後はブラジル移民となってサンパウロに移住し、コーヒー農園作業等の職に就いた。・・・
  二女: 祥子 – 北白川宮永久王妃、皇籍離脱後1969年から女官長・皇太后宮女官長、三島由紀夫の長篇小説『春の雪』の伯爵令嬢綾倉聰子のモデル。
  四男: 義恭 – 文学者、装丁家で、三島由紀夫の親友だったが夭折した。三島の作品『貴顕』のモデルとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E6%81%95

⇒三島由紀夫を徳川祥子、義恭とのご縁は、三島自身が水戸徳川家の血筋であることから生じたのか、それとも学習院生徒・学生時代の交友関係から生じたのか、その両方なのか、興味があるところだ。(太田)

   イ 徳川義寛(1906~1996年)

 「学習院高等科を卒業し、1930年(昭和5年)、東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業。ベルリン大学留学後、帝室博物館(現東京国立博物館)研究員。1936年(昭和11年)、侍従となり、1985年(昭和60年)から1988年(昭和63年)には入江相政の後任を受けて侍従長を務め、昭和天皇に仕えた。
 1964年(昭和39年)には姪の華子が義宮正仁親王と結婚して常陸宮家が興り、常陸宮妃となる。1969年(昭和44年)からは、実妹北白川祥子が女官長に就任し、兄妹で天皇・皇后に長く仕えた。 侍従長退任後は、公益法人日本博物館協会会長を務めた。没後の1999年(平成11年)に、終戦時の詳細な日記『徳川義寛終戦日記』が刊行され、話題となった。・・・
 妻:博子 三条公輝の娘。
 長女:美智子 マルハニチロの創業者中部幾次郎の孫(幾次郎の娘婿・中部義吉の次男)・中部鉄次郎に嫁いでおり、鉄次郎は元大洋漁業副社長の中部新次郎、元大洋漁業社長の中部藤次郎、元マルハ社長の中部慶次郎、元林兼産業会長の中部一次郎、元大洋クラブ会長の中部銀次郎などの従兄弟にあたる。なお、中部家は徳川家・津軽家を通して天皇家の縁戚にあたり、天皇家の外戚である久邇家の係累を通して仙石政敬・梅溪通虎・正力松太郎・正力亨・小林與三次・池坊専永などと縁戚関係にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%BE%A9%E5%AF%9B
 「終戦前夜近衛師団の反乱にあい、脅されながらも昭和天皇の玉音放送の録音盤と木戸幸一を守った」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%20%E7%BE%A9%E5%AF%9B-1650316

⇒秀吉流日蓮主義戦争を完結させる重要な役割を演じたと言えよう。(太田)

  (4)紀州徳川家

   ア 徳川頼倫(よりみち。1872~1925年)

 「田安徳川家第8代当主・徳川慶頼の六男<。>・・・生母は沢井八重子・・・
 明治13年(1880年)2月2日、紀州徳川家第14代当主・徳川茂承の養子になり頼倫と改名した。明治18年(1885年)に学習院に入学したが、成績不振により学習院中等学科を中退<。>・・・
 夫人:徳川久子([養父たる紀州藩最後の藩主で日蓮宗信徒の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E6%89%BF ]
徳川茂承の長女)・・・
 明治39年(1906年)8月21日に家督を相続し、9月7日に襲爵して貴族院議員となる。明治44年(1911年)に数十万円の基金を拠出して南葵育英会を設立し、和歌山県出身の就学困難者に奨学金の貸与や学生寮の提供などを行う一方、南葵育英会の賛助者を募るため、和歌山県をはじめとして全国各地の行脚を試みた。・・・
 尊皇の念が強く、渋沢栄一の推挙で聖徳太子奉賛会会長を務めるなど聖徳太子の顕彰事業にも参加している。
 ・・・東京地学協会会長、海軍協会会長、日本弘道会副会長、明治神宮奉賛会幹事などを務めている。
 明治39年(1906年)に養父茂承の百箇日迫善として慶應義塾図書館へ1万円を寄付するなど学校の発展にも努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E5%80%AB

⇒兄達である家達(上出)、達孝(後出)とは母親が違っていて、頭が悪かったようだが、養父譲りの一応秀吉流日蓮主義者、だった気配は感じられる。(太田)

   イ 徳川頼貞(1892~1954年)

 「<徳川久子の子。>学習院中等科卒業・・・学習院高等学科中退・・・ケンブリッジ大学音楽理論科中退・・・
 クライスラーやプッチーニ、サン=サーンス、エルマン、ハイフェッツと親交を持ち、1926年(大正15年)の国際現代音楽協会や1929年(昭和4年)にパリで開かれた第1回世界演奏家連盟の会議などに日本代表として出席している。・・・
 1934年(昭和9年)に財団法人国際文化振興会が設立されると、郷誠之助と共に副会長に就任した(会長は近衛文麿)。・・・
 戦時中は第14方面軍の最高顧問としてフィリピンに約1年間の任期で派遣され、文化面を通じての宣撫活動に従事した。1943年には村田省蔵の比島調査委員会で副委員長に就任。マニラ郊外のラスピニャス教会(en:St. Joseph Parish Church, Las Piñas)にある世界で唯一とされる竹製パイプオルガン(・・・Las Piñas Bamboo Organ)が適切に保存されていないことを憂慮し、マラカニアン宮殿の行政府長官ヴァルガスに面会してフィリピン人の手によって修理する必要性を力説。ヴァルガスは頼貞の提案に賛同し、修理費の大部分をフィリピン政府が負担することで合意した。しかし、一部は民間で負担しなければならなかったが、頼貞がマニラ大司教ロハティに協力を求めたところ、無事にロハティの協力が得られてカトリック信者からの寄付金も集まり、最終的には頼貞の俸給を全て寄付することで修理は軌道に乗っている。頼貞は修理の完成を見ることなく帰国したが、ラスピニャス教会の入り口には「This organ has been restored by Marquis Tokugawa of Japan(このオルガンは日本の徳川侯爵によって修復された)」と書き込まれているという。・・・
 <戦後は、参議院議員を務める。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%A0%BC%E8%B2%9E

⇒父親同様、頭は悪かったようだが、秀吉流日蓮主義者としての片鱗は窺える。(太田)

  (5)水戸徳川家

   ア 徳川昭武(1853~1910年)

 「徳川斉昭の十八男(庶子)で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ、のち秋庭)。・・・
 (1863年)には再度江戸入りする。同年、京都で病に伏した兄・松平昭訓の看護の名目により上洛する。当初は長者町の藩邸に滞在するが、禁門の変の後は東大谷長楽寺、本圀寺に滞在する(これにより滞京中の水戸藩士は「本圀寺勢」と称される)。滞京中の佐幕活動は多忙を極め、禁門の変や天狗党の乱に際しては一軍の将として出陣するなど、幼年ながらも幕末の動乱に参加している。
 従五位下、侍従兼民部大輔に叙任。第14代将軍・徳川家茂の死去に伴い、諱を昭武と改める。慶応2年(1867年)、それまで20年にわたり当主不在であった清水徳川家を相続・再興する[注釈 1]。同時にパリ万国博覧会に将軍慶喜の名代としてヨーロッパ派遣を命じられる。・・・
 ヨーロッパから帰国した翌年の1869年に水戸徳川家を相続し、藩主に就任、明治2年(1869年)、版籍奉還により水戸藩知事となる(民部大輔を辞官)。北海道の土地割渡しを出願し、明治2年(1869年)8月17日に北海道天塩国のうち苫前郡、天塩郡、上川郡、中川郡と北見国のうち利尻郡の計5郡の支配を命じられた。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により藩知事を免ぜられ、東京府向島の小梅邸(旧水戸藩下屋敷)に暮らす。
 明治7年(1875年)、陸軍少尉に任官する。初期の陸軍戸山学校にて、教官として生徒隊に軍事教養を教授している。明治8年(1875年)、中院通富の娘・盛子(栄姫、のち瑛姫)と結婚する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%98%AD%E6%AD%A6

   イ 徳川篤敬(1855~1898年)

 「水戸藩の第10代藩主徳川慶篤の長男で、叔父である第11代藩主徳川昭武の養嗣子となった。最後の将軍徳川慶喜の甥でもある。妻は松平頼聰<(前出)>の長女の總子(又従姉妹にあたる)。・・・
 陸軍士官学校を卒業後、明治12年(1879年)にフランスに留学する。明治16年(1883年)、養父昭武の隠居により家督を相続する。イタリア特命全権公使、式部次長などを歴任する。・・・
 帝国議会開設に伴い、1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任し、死去するまで在任した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%AF%A4%E6%95%AC

   ウ 徳川圀順(くにゆき。1886~1969年)

 「学習院中等科卒業後、陸軍士官学校に進学した。
1906年(明治39年)、水戸家2代光圀以来編纂を行っていた『大日本史』が完成し、明治天皇に献上する。1910年(明治43年)陸軍士官学校(22期)を卒業、歩兵少尉に任官。1911年(明治44年)4月、公爵徳川慶喜の十一女・英子と結婚する。同年12月12日に満25歳となり、定めにより軍人ながら侯爵議員として貴族院議員に就任する。1914年(大正3年)12月11日、病気を理由に陸軍を依願予備役編入となる。軍を退いた後は日本赤十字社に入社。第一次世界大戦の海外戦争孤児の支援では功績を認められ、チェコスロバキアなどから勲章を贈られた。また1907年(明治40年)、水戸育英会が設立されると総裁に就いた。1924年(大正13年)、妻英子が死去。1926年(大正15年)、子爵石野基道の四女彰子と再婚した。
 1929年(昭和4年)、『大日本史』編纂の功により公爵に陞爵する。・・・
 1940年(昭和15年)6月25日、徳川家達の死去をうけてに日本赤十字社の社長となり、1946年(昭和21年)まで務めた。また、1944年(昭和19年)10月11日から1946年(昭和21年)6月19日まで第12代貴族院議長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%9C%80%E9%A0%86
 前妻の徳川英子は、徳川慶喜と新村信の間の女子。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C

⇒水戸徳川家の人々は、徳川治紀(はるとし)・斉昭父子・・彼らは織田信長とその妹のお市の子孫でもある・・の子孫達にふさわしい維新以後の時代の送り方をしたと言えよう。(太田)

  (6)松戸徳川家–徳川武定(1888~1957年)

 「妻は<田安家の>徳川達孝の四女・繡子(<その>母・鏡子は昭武の七兄・徳川慶喜の長女)。・・・海軍における最終階級は海軍技術中将。工学博士。子爵。東京帝国大学教授。・・・
 武定の父・徳川昭武は最後の水戸藩主であったが、1883年(明治16年)に水戸徳川家の家督を甥(前藩主であった長兄・慶篤の遺児)の篤敬に譲って隠居した後、実子の武定をもうけた。1892年(明治25年)5月3日、父の勲功により特旨によって武定は華族に列し子爵を叙爵して、松戸徳川家が創設された。
 ・・・第八高等学校(名古屋)を経て、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学工科大学造船学科を卒業。1918年(大正7年)12月に海軍造船大技士(大尉相当官)、呉海軍工廠造船部員。海軍に入ってから平賀譲(のちに海軍技術中将・東京帝国大学総長)の部下となり、その影響を強く受けた。八八艦隊計画では、4万7000トン・18インチ砲搭載の巨大戦艦を設計した。1922年(大正11年)3月から1925年(大正14年)3月まで、3年間イギリスに私費留学した。
 1924年(大正13年)から1944年(昭和19年)まで20年にわたって海軍技術研究所に勤務した。当初、同研究所は築地市場の傍にあったが、徳川はしばしば市場に通っては魚を観察して、新造艦のアイデアを求めたと言われている。特に昭和初期に帝国海軍が優秀な潜水艦を多数保有できたのは、徳川の研究成果によるところが大きいとされている。1942年(昭和17年)11月、海軍技術中将に進級すると共に海軍技術研究所長に就任し、1944年(昭和19年)12月に海軍艦政本部出仕となり、1945年(昭和20年)4月に予備役に編入された。
 海軍士官として勤務しつつ、東京帝国大学工学部教授を、1938年(昭和13年)3月から1944年(昭和19年)10月まで兼任した。
 戦後は公職追放令によって、一時丸善の顧問(研究員)となるが、畑違いと思われた永井荷風の研究論文で文学界の注目を集めた。また、技術者らしく「ペンを科学する」というペン先を科学的に分析した研究論文も執筆した。追放解除後は、防衛庁技術研究所や川崎重工業の顧問を務めて、日本の造船業の再建に尽力した。
 松戸市にある武定の邸宅である戸定邸には多くの工学関連、あるいは趣味によるアフリカ関連書籍が収蔵されていた。前者は藤原工業大学(慶應義塾大学に統合)、後者は天理大学に寄贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%AD%A6%E5%AE%9A

⇒維新後徳川諸家の人物群中、秀吉流日蓮主義完遂戦争における勲功一、といったところか。(太田)

  (7)田安徳川家–徳川達孝(1865~1941年)

 「<同母>兄・家達が徳川宗家を継承したこともあり、明治2年(1869年)4月5日、田安家の次期(第9代)当主候補として嫡子となる。明治9年(1876年)11月13日、父慶頼の死去により、家督を相続する。同年11月28日、元服する。明治17年(1884年)7月7日、伯爵となる。明治20年(1887年)3月、徳川慶喜の長女・鏡子が輿入れする。<以下、コラム#12732(未公開)参照。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%81%94%E5%AD%9D
 徳川鏡子の母は、新村信。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%96%9C 前掲

  (8)一橋徳川家

   ア 徳川茂徳(もちなが。1831~1884年)

 「高須藩10代藩主・松平義建の五男として誕生。・・・母<は>不詳<。>・・・長兄・四兄は夭折、次兄の慶恕・・のちの慶勝・・は尾張徳川家を、三兄の武成は浜田松平家を継いだため、この4人の兄に代わって、・・・1849年・・・8月16日、高須藩世子となる。・・・1858年・・・7月5日、安政の大獄により、兄・慶恕・・・の隠居謹慎に伴って尾張藩主に就任・・・。・・・
 高須藩主は代わって長男の義端が継承した。
 ・・・1860年・・・5月18日、義端が早世すると、慶勝の子を養子と<する。>・・・1863年・・・9月13日に隠居し、義宜に藩主を譲った。・・・
 1865年・・・4月、長州再征に際して幕府より征長総督就任の内命を受ける。慶勝側近らの猛反発を受け総督は紀州藩主・徳川茂承に変更されたものの、茂徳にも上京が命ぜられ、大坂城に滞在する家茂の側にあって幕政に参与する。・・・同年6月、幕府より旗本御後備を命じられる。同年9月の兵庫開港要求事件とそれに続く条約勅許の過程においては、一橋家当主・徳川慶喜らとともに対応に奔走し、家茂の信頼を得る・・・。同年10月、将軍不在の江戸にあって江戸留守居を命じられ、東上する。
 ・・・1866年・・・12月27日、実兄の慶勝や、実弟の松平容保(会津藩主/京都守護職)の斡旋により、徳川宗家を相続(15代将軍に就任)した慶喜に代わって一橋家当主を継承した。なお、当初は家茂の内意を受けて清水家相続の予定であったが、慶喜の意向により同家は徳川昭武(慶喜の弟)が相続することととなり、相続先の差し替えが行われた。
 ・・・1868年・・・1月に勃発した戊辰戦争に際しては、兄・慶勝の内意を受けて徳川家救済の嘆願活動の一翼を担った。・・・
 正室:政姫 – 丹羽長富の娘
  長男:松平義端(1858年 – 1860年) – 高須松平家の後嗣。
 生母不明の子女
四男:徳川達道(1872年 – 1944年) – 一橋徳川家の後嗣。
 養子
男子:徳川義宜(1858年 – 1875年) – 徳川慶勝の三男。尾張徳川家の後嗣。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%8C%82%E5%BE%B3
 徳川慶勝、松平義建兄弟は高須藩9代藩主松平義和の子で、その義和は徳川治紀(前出)の異母弟であり、この治紀、義和兄弟の父は水戸藩第6代藩主徳川治保(はるもり)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%BB%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E7%BE%A9%E5%92%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E4%BF%9D 

⇒徳川茂徳は、兄慶勝との縁が深く、縁が薄かった弟松平容保とは違って、水戸徳川家及び尾張徳川家譲りの秀吉流日蓮主義者であり続けたと思われる。(太田)

   イ 徳川達道(さとみち。1872~1944年)

 「明治 17 年(1884)の華族令公布により,・・・達道は伯爵にな<っ>た。」
https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/notice116.pdf
 妻は徳川慶喜の三女・鐵子。水戸徳川家から宗敬<(下出)>を養子に迎え、家督を相続させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E9%81%94%E9%81%93

⇒一橋家は、一橋慶喜時代同様の水戸藩一橋家へとどんどん回帰したわけだ。(太田)

   ウ 徳川宗敬(むねよし。1897~1989年)

 「水戸徳川家第12代当主・徳川篤敬<(前出)>の次男・・・
 1916年(大正5年)に一橋徳川家第11代当主・達道(さとみち)の養子となり、名を宗敬と改める。
 1923年(大正12年)、東京帝国大学農学部林学科卒業。宮内省帝室林野局の官吏となり、1926年(大正15年)にドイツ・ベルリン留学。1928年(昭和3年)に帰国し、1934年(昭和9年)に家督相続し伯爵を襲爵した。1939年(昭和14年)7月10日には伯子男爵議員互選選挙で貴族院議員に当選する(当選1回)。
 1941年(昭和16年)、東京帝国大学に学位論文「江戸時代に於ける造林技術の史的研究」を提出、農学博士(東京帝国大学)の学位を取得。
 1946年(昭和21年)6月19日、酒井忠正の議員辞職を受けて第15代貴族院副議長に就任。日本国憲法施行により貴族院は廃止されたため、最後の貴族院副議長となった(なお、最後の貴族院議長は徳川宗家の徳川家正)。同年、日本博物館協会第3代会長に就任。
 1947年(昭和22年)、第1回参院選全国区に無所属で立候補し上位当選。保守系の院内会派・緑風会に所属し、緑風会議員総会議長となった。1951年(昭和26年)、緑風会議員総会議長としてサンフランシスコ平和条約の全権委員に就任し、同条約の調印に参与。同年、参議院皇室経済法特別重点会委員長などを務めるなど、主に農林水産関係、図書館、議院運営に尽くした。1953年(昭和28年)の第3回参院選にも立候補したが、当選圏の約15万票に届かず落選した。1956年(昭和31年)の第4回参院選と1959年(昭和34年)の第5回参院選には茨城地方区から立候補しているが、いずれも次点で落選している。
 1966年(昭和41年)7月、神宮大宮司及び神社本庁顧問に就任し、第60回式年遷宮に向けて尽力した。1976年(昭和51年)に神宮大宮司を退任した後は神社本庁統理を務めるなど、神社界にも貢献している。他にも日本文化放送協会会長、全国視聴覚教育連盟会長、日本風景協会会長、全日本美術工芸作家協会会長、東京都港区芝海岸通国土総合開発促進協議会会長などを歴任した。・・・
 緑化運動に終生尽力し、「緑化の父」と称された。戦前は帝国森林会会長を務め、戦後は「荒れた国土に緑の晴れ着を」を合言葉に1947年(昭和22年)に森林愛護連盟を結成し、1950年(昭和25年)に設立された社団法人国土緑化推進委員会(現在の国土緑化推進機構)では理事長として毎年春に開催される全国植樹祭を支えた。長年の緑化運動に対する功績が評価され、国土緑化推進機構によって1990年(平成2年)に創設された「みどりの文化賞」の最初の受賞者となった。宗敬の死後、一橋徳川家所有の樹林地は文京区に寄付されて「千石緑地」として開放されている。
 養父達道が収集した江戸時代の写本・版本約5万冊を1943年(昭和18年)に東京国立博物館に寄贈し、1984年(昭和59年)には伝来の家宝計5600点を茨城県立歴史館に寄贈している(一橋徳川家記念室が設けられた)。また、戦後は東京大学講師として日本林業史の講義を行っていたが、退官に際して林政史関係古文書や旧記類など638点を東京大学に寄贈しており、現在は「水戸徳川林制資料」として東京大学総合図書館に所蔵されている。
 1944年(昭和19年)には叔父の伯爵松平頼寿(高松松平家第12代当主)が創立した学校法人本郷学園(本郷中学校・高等学校)の第2代校長に就任し、校長退任後の1949年(昭和24年)に名誉校長となった。1954年(昭和29年)に設立された本郷学園もみじ幼稚園初代園長にも就任し、学校教育や幼児教育に功績を残している。・・・
 夫人は侯爵池田仲博(徳川慶喜の五男)の長女・幹子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%97%E6%95%AC
 「昭和20年(1945)の敗戦<の後、>・・・東京の一橋徳川家邸はGHQに接収され<、>同21年6 月、・・・宗敬は妻幹子とともに,水戸郊外丹下原の開拓地に移り,新たに農業に取り組みました。・・・
 留守の多い宗敬を妻幹子は支え,自身も開拓農民,および女性の社会的地位の向上に尽力しました。夫妻の活動は戦後社会を先導するものでした。」
https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/notice116.pdf

⇒妻は徳川慶喜の孫!(太田)

  (9)清水徳川家

   ア 徳川篤守(1856~1924年)

 「水戸藩主徳川慶篤の次男として・・・誕生する。兄に水戸徳川家を継いだ篤敬がいる。・・・藩校弘道館で教育を受ける。1870年(明治3年)2月24日、叔父の昭武が水戸家を継いで以来当主不在であった清水徳川家を相続<。>・・・
 1871年・・・5月にアメリカへ留学し、コロンビア大学法科にて法律の専門課程を学ぶ。・・・
 1877年7月12日、帰国する。・・・1879年2月、外務省御用掛となって北京公使館に勤める。1880年7月、帰国する。同年12月、御用掛を辞職する。1884年7月7日、華族令により伯爵を授けられる。・・・
 1892年8月、家政の経済的な行き詰まりのために融資を受けることになるものの、訴訟事件に発展する。翌年に敗訴し、数万円にも及ぶ負債を抱え込むものの、徳川一族の支援で負債を整理した。しかし1898年、再び経済的に行き詰まり、債権者に訴えられる。もはや徳川一族も経済的な支援をすることはなかったという。そのため1899年1月26日、華族としての礼遇を停止される。同年4月20日、華族の体面を維持できないとして、爵位を返上する。その後、1902年まで控訴をするなどして争うものの、最終的に禁固刑となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%AF%A4%E5%AE%88

   イ 徳川好敏(よしとし。1884~1963年)

 「徳川篤守の長男として東京府に生まれる。母は小笠原忠幹の娘・登代子。・・・
 1903年 – 陸軍士官学校(15期)を卒業して工兵科に属する。1909年 – 工兵大尉となる。1910年4月11日 – 飛行機操縦技術を習得するためにフランスへ派遣される。5月末 – ・・・操縦士資格試験に合格。(免許証番号289号。日本人初。)12月19日 – 帰国後、代々木練兵場で日野熊蔵陸軍歩兵大尉と共に日本国内初の飛行に成功する。1911年 – 飛行機からの空中写真撮影に成功。
 後に、三井清一郎陸軍会計経理規定整理委員長の下に実施された宇垣軍縮によって航空兵科が新設されると、航空兵科に転科する。陸軍航空学校教官、航空兵団長、航空兵団司令官となる。
1928年(昭和3年) – 日本陸軍航空兵分野確立の功労により、華族に列せられて男爵を授爵。後に予備役に編入されるが、召集を受ける。
 1940年(昭和15年)4月29日 – 勲一等旭日大綬章を受章する。
 1944年(昭和19年)3月28日 – 1945年(昭和20年)9月20日召集解除まで陸軍航空士官学校長。戦後、公職追放となる。・・・
 <ちなみに>、徳川は陸軍の航空機畑の看板として順調に引き立てられ、滋野清武らを排除して出世した。滋野の飛行免状は世界中で通用する万国飛行免状で徳川のフランス国内限定の操縦士資格免状より格上であり、更に滋野の方が飛行技術も教え方もずっと上だったことが徳川は気に入らなかったと言われている。いびり出された滋野はフランスへ渡り、第一次大戦でエースパイロットとなる。一方の日野は翌年自身が設計の機体、日野式飛行機を開発するがそれでも左遷され、以降軍務において航空機関連に用いられることはなかった。・・・
 12月19日の徳川の飛行<の日は>「日本初飛行の日」とされている。・・・
 最終階級は陸軍中将。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E6%95%8F

⇒徳川好敏は、周りが引き立ててくれたという面はあるかもしれないが、陸軍航空の草分けの杉山元にも協力しつつ、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの完遂戦争に一身を投じたわけだ。(太田)

  (10)徳川慶喜家

   ア 徳川慶喜(1837~1913年)

 (省略)

   イ 徳川慶久(1884~1922年)

 「母は側室<(注2)>の新村信<(注3)>。・・・

 (注2)「慶喜も家斉(55人)、家慶(29人)に次いで子宝に恵まれた。生んだのは中根幸と新村信の二人の側室、流産も含めて12人ずつ生んだ。この二人非常に仲が良く、慶喜へ世話、つまり、お湯殿当番と夜のお伽も一晩おきに交代で勤めた。みんなおなじ屋根の下で暮らした。子供たちも、自分がどちらのお腹なのか全く意識したことはなかったという。
 はじめの頃は夭折が多かった。理由は過保護の一語に尽きる。そこで、ある時期から町の健康な庶民の家庭に預けるようになった。里子に出したのである。そのせいか、子供達は生母を幸とか信とか呼び捨てにし、生みの親に対するような言葉をかけることはなかった。
 幸と信は側女中とも呼ばれていたから、使用人扱いだった。・・・
 明治30年、61歳のときに静岡から東京・巣鴨へ移住、翌年、小石川小日向第六天町に移った。3、000坪の敷地に1、000坪の平屋建て日本家屋、常時50人の人がいた、などなど慶喜一家の第六天町での暮らしぶりを、孫の榊原喜佐子が、「徳川慶喜家の子ども部屋」に書いた。だが、この本に掲載されている「徳川慶喜子女 略系図」には、6男8女が正室の美賀子の子として紹介されており、幸や信については全く触れていない。・・・「腹は借り物」(母親の胎内は一時の借り物で、生まれた子の貴賎は父親の素性による)といわれた時代の名残だ<。>・・・
 側室・幸と信の墓も慶喜の墓の真後ろに仲良く並べられている。」
https://from76.exblog.jp/2335009/
 (注3)のぶ(1852?~1905年)は、「旗本・松平勘十郎(政隆)の娘として生まれたとされる。その後、旗本・荒井省吾の養女となった後、さらに小姓頭取・新村猛雄の養女となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9D%91%E4%BF%A1

 1908年(明治41年)11月8日、有栖川宮威仁親王の第二王女・實枝子と結婚。實枝子は有栖川宮最後の王女であり、次女・喜久子が有栖川宮の祭祀を継承した高松宮宣仁親王と結婚したのもそのためである。1910年(明治43年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、父の隠居により同年12月14日に公爵を襲爵し貴族院公爵議員となる。
 1922年(大正11年)1月22日10時35分・・・本邸で急死。死因は脳溢血とされたが、一部には自殺説も取り沙汰された。・・・
  枢密院議長倉富勇三郎の日記より、大正10年12月8日、宮内官僚松平慶民子爵の言葉「今朝徳川慶久来り貴官に面会せんと欲したるも、不在なりしをもって自分に話したり。」「徳川は「今年末よりカリフォルニアあたりに行かんと欲す」」倉富と宮内大臣牧野伸顕伯爵の会話。牧野「徳川の家庭に関することを聞き居るや。」 倉富「何も聞くところなし。」「ただし徳川より庶子出生届を出したるは妙なことなりと思い居るのみ。」牧野「徳川が赤十字の用務を帯び洋行して帰りたる頃よりのことなりとかいうことなり。」「夫婦のあいだ調和を欠き、慶久はそのため極度の神経衰弱を病み居るとのことなり。」「徳川の不在中 夫人が待合に入りたることあり。また芝居観に行きたることありとかいうことなり。」「名家の家庭にこの如き風聞あるは実に困りたることなり。」・・・
 親友の侯爵・細川護立からは、「才気縦横、故慶喜公の好いところを総て受け継いで居た」と評された。ゆくゆくは内閣総理大臣にという声もあがったことがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E4%B9%85
 新村信(しんむらのぶ。1852?~1905年)は、「・・・1852年・・・頃、旗本・松平勘十郎(政隆)の娘として生まれたとされる。その後、旗本・荒井省吾の養女となった後、さらに小姓頭取・新村猛雄の養女となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E6%9D%91%E4%BF%A1

⇒せっかく秀吉流日蓮主義信奉家の有栖川宮家から妻を迎えたが、嫡男と高松宮妃こそ残せたものの、夫婦仲は上掲の通りだったわけだ。
 (もっとも、高松宮妃を残せただけで、もって瞑すべきかも。)(太田)
 
   ウ 徳川慶光(1913~1993年)

 「1922年(大正11年)に父が急死したため、10歳で襲爵。伯父の侯爵池田仲博が後見人となった。学習院から東京帝国大学文学部支那哲学科に進んで中国哲学を専攻し、卒業後は宮内省図書寮に勤務した。・・・1938年(昭和13年)10月5日には、会津松平家の子爵松平保男の四女・和子と結婚している。
 1940年(昭和15年)1月に召集され、二等兵として入隊。しかし内地で肺炎にかかって陸軍病院に入院、退院と同時に除隊。1941年(昭和16年)7月、再び召集されるも徴兵検査で即日帰郷となる。1943年(昭和18年)2月6日、満30歳となり貴族院侯爵議員に就任・・・。1944年(昭和19年)2月、3度目の召集で二等兵として歩兵第101連隊東部62部隊に入隊。<支那>大陸を転戦したが、行く先々で入退院を繰り返していた。長沙の野戦病院では赤痢とマラリアに栄養失調も加わり、生死の境をさまよった。終戦は上等兵として北京で迎え、1945年(昭和20年)12月に復員。
 復員後は空襲による類焼を免れていた第六天町の自邸に居住したが、1947年(昭和22年)・・・、財産税の支払いのために自邸を物納した。このため妻や娘を伴って静岡県に移り、西園寺公望の別荘・坐漁荘に暮らした。東海大学の附属高校で漢文の講師を務めるが、その後は様々な事業を起こすも失敗、東洋製罐研究所勤務などの職を転々とする。やがて東京都港区高輪の借家に移り、1972年(昭和47年)9月には東京都町田市の60坪の建売住宅に転居。
 晩年は料理や野菜作りなど趣味に没頭して生きる一方、愛人との不倫同棲事件で和製ウィンザー公と報じられたこともあった。・・・
 若い頃は中華文化に傾倒し、45円の初任給全額を宮内省出入りの書店への支払いに遣ってしまうほどだった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%85%B6%E5%85%89

⇒本人の問題ではあれ、帝国陸軍の徳川慶光(前出)に対する無頓着な扱いを見ると、徳川好敏は必ずしも下駄をはかせてもらったわけではないのかも。
 それにしても、徳川慶喜家と西園寺家との接点はどこにあったのだろうか。(太田) 

  (11)徳川厚家

   ア 徳川厚(1874~1930年)

 「徳川15代将軍であった德川慶喜の四男として生まれた。母は側室の中根幸<(注4)>。・・・

 (注4)さち(1851?~1915年)は、「旗本・中根芳三郎(正丙)の娘として生まれ、後に旗本・成田新十郎の養女となり慶喜の側室となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%A0%B9%E5%B9%B8

 兄の夭折により、慶喜の事実上の長男として育てられた。1882年(明治15年)11月に9歳で德川宗家から分家し、華族に列した。なお、德川宗家自体の家督は、1868年の時点で既に慶喜から德川家達に譲られている。
 1884年(明治17年)7月7日、華族令に伴って男爵に叙せられる。なお後年になって、慶喜が公爵に叙され新たに徳川慶喜家を興すが、こちらの家督は厚の弟である德川慶久が継いでいる。・・・
 学習院を卒業する。1895年12月、越前福井藩主松平春嶽の二女里子と結婚する。1904年の第3回貴族院男爵議員選挙にて選出され、・・・1925年7月9日まで貴族院議員を務めた。また、東明火災保険(後に東京海上火災に合併)取締役も務めた。・・・
 「趣味すこぶる広汎にして、競馬、撞球、銃猟、運動、絵画等何れも玄人の域に達する」と評された。
 文学を好み龍山と号した。また、天理教徒でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%8E%9A

   イ 徳川喜翰(のぶもと。1897~1938年)

 「父の隠居に伴い、1927年(昭和2年)10月15日、男爵を襲爵した。
 1922年(大正11年)京都帝国大学法学部を卒業し、さらに同大学院を修了した。1925年、宮内省図書寮嘱託となる。以後、貴族院嘱託、日本大学講師などを務めた。
 1932年(昭和7年)1月22日、貴族院男爵議員補欠選挙で当選し、・・・死去するまで1期在任した。・・・
 妻 – 美代子(白井新太郎長女)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%96%9C%E7%BF%B0

   ウ 德川喜堅(よしかた。1907~1971年)

 「厚の二男として生まれ、昭和15年(1940)兄喜翰の養子となり襲爵・・・。
 特許庁技師。特許局審査第2部勤務。東京高等工科学校講師。陸軍少尉。昭和46年(1971)に64歳で亡くな<る>。」
https://ameblo.jp/mintaka65/entry-12489553913.html
 「妻:大藪スミ(貴族院議員 大藪守治の長女)<。戦後、>・・・日本繊維機械工業会理事」
https://keibatsugaku.com/tokugawa-3/
 戦後、三菱商事に勤務し、1963年に日本機械学会誌に論文を寄稿している。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsmemag/66/529/66_KJ00003068156/_article/-char/ja/

⇒厚が傾かせた慶喜家分家は、戦時中も、本家(兵)よりは若干なりとも体面(少尉)を保ちつつ、戦後もそれなりに堅実に存続したようだ。(太田)

  (12)徳川誠家

   ア 徳川誠(まこと。1887~1968年)

 「母<は>中根幸<。>・・・妻: 霽子(男爵名和長憲の娘)<。>・・・学習院中等科を卒業。同年、<米>国ミシガン州のホープカレッジに留学。後に山本重礼の養子となったものの、離籍する。さらに分家して一家の戸主となった。
 <米国>から帰国後、横浜正金銀行に勤務した。<米国>やフランスの支店に赴任し、大正9年に帰国した。帰国後、横浜正金銀行を退職した。その後、浅野セメント監査役に就いた。その間の大正2年(1913年)11月5日には男爵を授けられた。昭和21年(1946年)5月、貴族院男爵議員補欠選挙にて貴族院議員に選出された。貴族院では公正会に所属し、昭和22年(1947年)5月2日の貴族院廃止まで務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E8%AA%A0

   イ 徳川熙(ひろむ。1916~1943年)

 「学習院中等科を経て1938年(昭和13年)、海軍兵学校卒業。煕は海兵65期・・・。・・・妻は会津松平家第12代当主・松平保男の五女・順子(よりこ)。・・・太平洋戦争中期の1943年(昭和18年)7月12日、潜水艦呂101先任将校(水雷長)として戦死した。・・・最終階級は海軍少佐。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%86%99

⇒まさに、秀吉流日蓮主義完遂戦争に命を捧げたわけだ。
 ちなみに、徳川熙の弟の徳川脩は日銀に勤務し、脩の子の康久は、学習院大卒、その後、國學院大で神職の資格を取得し、やがて靖国神社の宮司に就任、また、日本相撲協会の外務理事を務めた(存命)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BA%B7%E4%B9%85 
 なお、「1 徳川家」全体で、下掲を参照した。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B0%8F (太田)

2 正親町三条家(嵯峨家)
 
  (1)嵯峨公勝(1863~1941年)。

 「正親町三条実愛(嵯峨実愛)の子。母は鶴。妻は中山忠光の娘・南加<(注5)>。・・・

 (注5)南加(なか)(1865~1950年)。「父・<中山>忠光が暗殺された半年後の・・・1865年・・・5月10日(もしくは11日)、長府城下(下関市長府)の江尻半右衛門邸で生まれる。長州藩内の対立に巻き込まれ、身の危険があった母娘は住居を転々とする逃亡生活を送る。
 毛利氏は支藩の長府藩が明治天皇の叔父となる忠光を殺害した事を憂慮し、遺児である南加を探し出した。山口で養育し、野村望東尼を養育係に迎える話もあったが、実現しなかった。明治維新後に毛利元徳の養女として大名行列を組み、数百両の持参金を付け、東京の中山家に送り届けたという。
 明治3年(1870年)11月、6歳の時に長府から上京した南加は、初めて中山家の祖父母と対面する。王政復古を掲げてわずか20歳で死んだ息子の唯一の忘れ形見である南加を、祖父母は娘として戸籍に入れ大切に養育する事になる。
 9歳から三崎町の姉小路家邸内で教える跡見花蹊の寺子屋に寄宿して学び、さらに猿楽町に作った塾(跡見女学校前身)で15歳まで勉強した。この頃、中山家では明宮(のちの大正天皇)を預かって養育しており、学校から帰った南加は、侍女たちと4人で身体の弱い明宮の病気平癒を祈り、日比谷の大明神で百度参りをする習慣を雨風の日も欠かさず4年ほど続けたという。また女子学習院第一期卒業生となる。
 19歳の4月、嵯峨公勝に嫁ぎ、実勝・実英・淑子・幾久子の二男二女をもうける。嵯峨家は中山家と婚姻関係など親密な間柄であり、幕末には両家とも勤皇運動で幕府に睨まれる同志であった。この縁談は伯母である中山慶子の熱心な勧めによるものだった。
 この南加が繋いだ皇室との血縁により、実勝の長女で、孫にあたる浩は満州国皇弟・愛新覚羅溥傑に嫁いだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%8D%97%E5%8A%A0

 終身ながら無報酬の議員職には不満(伯爵までは互選で選ばれる代わりに歳費が支給されたが、侯爵となると自動的に議員に任命される代わりに歳費が支給されなかった)で、明治31年(1900年)には品川弥二郎宛に侯爵への新たな爵禄を求める文書(公爵には爵禄があり、諸侯華族の侯爵はもともと金を持っている。公卿侯爵だけが貧しくて貴族院議員の職務が果たせないという内容)を提出したが、反映されなかった。新たな賜金がないと見るや公勝は以後の政治活動をろくに行わなくなった。
 昭和10年(1937年)に、貴族院議員在職30年以上で30回以上の議会に出席した議員を永年在職議員として表彰する制度ができたが、公勝は現役議員でありながら対象から外された。議会開設以来70回の議会があったにもかかわらず、出席率が悪かったためである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%85%AC%E5%8B%9D

  (2)嵯峨実勝(1887~1966年)。

 「長女の浩が軍部による日満親善の政略結婚で、嵯峨家には全く相談もないまま愛新覚羅溥傑の妃に選ばれる。溥傑と浩の夫婦仲は良好だったが、中国へ渡り軍部と宮廷の厳しい政治情勢に晒される浩に「浩さん、何事も我慢するんだよ」と言い含めたという。・・・
 浩が夫と生き別れとなり、大陸を流転したのちに日本に帰国すると、嵯峨家は一家で浩と2人の娘の生活を支えた。実勝夫妻は満員電車で学習院に通学する孫の慧生と嫮生を交代で送り迎えをした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E5%AE%9F%E5%8B%9D

  (3)嵯峨浩(1914~1987年)

 「浩が女子学習院を卒業した1936年(昭和11年)当時、日本の陸軍士官学校を卒業して千葉県に住んでいた満州国皇帝溥儀の弟・溥傑と日本人女性との縁談が、関東軍の主導で進められていた。当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向を持っていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども日本の皇族との婚姻は制度上認められなかった。そこで祖母が明治天皇の母方従姉妹という皇室との血縁があり、侯爵家の長女で、結婚適齢期で年齢的にも溥傑と釣り合う浩に、白羽の矢が立つことになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B5%AF%E5%B3%A8%E6%B5%A9

⇒当時、杉山元は、「1934年(昭和7年)8月には参謀次長兼陸軍大学校校長に就任、省部中央に復帰した。1936年(昭和11年)の二・二六事件では青年将校らの要求を拒否し、反乱鎮圧を指揮した。事件後には教育総監、同年に陸軍大将となり、・・・1937年(昭和12年)[6月]、林銑十郎内閣下の陸軍大臣に就任。林が退陣すると後継候補の一人として杉山が取り沙汰されたが、元老西園寺公望は近衛を推した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3 ([]内)
と、既に、帝国陸軍のトップになっており、秀吉流日蓮主義完遂のそう遠くない将来、満州国が雲散霧消することを予見していたことから、皇族女子を溥傑に娶せるわけにはいかず、浩を娶せることについて、貞明皇后と西園寺の了解を取り付けた上で、1935年に内大臣を辞めたばかりの昭和天皇の信頼も厚かった牧野伸顕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
を通じて(上記事情は伏せて)昭和天皇の了解も取り付けた、のではなかろうか。
 皇室典範なんぞは、お手盛りで増補か改正すればいい(後出参照)だけなので、むしろ、愛新覚羅家側がよく引き下がったものだと思う。(太田)

 (参考)天城山心中
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E5%BF%83%E4%B8%AD
 福永嫮生(こせい。1940年~)。「父・溥傑の釈放後、再び中国へ渡るが、幼い頃の恐怖の記憶があり、日本で育った嫮生は中国への永住を躊躇していた。中国で最後の皇帝一族として生きるより、日本での平凡な生活を望む嫮生と、愛新覚羅家の後継者として、また唯1人となった娘を手元に置いておきたい両親との間で意見の相違があった。周恩来総理が親子の間を取りなし、国交のない時代の中国と日本を自由に往来するようにとの配慮があり、嫮生は日本に戻り、日本に帰化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%B0%B8%E5%AB%AE%E7%94%9F

3 梨本宮家–李方子(りまさこ。1901~1989年)

 「梨本宮守正王と同妃伊都子夫妻の第一女子として誕生し、・・・妹に伯爵広橋真光の妻となった広橋規子<がいる>。
 皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補の一人として「(梨本宮)方子女王」の名前が取り沙汰されるが、学習院女子中等科在学中に李王世子(当時)である李垠と婚約した。
 方子女王が自らの婚約を知ったのは、避暑のため現在の神奈川県中郡大磯町にある梨本宮家大磯別邸に滞在していた1916年(大正5年)8月3日の早朝、手元にあった新聞を何気なく開いて記事を発見した際である。・・・
 正式に梨本宮守正王から婚約を告げられた時には、「よくわかりました。大変なお役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」と答えた[要出典]。
 ・・・伊都子妃は後年公開された日記の中で、方子女王の縁談がまとまらず、寺内正毅<(注6)>朝鮮総督を通じ極秘裏に李王家(日本の王公族)に縁談を申し込み、表向きは天皇の命令としたことを告白している。

 (注6)1852~1919年。「長州藩士・・・の三男として生まれる。・・・第7代 陸軍大臣(1902年3月27日 – 1911年8月30日)・・・第3代 韓国統監 在任期間 1910年5月30日 – 1910年10月1日・・・初代 朝鮮総督 在任期間 1910年10月1日 – 1916年10月16日」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

 梨本宮家には方子女王と、妹の規子女王の姉妹しかおらず、近い将来の絶家が確実だったため、皇族との縁組を強く希望していた。

⇒この話が、島津斉彬コンセンサス信奉者、就中、寺内正毅等の帝国陸軍関係者ないし朝鮮総督関係者側が、彼らが日本を含む北東アジアにおける血縁の重要性を、(すぐ後で記すように寺内らが島津斉彬コンセンサス信奉者であるところ、同コンセンサス成立の経由からしても、)十二分に承知しながら、推進したものでないことには瞠目させられる。
 「第二次山縣内閣のとき桂を陸軍大臣に登用し、以来、「君は僕の受け前(後継者)だ」と言って育て上げてきた。桂だけではない。その内閣のうち児玉源太郎、寺内正毅、内海忠勝は長州出身。長州でなくとも、平田東助、曾禰荒助などは山縣の直系中の直系だった」、
https://www.general-yamagata-foundation.or.jp/research_a_004.html
「寺内正毅<は、>・・・1902(明治35)年、第1次桂内閣で陸軍大臣となり、第1次西園寺内閣、第2次桂内閣でも陸軍大臣を務めました」
http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/terauchimasatake/
と、寺内は山縣直系の、従って、山縣を通じて島津斉彬コンセンサス信奉者になっていたはずである(注7)ところ、それにもかかわらず、積極的に李王家と天皇家を結びつけようとはしなかったのは、同信奉者達が、朝鮮半島は早晩手放すことになることを見通していたからではなかろうか。(太田)

 (注7)「韓国併合の祝宴で「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」と得意満面に詠んだという(挙げられた武将はいずれも豊臣時代の朝鮮出兵の武勲者)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
は、朝鮮半島領有自体ではなく、あくまでも、秀吉が本来意図したように、秀吉流日蓮主義(島津斉彬コンセンサス)を完遂する目的で日本がアジア大陸に進出する通行路として朝鮮半島が確保できたことを寿いだ、と理解すべきだろう。

 方子女王と李王世子垠の結婚に向けて、(日本の)皇族と王公族の身分の取り扱い問題が表面化し、最終的に1918年(大正7年)11月28日に皇室典範<(注8)>第39条が増補されて、皇族女子と王公族の結婚が容認された。

 (注8)「皇室典範 (1889年)<は、>・・・大日本帝国憲法と同格の法規とみなされ、両者を合わせて「典憲」と称した。・・・旧皇室典範の改正又は増補は、皇族会議及び枢密顧問の諮詢を経て勅定するものとされ(旧皇室典範第62条)、この手続きに帝国議会の協賛又は議決は要しないとされた(大日本帝国憲法第74条)。これは、現在の日本国憲法及び同憲法の下にある皇室典範(昭和22年法律第3号)にはない皇室自律主義の表れといってよい。旧皇室典範の改正又は増補は、法源としての「皇室典範」たる形式で行われた。増補は明治40年2月11日(皇族の臣籍降下など)と1918年(大正7年)11月28日(皇族女子は王族または公族に嫁し得る)に2度あるのみで、旧皇室典範本文を改正した例がないまま廃止された。・・・
 <なお、>本皇室典範原案策定では、天皇の譲位に関する規定が盛り込まれていた。宮内省図書頭の井上毅は譲位容認を唱えていたが、伊藤博文がこれに異を唱え、この条文は典範から削除された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AE%A4%E5%85%B8%E7%AF%84_(1889%E5%B9%B4)

 1918年(大正7年)12月8日に納采の儀が行なわれた。女子学習院卒業後、1919年(大正8年)1月25日に婚儀の予定だったが、直前に義父にあたる李太王(高宗)が脳溢血のため死去。これには日本側の陰謀による毒殺説が存在し、三・一運動の引き金ともなった。
 このため婚儀は延期された。 李垠の服喪期間について、李王純宗を含む朝鮮側は数えで2年(実質3年)を主張したが、大正天皇は早期の結婚を要望し、皇族同様に1年の喪に服すこととなった。
 喪が明けた1920年(大正9年)4月28日、李垠と婚姻した。厳密には非皇族男性への降嫁であるが、婚姻に際し、大正天皇の「御沙汰」によって、女王の身位を保持することとなった。
 婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。婚礼に際しては、和装(十二単)・洋装に加え、朝鮮服も準備された。方子自身は当時を「夢のようにしあわせな日々」と回想し、1921年(大正10年)、第一子・晋が誕生する。
 [妃である方子女王と、その実家である梨本宮家との関係は良好であった。また、朝鮮王室が保有する動産・不動産による財産は、一般の皇族を上回っており、李王夫妻は嫉妬と羨望を受けた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 ]

⇒天皇家も公家達も素寒貧の時代が長く続いたから、明治時代に官費が潤沢に投入されるようになったと想像されるとはいえ、各家の財産なんてたかが知れていたと思われるのに対し、李王家は李垠の先代まで収奪の限りを尽くして来た国王(皇帝)の家だったのだから、その相当部分を引き継いでいた李垠が大変な金持ちだったとしても不思議はない。
 方子が結婚した大喜びし、梨本宮家もご満悦だったのは、ある意味当然だろう。(太田)

 1922年(大正11年)4月、夫妻は、晋を連れて日本統治下の朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨んだが、帰国直前に晋は急逝した。急性消化不良と診断される。李太王を毒殺されたと考えた朝鮮側による報復の毒殺説がある一方で、日本軍部による毒殺説も流布されている。第一子を失った方子妃は、日本に留学した李垠の異母妹・李徳恵・・徳恵は後に若年性痴呆症(現在の統合失調症)と診断されるが、少女期には小康状態にあった。・・の身辺を親身に世話した。・・・
 1931年(昭和6年)12月、第二子・玖が誕生した。
 1945年(昭和20年)の日本の敗戦による朝鮮領有権喪失、1947年(昭和22年)5月3日の日本国憲法施行に伴って王公族の身分を喪失し、1952年(昭和27年)4月28日の日本国との平和条約発効による日本の主権回復とともに日本国籍を喪失した(旧朝鮮籍のため無国籍となった)。李垠は財産税法による多額の税を課され、また身分に執着する弱みを握られ邸宅・資産を売却しながら、細々と生活を送っていた。
 大韓民国の初代大統領であった李承晩は、譲寧大君<(注9)>の子孫であることを誇り、現実的には王政復古を怖れ、嫡流の李垠に敵対的であった。

 (注9)じょうねいたいくん/ヤンニョンデグン(1394~1462年)は、「李氏朝鮮時代の王族男性。第3代国王太宗の長男で、・・・李氏朝鮮第4代国王世宗の<同母>兄でもある。本名は李褆(り・てい、イ・ジェ・・・)。・・・李承晩は彼の末裔(16代孫)である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B2%E5%AF%A7%E5%A4%A7%E5%90%9B

⇒本筋を離れるが、譲寧大君の父親の太宗は明から朝鮮国王として冊封されたという意味で実質的な李氏朝鮮の祖だが、彼が高麗朝で科挙に合格した文官であったことが、叛乱軍に加わったことからのし上がることになった朱元璋を祖とする明朝、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%83%E7%92%8B
や、乗馬と弓の達人であった後金(後の清)創始者のヌルハチ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%81
、そして、武家が権力を握っていた鎌倉時代以降の日本、と異なる、李氏朝鮮の軍弱をもたらしたように思う。(太田)

 一人息子の李玖は、長じて米国に留学し、1957年(昭和32年)にマサチューセッツ工科大学を卒業した。夫妻が卒業式に出席するため米国訪問を希望した際には、大学の招聘状を根拠に、日本政府が旅行証明書を発行した。訪米時に玖からジュリア・マロックを紹介され、方子も好感を持った。親子で米国で生活を送るが、1959年(昭和34年)3月、李垠が脳血栓に倒れ、同年5月に日本に戻る。翌1960年(昭和35年)に再度渡米を企図したが、招聘状等がないため旅行証明書を発行してもらえないため、夫妻は日本国籍を取得した。
 1960年に李承晩が失脚すると、1961年(昭和36年)11月に訪米途上の朴正煕国家再建最高会議(当時)が病床の垠を見舞い、帰国を歓迎する旨を表明した。翌1962年(昭和37年)、大韓民国の国籍法の規定に基づき、夫妻が「韓国籍を回復」したことが告示された。1963年(昭和38年)11月21日、夫妻はようやく帰国を果たす。夫妻の生活費は韓国政府から支出され、昌徳宮内に住居を構えることとなった。1970年(昭和45年)4月28日に金婚式を記念したミサを病院で開き、その3日後の5月1日、李垠と死別した。
 韓国に帰化した方子は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組んだ。趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮王朝の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立する。なお、”明暉”は李垠の、”慈恵”は方子自身のそれぞれの雅号である。方子の尽力は韓国国内でも好意的に受け止められており、やがて功績が認められ、全斗煥大統領政権下の1981年(昭和56年)には、韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
 また、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱えた日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」(ふようかい)の初代名誉会長を務めた。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳皇后、皇太子明仁親王・皇太子妃美智子(当時)を始めとする日本の皇族とも会い、戦後の皇室との交流を設ける機会はあった。
 ・・・享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王・同妃百合子夫妻が参列した。後に韓国国民勲章(勲一等)を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%B9%E5%AD%90 

⇒李方子は天皇家の放った最後の光芒だったと言えよう。(太田)

 (参考)
〇李垠(りぎん。1897~1970年)

 「大韓帝国最後の皇太子で、韓国併合後には王世子として日本の王族に列し、1926年には王位を継ぎ「昌徳宮李王垠」と称された。皇太子時代の称号は英王。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9E%A0 前掲
 李玖(1931~2005年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%8E%96

〇梨本伊都子

 梨本宮守正王(1874~1951年)の妻で李方子の母。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%AE%88%E6%AD%A3%E7%8E%8B
 「鍋島直大侯爵令嬢。・・・母は広橋胤保の五女<。>・・・
 1902年(明治35年)頃から日本赤十字社で西洋医学に基づく治療法の教育を受け、1903年(明治36年)6月17日には看護学修業証書を授与された。1904年(明治37年)の日露戦争に際しては、篤志看護婦人会会員として精力的に傷痍軍人の慰問などに取り組んだ。・・・
 ・・・日本赤十字社で西洋医学に基づく治療法の教育を受け、・・・看護学修業証書を授与された。1904年(明治37年)の日露戦争に際しては、篤志看護婦人会会員として精力的に傷痍軍人の慰問などに取り組んだ。・・・
 太平洋戦争(大東亜戦争)においても積極的に慰問活動を行い、遼東半島まで足を運んだこともある。当初は相次ぐ戦勝に喜び、国民の反米感情の高まりを「やっとめがさめし有様」と歓迎していたが、1944年(昭和19年)からは空襲警報のために寝不足気味になり、1945年(昭和20年)5月26日の東京空襲で渋谷区の梨本宮邸が全焼の憂き目に遭ったこともあり、悪化する生活事情に不満を募らせた。同年8月15日正午、ラジオの前に正座して玉音放送を聴き、日本の敗戦に涙を流した。同日付けの日記には、国体が護持されたことに安心しつつも、米英に対しての激しい憎悪が記されている。敗戦後も、戦災孤児の慰問活動などを行った。・・・
 1958年(昭和33年)に巻き起こった「ミッチー・ブーム」には、香淳皇后や妹で常磐会会長の松平信子、姪の秩父宮妃勢津子らと共に強く反発した。皇太子明仁親王と正田美智子の婚約発表が行われた同年11月27日付けの日記には、「朝からよい晴にてあたたかし。もうもう朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。」と記している。ただ、この結婚に理解を示した昭和天皇の意向もあり、以後は勅許が下りた婚儀に対して表立って批判することはなくなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E4%BC%8A%E9%83%BD%E5%AD%90

⇒正田美智子に反発したのはなぜか。
 ノブレスオブリージュ意識は共有しつつ、しかるが故に反「平民」でありつつも、香淳皇后とは、違って、梨本伊都子・松平信子・秩父宮勢津子らはアジア主義者なので反英米で反キリスト教でもあったことから、ミッションスクールで英語・英文学を専攻した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%9A%87%E5%90%8E%E7%BE%8E%E6%99%BA%E5%AD%90
こともお気に召さなかったのだろう。(太田)


[桂宮系の事績]

一、始めに

 広幡家の本家の桂宮家と近衛家の関係について、コラム#12651参照。

二、桂宮家

 (一)八条宮智仁親王(1579~1629年)

 「正親町天皇の孫にして、誠仁親王の第6皇子。母は勧修寺晴右の女・新上東門院(藤原晴子)。同母兄に後陽成天皇・興意法親王らがいる。・・・
 すぐ上の兄である邦慶親王が織田信長の猶子であったのに倣い、智仁王も・・・1586年・・・、今出川晴季の斡旋によって豊臣秀吉の猶子となり、将来の関白職を約束されていた。しかし・・・1589年・・・、秀吉に実子・鶴松が生まれたために解約となり、同年12月に秀吉の奏請によって八条宮家を創設した。・・・
 ・・・1598年・・・、豊臣秀吉が死んだ直後に兄の後陽成天皇は当初皇位継承者とされていた実子の良仁親王を廃して弟に当たる智仁親王に皇位を譲ろうと考えたが、周囲の反対で断念している。結局、皇位は・・・1611年・・・に良仁親王の弟の政仁親王(後水尾天皇)が継ぐこととなった。・・・
 家領の下桂村に別業を造営する。この桂御別業が現在の桂離宮であり、八条宮は後に桂宮と呼ばれた。・・・
 正室:京極常子 – 京極高知女
  男子:八条宮智忠親王(1620 – 1662) – 桂宮2代
  女子:梅宮(珠光院)(1620 – 1648) – 西本願寺良如継室
  男子:良尚入道親王(1622 – 1693) – 天台座主
  男子:広幡忠幸(1624 – 1669) – 正親町源氏広幡家始祖
 側室:九条兼孝女」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒桂宮は、秀吉流日蓮主義家としてスタートした、と見てよかろう。
 側室を送り込んだ九条家が、さっそく、本願寺への親王の女子送り込みに協力したわけだ。
 なお、京極家や九条兼孝については、「九条兼孝が、智仁親王と縁戚関係にあったことと、その智仁親王がかつて豊臣秀吉の猶子であって、かつ、京極氏と縁戚関係にあったこと、更に、その京極氏と淀殿と江の出身の浅井氏とが縁戚関係にあったこと、更に、その京極氏に淀殿の妹で江の姉である初が嫁いでいたこと」(コラム#12651)を思い出した欲しい。(太田)

 (二)八条宮智忠親王(1619~1662年)

 「1642年・・・9月前田利常の四女・富姫を妃とするが、後嗣を儲けることはできなかった<。>・・・父智仁親王が造営した桂の別荘(桂離宮)は父の没後、しばらく荒廃していたが、智忠親王はこれを改修し、御殿を増築し、庭園を整備することに努めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E6%99%BA%E5%BF%A0%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで一度目の断絶。(太田)

 (三)八条宮穏仁親王(1643~1665年)

 「後水尾天皇第11皇子。母は藤原隆子(逢春門院)(櫛笥隆致の女)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E7%A9%8F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで二度目の断絶。(太田)

 (四)八条宮長仁親王(1655~1675年)

 「後西天皇の第一皇子。母は女御明子女王(高松宮好仁親王の王女)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E9%95%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで三度目の断絶。(太田)

 (五)八条宮尚仁親王(1671~1689年)

 「後西天皇第八皇子。母は、僧智秀の娘・梅小路定子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9D%A1%E5%AE%AE%E5%B0%9A%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで四度目の断絶。(太田)

 (六)作宮(さくのみや。1689~1692年)

 「霊元天皇の第十皇子。母は五条為庸女菅原経子。・・・八条宮尚仁親王が継嗣となる王子のないまま薨去したため、父帝の命によって、親王の継嗣として同年10月宮家を相続」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%9C%E5%AE%AE

⇒ここで五度目の断絶。(太田)

 (七)京極宮文仁親王(1680~1711年)

 「霊元天皇の第6皇子として生誕。母は敬法門院藤原宗子(内大臣松木宗条女)。・・・
 1680年・・・有栖川宮幸仁親王の養子となるが、幸仁親王に実子が誕生したことに加え、・・・1692年・・・作宮の夭折によって常磐井宮(桂宮)が空主となっていたため、・・・1695年・・・幸仁親王との養子縁組を解消し、翌・・・1696年・・・7月常磐井宮家を相続し、新たに京極宮の宮号を賜った。・・・
 御息所:不明
 家女房:滋野井直子 – 滋野井公澄の娘
  皇子:京極宮家仁親王(若宮、1704-1767) – 8代京極宮・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E5%AE%AE%E6%96%87%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (八)京極宮家仁親王(1704~1768年)

 「・・・
 御息所:鷹司豊子 – 鷹司兼煕の娘
  第一皇女:豊子女王(登與宮、1721-1774) – 有馬頼僮室、景福院花岳宗富
  ・・・
 家女房
  第一皇子:公仁親王(若宮、1733-1770) – 9代桂宮」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒秀吉流日蓮主義者だった鷹司兼煕(コラム#12651)が、満を持して桂宮家に女子を送り込み、同家を「本来」の秀吉流日蓮主義信奉家へと回帰させようとしたのだろう。(太田)

 (九)京極宮公仁親王(1733~1770年)

 「1754年・・・閑院宮直仁親王の第3王女室子女王と結婚し、家仁親王から家督を譲られる。・・・1756年・・・室子女王が薨去し、・・・1759年・・・紀州徳川家の徳川宗直の女寿子と再婚する。
 親王は、王子女に恵まれず、実子は、最初の妃であった室子女王との間に儲けた在子女王(後に一橋治済室)一人だけであった。親王没後、寿子妃を当主として宮家は維持されたが、・・・1789年・・・に寿子妃が死去し、宮家は空主となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E5%AE%AE%E5%85%AC%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒秀吉流日蓮主義者であった徳川家初代紀州藩主(コラム#省略)の頼宜の孫の伊予西条藩の第2代藩主を経ての紀州藩の第6代藩主の宗直の女子を公仁親王の後妻に迎える周旋をしたのは近衛家だろう。
 しかし、ここで六度目の断絶。(太田)

 (十)桂宮盛仁親王(1810~1811年)

 「光格天皇の第4皇子。母は東坊城益良女の菅原和子。・・・1810年・・・9月父帝光格天皇の命で京極宮を継承し、桂宮の宮号を賜る。翌・・・1811年・・・5月16日親王宣下を受け・・・るが、翌日の17日薨去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E7%9B%9B%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで七度目の断絶。(太田)

 (十一)桂宮節仁親王(1833~1836年)

 「仁孝天皇の第6皇子。母は新待賢門院正親町雅子。・・・1835年・・・父帝仁孝天皇の命で桂宮を継承する。天保7年(1836年)3月4日親王宣下を受け、節仁と命名されるが、翌日(実は同日)薨去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E7%AF%80%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ここで八度目の断絶。(太田)

 (十二)桂宮淑子内親王(1829~1881年)

 「仁孝天皇の第三皇女。生母は按察使典侍・甘露寺妍子。・・・孝明天皇は異母弟、徳川家茂の正室・和宮親子内親王は異母妹にあたる。・・・
 1840年・・・1月28日、閑院宮愛仁親王と婚約。・・・1842年・・・9月15日、結婚を前に内親王宣下を被るが、その2日後に愛仁は薨去してしまう。
 異母弟の節仁親王が継承した桂宮は、節仁が・・・1836年・・・3月5日に亡くなったため当主不在となっていた。淑子は・・・1863年・・・12月23日に第12代として桂宮を継承した。女宮が世襲親王家を継承した唯一の例である。・・・1866年・・・4月22日には准三宮(准后)・一品に叙されて以後桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれ、同じ准三宮だった孝明天皇女御・九条夙子(英照皇太后)よりも宮中席次は上席だった。・・・淑子の薨去をもって桂宮家は断絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E6%B7%91%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒これで完全断絶。(太田)

三、広幡家

 (一)広幡忠幸(1624~1669年)

 「1649年・・・12月11日、尾張藩主・徳川義直の長女・京姫と婚約、同時に徳川義直の猶子となる。1650年・・・1月3日、加冠の儀を行い、元服する。同年2月9日、京都を出発、2月13日名古屋に到着する。以後、名古屋城で暮らす。同年2月28日、京姫と結婚する。尾張藩からは合力米3000石を献上されていた。
 しかし、1660年・・・4月には京都に戻り、朝廷に対し松殿家(1646年・・・)に途絶えていた)を再興するなどして、公家に戻ることを願う。一方、実兄の八条宮智忠親王は、皇族になることを進言した。
 1663年・・・11月、霊元天皇より源姓が下賜され臣籍に下ることとなった(正親町源氏)。12月には「広幡」の家号も与えられ、新たに家を興すことが許された。広幡家の公家としての家格は村上源氏嫡流の久我家と同じく、清華家とされた。
 1665年・・・に名古屋から京都へ戻り、以降は公家町に邸宅を構え、朝廷に出仕した。・・・
 正室・京姫との間に五女。忠幸没後に次女以下は京姫の兄である尾張藩の第2代藩主・徳川光友の養女となる。
 実子
  新君 – 光友の嫡子である尾張藩の第3代藩主・徳川綱誠室となる。
  定姫 – 筑後久留米藩主・有馬頼元室
  智姫 – 大和宇陀松山藩主・織田信武の正室
  園姫 – 浅野長晟の養女になり分家の備後三次藩主・浅野長照に嫁ぐ。
  清姫 – 姉・智姫の没後、織田信武の継室となる
 養子
  豊忠 – 父:久我通名、母:西園寺公満の娘」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E5%B9%B8
 「広幡家<の>・・・菩提寺は、本家である桂宮家と同じく相国寺塔頭慈照院<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%AE%B6

⇒ここで断絶。但し、断絶はこの1回きりだ。(太田)

 (二)広幡豊忠(1666~1737年)

 「妻 家女房
  子 忠誠、忠章、忠成、長忠、小倉宣季室、正親町実連室、三条公兼室」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E8%B1%8A%E5%BF%A0

 (三)広幡長忠(1711~1771年)

 「妻:醍醐冬熙の娘
  妻:仲小路氏
   女子:観心院(1745-1805)(伊達重村室)
  妻:家女房
   男子:広幡前豊(1742-1784)
   男子:久我信通(1744-1795)
  生母不詳
   女子:西園寺賞季室」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E9%95%B7%E5%BF%A0

 (四)広幡前豊(1742~1784年)

 「初名は輔忠(すけただ)といったが、・・・1751年<に>・・・近衛内前の猶子に入り、偏諱(「前」の字)を賜って前豊(「豊」は祖父・豊忠より1字を取ったもの)と改名している。・・・
 父:広幡長忠
 母:家女房(あるいは醍醐冬熙の娘)
 <猶>父:近衛内前
 妻:賢子女王(伏見宮貞建親王の王女)
  男子:広幡前秀(1762-1808)
 生母不詳の子女
  女子:三条西廷季室
  女子:綾小路俊資室」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%89%8D%E8%B1%8A

⇒広幡前豊の代から、近衛家が、広幡家を、事実上、近衛家の一環として扱うようになったと見てよかろう。(太田)

 (五)広幡前秀(1763~1808年)

 「「前」の字は父・前豊または、前豊にその字を与えた近衛内前から偏諱を賜ったものである。・・・<近衛家の猶子になったと思われ<る。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%9F%BA%E8%B1%8A >
 母:賢子女王(伏見宮貞建親王の王女)
 妻:稲葉正諶の娘
  男子:広幡経豊(1779-1838)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%89%8D%E7%A7%80
 稲葉正諶(まさのぶ。1749~1806年)は、「山城国淀藩7代藩主。・・・寺社奉行・・・大坂城代・・・京都所司代」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%91%89%E6%AD%A3%E8%AB%B6

⇒伏見宮家は、当時までに、近衛家の努力によって秀吉流日蓮主義家になっており、近衛家の一環となった広幡家に、喜んで女王を降嫁させた、ということだろう。(太田)

 (六)広幡経豊(1779~1838年)

 「右大臣近衛経煕の猶子となってその偏諱の授与を受け経豊と名乗る。・・・
 母:稲葉正諶の娘
 猶父:近衛経煕
 妻:日野資矩の娘(今出川実種の養女)
  男子:広幡基豊(1800-1857)
 生母不詳の子女
  女子:園池実達室
  女子:唐橋在経室」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E7%B5%8C%E8%B1%8A 

 (七)広幡基豊(1800~1857年)

 「歴代当主同様、近衛家の猶子になったと思われ、慣例により近衛基前から偏諱の授与を受けて基豊と名乗った。・・・
 母:日野資矩の娘(内大臣今出川実種の養女)
 妻:鷹司皐子(鷹司政煕の娘)
  男子:広幡忠礼(1824-1897)
 生母不詳の子女
  男子:水無瀬経家(1833-1874)
  女子:広幡豊子([紀州藩第12代藩主
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E5%BD%8A]徳川斉彊室、近衛忠煕の養女)
  女子:広幡牧子(順尊室)
  女子:広幡輝子(東本願寺院家光善寺朗?室)
  女子:広幡経子(徳川慶篤室)
  女子:広幡繁子(四条隆平室)
  養女:広幡叔子(水無瀬有成)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%9F%BA%E8%B1%8A 前掲

⇒近衛家が、広幡家に鷹司家から正室を送り込んだ後、近衛家の一環の広幡家の基豊の女子をわざわざ養女にまで紀州徳川家に送り込んだわけだ。
 恐らく、これ以上広幡家の箔付けは不要との判断の下、養女にすることなく、近衛家は、基豊の女子を東本願寺や尾張徳川家に送り込んだのだろう。(太田)

 (八)広幡忠礼(ただあや。1824~1897年)

 「権大納言となった。しかしこの役職にあった際の・・・1863年・・・に幕府による陰謀事件八月十八日の政変に巻き込まれて参内停止にされた。その後赦免されて・・・1867年・・・には内大臣に任ぜられた。王政復古の大号令の時に公武合体派として一時出仕を停止されるが、明治天皇の元服に際して許される。
 明治時代には華族(侯爵)となり、帝国議会が開かれると1890年(明治23年)2月、貴族院侯爵議員に就任し活躍した。英照皇太后の崩御の際に、病気をおして参内して斎官を務めたことから重態に陥り、これに驚いた明治天皇が使者を派遣すると共に勲一等旭日大綬章を授けたが、直後に逝去した。・・・
 妻:大谷光朗の娘(近衛忠煕の養女)
  男子:広幡忠朝・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E7%A4%BC

⇒広幡忠礼は、幕末、近衛忠煕の指示通りに動いたように見える。(太田)

 (九)広幡忠朝(1860~1905年)

 「1875年3月13日、陸軍騎兵中尉に任じられ、騎兵大尉に進んだ[2][3]。・・・
 妻 広幡昭子(岩倉具綱二女)]
  長男 広幡忠隆(逓信官僚)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E6%9C%9D

 (十)広幡忠隆(1884~1961年)

 「学習院中等学科、同高等学科を経て、1909年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(仏法)を卒業。・・・1910年2月、内閣総理大臣官房事務嘱託となる。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。1911年3月、逓信省に入省・・・管船局長などを歴任<し、>1932年9月、皇后宮大夫兼侍従次長に就任し、1945年10月まで在任<。>・・・
 妻 広幡文子(山本達雄二女)[2]
 養嗣子 広幡増彌(海軍技術大佐、伊藤安吉二男)[2]
 弟 児玉忠康(日本郵船社長、兒玉秀雄養子)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B9%A1%E5%BF%A0%E9%9A%86

⇒7月大卒ということは、単位を落としたのだろうし、高文に「一浪」で合格し、逓信省に入ったわけだが、「本家」の嫡男の近衛文麿よりは相当学力は高かったわけだ。(太田)


[伏見宮系の事績]

一、始めに

 「北朝第三代崇光天皇の第一皇子・栄仁親王<(注10)>は持明院統の嫡流にあたったが、その皇位継承は将軍足利義満に忌避されたと考えられ、皇位を継承することなく御領のひとつ伏見殿御領に移り、伏見殿と呼ばれるようになった。

 (注10)伏見宮栄仁親王(1351~1416年)は、「世襲親王家の伏見宮初代当主。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E6%A0%84%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 <兄で第2代・治仁王の次の>第3代・貞成親王は、自ら伏見宮と称していた。貞成親王の第一王子は後花園天皇として即位し、第二王子の貞常親王が4代目となったが、貞常親王は兄の後花園天皇から永世「伏見殿」と称することを勅許され、以後、代々「伏見宮」と名乗るようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE

 「後花園天皇<(1419~1471年。天皇:1428~1464年)誕生の経緯だが、>・・・1422年・・・以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も・・・1425年・・・に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。
 ・・・1428年・・・、称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。
 同年7月20日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、7月28日に践祚し、翌・・・1429年・・・12月27日に即位した。天皇<(後花園天皇)>の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父の貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%8A%B1%E5%9C%92%E5%A4%A9%E7%9A%87
 「伏見宮貞常親王<(1426~1474年)は、>・・・後花園天皇(今日の皇室の祖)<の弟。>・・・
 後花園は後小松上皇の猶子として即位した経緯から、後小松の生前には実家の<伏見宮家の>待遇改善には消極的であったが、・・・1433年・・・に後小松が死去すると積極姿勢を示し、・・・貞常を元服させたうえで親王とし、さらに<自分と貞常親王の父である>貞成に上皇の尊号を奉る意向を伝えた・・・。・・・
 1456年・・・8月に後崇光院(貞成)が死去すると、10月には貞常は後花園から後崇光の紋所を代々使用することと永世「伏見殿御所(伏見殿)」と称することを勅許された・・・。これまでも世襲宮家は複数存在し伏見宮もその1つであったが、親王宣下の保証はなかった。だが、今回の勅許は歴代当主に対する親王宣下に対する保証を初めて与えたものであり、これをもって世襲親王家の<初>成立とみなすことが可能である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E5%B8%B8%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒以上は、上掲↑に収録されている系図を参照しながら読むと分かり易い。(太田)

二、その後の歴代

 (一)伏見宮邦高親王(1456~1532年)
  
  「貞常親王第一王子。母は庭田重有の娘・源盈子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E9%AB%98%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 「庭田家(にわたけ)は宇多源氏の流れを引く公家」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%AD%E7%94%B0%E5%AE%B6

 (二)伏見宮貞敦親王(1488~1572年)

 「邦高親王第一王子。母は今出川教季の娘。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%A6%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 「菊亭家(きくていけ)は、清華家の家格をもつ公家。また号のひとつの今出川家(いまでがわけ)も併用していた。藤原北家閑院流、西園寺家の庶流。家業は琵琶。・・・
 安土桃山にでた晴季は、羽柴秀吉に関白任官を持ちかけたことで知られ、その後右大臣にのぼって朝廷と豊臣政権との間の連絡役として重きを成した。
 江戸時代の家禄は1355石、・・・1645年・・・に300石加増され1655石となり、摂家の鷹司家の1500石を上回ることになった。清華家で1000石以上を有していたものは他にない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E4%BA%AD%E5%AE%B6

 (三)伏見宮邦輔親王(1513~1563年)

 「貞敦親王第一王子。母は三条実香の娘・藤原香子。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E8%BC%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (四)伏見宮貞康親王(1547~1568年)

 「邦輔親王第四王子。母は<御息所>西園寺実宣の娘。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E5%BA%B7%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (五)伏見宮邦房親王(1566~1622年)

 「邦輔親王第二王子。[女房・・・万里小路惟房の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E8%BC%94%E8%A6%AA%E7%8E%8B ]」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E6%88%BF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (六)伏見宮貞清親王(1596~1654年)

 「邦房親王第一王子。・・・母親<は>北野神人本郷盛久<(注11)>二女・顕寿院<。>・・・妃に・・・1604年・・・11月14日に嫁いだ・・・宇喜多秀家の女で前田利長の養女、おなぐの方(おなくの方)・・・

 (注11)「武家の本郷(ほんごう)氏は、中世の頃、若狭国大飯郡本郷(現在の福井県大飯郡おおい町)に拠点があった、村上源氏に源流があるとされ、初代は鎌倉御家人・源朝親という。朝親は美作蔵人、美作左近大夫と称し、源実朝(1192-1219)の鶴岡八幡宮参拝にも随行した。1221年、承久の乱後、朝親は本郷の地頭職に任じられ、以後、本郷氏を名乗る。子孫は土着し、西遷御家人の一として活躍した。室町時代、1568年、織田信長の入洛、1570年、信長の若狭に進出に伴い、本郷泰茂が信長側近・矢部家定を通じ傘下に入る。本郷盛久も信長に仕えたという。」
https://kyotofukoh.jp/report1738.html

 御息所:宇喜多秀家の[側室の]娘<
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB >
で前田利長の養女、おなぐの方(おなくの方)・・・
  王子:邦尚親王(1615-1653) – 第11代伏見宮
 女房:安藤定元の娘
  王子:貞致親王(1632-1694) – 第13代伏見宮
 生母未詳
  王女:秀山松栄女王(1609-1662)
  王女:照子女王<(注12)>(安宮、1625-1707) – 徳川光貞室

 (注12)「<実母不詳。>
 1657年・・・、徳川御三家の一つである紀州家の2代藩主・徳川光貞と縁組。同年11月に和歌山城へ入り、婚礼の式を挙げた。これ以後紀州家では、5代藩主・吉宗(後の江戸幕府8代将軍)、7代・宗将、14代・茂承の正室を伏見宮家から迎えているが、和歌山城で婚礼を挙げたのは照子女王だけである。・・・光貞との間に子供は出来なかった。・・・
 墓所は<和歌山市の日蓮宗の>報恩寺と池上本門寺にある。大田区池上にある<日蓮宗>妙教山法養寺には、・・・1663年・・・に照子女王が寄進した釈迦涅槃図繍仏(縫物師・戸塚七兵衛の作)が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B

  王女:梅子女王(七宮、1628-1680) – 久我広通室
  王女:顕子女王<(注13)>(浅宮、1640-1676) – 徳川家綱室

 (注13)「<実母はおなぐの方。>1657年・・・7月10日に・・・婚儀が執り行われた。・・・家綱との間に子はなかった。・・・東叡山寛永寺に葬られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
  王子:邦道親王(1641-1654) – 第12代伏見宮
  王女:仙嶽聖崇女王(1644-1670)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%B8%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒注目すべきは、貞清親王が宇喜多秀家の娘を御息所に迎えていることだ。
 私は、貞清親王の実祖母が、万里小路家の出身であり、万里小路家が近衛家の門流(家礼・家来)であった
http://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
ところ、彼女が1604年時点でまだ生存していたと見たいのだが、その彼女が当時左大臣であった近衛信尹
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E4%BF%A1%E5%B0%B9
の指示を万里小路家経由で受け、父が織田信長の家臣だったことがあるところの、貞清親王の実母のラインで、本郷家から、同じく、信長の家臣だったところからキャリアをスタートさせたところの、宇喜多秀家、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%A7%80%E5%AE%B6
の娘を、前田家・・時の家長でやはり(父利家同様)織田信長の家臣だったところからキャリアをスタートさせ、正室も信長の娘を迎えていた利長というよりは、宇喜多家思いのその実母のまつ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%98%A5%E9%99%A2
に申し入れさせ、貞清親王の御息所にもらい受けた、と見る。
 これは、利長の養女にしたのは、宇喜多秀家の失脚後だったからであろうところ、そんなケチのついた人物の女子をもらい受けたこと、かつまた、その女子が宇喜多秀家の正室の豪姫の子ではなく、側室の子であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB
こと・・恐らくは、豪姫のキリシタンの側面の影響を受けていないことで選ばれたのではないか・・、の2点で、極めて異例であると言わざるをえない。
 かなり大胆な想像ではあるけれど、まつとその子利長が、「利家が病死したため、<利長が>その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる<ものの、>・・・同年8月、利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、家康の勧めにより金沢へ帰国し<た上、その後、>・・・、芳春院<(まつ)>を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7
という経緯で、前田家が、前田家存続のために徳川家に擦り寄り、秀吉流日蓮主義を放棄したことに忸怩たる思いがあり、近衛家の、伏見宮家の秀吉流日蓮主義家化に協力して欲しいとの意向が伝えられたことで、積極的にその意向に応えた、ということではなかろうか。
 で、驚くべきことに、伏見宮家はこのおかげで、秀吉流日蓮主義家に大転換を遂げたと判断せざるをえない。
 というのも、照子女王は、夫が、紀州徳川家の菩提寺である和歌山県海南市の天台宗の長保寺に葬られた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%85%89%E8%B2%9E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E4%BF%9D%E5%AF%BA
というのに、その墓所は、どちらも日蓮宗の二つの寺院にある(上出)からだ。
 50年も連れ添ったのに子供はできないわ、墓所も別々と言うのだから、二人の関係は冷え切っていたのだろうが、おかげで、照子女王が、輿入れ前から既に日蓮宗信徒であったこと、ひいては、実家の(日蓮宗信徒家にはなっていないけれど)伏見宮家が秀吉流日蓮主義家になっていた、という推定が成り立つことになる。
 他方、顕子女王の方は、やはり夫の家綱との間に子がいなかったが、実母の豪姫譲りのキリスト教訛の秀吉流日蓮主義者だったからということか、将軍の御台所には御三家の御簾中のような自由が認められなかったからということか、夫がやがて葬られるであろう寛永寺に葬られたわけだが、どうやら、徳川本家の秀吉流日蓮主義化には失敗したのではなかろうか。
 ところで、この二組の婚儀はほぼ同じ時期に行われているが、まとめて実質的な橋渡しをしたのは、当時、水戸藩の世子であった徳川光圀の正室の近衛尋子(ちかこ)・・私見では光圀に『大日本史』編纂に着手された張本人(コラム#省略)・・ではないか。(当時、近衛家には成人の当主がいなかった。)
 「東福門院の人選によって将軍家綱と婚約」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B 前掲
「光貞との婚姻の経緯には、照子女王の妹であり4代将軍・徳川家綱の御台所である顕子女王付きの上臈御年寄・飛鳥井局が、未だに定まる縁のない御台所の実姉を心配して、家綱の乳母・矢島局を通して家綱に言上し、光貞との縁組を勧めたという説がある。しかし一方では、顕子女王と家綱との縁組にも関わっていた東福門院の意向であったという説もある 」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B 前掲
ということになっているところ、後者の第一説は、2組の輿入れの時期が接近しすぎていてありえず、2組とも東福門院が関与したと見てよいだろうが、それまで、一人の女子も武家に嫁がせたことの無い伏見宮家(これまでの関連ウィキペディア)に一挙に2組もそれを命じることは、東福門院はもとより、その夫の後水尾天皇・・伏見宮家は本家筋にあたる!・・にも容易ではなかったはずであり、同天皇の実母の近衛前子の姪である近衛尋子が、(おなぐの方輿入れのご縁で伏見宮家に根回しをした上で、)将軍家、紀州徳川家への申し入れを求め、東福門院が動いた、ということではなかったか。(太田)

 (七)伏見宮邦尚親王(1615~1654年)

 「父は伏見宮・・・貞清親王。・・・母は前田利長養女(宇喜多秀家の女)。・・・子は無い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%B0%9A%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (八)伏見宮邦道親王(1641~1654年)

 「父は伏見宮・・・貞清親王。・・・母親<は、>家女房<。>・・・子は無し。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (九)伏見宮貞致親王(1632~1694年)

 「さだゆき<。>・・・父は伏見宮第10代当主の貞清親王と言われるが、一説には邦尚親王の王子とも伝えられる。母の少納言局・安藤定子は安藤定元の女で、曾祖父は邦輔親王の王子・安藤惟実(邦茂王)。・・・
 母親の身分の低さゆえ、丹波国へ養子に出された。山城国西陣の鍛冶屋(元々は公家が兼業していた刀工の家系)[要出典]の徒弟となり、「長九郎」と称した。
 1651年、讒言によって母の実家に出奔するが、貞清親王の招きにより翌年に帰洛する。1653年、再び讒言により出奔する。
 ・・・1654年・・・に貞清親王、邦尚親王、邦道親王が立て続けに薨去し、伏見宮家は断絶の危機に直面したが、安藤家の働きかけにより京都所司代が吟味したところ伏見宮の落胤であると認められ、久我広通の後見のもとに伏見宮を継いだ。
 妃は関白近衛尚嗣の女、好君。・・・
 親王妃:好君(1641-1676) – 近衞尚嗣の娘
 家女房
  ・・・
  王子:邦永親王(1676-1726) – 第14代伏見宮
  王女:理子女王(真宮、1691-1710) – 徳川吉宗室
  ・・・
  王子:道仁入道親王(房宮、1689-1733) – 天台座主・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E8%87%B4%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒この伏見宮邦道親王の素性を疑う記事をネット上で見つけた
https://ncode.syosetu.com/n9644gn/5/
が、当時は、一層喧しかったと想像され、伏見宮家の秀吉流日蓮主義家化が(母親が家女房の邦道親王が伏見宮家を継いだことで)挫折しかけていたのに追い打ちをかけるように、同家そのものが名存実亡状態に陥ってしまったことから、同家の立て直しと秀吉流日蓮主義再注入のために、相当な決意を持って、同家への輿入れは近衛家として初めてであるにもかかわらず、自分の女子の好君の送り込みを近衛尚嗣が行い、更に、紀州藩主時代の徳川吉宗に、貞致親王と好君の子ではなく家女房の子だが、理子(まさこ)女王を御簾中として送り込んだ、ということではなかろうか。
 (このことは、近衛家が、その後将軍になった吉宗に対し、『大日本史』の幕府としての受納をさせる「武器」を増やした、という結果をもたらしたわけだ。)
 想像に難くないが、理子女王も日蓮宗信徒であって、その墓所は紀州の報恩寺と池上本門寺にある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B (太田)

 (十)伏見宮邦永親王(1676~1726年)

 「御息所:福子内親王(1676-1707) – 霊元天皇第五皇女
皇女:光子女王(岩宮、1699-1737) – 松平宣維室
皇子:貞建親王(若宮、1700-1754) – 第15代伏見宮
家女房:薗氏
皇子:尊孝入道親王(静宮、1701-1748) – 東大寺別当
家女房:近藤氏
皇女:輔子女王(基宮、1710-1759) – 今出川公詮室
皇女:増子女王(比宮、1711-1733) – 徳川家重室
家女房
皇子:道承入道親王(直宮、1696-1714) – 熊野検校
皇女:某(明宮、1697-1699) – 明真院
皇子:尊祐法親王(寛宮、1697-1747) – 天台座主」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E6%B0%B8%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒ついに、これも初めて、「分家」の天皇家が「本家」の伏見宮家に天皇の女子を輿入れさせたわけだ。
 また、引き続き、将軍(吉宗の嫡男の家重の世子時代)に御簾中を送り込むことにも成功している。
 送り込まれた増子女王が寛永寺に葬られた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E5%AD%90%E5%A5%B3%E7%8E%8B
ことは意外な感がある。(太田)

 (十一)伏見宮貞建親王(1701~1754年)

 「男系では北朝第三代崇光天皇の11世孫、女系では霊元天皇の孫にあたる。・・・
 御息所:秋子内親王(姫宮、1700-1756) – 東山天皇皇女
  ・・・
 家女房
第一皇子:邦忠親王(阿古宮、1731-1759) – 16代伏見宮
第二皇子:邦頼親王(孝宮、1733-1802) – 18代伏見宮
・・・
第三皇女:寿子女王(千代宮、1742-1790) – 東本願寺乗如室
第四皇子:尊真入道親王(喜久宮、1744-1824) – 准三后、天台座主、施無畏王院
 家女房
第四皇女:賢子女王(安津宮、1745-1789) – 広幡前豊室、解脱香院
・・・
第五皇女:貞子女王(田鶴宮、1748-1827) – <清水徳川家初代当主>徳川重好室、貞章院妙観心院」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E5%BB%BA%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒引き続き、「分家」の天皇家から天皇の女子を輿入れさせている。(太田)

 (十二)伏見宮邦忠親王(1732~1759年)

⇒ここで、伏見宮家は、実質的には一旦断絶する。(太田)

 (十三)伏見宮貞行親王(1760~1772年)

 「桃園天皇の第二皇子。母は一条富子。・・・伏見宮邦忠親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した。13歳<で>・・・薨去・・・。伏見宮は先代邦忠親王の弟、寛宝入道親王が還俗して継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E8%A1%8C%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒これで、かろうじて伏見宮家は、「皇別」宮家にならずに済んだわけだ。(太田)

 (十四)伏見宮邦頼親王(1733~1802年)

 「1779年・・・に後桃園天皇が男子を残さずに崩御すると、邦頼親王が天皇を毒殺したとする風説が流れ、京都所司代や後桜町上皇までがその詮議に乗り出す騒ぎになったが、間もなくその無実が判明する。・・・1787年・・・鷹司輔平の女・達子と結婚する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E9%A0%BC%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 
⇒鷹司家が皇別摂家になったばかりの時の鷹司輔平は、再び鷹司家が近衛家の別動隊とは言えなくなっていた(コラム#12651)ことから、輔平の女子を娶ったからといって、それが伏見宮家が秀吉流日蓮主義家に戻る契機とはならなかったはずだ。(太田)

 (十五)伏見宮貞敬親王(1776~1841年)

 「1811年・・・一条輝良の女輝子(てるこ)と結婚する。・・・
  第1王子:邦家親王(1802-1872) – 20代伏見宮
第2王子:尊宝法親王(1804-1832) – 青蓮院門跡、223世天台座主
・・・
第2王女:韶子女王(1806-1841) – 松平忠堯室
・・・
第4王子:尊誠法親王(1806-1822) – 一乗院門跡
第3王女:日尊女王(1807-1868) – 瑞龍寺門跡
・・・
第4王女:英子女王(1808-1857) – <清水家当主>徳川斉明室
  ・・・
第8王女:増子女王(1815-1859) – 東本願寺光浄宝如室
  ・・・
第8王子:尊常法親王(1818-1836) – 一乗院門跡
  ・・・
第10王子:守脩親王(1819-1881) – 初代梨本宮
  ・・・
第17王女:直子女王(1830-1893) – <一橋家当主>徳川慶寿室
  ・・・
第19王女:成淳女王(1834-1865) – 有栖川宮韶仁親王養女、中宮寺門跡」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒近衛家が秀吉流日蓮主義化家させることに成功したばかりの一条家の輝良(コラム#12651)の女子を貞敬親王に娶らせたのは近衛家であり、これにより、近衛家は、伏見宮家を、17世紀前半の邦房親王の頃並みの熱心な秀吉流日蓮主義家に引き戻すことに成功した、と見る。
 その証拠が、水戸藩藩主の徳川斉貞敬親王の女子の瑞龍寺門跡への送り込みだ。
 摂関家だけが門跡を送り込んで来ていたのが、有栖川宮音仁親王の女子が門跡となっていたところ、その後を継いだわけだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9E%E9%BE%8D%E5%AF%BA_(%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%B8%82)
が、これは、有栖川宮家もまた、秀吉流日蓮主義家であったことを推認させるものだ。(太田)

 (十六)伏見宮邦家親王(1802~1872年)

 「1947年(昭和22年)に皇籍離脱した旧皇族 11宮家全ての最近共通祖先<。>・・・
 <母は>家女房・藤原誠子<。>・・・1835年・・・鷹司政熙の女景子(ひろこ)と結婚する。・・・
  妃 ・鷹司景子
第6王子:睦宮・伏見宮貞教親王(1836–1862) – 第21代伏見宮
・・・
第8王女:倫宮・則子女王(1850–1874) – 徳川茂承侯爵室
    ・・・
第14王子:敦宮・伏見宮貞愛親王(1858–1923) – 第22代・第24代伏見宮
女房・藤木寿子
第1王子:静宮・山階宮晃親王(1816–1898) – 初代山階宮
女房・上野寿野
第2王子:多嘉宮・聖護院宮嘉言親王(1821–1868) – 初代聖護院宮
・・・
第1王女:岡宮・恒子女王(1826–1916) – 二条斉敬室
女房・鳥居小路信子
第4王子:富宮・久邇宮朝彦親王(1824–1891) – 初代久邇宮・第125代天皇明仁曽祖父
女房・中村杣
第2王女:満津宮・順子女王(1827–1908) – 一条忠香室
第3王女:万喜宮・久我誓円(1828–1910) – 久我通明養女・善光寺住職
女房・古山千恵
第4王女:嘉恵宮・和子女王(1829–1884) – 大谷光勝室
女房・近藤加寿尾
・・・
女房・堀内信子
・・・
第8王子:豊宮・小松宮彰仁親王(1846–1903) – 初代小松宮
第9王子:満宮・北白川宮能久親王(1847–1895) – 第2代北白川宮
    ・・・
第12王子:隆宮・華頂宮博経親王(1851–1876) – 初代華頂宮
女房・木村世牟子
・・・
女房・伊丹吉子
第10王女:万佐宮・村雲日栄(1855–1920) – 九条尚忠のち九条幸経養女・瑞龍寺門跡
第13王子:泰宮・北白川宮智成親王(1856–1872) – 初代北白川宮
第12王女:節宮・貴子女王(1857–1919) – 松平忠敬伯爵室
    ・・・
第15王子:六十宮・清棲家教伯爵(1862–1923) – 臣籍降下
第16王子:易宮・閑院宮載仁親王(1865–1945) – 第6代閑院宮
第17王子:定宮・東伏見宮依仁親王(1867–1922) – 初代東伏見宮・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒鷹司政熙の時に鷹司家は近衛家の別動隊に戻っていた(コラム#12506、12651)わけだが、恐らく近衛家と調整の上、政煕がその女子を伏見宮邦家親王に娶せたのは、伏見宮家の秀吉流日蓮主義を強固なものにするためだろう。
 その証が、邦家親王の女子の村雲日栄としての瑞龍寺入りだったというわけだ。(コラム#12651) 
 不思議なのは、邦家親王の幕末期に政治関係の事績が全くと言ってよいほど伝えられていないことだ。
 これは、多数の子女の養教育とこれら子女を使った縁戚作りに精力を使い果たしたということかも。
 但し、その子の一人である小松宮彰仁親王(1846~1903年)は、幕末・維新期に大活躍をしている。(コラム#12592も参照。)
 「母親<は>堀内信子<、>・・・妃は、旧・久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。・・・1867年<から>・・・仁和寺宮嘉彰親王(にんな じのみや よしあきしんのう)と名乗<り、>明治維新にあっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。1870年(明治3年)に宮号を東伏見宮に改める。1874年(明治7年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、1877年(明治10年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。1881年(明治14年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌1882年(明治15年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した。親王は、<欧州>の君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。1890年(明治23年)、陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。1898年(明治31年)に元帥府に列せられる。国際親善にも力を入れ、1886年(明治19年)に<英国>、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した。また、1902年(明治35年)、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代(みょうだい)として臨席した。その他、経歴の一つとして、蝦夷地(北海道)の“開拓”に清水谷侍従と共に関わっている。・・・社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め、皇族の公務の原型を作る一翼を担った。また、1896年(明治29年)には井上円了の哲学館(のちの東洋大学)に「護国愛理」の扁額を下賜している。また、川上村の金剛寺に後南朝の皇族・自天王の碑を建てた。大覚寺統の皇族が持明院統の皇族によって憐れまれたのはこれが初めてであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%BD%B0%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
 また、彰仁親王と同じ堀内信子を母とする北白川宮能久親王の子の小松輝久(1888~1970年)は、「皇族の子弟については、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校等への入学は無試験で天皇の許可のみで許されていた。海軍兵学校への入学を希望していた輝久については、能久親王妃富子の強い要請によって海軍の難色を押し切り、一般の者とともに試験を受けそれに合格して入学した。入学時の席次は180人中160番だった。21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。これによって1903年(明治36年)に小松宮彰仁親王が薨じて以来断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。なお、諸王の臣籍降下に際して従来は伯爵を賜っていたが、侯爵を賜った初めての例である。・・・皇族軍人の席次は首席であるのが通常であるが、入校時122番、卒業時は26番である、これは輝久王(当時)が、特別待遇を受けることを拒否したためであった(皇族関係者で唯一入学試験を受け自力で海軍兵学校に合格した)。卒業後は一貫して終戦間際まで帝国海軍の軍務に服する。海上勤務と共に、海軍大学校など教育畑の勤務も多かった。戦後は、旧皇族の中で唯一の戦犯として実刑判決を受けて服役。出所後は平安神宮宮司を務める。・・・
 配偶者<は、>島津薫子(<島津久光の七男の>島津忠済の娘)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E8%BC%9D%E4%B9%85

 (十七)伏見宮貞教親王(1836~1862年)

 「晃親王ら兄がいたが、正室ではない子のため貞教が嫡子となる。天保13年(1842年)父宮邦家親王の隠居に伴い、7歳で伏見宮家を継承する。・・・
 母親<は>鷹司景子<で>・・・配偶者<は、>鷹司積子(鷹司政通の娘)<と、>・・・鷹司明子(鷹司輔煕の娘)<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%99%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (十八)伏見宮貞愛親王(さだなる。1858~1923年)

 「伏見宮邦家親王第14王子。母は鷹司政煕の女鷹司景子。・・・
 親王は初め妙法院を相続したのち孝明天皇の養子となるが、伏見宮貞教親王薨去のため、1862年・・・11月に還俗し家督を継ぐ。1864年・・・いったん伏見宮を離れ家督を父宮の邦家親王に渡す。そして1872年(明治5年)再度伏見宮を継承<す>る。
 親王は皇族として唯一、大正初期に4代目の内大臣を務め、軍人として最高位の元帥陸軍大将に就任したほか、大日本農会・大日本蚕糸会・在郷軍人会・理化学研究所・恩賜財団済生会・大日本武徳会等の総裁を歴任する。なお、済生会の総裁職はのちに寬仁親王が就任する。
 親王は馬術・囲碁・音楽・弓術・撞球・書道・書画刀剣・木石花卉などを趣味とし、銚子犬吠埼の別邸・瑞鶴荘には矢場・撞球場が設けられた(『貞愛親王逸話』)。親王は福岡県宗像市の宗像大社を厚く崇敬し、記紀にある神勅の言葉を揮毫している。・・・
 妻:利子女王(有栖川宮幟仁親王王女) – 女房河野千代子 – 女房增山奈越子
 子:
  第1王子:博恭王(ひろやすおう、1875年 – 1946年)(母:女房河野千代子)<(後出)>
  第2王子:邦芳王(くにかおう、1880年 – 1933年)(母:妃利子女王)
  ・・・
  第1王女:禎子女王(さちこじょおう、1885年 – 1966年)(母:女房增山奈越子) – 侯爵山内豊景夫人。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%84%9B%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (十九)伏見宮博恭王(ひろやす。1875~1946年)

 「貞愛親王とその女房の河野千代子との間に第一王子愛賢として生まれた。当時貞愛親王は満17歳であった。庶子であったことから、誕生当初は王の身位も与えられなかった。
 公家社会の嫡庶の序を重んじる伝統に加え、一夫一妻制をとる西洋社会の影響から、伏見宮の継嗣の対象からは外された。邦家親王とその正妃親王妃景子との間に生まれた父の貞愛親王や伯父で先代伏見宮の貞教親王も、庶子であった数人の兄たちを飛ばして伏見宮家を継承している。当時の太政官布告によれば将来的に臣籍降下し華族に列せられる予定であった。
 ところが明治9年(1876年)に愛賢王の伯父にあたる華頂宮博経親王が26歳で薨去、博経親王の子博厚が皇族に列し、華頂宮家を継承した。
 しかし、その博厚も明治16年(1883年)に8歳で薨去。明治天皇の特旨をもって華頂宮の存続を決定し、まず博厚王を猶子・親王宣下により博厚親王とした上で、華頂宮自体の継承に関しては、本家に当たる伏見宮から王子を充当し宮家を立てることとし、行先の決まっていなかった愛賢王が華頂宮を継承、同時に名を博恭と改めた。
 華頂宮を継承して3年後の1886年(明治19年)4月5日、博恭王は海軍兵学校予科に入学し・・・、海軍軍人としてのスタートを切る。3年後に海軍兵学校を中退してドイツに渡り、ドイツ帝国海軍兵学校およびドイツ帝国海軍大学校で学び、1895年(明治28年)まで滞在した。・・・
 日本への帰国後は巡洋艦や戦艦での艦隊勤務を重ね<た>・・・。
 1897年(明治30年)1月9日、徳川慶喜の九女・経子と結婚した。
 1903年(明治36年)に海軍少佐に任官される。
 翌1904年(明治37年)、邦芳王の廃嫡に伴い、華頂宮から急遽伏見宮に復籍して後嗣となり、また第二王子で僅か2歳の博忠王が華頂宮を継承することとなった。
 伏見宮復籍後も艦隊勤務での実績を積み、日露戦争の黄海海戦において、連合艦隊の旗艦「三笠」の第三分隊長として、後部の30センチ砲塔を指揮、その際負傷した。
 1913年(大正2年)8月31日に海軍少将に任官されると共に横須賀鎮守府艦隊司令官に就任。更に海軍大学校長・第二艦隊司令長官などを歴任し、1923年(大正12年)に貞愛親王の薨去に伴い、伏見宮を継承した(第25代)。
 1931年(昭和6年)末、参謀総長に皇族の閑院宮載仁親王が就任したのに対し、海軍もバランスをとる必要性から、1932年(昭和7年)2月2日付で、博恭王が海軍軍令最高位である海軍軍令部長に就任した。

⇒しかし、伏見宮家はいわば天皇家の総家であって(典拠省略)閑院宮家を含む他の諸宮家よりも格は上ではあるけれど、閑院宮載仁親王だって伏見宮家出身だし、何と言っても、伏見宮博恭王は10歳も「年少」の「王」なのに、閑院宮載仁親王は「年長」の叔父たる「親王」なのだ(注14)から、天皇家における序列は後者の方がはるかに上であり、後者の意向に前者が逆らうことなど不可能だったはずだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (注14)「明治時代以前には、たとえ天皇の子女であっても親王宣下を受けない限り、親王および内親王を名乗ることはできなかった(参考:良岑安世・源高明・以仁王)。逆に、世襲親王家の当主など天皇の孫以下の世代に相当する皇族であっても、親王宣下を受けて親王および内親王となることもあった(四親王家:有栖川宮家・桂宮家・閑院宮家・伏見宮家。鎌倉〜室町時代にかけて存在した常磐井宮が世襲親王家の始まりとされる)。
 親王宣下が始まったのは淳仁天皇以後である。
 たとえば、以仁王、後西天皇の皇女貞宮、後世の比丘尼御所は宣下がなかったので、諸王である。
 これに対して、孫王であっても宣下を賜れば親王であり、その最初は小一条院の子敦貞、敦元の2王および儇子、嘉子の2王女である。2王は三条天皇の皇子に準じて親王であり、2王女は天皇の養女として内親王の宣下があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%AE%A3%E4%B8%8B

 (もちろん、1931年に順次行われたこの2人の、かくも「巧みな」人事、の首謀者達は、貞明皇后/西園寺公望/牧野伸顕(内大臣)/杉山元、だったはずだ。)
 だから、伏見宮博恭王としては、内心、面白くなかったのではなかろうか。
 そう考えると、「海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進し<、>ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功し、<とんでもないことだが、>軍令部<が>海軍省に対して<優位>とな<った結果、>日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E5%8D%9A%E6%81%AD%E7%8E%8B 前掲
のは、なんということはない、伏見宮博恭王が、せめて、閑院宮載仁親王が陸軍の中で持っている権限よりも強い権限を自分が海軍の中で持ちたいと思ったからではなかったか。(太田)
 
 同年5月27日付で、元帥府に列せられ元帥の称号を受ける。
 1933年(昭和8年)10月、軍令海第5号軍令部令により海軍軍令部は冠の「海軍」が外れて「軍令部」となり、海軍軍令部長も「軍令部総長」となる。これは陸軍の「参謀本部」「参謀総長」と対応させたものであ・・・る。・・・
 海軍軍令部長・軍令部総長時代は、軍令部が権限強化に動き出した時で、博恭王自身も(陸軍と違い、伝統的に海軍省優位であった海軍にあって)軍令部権限強化のための軍令部令及び省部互渉規定改正案について「私の在任中でなければできまい。ぜひともやれ」と高橋三吉、嶋田繁太郎といった軍令部次長に指示して艦隊派寄りの政策を推進した。
 ついに海軍軍令部の呼称を軍令部に、海軍軍令部長の呼称を軍令部総長に変更、更には兵力量の決定権を海軍省から軍令部に移して軍令部の権限を大幅に強化し、海軍省の機能を制度上・人事上弱体化させることに成功し、軍令部は海軍省に対して対等以上の立場を得ることとなった。こうして日独伊三国同盟・太平洋戦争と時代が移る中で海軍最高実力者として大きな発言力を持った。・・・
 軍令部の権限強化を図るべく博恭王が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に対し、井上成美は自らの軍務局第1課長の職を賭して激しく抵抗し、結果として更迭された。井上は横須賀鎮守府付となり、待命・予備役編入の危機にさらされた。しかし大佐昇進後5年目にして戦艦比叡艦長に補され、艦長の任期は通常1年のところを2年務めて少将に進級している。井上が予備役編入されずに比叡艦長に栄転したのは、博恭王が敵であったはずの井上について「井上をよいポストにやってくれ」と海軍人事当局に口添えしたためだという・・・。・・・
 <しかし、その>井上成美は、皇族が総長に就くことで、意見の硬直化を招いたことを「明治の頭で昭和の戦争をした」と称して批判している。博恭王の総長退任時に及川古志郎海相に意見を求められた井上は、「もともと皇族の方はこういう重大事に総長になるようには育っておられない」「宮様が総長だと次長が総長のような権力を持つことになる」と手厳しく批判している。・・・
 二・二六事件では事件発生の朝、加藤寛治、真崎甚三郎と協議を行ってから参内している。この時、昭和天皇の不興を買い、その後は叛乱鎮圧に向けて動いている。
 太平洋戦争(大東亜戦争)中においても、大臣総長クラスの人事には博恭王の諒解を得ることが不文律であった。・・・
 1943年(昭和18年)8月、四男・伏見博英伯爵が戦死。・・・
 1944年(昭和19年)6月25日、サイパン島の放棄を決定した天皇臨席の元帥会議において、「陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない。そしてこの対策は、急がなければならない。戦局がこのように困難となった以上、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊なものを考案し迅速に使用するを要する」と発言した。・・・

 同年末頃に、脳出血を起こし、心臓の病を抱え、熱海別邸で療養生活を送る。」(上掲)


[有栖川宮系の事績]

一、始めに

 高松宮好仁親王(1603~1638年)

 「後陽成天皇の第7皇子。母は中和門院前子(関白近衛前久の女)。
 1630年)、福井藩主松平忠直の娘で2代将軍徳川秀忠の養女の寧子(亀姫)を妃とする。招月、不白と号して定家流や近衛流の書を多く揮毫した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%A5%BD%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 後西天皇(1638~1685年)

 「父親<は>後水尾天皇<で、>[母親は櫛笥隆子(くしげたかこ)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E7%AC%A5%E9%9A%86%E5%AD%90 ]
 はじめ高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第2代を継承して花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と号した。・・・
 後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎとして、1654年・・・年・・・11月28日に即位した。・・・
 もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。また茶道、華道、香道にも精通していた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%A5%BF%E5%A4%A9%E7%9A%87

二、その後の歴代

 (一)有栖川宮幸仁親王(1656~1699年)

 「後西天皇の第二皇子、母は清閑寺共子。・・・
 1667年・・・に高松宮を継承、・・・1672年・・・に有栖川宮と宮号を変更した。・・・
 御息所:未詳
 家女房:寿昌院
  第二皇女:易子女王(淑宮、1691-1749) – 東本願寺真如光性室、実性院如幸
  第一皇子:正仁親王(多嘉宮、1694-1716) – 4代有栖川宮
 家女房
  第一皇女:幸子女王(英宮、1680-1720) – 東山天皇中宮・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%B9%B8%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒清閑寺家は一条家の門流(家礼)だが、
http://sito.ehoh.net/kugemonryu.html
清閑寺共子の輿入れ当時の一条家の当主は、後陽成天皇の第九皇子で生母が近衛前子である一条昭良(1605~1672年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E6%98%AD%E8%89%AF
であると思われ、その一条昭良の正室は織田有楽斎の嫡男の織田頼長(上掲)(1582~1620年)で、この頼長の事実上の正室は東本願寺第12代法主(事実上の初代)の教如の娘
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E9%A0%BC%E9%95%B7
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E5%A6%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%AE%B6
であるご縁で、幸仁親王は、その皇女を東本願寺第17代法主の真如に嫁がす運びになったのだろう。
 銘記すべきは、この真如、東本願寺第十五代常如の長男だが、近衛家熙の猶子であることだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E5%A6%82_(%E6%9D%B1%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA)
 実は、この常如は東本願寺第14代琢如の長男で実母が(その実母が後水尾天皇の皇女であるところの)家煕、の曽祖父(でその同母兄が後水尾天皇であるところ)の近衛信尋の娘なのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E5%A6%82 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%AE%B6%E7%86%99
 結局、この有栖川宮家と東本願寺との結び付きは、形の上では一条家によるものだが、実質的には、有栖川宮家を長期的に秀吉流日蓮主義家に仕立て上げることを意図したところの、近衛家によるものだった、というのが私の見方なのだ。(注15)(太田)

 (注15)後陽成天皇-後水尾天皇※———————明正天皇
         -近衛信尋※ -後光明天皇
         -高松宮(有栖川宮)好仁親王※ -後西天皇—有栖川宮幸仁親王
         -一条昭良※           -霊元天皇
    ※同母兄弟。故、近衛家も一条家も有栖川宮家とは肉親意識があったと思われる。

 (二)有栖川宮正仁親王(1694~1716年)

 「嗣子無く薨した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%AD%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (三)有栖川宮職仁親王(よりひと。1713~1769年)

 「霊元天皇第17皇子。・・・有栖川宮の第4代当主正仁親王が嗣子なく没したため、有栖川宮を相続した。・・・
 有栖川流書道の創始者として知られる。・・・
 妃:二条淳子(1713-1774) – 二条吉忠娘
  ・・・
 家女房:越前(松岩院)
  ・・・
 家女房:菖蒲小路(後藤温子) – 後藤左一郎娘<(注16)>

 (注16)その父が、後藤艮山(こんさん。1659~1733年)(「通商佐一郎<。>・・・田代三喜らがもたらした金、元の医術が、五行説などの空理空論に流れる傾向があったのに対して、後漢末の張仲景の『傷寒論』に戻ることを主張した古方派を代表する医師である。・・・門人に香川修徳、山脇東洋らがいる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E8%89%AE%E5%B1%B1 )
である可能性があるが、上掲には、後藤温子への言及がない。
 他方、その父を、藤原氏であるところの後藤有胤とする典拠がある
http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/royalty/arisugawa.html
が、その人物の調べはつかなかった。
 なお、上掲は、後藤温子を、1722~1814年としている。

  第1王女:職子女王(1745-1786)(紀州藩主徳川重倫と婚約、のち離縁)
  ・・・
  第7王子:織仁親王(1753-1820)・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%81%B7%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒さっそく、近衛家は、(女子を瑞龍寺門跡に送り込んでいる)二条吉忠(コラム#12651)のもう一人の女子を再出発した有栖川家に送り込み、その秀吉流日蓮主義回帰を促したわけだ。
 更に、職仁親王の女子の紀州徳川家への送り込みを図ったけれど、それには失敗している。(太田)

 (四)有栖川宮織仁親王(おりひと。1753~1820年)

 「母親<は、>菖蒲小路(後藤左一郎娘)
 妃:鷹司富子 – 鷹司輔平娘
  第1王女:孚希宮・織子女王(1780-1796) – <安芸国広島藩の第8代藩主>浅野斉賢正室
  第2王女:栄宮・幸子女王(1782-1852) – <長州藩9代藩主>毛利斉房正室
 家女房:八重嶋 – 山村則宴娘
  ・・・
 家女房:常盤木 – 尾崎積興養女、村井頼母娘<(注17)>

 (注17)1767~1829年。始めは妃の小姓。
http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/royalty/arisugawa.html 前掲
 その養父の尾崎積興養(1747~1827年)については、「国学者。大伴氏<。>・・・家は代々桂宮(京極宮)諸大夫を勤仕した。・・・從三位<。>」
https://lapis.nichibun.ac.jp/tanzaku/94/info.html
 実父の村井頼母については、調べがつかなかった。

  第2王子:阿計宮・有栖川宮韶仁親王(1785-1845)
  ・・・
  第8王女:楽宮・喬子女王(1795-1840) – 徳川家慶御台所
 家女房:千坂
  ・・・
 家女房:清瀧 – 安藤大和守娘<(注18)>

 (注18)清子(?~1824年)。始めは妃の侍女。
http://www.hanagatamikan.com/hollyhock/royal/royalty/arisugawa.html 前掲
 その父、安藤大和守については、調べがつかなかったが、その武家官位から見て武士だったと思われる。

  第10王女:寿宮(1796-1807)
  第6王子:綽宮(1798)
  第7王子:万信宮(1800)
  第8王子:種宮・尊超入道親王(1801-1852)
  第12王女:登美宮・吉子女王(1804-1893) – 徳川斉昭正室、徳川慶喜生母。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%B9%94%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒近衛家は、鷹司家の女子を送り込んで有栖川宮家の秀吉流日蓮主義の堅固化を図ったのだろう。
 それにしても、どちらも実父が定かではない家女房の女子を、それぞれ、将軍と、水戸徳川家当主に送り込むとは、年齢の具合もあったのだろうが、とりわけ、将軍家慶には、同母兄の韶仁親王が凡庸な人物であっ(下述)たことからも出来の悪い女子を送り込んだように思われるのに対し、斉昭には、同母家の尊超入道親王が「漢詩などの文才に優れ、生家・有栖川宮のお家芸である有栖川流の奥義も極めてい<て、>・・・絵も能くした」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E8%B6%85%E5%85%A5%E9%81%93%E8%A6%AA%E7%8E%8B
人物だっただけに、恐らく吉子女王も出来の良い女子だったと思われる。
 というか、そのような女子だからこそ、近衛家は、水戸徳川家に話を繋いだはずだ。(太田)

 (五)有栖川宮韶仁親王(つなひと。1785~1845年)

 「
妃:閑院宮美仁親王の五女・宣子女王
  ・・・
第4王女:韶子女王(1825年 – 1913年) – 徳川家慶の養女(「精姫」を名乗る)、後有馬頼咸正室・・・当初徳川家慶の養女となって入内するという話があったが朝廷から断られ、その後彦根藩主井伊家、加賀藩前田家への話も持ち上がったが両方とも断られ、有馬家に押しつけられたという。・・・
家女房:円明院(豊島勝子、実は島岡造酒女)
  ・・・
第1王子:幟仁親王(1812年 – 1886年)
・・・
第4王子:西園寺公潔(1818年 – 1836年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E9%9F%B6%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒一切挿話が伝わっていなさそうなところから、韶仁親王は、凡庸な人物であったように思われる。
 ちなみに、妃である宣子女王の父親は閑院宮美仁親王だが、その妃は近衛内前の女子の近衛因子であり、宣子女王の実母は家女房だ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%BE%8E%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
が、宣子女王は、近衛因子の薫陶を受けていたと思われる。(太田)

 (六)有栖川宮幟仁親王(たかひと。1812~1886年)

 「・・・
 妃: 二条広子(二条斉信・徳川従子<(注19)>五女)

 (注19)「水戸藩主・徳川治紀の三女。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%93%E5%AD%90
 徳川治紀は斉昭の父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E8%84%A9

側室: 佐伯祐子
第1王子: 歓宮・熾仁親王(1835年 – 1895年)
  ・・・
側室: 山西千世
第1王女: 線宮・幟子女王(1835年 – 1856年)(徳川家慶養女、水戸藩主・徳川慶篤室)
  ・・・
側室: 森則子
第3王女: 糦宮・宜子女王(1851年 – 1895年)(彦根藩主のち伯爵・井伊直憲室)
第4王女: 穂宮・利子女王(1858年 – 1927年)(伏見宮貞愛親王妃)
第4王子: 稠宮・威仁親王(1862年 – 1913年)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%B9%9F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒今度は、二条家の女子が送り込まれたわけだ。
 また、斉昭の子で慶喜の同母兄の徳川慶篤に幟仁親王の女子が、やはり恐らくは近衛家の斡旋で送り込まれている。

 (七)有栖川宮熾仁親王(たるひと。1835~1895年)

 「生母の佐伯祐子は・・・京都若宮八幡宮宮司・佐々祐條の娘であった。実はこのとき、父である幟仁親王はまだ正室の二条廣子と結婚する前であり、熾仁親王は後の・・・1848年10月・・・に廣子と養子縁組を行っている。・・・近衛忠煕の加冠により元服<。>・・・
 ・・・<1858>年3月12日・・・、対外条約の勅許を求めて上洛した老中・堀田正睦に対し、これに反対する公卿・殿上人が猛抗議を加える事件(廷臣八十八卿列参事件)が起こったが、翌13日・・・には熾仁親王も単独で外交拒絶・条約批准不可の建白書を朝廷に提出した。この建白書の一件に加え、大叔母である幸子女王(織仁親王第二王女)が毛利斉房の正室であったことなどから、熾仁親王は明治新政府の成立に至るまで、公家社会において三条実美とならぶ長州系攘夷派の急先鋒として認識されていた。

⇒幕末まで、熾仁親王は、父の幟仁親王とほぼ常に行動を共にしており、単に、有栖川宮家が信奉していた秀吉流日蓮主義に突き動かされていただけだろう。(太田)

 熾仁親王は・・・1851年・・・、17歳の時に孝明天皇の妹・和宮親子内親王と婚約したが、・・・1860年・・・、大老・井伊直弼や関白・九条尚忠らの運動により、いわゆる公武合体策の一環として和宮は将軍・徳川家茂と結婚させることになった。同年8月22日・・・、九条尚忠が自ら有栖川宮邸に出向いて父・幟仁親王と面談・・・、翌23日には宮家から婚約の猶予願いが武家伝奏宛てに提出され、これが事実上の婚約辞退願いとして受理された。・・・
 禁門の変の2ヶ月前である<1864>年5月9日・・・、熾仁親王は父・幟仁親王とともに国事御用掛に任命されて朝政に参画し、親長州の立場から、松平容保や中川宮朝彦親王らの一会桑政権首脳部と対立した。しかしこのころ、長州藩を中心とする攘夷思想を嫌悪する孝明天皇は、熾仁親王の親長州的な言動に不快感と警戒心を示す内容の書翰を関白・二条斉敬や朝彦親王らに送っている。また、前述のとおり元来長州毛利家と縁戚で、自他ともに認める尊王攘夷論者だった熾仁親王は、有力な親長州派として一会桑政権から警戒されていた。
 禁門の変の発生前夜、熾仁親王は自邸に投げ込まれたとされる長州藩士の容保追討決起文を持参して幟仁親王と急遽参内し、一会桑政権首脳部や一会桑派の皇族・公家が不在のまま、中山忠能や正親町三条実愛らとともに宮中で周旋工作を図り、孝明天皇に松平容保の洛外追放を迫った。しかし、危険を察した孝明天皇が二条関白や朝彦親王、一橋慶喜などに参内を命じたことで形勢は一変する。孝明天皇の意を受けた慶喜の猛烈な抗弁や二条関白の松平容保追放拒否など、一会桑派の激しい抵抗にあう間に長州兵と御所守備諸藩兵との間で戦闘が始まり、長州藩兵討伐の勅命が下ったことから、長州の復権をもくろんだ熾仁親王らのクーデター計画は失敗に終わった。
 これら一連の動きにより、有栖川宮父子は長州軍敗退後ただちに一会桑政権から糾弾を受けた。家臣の一部は長州藩士と内通していた容疑で京都町奉行所に逮捕・拘留され、熾仁親王自身も二条関白や孝明天皇の怒りを買い、幟仁親王とともに国事御用掛を解任のうえ謹慎・蟄居を申し渡された。途中、朝彦親王や正親町三条実愛らが孝明天皇に幟仁・熾仁両親王の赦免嘆願を上奏したが、天皇はその勅勘を解かぬまま崩御した。

⇒身分の高い有栖川父子に、近衛忠煕らといえども、「指示」するわけにはいかなかったところ、この父子、忠煕らが目指している地点に向けて、忠煕らのように曲がりくねった道程を辿らず、まっすぐ歩いて到達しようとした、ということだろう。(太田)

 両親王が謹慎生活で外部との接触を絶たれている間、長州征討、薩長同盟の成立、将軍・徳川家茂の死去と一橋慶喜の徳川宗家相続と将軍襲職、孝明天皇の崩御など情勢は大きく変化した。
 <1867>年・・・1月に明治天皇が践祚すると、幟仁親王・熾仁親王父子は許されて謹慎を解かれた。当主である父・幟仁親王は謹慎解除後は政争を嫌い政治活動から距離をおいたが、明治天皇の信任や長州等からの人望が篤い熾仁親王は、王政復古のクーデター計画も西郷隆盛や品川弥二郎から事前に知らされる。このクーデターの成功により新政府が樹立され総裁・議定・参与の三職が新たに設けられると、熾仁親王はその最高職である総裁に就任する。
 明けて・・・1868年・・・、薩長の度重なる挑発に対し旧幕府軍はついに戦端を開き(鳥羽・伏見の戦い)、ここに戊辰戦争が勃発する。このとき、熾仁親王は自ら東征大総督の職を志願し、勅許を得た。西郷隆盛らに補佐され新政府軍は東海道を下って行くが、この道中の早い段階で、熾仁親王は恭順を条件に慶喜を助命する方針を内々に固めていた。3月6日、駿府城において東海道先鋒総督の橋本実梁や大総督府下参謀の西郷隆盛らを集めて、表向きには江戸城攻撃の日取りを3月15日と定める一方、同時に「秘事」として慶喜の謝罪方法や、江戸城の明け渡し、城内兵器の処分、幕臣の処断などの方法について方針を発表している。また翌7日と12日には、江戸から東征中止の要請と慶喜の助命嘆願のために訪れた輪王寺宮公現入道親王と会見し、公現入道親王に慶喜の恭順の意思を問うている。

⇒江戸無血開城に係る伝説と化している西郷や勝海舟の出番など、本当のところは、どこにもなかったわけだ。
 有栖川宮家の水戸徳川家との濃密ない縁戚関係から、幟仁親王は慶喜も秀吉流日蓮主義者だと(正しく)信じており、東征大総督に志願したのは、そもそも、慶喜を救うためだったのだろう。(太田)

 幸い、熾仁親王の進軍した東海道経路において、新政府軍は一度も旧幕府勢力の武力抵抗に遭遇することなく江戸に到達し、4月11日(新暦5月3日)江戸城は無血のうちに開城される(江戸開城)。この日、慶喜は死一等を免じられた代わりとして謹慎するため水戸へ発った。江戸到着後まもなく太政官制度が発足して三職は廃され、熾仁親王の総裁職は解かれた。

⇒秀吉流日蓮主義者たる近衛家や広義の薩摩藩士達にとって、直情径行の熾仁親王は、短期間政府首脳として処遇しただけでお引き取りを願ったということだろう。(太田)

 明治3年(1870年)、兵部卿に就任。

⇒一挙に引きずりおろすわけにいかないので、形の上だけ政府首脳に準ずる職につけたのだろう。(太田)

 明治4年(1871年)から福岡藩知事(後に福岡県知事・県令)を勤め、参謀役の河田景与とともに太政官札贋造事件の余波で混乱する福岡をよく治平した。

⇒5年も地方の「軽い」職に飛ばされていて、よくもまあ腐らなかったものだ。(太田)

 明治9年(1876年)に元老院議長に就任。明治10年(1877年)の西南戦争では鹿児島県逆徒征討総督に就任し、東征に際してともに新政府軍を指揮した西郷隆盛と、敵将として対峙する皮肉な立場に立った。西南戦争における功により、同年10月10日に隆盛に次いで史上2人目の陸軍大将に任命され・・・た。西南戦争のさなか、佐野常民や大給恒から「博愛社」(後の日本赤十字社)設立の建議を受けるが、官軍のみならず逆徒である薩摩軍をも救護するその精神を熾仁親王は嘉し、中央に諮ることなくこれを認可した。当時の熊本の宿舎であった熊本洋学校教師館ジェーンズ邸は、日本赤十字の発祥の記念地ともなっている。

⇒東征大総督の時同様、事実上、作戦面への口出しは一切禁じられていたに違いない。(太田)

 また自由民権運動にも興味を示し、河野敏鎌の案内で嚶鳴社の演説会を傍聴した。
 その後、熾仁親王は時の皇族の第一人者として明治天皇から絶大な信任を受けた。

⇒根っからの秀吉流日蓮主義者である熾仁親王に明治天皇が「絶大な信任を」寄せるはずがなかろう。(太田)

 明治15年(1882年)にはロシア帝国旧都モスクワで行われたアレクサンドル3世の即位式に天皇の名代として出席し、帰路には欧州諸国と<米>国を歴訪した。
 明治27年(1894年)に勃発した日清戦争において、熾仁親王は参謀総長として広島大本営に下るが、この地で腸チフス(当初はマラリアと診断された)を発症し、兵庫県明石郡垂水村舞子の有栖川宮舞子別邸・・・にて静養に入る。症状は一旦軽快したものの翌明治28年(1895年)に入って再び悪化し、池田謙斎やエルヴィン・フォン・ベルツらによる治療もむなしく・・・薨去。・・・

⇒戊辰戦争以降、明治天皇からも、秀吉流日蓮主義者達からも、全幅の信頼を寄せられることなく、お神輿と儀典役、としてだけの人生を送らされた、ということになろう。(太田)

 徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。・・・
 陸軍の軍人らしく、趣味は馬術と狩猟、そして刀剣のコレクションであった。また園芸を愛し、維新前はナデシコの栽培に、明治になってからはカーネーションなどの栽培にそれぞれ熱を傾けた。そのほか、陶芸・竹細工の製作も好んだ。当時の公家社会の基本的教養として書道・歌道もたしなんだが、家伝の有栖川流書道については和歌を詠むときに用いる程度で、額字などは有栖川流とは大きく異なる独自の書風で揮毫している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E7%86%BE%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒秀吉流日蓮主義者であったことに加え、教養も高かったことから、明治天皇よりもはるかに明治維新後の天皇に相応しい人物だったと言えよう。(太田)

 (八)有栖川宮威仁親王(たけひと。1862~1913年)

 「妃は加賀金沢藩主前田慶寧の娘・慰子(やすこ)。最後の有栖川宮であり、また最初に海軍に就職した皇族(皇族軍人)である。・・・
 1874年(明治7年)7月8日、参内した稠宮は明治天皇から海軍軍人を志すよう命じられ、同月13日、海軍兵学寮予科に入学した。・・・
 1879年(明治12年)、威仁親王は太政官より、<英>海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク(Iron Duke)」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事した。帰国後の1880年(明治13年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、日本海軍士官としての歩みを始める。10日後の12月11日、前田慰子と結婚。
 新婚間もない1881年(明治14年)1月、威仁親王は慰子を残してイギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の1883年(明治16年)6月に漸く帰国した。・・・
 海軍大佐として巡洋艦「高雄」艦長在任中の1891年(明治24年)、威仁親王はロシア帝国のニコライ皇太子(後のニコライ2世)来日の際、外国留学の経験を買われ明治天皇の名代として接待役を命じられた。このニコライ皇太子訪日の日程中、滋賀県大津市において大津事件が発生。外国の王皇族に日本の官憲が危害を加えるという日本外交史始まって以来の大事件となったが、威仁親王の要請により明治天皇自らがニコライを見舞うなど、日本側が誠実な対応をしたことによりロシアとの関係悪化は回避された。
 日清戦争中は海軍大佐であったが、開戦時は横須賀海兵団長、その後は大本営附と、いずれも陸上勤務の日々を過ごした。黄海海戦終了後の1894年(明治27年)12月8日、ようやく連合艦隊旗艦「松島」艦長として艦隊勤務についたが、翌1895年(明治28年)1月、熾仁親王の薨去とその葬儀のために一時帰国を余儀なくされた。その直後に起きた威海衛の戦いは、威仁親王が艦へ戻った時には既に終結しており、結局親王は実戦を経験することができなかった。・・・
 <兄である>熾仁親王の薨去により、威仁親王は有栖川宮の第10代の当主となった。熾仁親王同様明治天皇の信任が篤く、1899年(明治32年)から1903年(明治36年)まで、皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の教育係である東宮輔導に任命されている。一方で、これ以降海軍においては籍こそ現役として置いているものの、実際の軍務にはほとんど従事していない。
 日露戦争開戦時も海軍中将であったが、一時的に大本営附となったほかは戦争に全く関与しておらず、日本海海戦が行われた頃には、ドイツ帝国皇太子ヴィルヘルムの結婚式出席のためヨーロッパに滞在していた。・・・
 威仁親王は生来体が弱く、軍務も度々休職して静養するなどしていたが、・・・肺結核を患った。・・・
  <1913年>7月6日、大正天皇の第三皇子宣仁親王に「高松宮」の称号が与えられた。高松宮とは、有栖川宮の旧称である。・・・
 <そして、女子の>実枝子女王が徳川慶喜公爵の嫡男慶久に降嫁し・・・高松宮妃喜久子らの母<となっている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%A8%81%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒威仁親王が体が弱かったことは事実なのだろうが、兄の熾仁親王とはまた違った意味で、とりわけ明治天皇から、軍事上の手柄を立てないように仕組まれた生涯を送らされたように思う。(太田)

 (九)徳川實枝子(1891~1933年)

 「1904年(明治37年)5月13日、徳川慶喜公爵の嫡男・慶久との婚約が内定(内約)した。この縁談は伯父・有栖川宮熾仁親王の勧めで、慶喜公も賛成したことでまとまった。慶喜の母・吉子女王は有栖川宮織仁親王の娘であり、實枝子の父・威仁親王も織仁親王の曾孫であったので、慶久とは共通の祖先をもつ遠縁の関係であった。・・・
 学習院は早々に退学し、以後は宮邸で教育を受けた。中でも和歌は高崎正風に師事し、特に秀でていた。書は母の慰子妃から有栖川流を伝授され、週に3、4時間は書の練習に励んだ。・・・
 貞明皇后とは旧知の間柄であり、度々御所に呼ばれては話相手やお稽古の相手を務めたという。・・・
 近衛文麿 <とは>母方のいとこ同士<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AF%A6%E6%9E%9D%E5%AD%90

 (十)宣仁親王妃喜久子(1911~2004年)

 「実母の實枝子を結腸癌で亡くしたのを機に癌の撲滅に関わるようになる。1934年(昭和9年)には、財団法人「がん研究会」(癌研・がん研)にラジウムを寄付し、その後も癌研を支援した。1949年(昭和24年)からは日本赤十字社の名誉副総裁に推戴された。
 1968年(昭和43年)には、高松宮妃癌研究基金の設立に関与するなど、生涯を通して癌撲滅に関与した。・・・
 ハンセン病患者の救済運動にも関わり、1993年(平成5年)の高松宮記念ハンセン病資料館(後の国立ハンセン病資料館)の設立に尽力した。また、日仏会館の総裁として日仏交流にも尽くしたことが業績として挙げられる。・・・
 若き日に秩父宮妃勢津子らとともに変装して東京名物はとバスのツアーに紛れ込んだり、一人で車を運転中に制限速度超過で白バイに検挙されそうになり、宮内庁から苦言を呈されたという。結婚前は、べらんめえ口調のおしゃまなお姫様として有名であったらしく、生前の喜久子妃を知る者の多くが「粋な方であった」との印象を語っている。
かつては、香淳皇后、秩父宮妃と共に、皇太子明仁親王(当時)と正田美智子の結婚に対して“(旧)平民から(妃が来る)とはとんでもない話”と批判的な立場をとった。以来たびたび反感を示したとされるが、晩年には美智子の子である紀宮清子内親王らが、血の繋がりがないにもかかわらず孫のような存在だったという。・・・
 2001年(平成13年)12月の敬宮(愛子内親王)の誕生に際しては、もし男児が誕生しなければ、女性の天皇の皇位継承は日本の歴史から見て不自然ではないとする内容の手記を雑誌に寄稿している。・・・
 母の實枝子から書道の有栖川流を継承し、文仁親王や正仁親王妃華子に自ら手ほどきをした。・・・
 高松宮は後継となる子孫がいないため喜久子妃の薨去で廃絶。同宮家が祭祀を継いだ有栖川宮ともども、これで系統が途絶えることとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%96%9C%E4%B9%85%E5%AD%90
 (参考)夫の高松宮宣仁親王(1905~1987年)は、「1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。・・・1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業・・・、同年12月1日、海軍少尉に任官。
 1930年(昭和5年)2月4日、自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王や徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と婚儀。「公武合体」と話題を呼んだ。・・・
 1934年(昭和9年)11月10日、海軍大学校に入校(甲種学生34期)、1935年(昭和10年)11月15日、海軍少佐に進級。1936年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。・・・
 昭和天皇は高松宮に関し「政府当局の意見よりも周りの同年輩の者や出入りする者の意見に流されやすく、日独同盟締結以来戦争を謳歌していたが、東條内閣成立後は開戦に反対し、その後海軍の意見に従い、開戦後は悲観的で陸軍に対する反感を持っていた」と捉えて<いた。>・・・
 1951年(昭和26年)10月頃に高松宮は、野村吉三郎元大将を通じて旧海軍関係者に対して、『講和条約発効後、皇室保持と「再軍備精神を喚起する」ために昭和天皇は譲位し、新たな天皇が再軍備後の新「国軍」を指揮する』という命令を伝えていたとされる。・・・
 福祉の宮としても有名で、・・・「済生会」などの総裁を務め、社会活動にも貢献した。なお赤い羽根を渡すアメリカの慈善福祉の慣習を、赤い羽根共同募金として日本に導入したのは宣仁親王だとされる。これは、社会事業共同募金中央委員会の総裁として、鶏を屠殺する際にでる羽を、「赤心」(≒真心)に例え、赤く染めて募金のシンボルにすることを提案したことに由来する。・・・
 母・貞明皇后の活動を継ぎ、「ハンセン病の藤楓協会」の総裁を務め入園者の福祉の増進に尽力した。・・・
 <そして、>1947年には、皇族として初めてハンセン病患者を収容していた国立療養所(国立療養所栗生楽泉園)を訪問した。・・・
 また戦後は日米親善活動の一環で、「国際基督教大学」(ICU)の「設立準備委員会名誉総裁」を務めたりもした[注釈 3]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%AE%AE%E5%AE%A3%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒貞明皇后はもとよりだが、昭和天皇も、高松宮を相手にしていなかったことが見て取れる。
 「福祉の宮」としての側面は、貞明皇后や妻の喜久子から慫慂されたのでそう装っただけではなかろうか。
 そんなことよりも、赤い羽根にしても、ICUにしても、昭和天皇の「意見に流され」て、米国に媚びを売ったと言うべきか。
 とりわけ、正親町天皇があれだけ排斥しようとしたところの、キリスト教、を掲げるICUの設立に関わったことは、言語道断であり、そのことが、秋篠宮家の「転落」の原因を作ったと言ってもよいかもしれない。
 他方、喜久子は有栖川家最後の人にふさわしく、その慈善活動は、癌にハンセン病にせよ、まさに世界を相手にするものだった。

 天皇家の将来についても、平民との結婚は不可、女系天皇は可、と、私見では的確な意見を抱いていたと思う。(太田)


[閑院宮家の事績]

 (一)閑院宮美仁親王(1758~1818年)

 「父は典仁親王。生母は大中臣祐智の娘。・・・第119代光格天皇は異母弟。・・・
 歌道に造詣が深く、歌人の日野資矩などとも交流があった。・・・
 妃:近衞因子(文君)・・・関白近衛内前の娘・・・
 女房:随願院
  ・・・
  第一王子:孝仁親王(第四代閑院宮)
  ・・・
 女房:信楽院
  ・・・
  第五王女:嘉宮 宣子女王(有栖川宮韶仁親王妃)(1800-1866)
 生母不明
  第一王女:裕宮 貞子女王(田安家徳川斉匡室)(1787-1825)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E7%BE%8E%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

⇒弟の光格天皇やその大正天皇までの子孫達とは違って、近衛家や有栖川家との密接な関係が印象的だ。(太田)

 (二)閑院宮孝仁親王(1792~1824年)

 「父は美仁親王。御息所は関白鷹司政熙の娘、藤原吉子。
 妃:微妙覚院鷹司吉子(1787-1873)
  ・・・
  第二王子:基宮 愛仁親王(1818-1842)- 第五代閑院宮
  第三王子:健宮 教仁法親王(1819-1851)- 妙法院宮、天台座主
  第三王女:昌宮 佳子女王(1822-1906)- 田安家徳川慶頼室
 御息所の鷹司吉子は子の愛仁親王の薨去後、閑院宮家の当主格に遇された。」

⇒今度は、近衛家の分家の鷹司家との絆も深めている。(太田)

 (三)閑院宮愛仁親王(1818~1842年)

 「1840年・・・にはとこの孝明天皇と和宮親子内親王の異母姉にあたる仁孝天皇の第三皇女・敏宮淑子内親王と婚約するも、婚儀前に死去した。
 愛仁親王には嗣子がなかったため、愛仁親王没後は実母・鷹司吉子が当主格に遇された。その後、明治時代に入って、伏見宮邦家親王第16王子の載仁親王が継承した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E6%84%9B%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (四)鷹司(藤原)吉子(1787~1873年)

⇒その事績をネット上で全く見出すことができなかったが、なんたる歴史学者達、歴史愛好家達の怠慢であることか。(太田)

 (五)閑院宮載仁親王(1865~1945年)

 「3歳で出家し、真言宗醍醐派総本山三宝院門跡を相続する。1871年(明治4年)伏見宮に復籍のうえ、翌年前当主閑院宮・・・愛仁親王の没後、孝仁親王妃・<鷹司>吉子<(~1873年)>が当主格に遇されていた閑院宮家を継承する。

⇒生家も養子縁組先の家も、どちらも秀吉流日蓮主義信奉家だったのだから、戴仁親王は筋金入りの秀吉流日蓮主義者だったのに間違いない。(大東亜)

 1877年(明治10年)、京都から東京に移り陸軍幼年学校に入学。・・・1883年(明治16年)、幼年学校を卒業するやフランスへ留学。サン・シール陸軍士官学校、ソーミュール騎兵学校、フランスの陸軍大学校を卒業し軽騎兵第7連隊付を経て1891年(明治24年)に帰国。同年12月19日、三条実美の二女・智恵子と結婚。日清戦争では当初第一軍司令部付大尉として従軍、鴨緑江岸虎山付近の戦闘の際、伝令将校として弾雨を冒して馬を馳せ、その任務を達成し、「宮様の伝令使」のエピソードを残した。その後、騎兵第1連隊長、参謀本部に勤務の後、1901年(明治34年)に陸軍少将に進級し騎兵第2旅団長に就任。
 日露戦争では、1904年(明治37年)10月12日の本渓湖の戦いで旅団を敵の側背に進出の上、不意討ちの攻撃を実行し、ロシア軍を敗走させた。またこの時、親王のアイデアで機関銃に三脚架を付けて進軍するなど、機関銃を巧妙に活用したことも日本軍の勝利に大いに貢献したという。その後満州軍総司令部付きの武官として従軍し、戦後、陸軍中将に進級した。
 1912年(大正元年)に陸軍大将となり、1919年(大正8年)には元帥府に列した。1921年(大正10年)3月3日より同年9月3日まで、皇太子・裕仁親王の欧州外遊を補導すべく随行した。・・・
 1931年(昭和6年)[12月23日]に参謀総長に就任。・・・この参謀総長就任は、当時の陸軍大臣・荒木貞夫の思惑があったとされる。在任中は皇族という出自もあり、傀儡として政治的に利用されることも多かった。派閥争いの激しかった陸軍内部では、どの勢力も参謀総長宮を抱え込むことによる発言権の伸張を図った。しかしながら、当人は直属の参謀次長としてややもすれば独断で実務を切り回す皇道派の真崎甚三郎への反感が強く、いわゆる統制派に近い立場を取った。また陸軍士官学校の騎兵科出身であることから、宇垣系の南次郎、鈴木荘六、植田謙吉らとの繋がりもあった。荒木貞夫が陸相を辞任した際には真崎が後任候補に上がったが、林銑十郎を推して陸相に就け、真崎は教育総監に回った。さらに真崎が教育総監を追われた際にも、渡辺錠太郎を通じて強く林に働きかけていたとも言われた。渡辺が二・二六事件で凶弾に倒れたのは、載仁親王が皇族であり手出しが出来なかったため、身代わりとして襲撃されたのではないか、と松本清張は推測している。1936年(昭和11年)の二・二六事件発生時には、その対応の拙さから、かつて自らが教育した昭和天皇の叱責を受けた。このとき親王は70歳、天皇は35歳であった。
 1940年(昭和15年)には、米内内閣の陸軍大臣であった畑俊六に辞表を提出するよう指示し、米内内閣瓦解の原因を作った。同年10月3日参謀総長の地位を杉山元に譲って軍務から退き、議定官となる。なお、総長在任当時は皇族ということもあって実務にはあまり関与せず、参謀次長が総長の業務も行っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%91%E9%99%A2%E5%AE%AE%E8%BC%89%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E8%AC%80%E6%9C%AC%E9%83%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)

⇒杉山元は、陸軍次官であった1931年(昭和6年)の3月に三月事件を起こそうとするが失敗するも、9月18日の柳条湖事件を契機に満州事変を始め、10月には十月事件が露見する、という緊迫した情勢下で、元老の西園寺公望と貞明皇后に了解をとった上で、当時内大臣だった牧野伸顕から、昭和天皇に対し、金谷範三参謀総長を更迭し、閑院宮を後任とすることを進言させ、実現させた、と、私は見ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%85%83
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
 閑院宮は、恐らく、参謀総長就任前に、貞明皇后から直々に、杉山構想の概要を打ち明けられ、杉山を庇護し続けるように、杉山のやろうとすることを全面的にサポートするように依頼されたのではなかろうか。

 もちろん、彼は、直ちに了承したはずだ。 (太田)

 4 近衛家

  (1)近衛篤麿(1863~1904年)

 「明治六年七月には父忠房が三十五歳の若さで死去、九月篤麿は家督を相続する。父を失った篤麿にとって、祖父<忠煕>は父親のような存在であったという。
 この頃、篤麿が岩垣月洲<(注20)>から指導を受けていたことが注目される。

 (注20)1808~1873年。
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E5%9E%A3%E6%9C%88%E6%B4%B2-15560
 「幕末・明治の儒学者。京都生。名は亀。通称は六蔵、岡田南涯の子。岩垣東園に師事し、その歿後同塾を継ぐ。天保年間に習学所教授となるが病の為辞任、のち失明。著書に『科挙志略』『月洲遺稿』等がある。」
https://www.weblio.jp/content/%E5%B2%A9%E5%9E%A3%E6%9C%88%E6%B4%B2

 杉浦重剛、岩崎行親の師でもあった月洲には、アジアを侵略する<英国>に対して、日本が立ち上がり、<英国>討伐遠征軍を派遣するという筋書きの、SF風小説『西征快心篇』がある。
 山本茂樹氏は、この架空小説には、後の篤麿の興亜主義を髣髴とさせるものがあるとし、・・・山本茂樹<は、>・・・「第一に経済重視、第二に実学的思考、第三に単純に正義感を拠り所とするアジア主義、第四に冷徹な国際関係とその中での多角的な外交の重視、第五に国防の重要性」を月洲から学び取ったのではないか」と指摘する。」
http://tsubouchitakahiko.com/?p=4525 前掲

⇒いや、そうではなく、祖父忠煕が、その考えが自分に合致している月洲を篤麿の師につけた、ということだろう。(太田)

 「明治12年(1879年)に大学予備門に入学したが、病を得て退学を余儀なくされ、京都へ帰っていった。以後は和漢に加え英語を独学で勉強する。明治17年(1884年)、華族令の制定に伴い公爵に叙せられる。翌明治18年(1885年)に伊藤博文の勧めでドイツ・オーストリアの両国に留学し、ボン大学・ライプツィヒ大学に学んだ。
 <欧州>への船旅の途中、台湾海峡を通りかかった際に澎湖島のところどころにフランス国旗が立っているのを目撃した。清仏戦争に清が敗北して講和会議が始まろうとしている最中のことだった。篤麿はそれについて日記に「我が国何ぞこれを対岸の火災視して可ならんや。唇亡歯寒の喩、みるべきなり。」と書いており、次は日本の番だと白人帝国主義への恐怖の念を強く露わにしている。当時海外留学した者は西洋心酔主義者になるか逆に恐怖心から国粋主義者になる傾向があったが、篤麿は後者だった。

⇒間違い。近衛家は、いわば秀吉流日蓮主義の家元なのであり、父の忠房(1838~1873年)こそ早くに失っていたけれど、祖父の忠煕(1808~1898年)が存命だったのだから、篤麿は、この祖父のアジア観、欧米観を叩きこまれ、日本出発前から身に着けていたはずだ。(太田)

 明治23年(1890年)に帰国。同年に貴族院が発足し、公爵だったために無選挙でその議員となる。議長の伊藤博文伯爵の代わりに仮議長を務め、会期の大部分を彼が議長職を代行していた。・・・
 貴族院で色んな活動を行ったが、政党政治家にはならず党利党略的な活動はしなかった。白柳秀湖によれば武士階級がともすれば露骨な利己主義なのに対し公家階級出身の彼は国家的見地に立って進退<した>という。
 明治天皇は内命をもって侍従長を介し篤麿に意見があれば何事も随意に奏聞するよう命じていた。これは異例のことだったが、皇室と近衛家の特別な関係及び篤麿の卓越した見識を評価されたことによるものだった。
 明治24年(1891年)の大津事件でロシア皇太子ニコライが襲撃された際には貴族院を代表して皇太子を見舞った後、閣僚問責運動を起こしている。
 明治25年(1892年)に貴族院議長に就任し、病気退任する明治36年(1903年)まで務めている。明治28年(1895年)には学習院院長となり、華族の子弟の教育に力を注いだ。彼は政治活動が活発だったので多額の資金を要したが、収入は貴族院議長(公爵は貴族院議員としては無給)と学習院院長としての給料しかなかったので常に借金をしていた。
 第1次松方内閣の樺山資紀海軍大臣の「蛮勇演説」<(注21)>を廻って紛糾し空転した衆議院の解散総選挙では、品川弥二郎内務大臣が中心となって行った選挙干渉で民党側に死者25名・負傷者388名を出す惨事になり、篤麿はこれについて政府の姿勢を追及した。

 (注21)「1891年11月、第1次松方内閣が翌年の予算案を帝国議会へ提出したが、これは海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万円を含む前年度比約650万円増となっていた。この予算案に対し、民党は、前の第1次山縣内閣時からの主張「民力休養・政費節減」を継続した。そして海軍内の綱紀粛正がなされなければ予算は認められないなどとして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万を削減した予算改定案を出した。
 海軍要求を無視するこの改定案に樺山海相が激高、12月22日の衆議院本会議で、「薩長政府トカ何政府トカ言ッテモ、今日国ノ此安寧ヲ保チ、四千万ノ生霊ニ関係セズ、安全ヲ保ッタト云フコトハ、誰ノ功カデアル。」という演説を行い、薩長藩閥政府の正当性を主張するとともに民党の海軍・政府批判に反論した。
 民党の経費削減方針を真っ向から否定するこの演説の結果、民党側議員が猛反発してその場は大混乱となった。
 その後、民党の政府への反発が強まり衆議院で改定案を原案とする予算案が可決された。このため松方正義首相は12月25日に衆議院解散を初めて行うこととなった。
 初期議会における薩長政府と民党の対立を示す事件である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AE%E5%8B%87%E6%BC%94%E8%AA%AC

 さらに政党のことも猟官主義に走ればそれは単なる徒党にすぎないと批判した。
 松方正義内閣、大隈重信内閣、山縣有朋内閣、伊藤博文内閣などから入閣の誘いがあったが断っている。
 篤麿の外交政策は、<支那>(当時は清)を重視したものであった。特に日清戦争後に積極的に<支那>をめぐる国際問題に関わっていく。
 明治26年(1893年)に東邦協会の副会頭に就任。日清戦争後、西欧列強が<支那>分割の動きを激しくしていく中で危機感を抱く。明治31年(1898年)1月に雑誌『太陽』第4巻第1号に載せた論文「同人種同盟附支那問題の研究の必要」で「最後の運命は黄色人種と白色人種の競争にして此競争の下には支那人も日本人も共に白色人種の仇敵として認められる位地に立たむ」と日本と<支那>は同文同種と主張して同年に同文会を設立したが、同文会は、アジア主義の祖たる興亜会やアジア主義の巨頭である犬養毅の東亜会、さらに東邦協会と善隣協会の一部などを吸収して東亜同文会となり篤麿は同会の会長に就任する。かくて民間諸団体を糾合し国家主義、アジア主義大同団結運動を企み、康有為との会談ではアジア・モンロー主義を主張した。

⇒このあたりのことについては、下掲が詳しい。↓
http://tsubouchitakahiko.com/?p=4525 前掲 (太田)

 東亜同文会はアジア主義的色彩の強い立場に立脚し、<支那>・朝鮮の保護と日本の権益保護のため、外務省・軍部と密接に提携しながら、明治33年(1900年)に南京同文書院(後の東亜同文書院、その後身愛知大学)を設立するなど対中政治・文化活動の推進を図っていく。また、清朝内で強い権力を持つ地方長官の劉坤一(両江総督)や張之洞(湖広総督)などにも独自に接近、日清の連携をもちかけた。
 そうした中で同年6月、<支那>の華北や満州(現在の<支那>東北部)を中心に義和団の乱が勃発、これに乗じたロシアが満州を占領下に置いた。これに強い危機感を抱いた篤麿は伊藤博文ら政府高官にロシアに対して開戦を辞さない強硬な姿勢を取るよう持ちかけたが、対ロシア融和派の伊藤は応じず戦争回避に動いていたので篤麿は犬養・頭山満・陸羯南・中江兆民ら同志を糾合して9月に国民同盟会を結成して対ロシア主戦論を唱え、ロシアとの開戦に踏み切らない日本政府の批判を行った。
 さらに長岡護美<(注22)>に書簡を託し、満州を列国に開放することで領土の保全を図るよう、劉坤一や張之洞に働きかけた。

 (注22)もりよし(1842~1906年)。「肥後熊本藩主・細川斉護の六男。・・・1850年・・・、喜連川藩主・喜連川煕氏の養子とな<るも、>・・・1858年・・・、喜連川家を離籍し、実家の熊本に戻った。
 明治元年(1868年)3月、明治新政府の参与に就任する。同月、従五位下・左京亮、同年閏4月、従四位下・侍従に昇進する。明治3年(1870年)、熊本藩知事で兄の細川護久に重用されて、大参事に就任する。藩の諸式・諸法律の改変、藩士のリストラや俸禄の削減、領民に対しての免税や封建制度の撤廃など、当時としてはかなり進歩的な藩政改革を行なった。
 1872年(明治5年)から1879年(明治12年)まで、<米国>を経てケンブリッジ大学に留学する。帰国後、旧熊本藩細川家から分家し、華族に加えられる。1880年(明治13年)、外務省に入省してベルギーやオランダの公使、1882年(明治15年)、元老院議官に就任する。1884年(明治17年)・・・男爵。1890年(明治23年)7月10日から翌年10月16日、1897年(明治30年)7月10日から1906年(明治39年)4月の死去まで貴族院議員をつとめた。1890年10月20日、錦鶏間祗候となる。1891年(明治24年)4月23日には子爵に陞爵。1906年1月24日、麝香間祗候となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B2%A1%E8%AD%B7%E7%BE%8E

 張が特にこれに大きく触発され、劉とともにこの篤麿の案(根津一<(注23)>などがゴーストライターとして考えられるが)を清の中央に上奏し、採用を求めている。

 (注23)はじめ(1860~1927年)。「甲斐国山梨郡一町田中村(山梨市一町田中)の富家根津勝七の次男として生まれる。・・・
 西南戦争の際、下士官養成のための陸軍教導団に入る。従軍はしなかったものの、同団を首席で卒業する。
 次いで陸軍士官学校(陸士旧4期)砲兵科へ入学し、・・・盟友となる荒尾精と知り合い<支那>への志を強めている。・・・
 陸軍大学校では、1885年にドイツから招聘された教官メッケル少佐のドイツ軍至上の言動に日本陸軍蔑視を感じて反発し衝突、遂には諭旨退学処分を受けた。このことによって将来を嘱望された参謀としての栄達の道は閉ざされ、結局最終的に少佐で予備役に編入されることになった。この頃、根津は近代化を急ぐあまり技術教育偏重、人格形成を担う道徳的な教育を軽視する風潮を批判して『将徳論』『哲理論』2編を発表している。・・・
 盟友の荒尾が<支那>に渡り活動を始めたことから大陸行の希望を強めるも、その希望ははたせず、東京砲兵連隊・仙台砲兵連隊・参謀本部に勤務した。その一方で、一般人や陸軍幼年学校・陸軍士官学校有志学生に経書を講じ、また<支那>について論議をもつなど<した。>・・・
 荒尾精による上海の日清貿易研究所に予備役として参加することが許可され大陸に渡ると、同所資金調達のために不在が多かった荒尾に代って実質的な所長として同所の運営、教育活動にあった。この日清貿易研究所時代、根津は『清国通商綜覧』を編纂刊行している。これは先に荒尾精などによる<支那>実地調査を資料として編まれた<支那>についての百科事典であり、<支那>といえば古典のイメージが強く同時代の知識に乏しかった当時の日本において、生の<支那>を伝える高い価値を持つものであった。
 日清貿易研究所は資金難と日清戦争前夜の不穏な状況のもとに閉鎖を余儀なくされる。軍の復帰要請を断り、京都に隠棲し禅学に傾倒する生活に入ったものの、日清戦争開戦にあたって乞われ軍務に復帰する。根津は上海へ密航し諜報活動を行い開戦後に日本に帰還、その際、広島の大本営での御前会議に列席し「根津大尉の長奏上」と伝えられる情勢報告と作戦意見を奏上した。その後の日清戦争の実戦に従軍し功績を挙げた後軍籍を脱け、再び京都での生活に戻る。
 しかし、その能力への評価や中国通としての経歴から東亜同文会会長近衛篤麿の招請を受け、同会が上海に設立した東亜同文書院院長に就任し、同校の基礎から拡大発展に当たった。
 根津は東亜同文書院において、岸田吟香の流れを汲む荒尾の日清貿易研究所「貿易富国」(日中が友好的に経済的発展をすることによってアジアの平和秩序を築く)を実現する商業活動の即戦力養成としての性格、すなわちビジネス・スクールとしての教育方針を継承する一方、自身の特徴を同校教育の根幹に取り入れている。根津は入学式で次のように述べたという。
 「同文書院は単に学問を教えるだけの学校ではない。学問をやりたい者は大学にゆくべきだ。大学は学問の蘊奥を究めるところであるから、そこで学ぶのが正しい。諸子の中で学問で世に立ちたい者があれば、よろしく高等学校から大学に進むべきで、本日この席において退学を許す。志を中国にもち、根津に従って一個の人間たらんと欲する者は、この根津とともに上海にゆこう」・・・
 <こ>のように、根津は道徳教育を重視し、同校教育の根幹とした。また、院長在任中の20余年間にわたり担当した「倫理」で『大学』を講義するなど、とりわけ儒学に基く教育を志している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%B4%A5%E4%B8%80

⇒近衛篤麿についてさえ、ゴーストライターの存在が取りざたされてきたことを記憶に留めておいて欲しい。(太田)

 この時は却下されたものの、満州開放案はその後袁世凱も採用し、日露戦争後にはむしろ権益独占を図る日本に対する障害となった。また、明治36年には玄洋社の頭山と平岡浩太郎や黒龍会の内田良平も名を連ねる対露同志会を結成。貴族院議長を辞任、枢密顧問官に任命された。戸水寛人らの七博士意見書にも関与していた。
 小川平吉と頭山らが篤麿を首班にした内閣をつくろうとした中、明治37年(1904年)1月1日に42歳で死去した(満40歳没)。中国に渡航した際に感染した伝染病アクチノミコーゼ(放線菌症)が原因であった。・・・

⇒「明治三十五年秋、放線状菌に全身を侵され、手術を受けることになった。手術は全身麻酔を必要とするものであったが、彼は頑なに麻酔を拒み、「自分は昨今重大なる政治上の秘密を持つて居るから、万一麻酔の中に其の秘密を喋るといふやふなことがあつてはこれこそ由々しき大事である」と語ったという」
http://tsubouchitakahiko.com/?p=4525 前掲
が、これは、篤麿が、山縣有朋及び西園寺公望に対し、日本の国力が充実し、国際情勢が広義の欧米勢力間のほころびを付けるチャンスが生じ、つつあると判断された暁には、(対英米戦をフィナーレとする)秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂プログラムを前広に策定するものとし、同プログラムを策定する陸軍軍人を選ぶ、という考えを伝えており、そのことを口走ってしまうことを恐れたのだろう、と、私は想像を逞しくしている。(太田)

 篤麿の死後、わずか二か月後に彼の希望通り日露戦争が発生することになる。
 篤麿の死後、多額の借財があり、頭山や五百木良三ら国民同盟会のメンバーが債権者を退散させたこともある。・・・
先妻:衍(さわ、前田慶寧五女、1869年 – 1891年)
長男:文麿(ふみまろ、貴族院議長、内閣総理大臣、公爵)
継妻:貞(もと、前田慶寧六女、1871年 – 1945年)
長女:武子(たけこ、公爵大山柏夫人)
次男:秀麿(ひでまろ、音楽家、貴族院議員、子爵)
三男:直麿(なおまろ、雅楽演奏家・研究者)
四男:忠麿(ただまろ、水谷川家継嗣、春日大社宮司、貴族院議員、男爵)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%AF%A4%E9%BA%BF

⇒結果論だが、子供達の全般的な出来(後述)からしても、篤麿が、(秀吉流日蓮主義信奉家ではない)前田家から迎えた2人の妻の選択・・前田家を選択したこと、と、言い換えてもよいのかもしれない・・は成功した、とは言い難い。(太田)


[近衛篤麿と国柱会]

 「国柱会には、宮澤賢治や石原莞爾、近衛篤麿も出入り<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%BD%8C%E5%B9%B3
ということから、近衛篤麿は、国柱会も支援していたと見てよいだろう。
 (ところで、主導的なアジア主義団体(私見では、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達が中心となって設立したところの、民間や支那人・朝鮮人等向けのフロント)は、基本的に、大久保利通、次いで近衛篤麿、によって設立され指導された、と見てよかろう。↓

 「振亜社(1877年,大久保利通らによって結成,80年に興亜会と改名,同人には中村正直,曾根俊虎,宮崎誠一郎など),亜細亜協会(1883年結成,同人に長岡護美<(前出)>,鄭永寧ら),東亜同文会(1898年,東亜会と同文会を合併して近衛篤麿を会長に結成)」
https://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E4%BA%9C%E4%BC%9A-1312593

 なお、「1884年(明治17年)12月4日に勃発した甲申政変によるクーデターが失敗に終わると、<私見では、当時、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの教育研究センターであった、慶應義塾、の塾長であった>福澤が創立した『時事新報』は1885年(明治18年)3月16日号に<福澤執筆の>社説『脱亜論』を掲載した<ところ、>・・・これ以後の日本におけるアジア主義・・・は、元来の<(=篤麿の)>「清国との対等提携志向性・朝鮮対等志向性重視」のものと完全に反対のものになった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E4%BA%9C%E4%BC%9A
ことが、アジア主義団体の政治的志向の変化ももたらすことになる。)

 さて、金子彌平(1854~1924年)は、「近江系の有力商家で、南部藩から苗字帯刀を許されていた郷士に当たる・・・金子家<に生まれた>・・・人物である。
 明治維新後の1872年(明治5年)の春に単身上京して福澤諭吉の書生となり、翌年の1873年(明治6年)5月には慶應義塾に入る。卒業後は、郷党の先輩・東政図に触発され、清国北京公使館通弁見習として大陸に渡り、種々の活動を試みた。帰国後は、曾根俊虎や広部精らと支那語の学校を設立、慶應義塾支那語科の教員に就任するなど、支那語教育における先駆的役割を果たす。また、日本で最初のアジア主義団体とされる「興亜会」においては、創立時に幹事として参加し活躍する。加えて、支那研究者でもあった宣教師・S.W.ウィリアムズの大著“The Middle Kingdom”を抄訳し、『支那總説』の書名で刊行している。その一方、農商務省を経て大蔵省に奉職。語学力を買われて、1884年(明治17年)5月末から1年半ほど、米国に長期出張を命ぜられる。そこで大蔵省の実力者であった松方正義の知遇を得た。
 しかし、官僚生活に飽き足らなくなり、1888年(明治21年)11月に大蔵省を退職。その後、日清戦争が始まると、占領下の営口に赴き、同地の民生支部で会計課長などを歴任。三国干渉後は、新領土の台湾総督府に勤務し、参事官として総督の乃木希典を扶けた。1892年(明治25年)には品川弥二郎の知遇を得て外務省に入り、国民協会にも参画。1898年(明治31年)1月に台湾総督府を退職した後は、事業家に転身する。「金福洋行」という貿易会社を興し、鴨緑江の樹木事業や高粱酒製造を行うなど旺盛に事業を展開。日露戦争が始まると、安東市の市政準備委員長を委嘱された。遺された書簡からは、藤田伝三郎、久原房之助といった政財界関係者のみならず、救世軍の山室軍平や支那学者の内藤虎次郎(湖南)などを含んだ幅広い交流を窺い知ることが出来る。そればかりではなく、1907年(明治40年)頃からは、田中智學の日蓮主義運動に共鳴し、智學が「国柱会」を組織すると、初代の京都局長として力を尽くす。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E5%BD%8C%E5%B9%B3
という人物であるところ、彼が、近衛篤麿と国柱会、つまりは、田中智學、とを引き合わせたのだろう。
 ここで、改めて、田中智學(1861~1939年)についてだが、彼は、「多田玄龍・凛子の三男として江戸で生まれ、10歳で日蓮宗の宗門に入り智學と称した。1872年(明治5年)から田中姓を称している。その後、宗学に疑問を持って還俗し、宗門改革を目指して1880年(明治13年)に横浜で蓮華会を設立。4年後の1884年(明治17年)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、1914年(大正3年)には諸団体を統合して国柱会を結成した。日蓮主義運動を展開し、日本国体学を創始、推進し、高山樗牛・姉崎正治らの支持を得た。1923年(大正12年)11月3日、日蓮主義と国体主義による社会運動を行うことを目的として立憲養正會を創設し総裁となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%99%BA%E5%AD%B8
という人物であるところ、田中智學の有力シンパであった姉崎正治(1873~1949年)は、「父は桂宮家<(注24)>に仕える士族であ<って、> 少年期に仏教活動家平井金三の仏教系英学塾オリエンタルホールで英語を学ぶ。第三高等中学校を経て、1893年、東京帝国大学(現・東京大学)哲学科に入学。井上哲次郎、ケーベルについて学ぶ。1896年、同大学同学科を卒業した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%89%E5%B4%8E%E6%AD%A3%E6%B2%BB 
という人物であり、この柿崎とも近衛篤麿は接点があった可能性が高い。

 (注24)「桂宮淑子内親王<(かつらのみやすみこないしんのう。1829~1881年)は、>・・・仁孝天皇の第三皇女。・・・孝明天皇は異母弟、徳川家茂の正室・和宮親子内親王は異母妹にあたる。・・・
 1840年・・・1月28日、閑院宮愛仁親王と婚約。・・・1842年・・・9月15日、結婚を前に内親王宣下を被るが、その2日後に愛仁は薨去してしまう。
 異母弟の節仁親王が継承した桂宮は、節仁が・・・1836年・・・3月5日に亡くなったため当主不在となっていた。淑子は・・・1863年・・・12月23日に第12代として桂宮を継承した。女宮が世襲親王家を継承した唯一の例である。・・・1866年・・・4月22日には准三宮(准后)・一品に叙されて以後桂准后宮(かつら じゅごうのみや)と呼ばれ、同じ准三宮だった孝明天皇女御・九条夙子(英照皇太后)よりも宮中席次は上席だった。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%AE%AE%E6%B7%91%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

(2)近衛文麿(1891~1945年)

 「公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵・前田慶寧の五女・衍子の間の長男として、東京市麹町区(現:千代田区)で生まれた。その名は、長命であった曽祖父の忠煕による命名で、読みは「あやまろ」では語呂が悪いので「ふみまろ」とされた。文麿は皇別摂家の生まれであり、後陽成天皇の男系子孫にあたる。母の衍子は加賀前田家の出身であり、文麿が幼いときに病没、父の篤麿は衍子の異母妹・貞を後妻に迎えるが、文麿はこの叔母にあたる継母とはうまくいかなかった。貞が「文麿がいなければ私の産んだ息子の誰かが近衛家の後継者となれた」と公言していたのが理由とされる。一方の文麿は貞を長年実母と思っており、成人して事実を知った後の衝撃は大きく、以後「この世のことはすべて嘘だと思うようになった」。このことが文麿の人格形成に与えた影響は大きかった。1904年(明治37年)に父の篤麿は41歳で死去し、文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。

⇒根本的な問題は、祖父忠房はとっくの昔の1873年に亡くなっており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E6%88%BF
曽祖父の忠煕も1898年に亡くなっていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%BF%A0%E7%85%95
ことに加え、父篤麿も、文麿を始めとする子供達を秀吉流日蓮主義に染め上げる前に亡くなってしまったことだ。
 篤麿の弟、つまり、文麿の叔父に津軽英麿(1872~191年)がいたが、英麿は、1904年までの高校、大学時代を欧州で過ごし、また、1907年から1918年までは朝鮮半島在住であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E8%8B%B1%E9%BA%BF
彼と多感な時期に濃厚な交流を行うことができなかった。
 また、実母の前田慶寧五女にせよ、継母の前田慶寧六女にせよ、非秀吉流日蓮主義家の出身だ。(前者の記憶がそもそも文麿にはないわけだ。)
 更に、文麿の妻千代子(1896~1980年)とは、「文麿が電車の中で<彼女>に一目ぼれした・・・恋愛結婚で<、彼女は、>・・・子爵毛利高範の次女で、<その>母は子爵井伊直安の養女(井伊直咸の娘)・賢子」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E5%8D%83%E4%BB%A3%E5%AD%90
であり、彼女もまた、秀吉流日蓮主義とは無縁と来ている。
 篤麿としては、自分が死んでも自分を取り巻くアジア主義者達との交流(注25)を通じて文麿は自然に秀吉流日蓮主義者になると高をくくっていたのかもしれないが、感受性に乏しかったのだろう、文麿は、豈図らんや、ついに、同主義者になることなく、その生涯を終えた、と、私は見ている。(太田) 

 (注25)<父篤麿が多額の借金を残して亡くなった後の>世間の冷たさ」の中で、近衛家に情誼を寄せた人たちもいた。それは、頭山満、小川平吉ら、亡父の政治活動の「同志たち」であった。頭山満らは、近衛家にやってくる債権者から借用書を取り返した。また、日露戦争が日本の勝利に終ったとき、頭山は篤麿の霊前で生きた人に語るように戦勝を報告して、近衛家のこどもたちに強い印象を残している。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/23/0/23_0_181/_pdf/-char/en
 小川平吉(1870~1942年)は、「信濃国諏訪郡御射山神戸村(現・富士見町)出身。呉服商人・小川金蔵の三男。・・・帝国大学法科大学仏法科(現・東京大学法学部)へ進学、1892年(明治25年)卒業。・・・代言人(翌年弁護士法が施行され弁護士になる)とな<る。>・・・
 1900年(明治33年)、立憲政友会の結成に参加。・・・
 1903年(明治36年)3月の第8回衆議院議員総選挙に立候補して初当選。伊藤博文総裁と政見が合わず一時政友会を脱党する。・・・
 頭山満<は、小川が亡くなった折、「>・・・日露戦争が避けがたい情勢となった時大隈、伊藤、松方などでは腰が弱くていかんというので近衛公(文麿)の先代篤麿公を首班に征韓内閣を樹立しようと小川君らと骨を折ったものだ。不幸、篤麿公は早世されたために事成らなかったが、小川君はそのころから尊敬すべき国士だった…」と述べ<ている。>・・・
 小川は、日露戦争前の議会では主戦運動の先鋒となり、1905年(明治38年)9月には日露講和条約締結に「戦いに勝ちながら屈辱的講和をなすとは何事だ」と強い反対を唱えて日比谷焼討事件を引き起こす発端を作り、河野広中、大竹貫一らとともに逮捕されるが証拠不十分で無罪となった。
 1910年(明治43年)に政友会へ復党。1915年(大正4年)に政友会幹事長となる。
 1923年12月27日の虎の門事件(天皇暗殺未遂)の翌日に思想団体青天会を発起し、また北昤吉と共に『日本新聞』を主宰して国粋主義を提唱した。青天会と『日本新聞』は不離の関係で、双方の会員であった者は、井上哲次郎、五百木良三、阪東宣雄、花井卓蔵、蜷川新、本多熊太郎、頭山満、大木遠吉、大島健一、東条英機、若槻礼次郎、鎌田栄吉、原嘉道、永田鉄山、荒木貞夫、永田秀次郎、筧克彦、川島卓吉、上杉慎吉、近衛文麿、北里柴三郎、金杉英五郎、江木千之、平沼騏一郎、星野錫、長崎英造、鈴木梅四郎、若宮卯之助、綾川武治(国本社)、中谷武世、下位春吉等がいる。
 小川は日韓併合にも積極的に動き、第一次世界大戦後に左翼思想が盛んになると、これに対抗して治安維持法の制定を図った。・・・
 1925年(大正14年)第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)の司法大臣に就任。・・・
 1927年(昭和2年)田中義一内閣の鉄道大臣に就任。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E5%B9%B3%E5%90%89

 泰明尋常小学校を経て学習院中等科で学んだ。一学年上には後に「宮中革新派」となる木戸幸一や原田熊雄などがいる。当時華族の子弟は学習院高等科に進学するのが通例だったが、近衞は一高校長であった新渡戸稲造に感化され一高に進学した。1912年に卒業。続いて哲学者になろうと思い東京帝国大学哲学科に進んだが飽き足らず、マルクス経済学の造詣が深い経済学者で共産主義者であった河上肇や被差別部落出身の社会学者・米田庄太郎に学ぶため、京都帝国大学法科大学に転学した。
 河上との交流は1年間に及び、彼の自宅を頻繁に訪ね、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。・・・
 京都では木戸幸一、原田熊雄、織田信恒、赤松小寅などと友人になった。大卒者の初任給が50円程度であった当時に毎月150円の仕送りを受け取っていた。下鴨で一年間を過ごしたのち、・・・結婚し宗忠神社近くの呉服店別荘を借り移り住んだ。首相を辞職した西園寺公望が1913年(大正2年)に京都に移ると、清風荘を訪問し西園寺に面会した。近衛家と西園寺家は共に堂上家であるが縁が薄く、2人が顔を合わせたのはこれが初めてであった。60歳を越す元老の西園寺であったが、同じ堂上家でも格上の摂家の当主である学生の近衞を「閣下」と持ち上げ、近衞は馬鹿にされているのかと気を悪くしている。

⇒これは、文麿の受け止め方が正しいのであり、西園寺は、文麿の器量を見切り、彼が秀吉流日蓮主義者になっていないことに呆れ、今更教え込んでもつけ刃に終わるであろうことを見越しつつ、秀吉流日蓮主義は教えるが島津斉彬コンセンサス(及びそれに基づくところの、後の杉山構想的なもの)は、漏らされることを危惧して教えず、同コンセンサス完遂の過程でおだてて首相にでもして、対英米戦準備と国民総動員体制構築のための道具として使おうと思ったのだろう。(注26)(太田)

 (注26)「海軍大将・井上成美<の文麿評:>・・・あんな、軍人にしたら、大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思った。言うことがあっちにいったりこっちにいったり、味のよくわからない五目飯のような政治家だった。
 近衛という人は、ちょっとやってみて、いけなくなれば、すぐ自分はすねて引っ込んでしまう。相手と相手を噛み合せておいて、自分の責任を回避する。三国同盟の問題でも、対米開戦の問題でも、海軍にNOと言わせさえすれば、自分は楽で、責めはすべて海軍に押し付けられると考えていた。開戦の責任問題で、人が常に挙げるのは東条の名であり、むろんそれには違いはないが、順を追うてこれを見て行けば、其処に到る種を播いたのは、みな近衛公であった。・・・
     <ハーバート・>ノーマン<の文麿を尋問した際の評:>・・・淫蕩なくせに陰気くさく、人民を恐れ軽蔑さえしながら世間からやんやの喝采を浴びることをむやみに欲しがる近衛は、病的に自己中心的で虚栄心が強い。彼が一貫して仕えてきた大義は己自身の野心にほかならない」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF
 ハーバート・ノーマン(Edgerton Herbert Norman。1909~1957年)は、「在日カナダ人宣教師のダニエル・ノーマンの子として現在の長野県軽井沢町で生まれる。父ダニエル(1864年 – 1941年)は1897年に来日し、1902年から長野市に住み、廃娼運動、禁酒運動に尽くした・・・。その後カナダのトロントに移り、父と同じトロント大学ビクトリア・カレッジに入学、この頃より社会主義への傾倒を始める。
 1933年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学。歴史学を研究し1935年に卒業。このころは左翼系の学生活動にのめりこみ、共産主義系の数々の学生組織で活動する。その後ハーバード大学に入学し、軽井沢の教会を通じて両親同士が知り合いだったエドウィン・ライシャワーのもとで日本史を研究しつつ、学友で「社会主義者」を自称した都留重人などと親交を結ぶ他、学友を社会主義活動へ勧誘し続けた。英MI5(情報局保安部)がノーマンを共産主義者と断定。
 1939年に同大学を卒業し、カナダ外務省に入省、1940年には東京の公使館へ語学官として赴任。公務の傍ら、東京帝国大学明治新聞雑誌文庫(宮武外骨が創設)を頻繁に訪ね、近代日本史の研究を深めるとともに、羽仁五郎に師事して明治維新史を学ぶ。また、丸山真男らとも親交を深める・・・。しかし1941年12月に日本とカナダ間で開戦したために、日本政府によって軟禁状態に置かれ、翌年日米間で運航された交換船で帰国。太平洋問題調査会などで活動した。
 第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)9月、<米国>からの要請によりカナダ外務省からGHQに対敵諜報部調査分析課長として出向し、同年9月27日からの昭和天皇とマッカーサーのGHQ側通訳を担当した。マルクス主義の憲法学者鈴木安蔵らに助言して憲法草案要綱作成を促すほか、GHQ指令で釈放された共産党政治犯の志賀義雄や徳田球一らから反占領軍情報を聞き出すなどした。また、政財界・言論界から20万人以上を公職追放した民政局次長のチャールズ・L・ケーディスの右腕として協力したほか、戦犯容疑者調査を担当し、近衛文麿と木戸幸一をA級戦犯に指名し、起訴するための「戦争責任に関する覚書」を提出した。連合国軍占領下の日本の「民主化計画」に携わるかたわら、学者としても、安藤昌益の思想の再評価につとめ、渡辺一夫・中野好夫・桑原武夫・加藤周一らと親密に交流した。・・・1947年には東大の研究生であった三笠宮の英語の家庭教師となり、常磐松町の宮内庁分室で講義を行った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

⇒井上成美の限界を指摘したことがある(コラム#省略)が、彼の近衛評は、実際に近衛と接した経験と彼の海軍軍人等との交流を踏まえたものであって、正鵠を射ているのではないか。
 (もとより、そんな近衛だからこそ、杉山らが近衛を活用したというところまで、井上が思い至らなかったところにも井上の限界が露呈しているが・・。)
 また、ノーマンのマルクス主義シンパ性については、当時の世界中の学者の多くがそうだったので気にする必要はない一方、GHQで日本の旧指導層の摘発に協力していたことに基づくバイアスが心配されるが、他方でノーマンは傑出した歴史学者でもあり、彼の著書を2冊読んでいる私に言わせれば、丸山眞男よりは学者としてまともであり、彼の近衛評もまた傾聴すべきだろう。(太田)

 1916年(大正5年)10月11日、満25歳に達したことにより公爵として世襲である貴族院議員になる。
 1918年(大正7年)に、雑誌『日本及日本人』で論文「英米本位の平和主義を排す」<(注27)>を発表した。

 (注27)「1918年、第1次大戦が終結した。近衞27歳の時である。第1次大戦の結果、露、墺、独の3大帝国は崩壊し、世界各地において民族主義運動が高まった。しかし、大戦の終結は、英、米による世界秩序再編成の始まりでもあった。当時既に貴族院議員の職にあった近衞は、「英米本位の平和主義を排す」を雑誌『日本及び日本人』に発表、この英米による世界秩序の再編成を人種主義と強者(英米)の現権利の保護を糊塗した偽平和主義であると批判、「世界各国民平等生存権の確立」「黄白人の差別的待遇の撤廃」を説いた。
 この論文は、多くのアジア人知識人の共感を得た。そのなかの1人が孫文である。彼はは上海の英字誌『ミラード・レヴィユー』に英訳掲載された近衞論文を読み、翌19年近衛を上海フランス租界の寓居にまねき、「晩餐の饗」を催した。この時、近衞はパリ講和会議日本全権西園寺公望の随員として、渡仏の途上にあった。」
https://www.kazankai.org/info/kazan_konoe_h.html

⇒当時は、「東京帝大の場合、入学資格者は「旧制高校高等科及び旧制の学習院高等科(当時は官立)卒業者、及びそれと同等以上の学力のある者」とされていた。・・・
 予科を置く大学では予科修了者に、予科を置かない大学の文系学部では旧制高校「文科」卒業者に、理工医学系学部では旧制高校「理科」卒業者に、それぞれ入学に係る“優先順位第1位”を付与していた。
 “優先順位第1位”の志願者数が当該大学(学部)の定員を超えた場合、その「第1位志願者」のみについて入試が実施された。
 他方、第1位志願者数が定員を満たさなかった場合は、第1位志願者全員が“無試験合格”となり、欠員補充は「優先順位第2位以下」の志願者に振り向けられた。
 欠員補充に旧制高校以外の出身者があてられたことから、それらの入学者は“傍系入学者”と呼ばれた。
 たとえ帝大であっても、第1位志願者数が少なく定員に欠員を生じた場合、第1位志願者は“無試験合格”が許可されていた。
 例えば、東京帝大や京都帝大の場合、文学部では学科によって第1位志願者数が定員を満たさない年度もあり、無試験入学者もいたようだ。他の帝大でも理系や医学、法学等は第1位志願者数が多く厳しかったが、無試験同様の学部(学科)もみられた。」
https://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201104viewpoint/
 「・・・学習院の・・・生徒・学生集団<の中心は、>・・・華族ということで集っている人達の集りなのですから、その学業成績の分布のカーブの裾野が長いわけです。驚くほど成績のよいものもいるけれど,極端に低いものも出てくる訳です。」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihondaigakukyouikugakkai/23/0/23_KJ00009738928/_pdf/-char/ja
といったことだけでそれ以上は調べなかったが、学習院には士族や平民の子弟も入学したが、彼らとは違って華族の子弟は無試験で入学できたと想像され、近衛は、華族の子弟の中でもそれほど優秀な方ではなく、元々東大法志望だったけれど、彼の成績では入試を突破する見込みがなかったので、無試験で東大文に入り、そこから京大法に学士入学するルートがあったので、京大法に入る、という計画を取り巻きに勧められ、それに従った、といったところではないか。
 当然、卒業するのも大変だったろうが、いずれにせよ、高文を受験し合格できるような学業成績では全くなかったからこそ、裏口から内務省にお邪魔した(コラム#省略)、ということだろう。
 そんな近衛だったのだとすれば、あの有名な「英米本位の平和主義を排す」は、ゴーストライターが書いたものである可能性が高い。
 それこそ、必ずしも直接の見返りを求めることなく無償で書いてくれる、アジア主義者の優秀な取り巻きがいくらでもいたはずだ。(太田)

 1919年(大正8年)のパリ講和会議<(注28)>では全権・西園寺公望に随行するも、自らも提案に加わった人種的差別撤廃提案が否決されたことで白人への強い恨みを抱くようになったとされる。・・・

 (注28)「パリ講和会議は、第1次世界大戦後、ドイツとの講和条約を議定するため、1919年(大正8年)1月から同年6月まで開催されました。日英同盟の誼(よしみ)に従いドイツに対して宣戦していた日本は同会議に首席全権の西園寺公望をはじめ、牧野伸顕、珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使、後に追加)を全権とし、総勢約60名からなる全権団を送りました。
 この全権団に随行した日本人のなかには、後に日本外交の中核を担うこととなる人材も含まれていました。そうした人々としては、近衛文麿、吉田茂、芦田均、松岡洋右らが挙げられます。」
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000075547

⇒パリ講和会議に、西園寺は本家鷹司家の総本家の近衛家の当主を随行し、大久保利通の子の牧野は女婿の吉田(注29)を随行したところ、前者は、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者もどきだったけれど、ついに西園寺/牧野から杉山構想を教えられないまま、西園寺の指名で三度・・事実上は二度・・にわたって杉山元の傀儡として首相を務め日本を対米英開戦寸前まで持って行かせられ、後者は、真正なる秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったけれど、やはり西園寺/牧野から杉山構想を教えられなかったからこそ、戦後、戦後日本の基調を構築することとなる首相を牧野の指名で務めさせられる運びになった、というわけだ。

 (注29)「牧野伸顕の長女・・・雪子<が>・・・1909年(明治42年)、・・・領事官補時代の・・・吉田茂と見合いし結婚。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E9%9B%AA%E5%AD%90

 なお、そもそも全権の一人に牧野が入ったのは、西園寺の指名だろう。
 会議ではお客さん扱いだった日本代表団はヒマだったはず・・現にそれを予想してか「決定が遅れたことと、西園寺のために船室を改装する必要があった<ということもあり>、西園寺が出発したのは牧野伸顕や珍田捨巳といった他の全権が出発してから<何と>1ヶ月後」だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
が、パリで過ごした数カ月の間に、(恐らくは、山縣有朋の指示を踏まえて、)西園寺と牧野の間で、帝国陸軍から一人総責任者を選んで島津斉彬コンセンサス完遂計画を樹立させ、その者の手で帝国陸軍を中心に同計画を実施させる計画を詰めた、と想像している。(太田)

 [1922年、近衞は若干30歳で貴族院議長に就任、日本の将来を担う青年政治家として朝野の期待を背負うことになった。また、同年2月には東亜同文会副会長にも就任、同文会内部においてもその重みを増していく(26[大正15、昭和1]年には東亜同文書院院長にも就任)。
https://www.kazankai.org/info/kazan_konoe_h.html 前掲]

 1927年(昭和2年)には旧態依然とした所属会派の研究会から離脱して木戸幸一、徳川家達らとともに火曜会を結成して貴族院内に政治的な地盤を作り、次第に西園寺から離れて院内革新勢力の中心人物となっていった。
 また五摂家筆頭という家柄に加えて、一高から二つの帝大に入った高学歴や、180cmを超す当時では高い身の丈で貴公子然とした端正な風貌と、対英米協調外交に反対する既成政治打破的な主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから将来の首相候補に擬せられた。

⇒風貌についてはノーコメントだが、既成政治打破的な主張は借り物、高身長だけはホントだが高学歴はウソってことだ。(太田)

 1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
 <同じ年>に・・・近衞を中心とした政策研究団体として後藤隆之助らにより昭和研究会が創設された。この研究会には暉峻義等、三木清、平貞蔵、笠信太郎、東畑精一、矢部貞治、また企画院事件で逮捕される稲葉秀三、勝間田清一、正木千冬、和田耕作らが参加している。後にゾルゲ事件において絞首刑に処せられる尾崎秀実もメンバーの一人であった。

⇒「昭和研究会<は、>・・・東亜協同体論や新体制運動促進などを会の主張として掲げ、後の近衛による「東亜新秩序」・「大政翼賛会」に大きな影響を与えることとなる。同時に平沼騏一郎など国粋主義を掲げる政治家・官僚・右翼から「アカ」として批判・攻撃されるようになり、経済政策も財界から反対にあう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A
わけだが、立ち入らない。
 なお、「大政翼賛会<では、>・・・大政翼賛会議会局をつくり、そこに解党した各党の議員らを全部押し込めるかたちになったので、議員らの不満がつのり、翼賛会の予算審議で議員らの不満が爆発した。たとえば、小泉純也は後藤隆之介が皇軍を批判し、共産軍に同調しているとして非難した。」(上掲)というのは興味深い。
 帝国陸軍・・杉山元と言うべきだが・・が人民解放軍と同調していることはバレちゃっていた、というわけだ。(太田)

 1934年(昭和9年)5月に横浜を発って<米国>を訪問し、大統領フランクリン・ルーズベルトおよび国務長官コーデル・ハルと会見した。帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語っている。

⇒そう語った本人自身が、米国について「まったく無知だ」ったからこそ、対米英戦争を回避したいと主観的には願いつつも客観的にはそれが不可避なところまで日本を追いやってくれたわけだ。
 なお、このようなローズベルトら評を公式の場で述べたことだけとっても、近衛の政治家としての無能さは歴然としている。(太田)

 1936年(昭和11年)3月4日、宮内省で西園寺公望と会談した際、二・二六事件後に辞職した岡田啓介の後継として西園寺から推薦され大命降下もあったが、表向きは健康問題を理由に辞退した。真因は、近衞が親近感をもっていた皇道派が陸軍内において粛清されることに不安と不満があったからである。<枢密院議長の>一木喜徳郎が広田弘毅を推薦すると西園寺はすぐに賛成し、近衞を介して吉田茂に広田の説得を任せ、3月5日に広田に組閣の大命が下ったが、吉田ら自由主義者を外務大臣にする広田の組閣案に対して寺内寿一大将などの陸軍首脳部の干渉があり、粛軍と引き替えに大幅に軍に譲歩した形で3月9日に広田内閣が成立した。

⇒近衛に首相になる気があるかどうかを見極めるための西園寺の動きであり、気はあることが分かったけれど引き下がり、近衛とは違ってまともな秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったのでより適格だが、近衛のような名家の出ではないので対世論的には難があって、総合的には近衛よりオツるものの止む無く廣田を首相に指名した、というところだろう。
 なお、吉田茂は、牧野伸顕が義父だったこともあり、(2人とも秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者だったけれど、牧野同様、)親英米リベラルである、と、陸軍内の杉山構想埒外の人々から誤解されていた、ということか。(太田)

 [1936年12月、近衞は東亜同文会会長に就任する<(注30)>。翌37年1月1日、就任早々の近衞東亜同文会会長は、「我が政治外交の指標」を『大阪朝日新聞』に発表、混迷化の度を深めつつあった日中問題の解決と将来に向けての日中提携を説いた。この「近衛文麿 我が政治外交の指標」は、<支那>側マスコミからも高い評価を得た。たとえば『天津益世報』は、「近衛文麿議長は、現下日本に於て真に声望あり、地位高き政治家にして、その言論は日本朝野に至大なる影響を与ふるものあるに鑑み、吾人は公の言論が日本の対支政策上に一日も速に具現せんことを衷心より冀望して止まない」と、暗に近衞宰相出現への期待を表明している。
https://www.kazankai.org/info/kazan_konoe_h.html 前掲]

 (注30)それまで、牧野伸顕が会長、近衛が副会長だった。
http://edu.aichi-u.ac.jp/toa/info01/20071003ORC%E7%A0%94%E7%A9%B6%E4%BC%9A%E7%9F%B3%E7%94%B0%E5%B9%B4%E8%A1%A8.pdf
 牧野は第4代会長、近衛は第5代(最終)会長。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%90%8C%E6%96%87%E4%BC%9A

⇒「我が政治外交の指標」もどうせゴーストライターの所産だろう。
 当時一緒に活動していた、外務、宮内官僚上がりの子爵の岡部長景(1884~1970年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E9%95%B7%E6%99%AF
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001728563-00
https://jpsearch.go.jp/rdf/sparql/easy/?describe=https://jpsearch.go.jp/data/dignl-1222245
あたりが怪しい。(太田)

 対中国政策が行き詰まった広田内閣は、1937年(昭和12年)1月の腹切り問答を機に総辞職した。 宇垣一成内閣は陸軍の反対で組閣流産し、首相となった林銑十郎も5月31日に在職わずか3ヶ月で辞任した。

⇒宇垣の指名や、林の首相就任は、近衛を引っ張り出すまでの、西園寺/牧野による時間稼ぎといったところか。(太田)

 元老・西園寺公望の推薦により近衞は再び大命降下を受け、6月4日に第1次近衛内閣を組織した。首相就任時の年齢は45歳7ヶ月で、初代首相・伊藤博文に次ぐ史上2番目の若さである。軍部大臣には杉山元(陸軍)と米内光政(海軍)が留任し、外務大臣は広田弘毅、さらに民政党と政友会からも大臣を迎えた。昭和研究会からは有馬頼寧が農林大臣に、風見章が内閣書記官長に加わった。陸海軍からの受けも悪くなく、財界、政界からは支持を受け、国民の間の期待度は非常に高かった。<(注31)>

 (注31)「一般の人気は湧く様であった。五摂家の筆頭である青年貴族の近衛が、総理大臣になったということが、何かしら新鮮な感じを国民に与えたのだ。……近衛があの弱々しい感じの口調でラジオの放送などすると、政治に無関心な各家庭の女子供まで、「近衛さんが演説する」といって、大騒ぎしてラジオにスイッチを入れるという有様だった(矢部貞治編著『近衛文麿 上巻』)。」
https://gendai.ismedia.jp/articles/premium01print/44642

就任直後には、「国内各論の融和を図る」ことを大義名分として、治安維持法違反の共産党員や二・二六事件の逮捕・服役者を大赦しようと主張して、周囲を驚愕させた。この大赦論は、荒木貞夫が陸相時代に提唱していたもので、かれ独特の国体論に基づくものであったが、二・二六事件以降は皇道派将校の救済の意味も持つようになり、真崎甚三郎の救済にも熱心だった近衞は、首相就任前からこれに共感を示していた。しかし、西園寺公望は、荒木が唱え出した頃からこの論には反対であり、結局、大赦はならなかった。
7月7日に盧溝橋事件をきっかけに日中戦争(支那事変)が勃発した。

⇒近衛はつんぼ桟敷に置かれていたわけだが、杉山構想に基づき、帝国陸軍が端緒を作り、それを拡大していったわけだ。(太田)

 7月9日に不拡大方針を閣議で確認した。杉山元は支那駐屯軍司令官・香月清司に対し「盧溝橋事件ニ就テハ、極力不拡大方針ノ下ニ現地解決ヲ計ラレタシ」との命令を与え、今井武夫らの奔走により7月11日に現地の松井太久郎大佐(北平特務機関長)と秦徳純(第二十九軍副軍長)との間で停戦協定が締結された。しかし近衞は蔣介石が4個師団を新たに派遣しているとの報を受け、同11日午後に総理官邸に東京朝日新聞主幹や読売新聞編集局長ら報道陣の代表と、立憲民政党総裁、貴族院議長、日銀総裁ら政財界の代表者らを招き、内地三個師団を派兵する「北支派兵声明」を発表する。派兵決定とその公表は進行中の現地における停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした。秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている。

⇒近衛の発意によるというよりは、杉山らの掌の上で、彼らの思い通りに近衛が動かされていた、ということなのだ。(太田)

 その後の特別議会で近衞は「事件不拡大」を唱え続けた。しかし7月17日には1,000万円余の予備費支出を閣議決定。7月26日には、陸軍が要求していないにもかかわらず、9,700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定し、7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加するなど、不拡大とは反対の方向に指導した。陸軍参謀本部作戦部長の石原莞爾は風見章を通じて、日中首脳会談を近衞に提案したが、広田弘毅が熱意を示さず、最後のところで決断できなかった。この状況を憂慮した石原は7月18日に杉山元に意見具申し、「このまま日中戦争に突入すれば、その結果はあたかもスペイン戦争でのナポレオン同様、底無し沼にはまることになる。この際、思いきって北支にある日本軍全体を一挙に山海関の満支国境まで引き下げる。近衛首相が自ら南京に飛び蔣介石と膝詰めで談判する」という提案をした。同席した陸軍次官・梅津美治郎は、「そうしたいが、近衛首相の自信は確かめてあるのか」と聞き、杉山も「近衛首相にはその気迫はあるまい」と述べた。実際、風見によれば、近衞は陸軍が和平で一本化するかどうか自信がなく、せっかくの首脳会談構想を断念したと言われている。当初、近衞は首脳会談に大変乗り気になり、南京行きを決意して飛行機まで手配したが、直前になり心変わりし蔣介石との首脳会談を取り消した。石原は激怒し「二千年にも及ぶ皇恩を辱うして、この危機に優柔不断では、日本を滅ぼす者は近衛である」と叫んだ。
 8月2日には増税案を発表。この間に宋子文を通じて和平工作を行い、近衞と蔣介石との間で合意が成立した。国民政府側から特使を南京に送って欲しいとの電報が届くと、近衞は杉山元に確認を取り、宮崎龍介を特使として上海に派遣することを決定した。ところが海軍を通じてこの電報を傍受した陸軍内の強硬派がこれを好感せず、憲兵を動かして宮崎を神戸港で拘束し東京へ送還してしまう。このため折角の和平工作は立ち消えとなってしまった。
 この件に関して杉山は関係者を一切処分しなかったばかりか、事情聴取すら行わず、結果的に事後了解を与えた形になっていた。杉山本人も当初は明解な釈明が能わない有様で、以後近衞は杉山に強い不信感を抱くようになる。

⇒杉山元が、全てを取り仕切っていたことが分かるはずだ。
 石原莞爾の指摘は全て正しいが、そんなことは杉山らには自明のことだった、ということを強調しておこう。(太田)

 8月8日には日支間の防共協定を目的とする要綱を取り決めた。8月9日に上海で大山事件が発生し日中両軍による戦闘が開始された。8月13日に、近衞は二個師団追加派遣を閣議決定。8月15日に海軍は南京に対する渡洋爆撃を実行し、同時に、近衞は「今や断乎たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表。8月17日には不拡大方針を放棄すると閣議決定した。
 第2次上海事変が全面戦争へと発展したことを受け、9月2日に「北支事変」を「支那事変」と変更する閣議決定がなされた。9月10日には、臨時軍事費特別会計法が公布され、不拡大派の石原莞爾が失脚した。

⇒石原は、杉山によって、杉山構想を明かされないまま使い倒され、用済みになったのでお払い箱になったということだ。(太田)

 また、国内では、10月に国民精神総動員中央連盟を設立。内閣資源局と企画庁が合体した企画院を誕生させ、計画経済体制の確立に向けて動き出した。11月には、1936年(昭和11年)に日本とドイツの間で締結された日独防共協定にイタリアを加えた日独伊防共協定を締結。その後に大本営を設置する。12月5日付の夕刊では、国民の一致団結を謳った「全国民に告ぐ」という宣言文<(注32)>を出させている。これは、近衞の意を受けて秋山定輔がまとめたもので、資金は風見章が出している。

 (注32)侯爵一条実孝、頭山満、海軍大将山本輔三、の連名による挙国一致政党団結の檄文。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/23/0/23_0_134/_pdf/-char/ja

 こうして、近衞は日本の全体主義体制確立へと突き進む。そんな中、12月13日に南京攻略により、日中戦争は第1段階を終える。
 翌1938年(昭和13年)1月11日には、御前会議で陸軍参謀本部の主導により「支那事変処理根本方針」が決定された。これはドイツの仲介による講和(トラウトマン工作)を求める方針だった。しかし、近衞は1月14日に和平交渉の打ち切りを閣議決定し、1月16日に「爾後國民政府ヲ對手トセズ」の声明(第一次近衛声明)を国内外に発表し、講和の機会を閉ざした。5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。その後、日本軍は広東と武漢三鎮を占領している。

⇒「新聞やラジオの報道によって戦勝気分が高まった民意は、無賠償・非併合による戦争の終結をめざす近衛の和平工作の妨げとなった」
https://president.jp/articles/-/36251
とされているが、近衛にラジオ演説をやらせることにしたのも杉山らだし、その結果、世論が「暴走」してくれたことも彼らの期待通りだったはずだ。(太田)

 この間、国内では2月17日には防共護国団の約600名が立憲民政党と立憲政友会の本部を襲撃しているが(政党本部推参事件)、これに先立ち中溝多摩吉は政党本部襲撃計画案を近衞に見せ、近衞はこれに若干の修正を加えている。さらに近衞は、支那事変のためとして、4月に国家総動員法や電力国家管理法を公布、5月5日に施行し、経済の戦時体制を導入、日本の国家社会主義化が開始された。なお、国家総動員法や電力国家管理法は、ソ連の第一次五カ年計画の模倣である。ちなみに3年後の1941年(昭和16年)に制定された国民学校令は、ナチス率いる当時のドイツのフォルクスシューレを模倣した教育制度である。また戦争継続の戦費調達のために大量の赤字国債である「支那事変公債」が発行され、国債の強制割当が行われた。

⇒これらは総動員体制構築のためのものであり、当然のことながら、杉山らの「指示」を受けて行われたわけだ。(太田)

 この頃に近衞は、陸軍参謀総長・閑院宮載仁親王らに根回しをすることで杉山元の更迭を成功させた。

⇒杉山元は第29代の陸相だったが、第24代の荒木貞夫を最後に、陸相を2年務めた者は出ておらず、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E5%A4%A7%E8%87%A3
かつ、杉山は、日支戦争を講和が事実上不可能なところまで拡大することに成功したので、暫時休養することにした、というだけのことだろう。
 近衛がそんな大それたことを行う能力や意思を備えた人物ではないことは既にお分かりだろう。(太田)

 後任の陸相には小畑敏四郎を考えたが、摩擦が生じることを懸念。そこで不拡大派の支持があった板垣征四郎を迎えることを決意し、板垣への使者として民間人の古野伊之助を派遣、古野は爆弾輸送のトラックに乗り山東省の最前線に乗り込んだ。この時期の内閣改造で主に入閣したのは、陸軍の非主流派や不拡大派の石原莞爾らが、以前閣僚への起用を考えていた人々であった。この人事により軍部を抑える考えがあったものとされるが、板垣は結局「傀儡」となり失敗した。

⇒杉山のそれまでの言動を見れば、杉山元の盟友であったことは明らかであり、このような記述は噴飯物で、当然、杉山が後任を決めたのだ。(太田)

 近衞は広田弘毅に代えて宇垣一成を外相に迎えたものの、宇垣の和平工作(宇垣工作)を十分に助けようとしなかった。宇垣はこれに不満を覚え、また近衞が興亜院を設置しようとしたこともあり、9月に辞任した。

⇒杉山が奈落の底に落とした宇垣に若干の罪滅ぼしをして彼を外相に就けたけれど、近衛を通じて、何もできないようにしていた、ということだろう。(太田)

 8月には、麻生久を書記長とする社会大衆党を中心として、「大日本党」の結成を目指したが、時期尚早とみて中止した。これは、大政翼賛会へと至る挙国一致のための第一歩である。
 11月3日に「東亜新秩序」声明(第二次近衛声明)を発表。12月22日には日本からの和平工作に応じた汪兆銘の重慶脱出を受けて、対中国和平における3つの方針(善隣友好、共同防共、経済提携)を示した第三次近衛声明(近衛三原則)を発表した。しかし、汪に呼応する中国の有力政治家はなく、重慶の国民党本部は汪の和平要請を拒否、逆に汪の職務と党籍を剥奪し、近衞の狙った中国和平派による早期停戦は阻まれることになった。

⇒杉山らからすれば、中国国民党の分裂、弱体化に一定の成功を収めたことになるわけだ。(太田)

 1939年(昭和14年)1月5日に内閣総辞職する。
 [その、3ヶ月後、近衞東亜同文会会長は、同文書院の新入学生招見式において、「支那に本当の友人を有つといふことはこれは何人も務めなければならんことであるけれども、政治家とか軍人とかいふやうな人々は従来のいろいろな行懸りもあつて是等の人にさういふことを求めること仲々困難であつて、それには諸君のやうな純真な過去に何等の行懸りもない青年の諸君が進んで身を挺して支那人の間に入込んで、さうしてその中から真の友人を見出すといふことが何よりも近道であ」ると述べ、さらに「今日迄は日本の朝野を問はず兎角この支那に対する正しい認識といふものが欠けて居つた。政治家も軍人も必ずしも正確なる支那の認識を有つて居つたとは云へないと思う」と続けている。将来の日中の架け橋となる青年たちを前にしての、近衞の偽らざる心情であった。
https://www.kazankai.org/info/kazan_konoe_h.html ]

⇒杉山らは、中国国民党(蒋介石)を敵、中国共産党(毛沢東)を味方と見極め、前者を撲滅し後者に支那を熨斗を付けて渡す・・最終的に米国も意識せずして同じことを試みることになる・・目標に向けて着々と歩を進めていたところ、これは、「支那に対する正しい認識といふものが欠けて居つた」近衛が吐いた世迷言といったところか。(太田)

 近衞の後を承けたのは前枢密院議長の平沼騏一郎だったが、平沼内閣には近衞内閣から司法兼逓・文部・内務・外務・商工兼拓務・海軍・陸軍の七大臣が留任した上、枢密院に転じた近衞自身も班列としてこれに名を連ねた。

⇒平沼も東大法(但し、その前身の帝大法)首席卒業の官僚(司法官僚)上がりのダメ人間で、「『昭和天皇独白録』で昭和天皇に厳しく批判され「結局、二股かけた人物というべきである」と酷評されている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E9%A8%8F%E4%B8%80%E9%83%8E
ところ、ここでは深堀りしないことにするが、平沼は「元老西園寺公望に嫌われており、・・・私は皇室神聖を説いたので、迷信家だとか、頑迷だとか西園寺から言はれた」(昭和18年2月23日)<と語ったり、>・・・戦後、A級戦犯として収監された巣鴨プリズン内での重光葵との会話の中で、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と語った<りした>ことがある」(上掲)ところ、そんな西園寺が平沼を首相に指名したのは、まだ賞味期限が来ていなかった近衛が対支政策等で消耗し切っていたので休養させる必要があった一方で、次回再び首相に指名した時に遺漏なきを期すためには日本政府の動きをフォローさせておく必要があり、平沼(だけ?)が平沼内閣を近衛内閣の近衛付居抜き内閣にすることを飲んだからではなかろうか。
 なお、戦後、平沼が、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。」と語ったのは、それだけとれば、その通りなのであり、ここからも、いかに、1940年に亡くなった西園寺の昭和戦前期における存在感が大きかったかが分かろうというものだ。(太田)

 しかし同時に、末次信正・有馬頼寧・風見章らのような近衛内閣の熱烈な制度改革論者は、平沼の閣僚名簿からは除かれていた。8月23日に独ソ不可侵条約が締結されると、1937年に締結した日独伊防共協定をさらに進めた防共を目的としたドイツとの同盟を模索していた平沼は衝撃を受け、「欧州の天地は複雑怪奇」という声明を残して内閣総辞職した。

⇒「1939年・・・5月24日にネヴィル・チェンバレン首相が「近くソ連と完全な合意に達しえる可能性がある」と演説を行った。危機感を持ったヒトラーは、方針を転換してリッベントロップ<等>にソ連との交渉を行うよう命令した。リッベントロップはこの際に日本とイタリアの駐独大使に同盟交渉について内報しているが、日本大使大島浩は激しく反対し、この情報を東京に打電することも拒否した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E3%82%BD%E4%B8%8D%E5%8F%AF%E4%BE%B5%E6%9D%A1%E7%B4%84
とされているが、この情報を出身の陸軍には伝達しているはずであり、陸相の板垣征四郎は、杉山元と相談の上、平沼にはこの情報を上げなかったことが、平沼のみっともない声明を伴っての内閣総辞職をもたらしたのだろう。
 その背景として、対英米開戦まではまだ少し時間があるので、それまでの間、近衛には閣外で、(世論と政府を媒介するところの)対英米戦を支える政治基盤構築をやらせた方がよい、との杉山の方針転換があったのではなかろうか。(太田)

 その一週間後にはドイツがポーランドに侵攻、これを受けて<英国>やフランスがドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦が始まる。平沼の後は陸軍出身の阿部信行と海軍出身の米内光政がそれぞれ短期間政権を担当した。
 この間の近衞は新党構想の肉付けに専念した。1940年(昭和15年)3月25日には聖戦貫徹議員連盟が結成され、5月26日には近衞が木戸幸一や有馬頼寧と共に、「新党樹立に関する覚書」を作成した。再度、ソ連共産党やナチス党をモデルにした独裁政党の結成を目指した。6月24日に「新体制声明」を発表している。これに応じて、7月に日本革新党・社会大衆党・政友会久原派、ついで政友会鳩山派・民政党永井派、8月に民政党が解散する。
 欧州でドイツが破竹の進撃を続ける中、国内でも「バスに乗り遅れるな」という機運が高まっていた。これを憂慮した昭和天皇や内大臣・湯浅倉平が「海軍の良識派」として知られる米内光政を特に推して組閣させたという経緯があったのだが、陸軍がそれを好感する道理がなかった。半年も経たない頃から、陸軍は政府に日独伊三国同盟の締結を執拗に要求。米内がこれを拒否すると、陸軍は陸軍大臣の畑俊六を辞任させて後任を出さず、内閣は総辞職した。

⇒米内を含め、海軍には、杉山らは、一切、杉山構想を教えなかったので、時々、荒っぽい海軍対策をとる必要があったわけだ。(太田)

 替わって大命が降下したのは、近衞だった。この際、「最後の元老」であった西園寺公望は近衞を首班として推薦することを断っている。

⇒西園寺が杉山らと相談して近衛を再度首相に就けたのであって、そんなことは、これで自分の役割も終わったという気持ちも込めた一種のポーズだったに違いない。(太田)

 新党構想などの準備を着々と整え、満を持しての再登板に臨むことになった近衞は、閣僚名簿奉呈直前の7月19日、荻窪の私邸・荻外荘でいわゆる「荻窪会談」を行い、入閣することになっていた松岡洋右(外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(陸相)と「東亜新秩序」の建設邁進で合意している。
 1940年(昭和15年)7月22日に、第2次近衛内閣を組織した。7月26日に「基本国策要綱」を閣議決定し、「皇道の大精神に則りまづ日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」(松岡外相の談話)構想を発表。新体制運動を展開し、全政党を自主的に解散させ、8月15日の民政党の解散をもって、日本に政党が存在しなくなり、「大正デモクラシー」などを経て日本に根付くと思われていた議会制政治は死を迎えた。

⇒もともと、日本には政党分立の条件がない(コラム#省略)のだから、そんなことで「議会制政治<が>死を迎える」はずがないのだ。
 実際、対英米戦の最中にも議会での審議は活発に行われたし、総選挙も実施されている。(典拠省略)(太田)

 しかし、一党独裁は日本の国体に相容れないとする「幕府批判論」もあって、会は政治運動の中核体という曖昧な地位に留まり、独裁政党の結成には至らず、10月12日に大政翼賛会の発足式で「綱領も宣言も不要」と新体制運動を投げ出した。

⇒そうではなく、日本では、いかなる政党であれ、「綱領も宣言も不要」なのであって、これは換言すれば、政党が本来成立する余地がない国だ、ということなのだ。(太田)

 また、新体制運動の核の一つであった経済新体制確立要綱が財界から反発を受け、近衛が当初商工大臣に据えようとした革新官僚の商工次官・岸信介は辞退したために代わりに任じた小林一三は経済新体制要綱の推進者である岸と対立、小林は岸を「アカ」と批判した。内務大臣となった平沼騏一郎は経済新体制確立要綱を骨抜きにさせて決着を図り、平沼らはさらに経済新体制確立要綱の原案作成者たちを共産主義者として逮捕させ、岸信介も辞職した。この間、新体制推進派は閣僚を辞職し、平沼は大政翼賛会を公事結社と規定し、大政翼賛会の新体制推進派を辞職させた。

⇒このあたりは、どうでもよろしい。(太田)

 9月23日に北部仏印進駐。9月27日に日独伊三国軍事同盟を締結。第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。
 11月10日には神武天皇の即位から2600年目に当たるとして紀元二千六百年記念式典を執り行って国威を発揚した。
 1941年(昭和16年)1月11日、任期満了に伴う4月の衆議院選挙を1年延期し、対米戦決意を明らかにし、国防国家建設に全力を挙げる態勢をとることで、近衛首相と風見章と有馬頼寧の意見が一致した。さらに近衛首相らは、1月20日、声明を発して対米戦気運を醸成するとともに大政翼賛会にて対米戦に備える国民運動を組織化することを決定したが、声明自体は取り止めになった。
 1941年(昭和16年)4月13日に日ソ中立条約を締結。近衞らは日米諒解案による交渉を目指すも、この内容が三国同盟を骨抜きにする点に松岡洋右は反発し、松岡による修正案が<米国>に送られたが、<米国>は修正案を黙殺した。
 6月22日に独ソ戦が勃発、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んでいた日本は、独ソ戦争にどう対応するか、御前会議にかける新たな国策が直ちに求められた。陸軍は独ソ戦争を、仮想敵国ソビエトに対し軍事行動をとる千載一遇のチャンスととらえた。一方海軍も、この機に資源が豊富な南方へ進出しようと考えた。大本営政府連絡会議では松岡洋右は三国同盟に基づいてソ連への挟撃を訴えた。
 7月2日の御前会議で「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定された。この国策の骨格は海軍が主張した南方進出と、松岡と陸軍が主張した対ソ戦の準備という二正面での作戦展開にあった。この決定を受けてソビエトに対しては7月7日いわゆる関東軍特種演習を発動し、演習名目で兵力を動員し、独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。一方南方に対して南部仏印への進駐を決定した。

⇒杉山らは、対英米戦初期において、ソ連を完全に抑止する目的で、ソ連を威嚇する大演習を実施するつもりではいたけれど、対ソ開戦をしてしまうと、対英米戦(フィリピンを含む東南アジア「解放」戦)が不可能になるので、そんな気は全くなかったはずだ。(太田)

 7月18日に内閣総辞職した。足枷でしかなかった松岡洋右を更迭するためであった(大日本帝国憲法では内閣総理大臣が閣僚を罷免できる権限が無かったため)。
 1941年(昭和16年)7月18日に、第3次近衛内閣を組織。外相には、南進論者の海軍大将・豊田貞次郎を任命した。7月23日にすでにドイツに降伏していたフランスのヴィシー政権からインドシナの権益を移管され、それを受けて7月28日に南部仏印進駐を実行し、7月30日にサイゴンへ入城。しかしこれに対する<米国>の対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本は窮地に立たされることとなった。

⇒石油資源等確保のための南進の名目が予定通りたって、杉山らはにんまりしたはずだ。(太田)

 9月6日の御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定。<英米>に対する最低限の要求内容を定め、交渉期限を10月上旬に区切り、この時までに要求が受け入れられない場合、アジアに植民地を持つ<英米蘭>に対する開戦方針が定められた。
 御前会議の終わった9月6日の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決を決意し駐日<米国>大使ジョセフ・グルーと極秘のうちに会談し、危機打開のため日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。事態を重く見たグルーは、その夜、直ちに首脳会談の早期実現を要請する電報を本国に打ち、国務省では日米首脳会談の検討が直ちに始まった。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本を封じ込めるべきだと考え、10月2日、<米>国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。 この日米首脳会談の計画を察知した辻政信は、当時自分の嘱託であった児玉誉士夫に近衛文麿が<米国>に行くなら横浜から船だろう、そうすると六郷橋を列車で通るから、それを橋もろともに吹き飛ばせと暗殺を<指示>されたと証言している。前述通り首脳会談は実現しなかったので計画は流れた。

⇒この時爆殺されていた方が近衛にとってはよかったとさえ言えるくらい、いかんせん、(杉山らのヨミ通り、)米国は「協力」してくれなかったわけだ。(太田)

 陸軍は<米国>の回答をもって日米交渉も事実上終わりと判断し、参謀本部は政府に対し、外交期限を10月15日とするよう要求した。外交期限の迫った10月12日、戦争の決断を迫られた近衞は外相・豊田貞次郎、海相・及川古志郎、陸相・東條英機、企画院総裁・鈴木貞一を荻外荘に呼び、対米戦争への対応を協議した。いわゆる「荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ、10月16日に政権を投げ出し、10月18日に内閣総辞職した。近衞と東條は、東久邇宮稔彦王を次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族に累が及ぶことを懸念する内大臣・木戸幸一らの運動で実現せず、東條が次期首相となった。
 近衞は東條を首相に推薦した重臣会議を病気を理由に欠席しているが、当時91歳の清浦奎吾が出席していたのと対比されて後世の近衞批判の一因となった。ただ、近衞の娘婿で秘書官を務めていた細川護貞は「当時の近衞は痔に悩んでおり、昭和16年の10月頃は椅子にも深く座れず腰を少しだけ乗せていたほど症状がひどかった」と保阪正康のインタビューに語っており、近衞の健康状態悪化が政権投げ出しや重臣会議欠席につながったのは事実の可能性がある(保阪著『続昭和の怪物七つの謎』講談社、2019年)。

⇒笑止。(太田)

 いわゆるゾルゲ事件に連座していた内閣嘱託の尾崎秀実と西園寺公一が10月14日に検挙され、近衛が内閣総辞職した10月18日には、リヒャルト・ゾルゲ、マックス・クラウゼン、ブランコ・ド・ヴーケリッチなど外国人メンバーが一斉に逮捕された。

⇒西園寺公一は公望の孫でもあり、またその公一は、対汪兆銘工作に関与したこともあり、戦後、中共でも活躍したことも併せ、別途、機会があったら取り上げてみたい。(太田)

 なお当然ながら、近衛の内閣嘱託への2名の任命責任と、近衛のゾルゲ事件への情報流出の関与も疑われたが、この日の総辞職とその後の英米開戦で事実上の不問となった。
 1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開始後は、共に軍部から危険視されていた元外務次官・駐英大使の吉田茂と接近するようになる。1942年(昭和17年)の<英>領シンガポール占領とミッドウェー海戦の大敗を好期と見た吉田は、近衞を中立国のスイスに派遣し、英米との交渉を行うことを持ちかけ、近衞も乗り気になったため、この案を木戸幸一に伝えるが、木戸が握り潰してしまった。近衞に注意すべきとの東條の意向に従ったものとされる。

⇒(東條ももちろんそうだが、)木戸は、杉山らグループの一員であり、東條の意向など関係なく、自身の判断で握りつぶしたはずだ。(太田)

 戦局が不利になり始めた1943年(昭和18年)、近衞が和平運動に傾いていることを察した東條は、腹心の陸軍軍務局長・佐藤賢了を通じて「最近、公爵はよからぬことにかかわっているようですが、御身の安全のために、そのようなことはおやめになったほうがよろしい」と脅しをかけた。このことがそれまで優柔不断で弱気だった近衞を激怒豹変させた。以後、近衞は和平運動グループの中心人物になる。近衞は吉田茂らの民間人グループ、岡田啓介らの重臣グループの両方の和平運動グループをまとめる役割を果たし、また陸軍内で反主流派に転落していた皇道派とも反東條で一致し提携するなど、積極的な行動を展開した。

⇒いやなに、今度は、吉田茂らに傀儡として使われたというだけのことだろう。(太田)

 1944年(昭和19年)7月9日のサイパン島陥落に伴い、東條内閣に対する退陣要求が強まったが、近衞は「このまま東條に政権を担当させておく方が良い。戦局は、誰に代わっても好転する事は無いのだから、最後まで全責任を負わせる様にしたら良い」と述べ、敗戦を見越した上で、天皇に戦争責任が及びにくくするように考えていた。

⇒東條だって天皇が任命したのであり、近衛の頭の中はどうなっているのか、と言いたくなる。(太田)

 1945年(昭和20年)1月25日に京都の近衛家陽明文庫において岡田啓介、米内光政、仁和寺の門跡・岡本慈航と会談し、敗戦後の天皇退位の可能性が話し合われた。もし退位が避け難い場合は、天皇を落飾させ仁和寺門跡とする計画が定められた。ただし、米内の手記にはこの様な話し合いをしたという記述はない。
 戦局がさらに厳しさを増し、天皇が重臣たちから意見を聴取する機会を設けられることになった。平沼騏一郎、広田弘毅、近衞文麿、若槻禮次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機の7人が2月に天皇に拝謁してそれぞれ意見を上奏した。近衞は1945年(昭和20年)2月14日に、昭和天皇に対して「近衛上奏文」を奏上した。近衞が天皇に拝謁したのは3年4ヶ月前の内閣総辞職後初めてであった。この上奏文は、国体護持のための早期和平を主張するとともに和平推進を天皇に対し徹底して説いている。また陸軍は主流派である統制派を中心に共産主義革命を目指しており、日本の戦争突入や戦局悪化は、ソビエトなど国際共産主義勢力と結託した陸軍による、日本共産化の陰謀であるとする反共主義に基づく陰謀論も主張している。近衛上奏文の作文には吉田茂と殖田俊吉が関与しており、両者はこの近衛上奏からまもなくして、陸軍憲兵隊に逮捕拘束された。昭和天皇は和平推進については理解を示したが、陸軍内部の粛清に関しては「もう一度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しいと思う」と述べ却下している。近衞の主張した陸軍の粛清人事とは、真崎甚三郎、山下奉文、小畑敏四郎ら皇道派を陸軍の要職に就け、継戦を強く主張している陸軍主流派を排除する計画であるが、皇道派を嫌悪していた天皇には到底受け入れ難いものであった。

⇒この近衛上奏文については、前述したところだ。(太田)

 6月22日、昭和天皇は内大臣の木戸幸一などから提案のあった「ソ連を仲介とした和平交渉」を行う事を政府に認め、7月7日に「思い切って特使を派遣した方が良いのではないか」と首相・鈴木貫太郎に述べた。これを受けて、外相・東郷茂徳は近衞に特使就任を依頼し、7月12日に正式に近衞は天皇から特使に任命された。この際、近衞は「ご命令とあれば身命を賭していたします」と返答した。しかし、近衞自身は和平の仲介は<英国>が最適だと考えていたとされ、側近だった細川護貞は「近衛さんは嫌がっていましたね。まあしかし、これはしようがないんだ。陛下がいわれたんだから、まあモスクワへ行くといったのだけどもと言って、すこぶる嫌がっていましたね」と戦後に述べている。だが近衞のモスクワ派遣は、2月に行われたヤルタ会談で対日参戦を決めていたスターリンに事実上拒否された。近衞が和平派の陸軍中将・酒井鎬次の草案をベースに作成した交渉案では、国体護持のみを最低の条件とし、全ての海外の領土と琉球諸島・小笠原諸島・北千島を放棄、「やむを得なければ」海外の軍隊の若干を当分現地に残留させることに同意し、また賠償として労働力を提供することに同意する事になっていた。ソ連との仲介による交渉成立が失敗した場合にはただちに米英との直接交渉を開始する方針であった。

⇒日本による大英帝国瓦解を既に予感させられていて、日本に対して恨み骨髄の英国が仲介などするわけがないのはもちろんのこと、ソ連だって仲介するはずがないことは、杉山らにとっては自明だったけれど、杉山構想すら明かしてもらっていなかった近衛が、しかも無能だったときているのだから、目も当てられない、と言うべきか。(太田)

 1945年(昭和20年)8月15日に日本軍は無条件降伏し(日本の降伏)、第二次世界大戦の停戦が発効し(終結は同年9月2日)、鈴木貫太郎内閣は総辞職して東久邇宮稔彦王が後任の内閣総理大臣(史上唯一の皇族首相)となった。近衞は東久邇宮内閣に副総理格の無任所国務大臣として入閣し、緒方竹虎と共に組閣作業にあたった。<英国>や<米国>を中心とした連合国による日本占領が開始された後の10月4日、近衞は連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーを訪問し、持論の軍部右翼赤化論と共に開戦時において天皇を中心とした封建勢力や財閥がブレーキの役割を果たしていたと主張し、ドイツのような社会民主主義者や自由党が育たない間に、皇室と財閥を除けば日本はたちまち共産化すると説いた。これに対しマッカーサーは「有益かつ参考になった」と頷いた。さらに近衞が「政府組織および議会の構成につき、御意見なり、御指示があれば承りたい」と尋ねると、マッカーサーは自由主義的な憲法改正の必要性と自由主義的分子の糾合を指示し、近衞を世界に通暁するコスモポリタンと称賛して「敢然として指導の陣頭に立たれよ」と激励した。8月18日国務大臣の近衛文麿は警視総監を呼んで、国体護持のため慰安所設置の指揮を要請した。この要請から警視庁は東京料理飲食業組合に命じた結果マッカーサー元帥の執務室間近の400室からの互楽荘で国家による<米>軍将兵への性的慰安所が運用開始した。

⇒女衒、文麿の面目躍如だ。(太田)

 その後治安維持法の廃止を巡って10月5日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となった。
 近衞は10月8日にGHQ政治顧問ジョージ・アチソンを訪問し、マッカーサーから言われた帝国憲法改正について意見を求めたところ、アチソンは十項目にわたる改憲原則を示した。これを受け近衞は天皇から内大臣府御用掛に任じられ、東大の高木八尺と京大の佐々木惣一の助言を受けながら熱心に帝国憲法改正作業を進めた。
 10月23日の朝日新聞は、天皇退位の条項を付け加えるため皇室典範の改正が近く行われるだろうとの近衞の話を伝えた。首相・幣原喜重郎はこれに抗議し、翌24日に近衞は軌道修正する会見を行っている。

⇒マッカーサー以下、GHQにおちょくられているとの自覚が皆無で、しかも、昭和天皇退位などというGHQが全く考えていないことをやろうとするなど、近衛はとてつもないKYだったわけだ。(太田)

 近衞は憲法改正作業をマッカーサーから委嘱されたことにより、新時代の政治的地位を得ることができたと考えていた。また池田成彬に対して「あなたは戦犯になるおそれがある」と語るなど、戦犯裁判にかけられるとはみていなかった。しかし国内外の新聞では徐々に支那事変、三国同盟、大東亜戦争に関する近衞の戦争責任問題が追及され始める。10月26日の『ニューヨーク・タイムズ』では、「近衞が憲法改正に携わることは不適当である」として「近衞が戦争犯罪人として取り扱われても誰も驚かない」と論じた。

 白洲次郎たちは近衞がマッカーサーに憲法改定を託されたことを宣伝して回り、近衞を助けようと試みたが、11月1日にGHQは憲法改正について「東久邇宮内閣の副首相としての近衞に依嘱したことであり、内閣総辞職によって当然解消したもの」と表明し、総司令部は関知しないという趣旨の声明を発表した。憲法改正をマッカーサーから依嘱されたものと信じていた近衞にとっては大きな打撃であった。マッカーサーとの会見が行われたのは確かに近衞が東久邇宮内閣で副首相の職にあった時だが、憲法改正に関する詳細な打ち合わせを当局者と行った時点で近衞は既に東久邇宮内閣の総辞職によって私人となっており、声明はGHQが近衞の切り捨てを図ったものであった。こののちGHQによる近衞の戦争責任追及が開始された。近衞は11月9日に東京湾上に停泊中の砲艦アンコン号に呼び出され、軍部と政府の関係について米国戦略爆撃調査団による尋問が行われた。尋問はかなり厳しいものだったようで、尋問を終えた近衞は「尋問はそれはひどいものでしたよ。いよいよ私も戦犯で引っ張られますね」との予測を述べている。GHQ参謀部第2部の対敵情報部調査分析課長のエドガートン・ハーバート・ノーマンは、大政翼賛会の設立などファッショ化に近衞が関与したことおよびアジア侵略・対米開戦に責任があることを指摘するレポート「戦争責任に関する覚書」を11月5日にアチソンに提出した。11月17日、アチソンはこれをバーンズ国務長官に送付した。
 12月6日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し近衛を逮捕するよう命令を発出(第四次逮捕者9名中の1人)。近衛は、逮捕命令の発表を軽井沢の山荘で聞いた。 A級戦犯として起訴され裁判(後の極東国際軍事裁判)にかけられる可能性が高くなった。近衞は巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2ヶ月での死去は、日本の総理大臣経験者では、もっとも若い没年齢である。また総理大臣経験者として、死因が自殺である人物も近衞が唯一である。
 自殺の前日に近衞は次男の近衛通隆に遺書を口述筆記させ、「自分は政治上多くの過ちを犯してきたが、戦犯として裁かれなければならないことに耐えられない…僕の志は知る人ぞ知る」と書き残した。この遺書は翌日にGHQにより没収された。
 なお、近衛の出頭について吉田茂外相が近衛の自殺の直前にマッカーサーとの面会で「近衛は自宅監察とする」との見通しを聞いており、また病気を理由に出頭を延期できる見込みもあった。吉田は近衛の自殺を知り、「自分が近衛に逢って伝えていたら」と悔やんでいたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E6%96%87%E9%BA%BF

⇒最後の最後まで近衛はKYだったということになる。
 杉山らのピエロ的傀儡として、日本史、いや世界史に「輝かしい」足跡を残した人物は、はこうして自らの手でこの世を去った。(太田)

 (参考)

 文麿の弟達も、まとも過ぎるくらいまともな末弟を除く2人は、ズッコケ人間だったと言ってよさそうだ。↓

〇近衛秀麿(1898~1973年)

 「近衞家は五摂家筆頭の家柄で、また皇室内で雅楽を統括する家柄でもあった。音楽は文麿の影響で興味を持つようになった。・・・
 学習院初等科、学習院中・高等科を経て、東京帝国大学文学部に入学するが中退した。
 1923年、秀麿はヨーロッパに渡り、ベルリンで指揮をエーリヒ・クライバーらに、作曲をマックス・フォン・シリングス(フルトヴェングラーの師)、ゲオルク・シューマンに学び、パリで作曲をダンディらに師事する。・・・
 秀麿の内弟子であった福永陽一郎は秀麿のオーケストラ運営を次のように語っている。
 「近衞秀麿は終生、オーケストラとの関係を不首尾に終わらせている。本来の指揮者としての力量を承認しないものは一人もいなかったが、その対オーケストラの思考の方向は、いつもオーケストラ自体の首肯し難いほうへ進んだ」「天皇家よりも由緒の明確な千年の貴族というものの悲喜劇を、首相だった長兄の文麿公ともども体現した人だったといえる」」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%A7%80%E9%BA%BF 

〇近衛直麿(1900~1932年)

 「日本の詩人、ホルン奏者、雅楽研究者。・・・
 異母長兄の近衛文麿からは「あいつはしようがない野郎だけれども、天才みたいな奴だ」と愛されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E8%A1%9B%E7%9B%B4%E9%BA%BF

〇水谷川忠麿(みやがわただまろ。1902~1961年)

 「男爵水谷川忠起の養子となり家督を相続する。学習院中等科時代から有島生馬について洋画を習い、画家を志す。・・・1923年(大正12年)京都帝国大学文学部哲学科に入学した直後に養父忠起を亡くし、男爵位を相続。京大在学中は京都帝大オーケストラに参加してオーボエを吹き、京都音楽協会の設立に参加。家伝の華道「御門流」の再興を図り、二科展に入選する。
 のち、内務大臣秘書官や大蔵大臣秘書官を歴任し、原田熊雄の後釜として西園寺公望の秘書になったこともあった。1938年(昭和13年)1月22日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され、・・・1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した。戦後は春日大社・談山神社宮司、華道「御門流」家元を歴任した。茶の湯を嗜み、みずから茶盌や茶杓を製作した。
 はじめ、近衛秀麿の次男の近衛秀健を養子に迎えたが1939年(昭和14年)2月25日に秀健は水谷川家の籍を離れて男爵常磐井堯猷(近衛忠房の三男)の家に預けられ、最終的に近衛家へ戻り、指揮者となる。秀健の長男の近衛一はバスーン奏者、長女の文子はNHK勤務、次男の近衛大は弁護士となった。
 秀健を離縁した後、1939年10月19日、秀麿の三男の近衛俊健を忠俊と改名して養子に迎えた(作曲家の水谷川忠俊)。忠俊の長女の水谷川陽子はヴァイオリニスト、次女の水谷川優子はチェリスト。
 このほか、長兄文麿と新橋の芸者山本ヌイとの娘である斐子(あやこ、1931年 – )を養子に迎えていた時期もある(のち山本家に復籍)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%BA%BF

 5 鷹司家

  (1)鷹司煕通(1855~1918年)

 「九条尚忠の子として・・・生まれた。嗣子のなかった鷹司輔煕の養嗣子となり、輔煕の「煕」とその父政通の「通」をとって煕通と名乗った。
 1872年(明治5年)、養父の隠居に伴い鷹司家を相続した。同年、ドイツに留学した。
 1879年(明治12年)2月1日に陸軍士官学校(旧2期)を卒業した。同期には大迫尚道陸軍大将、井口省吾陸軍大将、大谷喜久蔵陸軍大将男爵がいた。
 1889年(明治22年)11月5日に皇太子嘉仁親王の東宮武官に就任、1902年(明治35年)6月12日には侍従武官に就任する。その間、1884年(明治17年)7月7日に公爵に叙され、1890年(明治23年)2月には公爵議員として貴族院議員に就任した。
 1907年(明治40年)11月13日、陸軍歩兵大佐に進み、1910年(明治43年)2月16日、陸軍少将に昇ると共に後備役となり、侍従職幹事に就任する。
 1912年(大正元年)12月21日、<大正天皇>侍従長に任命される。1915年(大正4年)4月1日、陸軍を退役。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E7%85%95%E9%80%9A

⇒大正天皇の即位と同時の侍従長就任であり、姪の貞明皇后の指名によるもの、と見る。(太田)

  (2)鷹司信輔(1889~1959年)

 母方の祖父が(西園寺公望の兄の)徳大寺実則。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%AE%9F%E5%89%87
 「公爵・・・鷹司熙通・・・の長子<。>・・・1901年に高師附属小、1906年に高師附属中を卒業後、学習院高等科に進み、鳥類学を志すようになる。1911年、東京帝国大学理科大学動物学科に入学、飯島魁教授に師事。1912年、飯島および兄弟弟子の黒田長禮や内田清之助と共に日本鳥学会を設立、会頭に飯島教授を戴く。
 大学卒業後、一度は大学院に入るも、1915年、秩父宮および高松宮の皇子傅育官に任ぜられて中退。

⇒貞明皇后は第4子で末子の後の三笠宮を懐妊中だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
が、後の昭和天皇の傅育<(ふいく)>が事実上明治天皇によって行われ、それが失敗だったとの認識の下、秩父宮と高松宮らの教育には、従兄弟の手を借りて万全を期そうと決意したのだろう。(太田)

 父の死去に伴って、1918年6月10日、公爵を襲爵し、同日、貴族院公爵議員となる。公務の傍ら研究を続け、1917年、初の著書『飼ひ鳥』を上梓。同年、鳥類飼育愛好家の会である「鳥の会」を設立、のち会長となる。1922年、飯島の死去に伴って日本鳥学会第2代会頭に就任(-1946年)。
 1924年、ベルギーで開かれた万国議員商事会議参列のため渡欧、1年半をヨーロッパで過ごす。大英博物館に通い、鳥三昧の日々を過ごした。
 1932年、日本で絶滅した品種のサクラがイギリスから逆輸入されたことを受けて「タイハク(太白)」と命名。1935年から華族会館館長、1940年から日本出版文化協会会長。1943年、理学博士号を取得。1944年、明治神宮宮司となる。1946年、神社本庁統理に就任。翌1947年の日本国憲法施行に伴って華族制度が廃止された。その後、公職追放となった<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E8%BC%94

  (3)鷹司信煕(1892~1981年)

 「公爵・鷹司煕通の二男<。>・・・陸軍中央幼年学校予科、同本科を経て、1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業。同年12月、砲兵少尉に任官し近衛野砲兵連隊付となる。1915年(大正4年)12月、陸軍砲工学校高等科を卒業。
 1921年(大正10年)7月、近衛野砲兵連隊中隊長に就任。陸士本科教官に転じ、1928年(昭和3年)8月、砲兵少佐に昇進。1929年(昭和4年)8月、野戦重砲兵第8連隊付となる。以後、近衛野砲兵連隊大隊長、砲工学校教官を歴任。1933年(昭和8年)8月、皇族付武官・北白川宮永久王付に就任。1934年(昭和9年)8月、砲兵中佐に進級。
 1936年(昭和11年)8月、陸軍野戦砲兵学校教官となり、1937年(昭和12年)12月、野戦重砲兵第7連隊長に就任。1939年(昭和14年)3月、砲兵大佐に昇進。ノモンハン事件に出動。事件後、その引責として1939年9月30日に停職・男爵礼遇停止の処分を受けた。同年12月、諭旨・予備役編入となった。
 太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)8月に召集され、名古屋陸軍造兵廠監督官を務めた。
 戦後、公職追放となり、1951年に追放解除となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E4%BF%A1%E7%86%99

  (4)鷹司平通(としみち。1923~1966年)
 鷹司信輔の子。論外の無様な最期。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B9%E5%8F%B8%E5%B9%B3%E9%80%9A

 6 西園寺家

  (1)西園寺公望(1849~1940年)

 下掲以外は西園寺公望3連続シリーズ(未公開部分あり)に譲るが二点だけ。

一、十月事件(1931年10月決行予定で未遂に終わった)

 「桜会の構成員など将校120名、近衛師団の歩兵10個中隊、機関銃1個中隊、第1師団歩兵第3連隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を斬殺および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎中佐を内相に、建川美次少将を外相に、北一輝を法相に、長勇少佐を警視総監に、小林省三郎少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子<だった>。・・・

⇒西園寺が担がれる対象の一人だったことに注意!(太田)

 計画は先の三月事件の失敗から陸軍の中枢部には秘匿されたまま橋本ら佐官級を中心に進められた。
 当初、外部の民間右翼からは大川周明、岩田愛之助が加わっていたが、その後北一輝・西田税が参加した。
 その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。

⇒こんな感じでむやみに関与者を増やせばこの話が漏れるのは当然であり、そのためにこそ関与者を増やしたのだろうが、その過程で、(西園寺と一心同体だというのに、)牧野がとんだとばっちりを紙の上だけでだが、蒙ることになってしまったわけだ。(太田)

 また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。・・・

⇒念には念を入れて確実にこの話が漏れるようにしたのだろう。(太田)

 この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博・天野辰夫といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。・・・
 大内力は、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測しており、事実、荒木を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権を獲得していくこととなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%9C%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

⇒まぐれ当たりかもしれないが、大内力に花丸だ。(太田)

二、「1940年・・・12月5日、国葬。遺言の指示通り、書簡、資料類が焼却される。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B

⇒西園寺は、私に言わせれば、自分が杉山らグループの首班格だったことを裏付けるような指示を残してあの世に旅立ったわけだ。(太田)

 「松本剛吉<(1862~1929年)は、>・・・丹波国氷上郡柏原町(現在の兵庫県丹波市)に、今井源左衛門の四男として生まれ、松元十兵衛の養子となった。中村正直の同人社に学んだ。・・・山縣有朋・西園寺公望・原敬らと交遊し彼らの情報係を務めた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%89%9B%E5%90%89
 原田熊雄<(1888~1946年)は、>・・・父方の祖父・原田一道は、元岡山藩士の軍人で最終階級は陸軍少将。元老院議官などを歴任し、1900年(明治33年)に男爵に叙されている。その子で父の原田豊吉は地質学者で東京帝国大学理科大学教授<。>・・・
 1926年(大正15年)7月、住友合資会社に入社。事務取扱嘱託の身分のまま、同年9月、元老・西園寺公望の私設秘書に就任。このことは日銀退行時から西園寺と近衛や木戸の間で話が進められていた。以後原田は政党や官僚、軍部、宮中、財閥など、政治の中枢部に絶えず接触を持って精力的に各界を飛び回り、表裏にわたるあらゆる情報を収集して西園寺に伝達、さらに元老の意志を各界要人へ伝達して、その信奉する国連協調主義・親英米主義の守護に努めた。・・・
 大学時代の旧友でもあった近衛文麿や木戸幸一とは親友、政界においても緊密な連絡を保っていた。・・・
 1940年(昭和15年)の西園寺没後、・・・東條内閣の打倒を目標に、近衛文麿や吉田茂、樺山愛輔など親英米派(重臣グループ)と共謀し、終戦工作を秘密裏に計画する。しかし計画は憲兵隊の内偵工作によって発覚。1945年(昭和20年)4月、吉田が検挙され、近衛や原田自身も取り調べを受けるなど、計画は頓挫するに至った(「ヨハンセングループ」事件)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84

⇒この2人が、西園寺の秘書だったが、特に原田は、西園寺の正体隠しに多大の貢献をしたということになろう。(太田)

  (2)西園寺八郎(1881~1946年)

 「旧長州藩主・公爵毛利元徳の八男として誕生する。1899年(明治32年)7月、学習院中等科を卒業。同年、伊藤博文、井上馨らの仲介により、公爵西園寺公望の養子となった。西園寺家と毛利家には、西園寺実輔の生母が長州藩主毛利秀就の娘であったり、西園寺賞季の娘が長府藩主毛利匡芳に嫁いだなどの関係があった。その後、ドイツのボン大学に留学した。・・・1906年(明治39年)養父公望の長女新と結婚した。養父公望がヴェルサイユ講和会議に全権特使として渡仏した際は、妻と共に随行している。
 1909年(明治42年)、桂太郎の内閣総理大臣秘書官に就任する。1914年(大正3年)、宮内省式部官に就任する。式部職庶務課長、式部次長を経て、1926年(大正15年)に主馬頭となる。次いで、宮内省御用掛となった。この間、皇太子時代の昭和天皇を補佐した。1920年(大正9年)10月には、妻の新が亡くなり、養父公望としだいに疎遠になっていく。・・・
 1926年(大正15年)内大臣牧野伸顕の宮内省組織刷新に反発し、牧野の失脚をはかるものの、失敗する。・・・
 <その>長男<の>公一<は、>ゾルゲ事件に連座した際に廃嫡<。>・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AB%E9%83%8E

⇒取敢えずは、公望の不肖の養子、不詳の実孫、ということにしておこう。(太田)

7 九条家

  (1)九条道孝(1840~1906年)

 「最後の藤氏長者。・・・
 子 道実、範子(山階宮菊麿王妃)、良政、籌子(大谷光瑞妻)、節子(大正天皇皇后)、良致、良叙、篷子(渋谷隆教妻)、紝子(大谷光明妻)・・・
 籌子、範子、節子及び嫡男の九条道実は、いずれも側室である野間幾子(中川の局)との間の子である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AD%9D
 
〇大谷光瑞(こうずい。1876~1948年)<(コラム#10413、10487、10864、10881、10883、10885、11875、12651)>は、「浄土真宗本願寺派第22世法主、伯爵<。>・・・第21世法主・大谷光尊(明如上人)の長男として誕生する。・・・
 <いわゆる>大谷探検隊<を実施。>・・・1913年(大正2年)に孫文と会見したのを機に、孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任した。・・・太平洋戦争中は近衞内閣で内閣参議、小磯内閣の顧問を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%9E 
 渋谷隆教(1885~1962年)は、「佛光寺第26代管長渋谷家教(清棲家教)・・伏見宮邦家親王十五男・・の子として生まれる。明治21年(1888年)に家教は渋谷家を離籍して清棲伯爵家を創設し、隆教が渋谷家の家督を相続することとなったが、幼少であったことから、第25代管長真達の未亡人である真意尼が第27代管長となる。明治29年(1896年)6月9日、男爵に叙される。なお、このとき同時に東西の大谷家(東本願寺、西本願寺)が伯爵に、木辺家(真宗木辺派)、常磐井家(真宗高田派)、華園家(真宗興正派)が男爵にそれぞれ叙されている(僧侶華族)。明治38年(1905年)、真意尼の管長退職に伴い、第28代管長に就任。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E9%9A%86%E6%95%99


[浄土真宗本願寺派の大谷家(その後)]

○大谷光明(1885~1961年)は、「浄土真宗本願寺派21世法主・大谷光尊(法名・明如上人)の三男として生まれる。1899年(明治32年)、法主の後継者となったが、1914年(大正3年)引退した。・・・。。1907年(明治40年)、文学寮卒業、英国に留学(3年間)し、留学中にゴルフに没頭した。その時に覚えたゴルフが、草創期だった日本のゴルフ界に大きな影響を与えた。・・・
 子供 大谷光照
    ・・・
    大谷正子(近衛文隆夫人)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%98%8E

○大谷尊由(そんゆ。1886~1939年)は、「浄土真宗本願寺派第21世法主大谷光尊(明如)・・・の5男として・・・生まれる。・・・
 日露戦争に際し従軍布教の陣頭指揮にあたり、自身も中国各地を度々慰問している。数々の教団改革をすすめ、大谷探検隊を財政面から助けたが、後に多額の負債を教団に残すこととなった。
 1914年(大正3年)、疑獄事件により法主の座を退いた兄に代わって次期法主が期待されたが、自身も事件に連座して宗政の第一線から身を退いた。
 1928年(昭和3年)、勅選により貴族院議員となり研究会に所属し、第1次近衛内閣で拓務大臣、1938年(昭和13年)には内閣参議に就く。兄と共に度々大陸へ渡り、当地の事情に精通していたこともあって、同年に国策の北支那開発株式会社初代総裁に就任。しかしながら、志半ばの1939年(昭和14年)、病に倒れ命終<。>・・・
 近衛内閣拓務相時代の1937年(昭和12年)、支那事変が勃発した頃の閣議において陸軍大臣の杉山元に「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか」と尋ねたが、杉山は答えなかった。海軍大臣の米内光政が見かねて「だいたい永定河と保定との線で停止することになっている」と答えた。すると杉山は「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか」と怒鳴ったという逸話がある。・・・
 妻の泰子は小出英尚の娘。長女の高子は岡崎財閥の岡崎真一に嫁ぎ、次女の益子は、はじめ朝香宮鳩彦王と允子内親王(明治天皇の第八皇女)の第2皇子・音羽正彦侯爵と結婚、侯爵と死別後、小坂財閥の小坂善太郎と再婚している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%B0%8A%E7%94%B1
 「小出 英尚(こいでふさなお)は、丹波国園部藩第10代(最後)の藩主。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%87%BA%E8%8B%B1%E5%B0%9A

○大谷光照(1911~2002年)は、「浄土真宗本願寺派第23世宗主、伯爵。・・・
 第22世法主大谷光瑞(鏡如上人)の実弟大谷光明 (浄如上人)の長男・・・。母は九条道孝の七女紝子(きぬこ)、紝子の姉は大正天皇皇后(貞明皇后)の節子。・・・
 旧制第一高等学校を経て1935年(昭和10年)に東京帝国大学文学部東洋史学科卒業。1937年(昭和12年)4月、徳大寺実厚長女の嬉子と結婚。・・・
 青年法主光照は、昭和の戦時下の教団を指導した。1933年(昭和8年)には声明集の改定に取り組むなどする一方で、1941年(昭和16年)に宗制を改定、従来神祇不拝を旨としていた宗風を放棄し、「王法為本ノ宗風ヲ顕揚ス是レ立教開宗ノ本源ナリ」と宣言。国家神道と結びついた「戦時教学」を推進した。
 特に、親鸞の著作に皇室不敬の箇所があるとして該当部分を削除するよう命じたり(聖典削除問題)、門信徒に戦争協力を促す消息(声明)を発して戦時体制を後押しした。戦時中に発布された消息(聖典とされている宗祖親鸞の撰述に準じるとされていた)では、天皇のため命を捧げよと次のように説いている。
 凡そ皇国に生を受けしもの誰か天恩に浴せざらん、恩を知り徳に報ゆるは仏祖の垂訓にしてまたこれ祖先の遺風なり、各々その業務を格守し奉公の誠を尽くさばやがて忠君の本義に相契ふべし、殊に国家の事変に際し進んで身命を鋒鏑におとし一死君国に殉ぜんは誠に義勇の極みと謂つべし、一家同族の人々にはさこそ哀悼の悲しみ深かるべしと覚ゆれども畏くも上聞に達し代々に伝はる忠節の誉を喜び、いやましに報國の務にいそしみ其の遺志を完うせらるべく候
 光照自身も度々軍隊慰問を行い、南京攻略戦直後には自ら南京に入城し犠牲者追弔会を行った。教団も戦争協力の名目で大量の戦時国債を購入し、戦後の教団財政の危機を招くこととなった。・・・
 戦時教学については、2002年の光照の死後、2004年5月に戦時中に出された消息を慚愧の対象として事実上失効させる宗令が出され、その後さらに、2007年9月の臨時宗会において、教団の憲法とされる宗制で”歴代門主の消息は聖典に準じる”と定められていたものを、”初代親鸞、三代覚如、八代蓮如の消息に限る”という形に変えたことで、教団としての此の問題は解決したとされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%85%A7 

⇒大谷派の大谷家が、幕末・維新期に秀吉流日蓮主義のために燃焼し切ってその後燃えカスになってしまった(後述)とすれば、本願寺派の大谷家は、早くも大正・昭和戦前期に秀吉流日蓮主義のために燃焼し切ってその後燃えカスになってしまった、と言えよう。
 それぞれ、壮絶な最期だった。
 こんなことになった、のは、近衛家等摂関家との濃密な通婚関係から、両大谷家が濃淡はあれども、秀吉流日蓮主義に染まっていったことが挙げられようが、そもそも、それ以前から、両大谷家が、これまた濃淡はあれ、浄土真宗の教義・・「特異」な法主継承法を含む・・に疑問を抱くに至っていたところへもってきて、明治維新の結果、キリスト教諸宗派や神道系諸新宗教を含む他の諸宗教との激烈な競争に晒されるようになり、宗団の存続すら当然視できない状態となったため、とにもかくにも国家ないし社会への貢献に努めて宗団の存在意義をアピールしなければ、という切羽詰まった思いに突き動かされて背伸びし過ぎたためである、と私は見ている。
 宗主による教義の疑問視は、早くも、例えば、「一休宗純<(1394~1481年)は、>・・・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94
一見豪放磊落な挿話・・が事実だとすればだが・・から、伺うことができよう。(コラム#省略)
 公案的な発想が売りの臨済宗、の「一介の僧」たる自由人で、しかし同時に天皇の御落胤であるとされる、一休、には許されても、浄土真宗中興の祖たる門主の蓮如
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%AE%E5%A6%82
がそんな姿勢では、そのことを一般信徒が知った場合、示しがつかなかったはずなので、「えりまきの 温かそうな 黒坊主 こいつの法が 天下一なり(<一休が、>本願寺で行われた開祖親鸞の二百回遠忌に、他宗の僧侶としてはただ一人参拝し、山門の扉に貼り付けて帰った紙に書かれていた)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BC%91%E5%AE%97%E7%B4%94

という、事柄の性格上最初から公開されていたところの、蓮如との別の挿話、とは違って、恐らく、件の挿話は長期間にわたって秘匿されたはずだ。(太田)

  (2)九条道実(1870~1933年)

 「養女:九条日浄(仙石政敬長女)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E9%81%93%E5%AE%9F
 九条日浄(1896~1962年)は、「大正2年(1913年)学習院女学部中等科を卒業し、同7年(1918年)京都村雲瑞竜寺で得度、翌々年日蓮宗瑞龍寺門跡となり、村雲尼公と呼ばれた。村雲婦人会総裁として尊敬を集めた。昭和11年(1936年)7月8日、仙石政敬子爵家の縁で、霊友会総裁に就任する。 昭和37年(1962年)京都から滋賀県近江八幡へ瑞龍寺の主要建物の移築を行うが、日浄尼はその完成を見ず65歳で遷化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%9D%A1%E6%97%A5%E6%B5%84
 仙石政敬(1872~1935年)は、「旧出石藩主・仙石政固の長男として生まれる。1891年(明治24年)7月、学習院高等学科を卒業。1893年(明治26年)、久邇宮朝彦親王の六女・素子女王と結婚した。1898年(明治31年)、東京帝国大学法科を卒業。1899年(明治32年)11月、高等文官試験に合格して官界に入る。宮内省諸陵頭などを務めたのち、1923年(大正12年)賞勲局総裁、1925年(大正14年)宗秩寮総裁を歴任した。1934年(昭和9年)5月、貴族院議員に補欠選挙で当選した。1935年(昭和10年)貴族院議員の在職中に死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E6%94%BF%E6%95%AC

  (3)貞明皇后(1912~1926年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E

 省略するが、参考まで。↓

 「貞明皇后は二二年三月、九州北部を詣でた。倭健(やまとたける)の子・仲哀天皇が陣没し、かわって妊娠中の神功皇后が「三韓征伐」に向かい、陣後の西暦二〇一年頃、応神天皇を出産したとされる地である。香椎宮で一心不乱に祈った貞明皇后は、神功皇后と一体化する境地を味わった、と著者原武史はいう。
 帰路は門司から軍艦「摂津」に乗ったが、波荒く、浸水して皇后座所まで水浸しとなった。しかし彼女は落着いていて、つぎのように詠んだ。
 「韓(から)の海わたらしし日のあらなみも かくやと思ふ船出なるかな」
 貞明皇后(昭和改元後皇太后)は船好き海軍好きであった。のみならず神功皇后の霊と感応した彼女は、外征した神功の加護を信じていたのであろう。
 原武史は、貞明皇后の心情をさぐる有力な手立てとして皇后歌集『貞明皇后御集』『大正の皇后宮御歌謹釈』を読み解いた。彼女の和歌は近代短歌ではなく、儀礼贈答の古典的役割をになったものにほかならないが、貞明皇后の場合、主観がより多く反映されているようで、ツイッターに似た部分がある。古い表現を分析するこの新しい方法こそが、『皇后考』の画期性を保証する。
 その後の貞明の心情には、神功を「神と人間である天皇の中間」たる「ナカツスメラミコト」として天皇の上位に位置付けたばかりか、「血と肉」に基づく「万世一系」の皇位継承を否定して、「霊」による継承を説いた折口信夫の考えに通じるものがある。
 二六年十月、すなわち裕仁が病身の大正天皇の「摂政」となって五年、大正天皇が没する二ヵ月前に、伝承では事実上の女帝であった神功皇后を天皇の列に加えないとする詔書が渙発された。それは神功の記憶の浮上とともに、貞明が将来「西太后」化して「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」を行うことを恐れた元老らの意志のあらわれとも考えられる。
 「神代より男(お)の子(こ)にまさるおこなひも ありけるものをはげめをみなら」
 日米開戦して戦況が著しく不利となったのちも、貞明の意気は「ドンナニ人ガ死ンデモ最後マデ生キテ神様ニ祈ル心デアル」と、悲愴にして軒昂であった。「神様」とは、アマテラスであり神功であろう。」
http://gunzo.kodansha.co.jp/39016/39848.html


[浄土真宗大谷派の大谷家]

〇大谷光勝(1817~1894年)

 「文化14年3月7日(1817年4月22日 )、東本願寺第二十代 達如の次男として誕生。近衛忠煕の猶子となる。・・・
弘化3年5月23日(1846年)父・達如が隠退により、第二十一代法主を継承する。
嘉永元年(1848年)12月16日 には、伏見宮邦家親王の四女・嘉枝宮和子女王を室に迎える。
元治元年(1864年)、禁門の変により仮堂宇が消失する。
明治元年(1868年)、近代に入ると、親密であった東本願寺と江戸幕府との関係を払拭し、明治新政府との関係改善を図るため、勤皇の立場を明確にする。そのため、北陸や東海地方へ巡教・勧募し、軍事費1万両・米4千俵を政府に献上する。
明治2年(1869年)、政府の北海道開拓事業を請け負うことを決定する。
明治3年(1870年)、法嗣である第5子(四男)・現如(大谷光瑩)を北海道に派遣した。(⇒詳しくは「本願寺道路」の項を参照)
明治5年(1872年)3月、華族に列せられる。
同年9月、名字必称となり「大谷」の名字(姓)を用いる。
明治12年(1879年)、焼失した東本願寺の両堂宇の再建を発願し、再建工事の着工を表明する。
同年、大谷英麿と大谷温唐、東本願寺派関係の僧侶数名と共に慶應義塾入塾。・・・
 子に四男・大谷光瑩、九男・大谷勝信、次女(水谷川忠起の妻)、六女・梭子(おさこ。岩倉具経の妻)ら。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E5%8B%9D

⇒大谷派は、既に、ここで燃え尽きてしまった。(太田)

〇大谷光瑩(こうえい。1852~1923年)

 「東本願寺第22代法主<。>・・・北海道開拓事業の功績を受け、伯爵号を授かる。・・・
 明治35年(1902年)12月、300万円を超す負債から財政を立て直すため、井上馨に財政再建を依頼(東本願寺借財整理)。・・・
父・大谷光勝(1817年生) – 東本願寺第21世法主
母・大谷和子 (東本願寺)(1830年生) – 伏見宮邦家親王の四女
妻・恒子(1854年生) – 日出藩主・木下俊愿の三女(庶子)
二男・大谷光演(1875年生) – 東本願寺第23世法主
二女・九条恵子(1876年生) – 夫は公爵九條道實(九条道孝の長男)
三男・大谷瑩誠(1878年生) – 妻の朝子は侯爵廣幡忠朝の娘
五男・瑩亮(1880年生) – 妻の訴は池田賴清妹
・・・
六女・嶺子(1884年生) – 夫は梅上尊融(大谷光尊の子で、僧・茶人)。
・・・
庶子男・瑩韶(1886年生) – 生母は妾の春榮。妻の文子は男爵島津忠欽と男爵島津珍彦の孫。娘の道子は大谷隆三の妻。
七女・綾子(1887年生) – 夫は正親町公和(伯爵正親町実正長男) 
・・・
十一男・大谷瑩潤(1890年生) – 妻・喬子は子爵小笠原寿長の娘。長男に大谷演慧。
庶子女・久子(1900年生) – 生母は妾の春榮。夫の和田久左衛門は、旧名を三井高隣といい、三井新町家当主・三井高辰の子。高辰の娘婿三井高堅の養弟でもあり、大阪屈指の資産家で金物商の和田家の養子となり先代から久左衛門を襲名。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E7%91%A9

〇大谷光演(1875~1943年)

 「東本願寺第二十三代法主。・・・俳人、画家。・・・
 大谷光瑩の二男として生まれる。母親は木下氏<。>・・・
 かねてより負債問題で紛糾していた先代が脳病となったため引退し、財政立て直しのために光演が35歳で跡を継いだが、鉱山事業などで失敗して自己破産を申請し、1925年に引退して長男に・・・法主・・・を譲った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%BC%94

〇大谷光暢(こうちょう。1903~1993年)

 「、東本願寺第二十三代 彰如の長男として誕生。
 1924年(大正13年)5月3日、大谷大学在学中に久邇宮邦彦王の三女で香淳皇后の妹にあたる智子女王と婚姻。
 1925年(大正14年)9月、財政問題の責を負って退任した、父・彰如の後を受けて第二十四代法主に就任。・・・
 1969年(昭和44年)4月、・・・お東騒動<の端緒を作り、泥沼化。>」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%85%89%E6%9A%A2

 8 一条家

  (1)昭憲皇太后

 (省略)

  (2)一条実良(一條實良)(1835~1868年)

  「<美子の異母弟。>
  正室:近衛総子 – 近衛忠煕の娘・・・
  生母不明の子女
    三女:良子 – 一条忠貞室→一条実輝室・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%89%AF
  「義母総子は離縁を求めるものの、実父<醍醐>忠順は納得せず、訴訟事件に発展する。総子は忠貞の不品行や学業不振を離縁の理由としていた。明治15年(1882年)8月4日、東京始審裁判所は原告側の主張を認め、忠貞の離縁を申し渡す。明治16年(1883年)4月25日、実家醍醐家は控訴するものの、忠貞の廃戸主が確定する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E8%B2%9E

⇒「実家醍醐家に復籍した忠貞は、陸軍予備士官学校に入学した。明治18年(1885年)9月、同校の廃校により、忠貞は退学した。『人事興信録(第8版)』により、忠貞は昭和3年(1928年)まで生存を確認できる<が、>・・・没年不詳」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%BF%A0%E8%B2%9E
という、ダメ男ぶりからして、近衛総子の目は確かだったようだ。(太田)
 
  (3)一条実輝(さねてる。1866~1924年)

 「陸軍中将・侯爵の四条隆謌七男。・・・自身のはとこにあたる一条忠貞の跡を受け、1883年(明治16年)9月20日に家督を継承。・・・
 1887年(明治20年)7月25日に海軍兵学校(第14期)を卒業。1889年(明治22年)フランス留学。1891年(明治24年)7月6日、貴族院公爵議員に就任。その後、従軍した日清戦争、その後の日露戦争で功を挙げる。その後、駐フランス公使館附海軍武官となる。1908年(明治41年)1月20日、海軍大佐に昇進し予備役に編入となり、当時の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)に仕える東宮侍従長に発令され宮内省に入省する。
 その後、宮内省では掌典次長、祭官長等を歴任。1913年(大正2年)8月9日、宮中顧問官となる。1914年(大正3年)8月24日に後備役となり、1919年(大正8年)8月24日に退役した。後に明治神宮宮司となる。・・・
 最初の夫人は一条実良の三女で昭憲皇太后の姪の良子。
 後に侯爵・細川護久娘の悦子と再婚。悦子との間の子實基は土佐一条家を名目上再興する形で分家し明治35年(1902年)に男爵を授爵する。
 次男常光は佐野常羽の養子となり、その妻佐野礼子は竹田宮恒久王第1王女、三男實英は南部利淳の養子、三女朝子は伏見宮博義王妃、四女直子は閑院宮春仁王妃、五女圭子は鍋島直方妻、六女生子は伊達宗克妻。養女の一条智光は、6歳にして仏門に入り、善光寺大本願120世法主となる。一条家の後は、二女の経子の夫である大炊御門師前の長男・<実>孝が婿養子として継ぐ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%BC%9D

⇒近衛総子のお眼鏡にかなった実輝は、立派に旧摂関家としての務めを果たしたわけだ。(太田)

  (4)一条実孝(1880~1959年)

 「大炊御門師前(第27代大炊御門家当主家信の子)の長男(庶子)。一条実輝の養子。・・・妻:<の>経子<は、>一条実輝の二女。・・・
 4歳の時に父が大炊御門家を廃嫡されたために苦しい生活を送り、実孝も普通の小学校(現在の新宿区立花園小学校)で学んでいた。また、父と共に山岡鉄舟の下で剣術を学んでいる。1907年(明治40年)に一条家の養子に入る事になり、従五位が授けられた。養父の死去に伴い、1924年(大正13年)8月15日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任した。
 1900年(明治33年)12月13日、海軍兵学校(28期)を卒業。さらに、1910年(明治43年)11月29日、海軍大学校甲種8期を卒業。横須賀鎮守府参謀、軍令部参謀、第三艦隊参謀、フランス大使館付武官兼造船造兵監督官、大喪使祭官長などを歴任。強い国家主義者的な考えを持っていた。日本温泉協会・日本善行会初代会長。
 1946年(昭和21年)5月8日、貴族院議員を辞職した。同年9月、公職追放となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E5%AD%9D
 「一般社団法人日本善行会(にほんぜんこうかい)は、主にボランティア活動等の支援や推進、表彰事業を実施している団体。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%96%84%E8%A1%8C%E4%BC%9A

⇒実孝も勤めを果たした。(太田)

 9 二条家

  (1)二条基弘(1859~1928年)
 「九条尚忠の八男で、従兄・二条斉敬の養子となる。・・・妻は前田斉泰の三女・洽子。・・・
 北海道開拓に関った北海道協会会頭をつとめ、明治10年代に設立された写真協会では侯爵徳川篤敬会長のもと副会長に就任する。1901年(明治34年)には貴族院の院内会派として発足した土曜会の初代幹事長(党首格)となる。1902年(明治35年)には菅原道真の遺徳を称えて「菅原道真千年祭」が挙行されるが、祭を取仕切った北野会会長でもある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%BA%E5%BC%98

⇒どうにか務めを果たしたといったところか。(太田)

(2)二条厚基(1883~1927年)

 「公爵・二条基弘の二男として生まれる。学習院高等科、東京帝国大学で学ぶ。父の隠居に伴い、1920年6月30日、公爵を襲爵し貴族院公爵議員に就任し、・・・死去するまで在任した。・・・
 妻<は>二条泰子(やすこ、島津長丸・治子夫妻の二女、のち離縁)<。>・・・
 1917年以降、神奈川県嘱託、平和記念東京博覧会審査官、歌御会始読師控などを務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%8E%9A%E5%9F%BA

⇒務めを果たしたとは言い難い。(太田)

 (3)二条弼基(1910~1985年)
 「男爵・二条正麿の三男として生まれ、二条家第28代当主・二条厚基の養子となる。1930年9月1日、公爵を襲爵。1934年、東北帝国大学理学部地質科を卒業し、さらに1937年同大学工学部電気科を卒業。
 1937年、逓信省電気試験所に入所し研究員となり、1939年、逓信技師に任官。
 1940年6月19日、満30歳に達し貴族院公爵議員に就任し、・・・1947年5月2日の貴族院廃止まで在任した。
 戦後は、逓信省電気通信研究所無線器具課長、郵政省電波研究所次長、同省電波監理局監視長、同局次長などを歴任。1962年に退官して松下電器に入社し、技術本部研究調整部長、同本部研究所長、同研究所参与を務めた。
 1976年、伊勢神宮大宮司に就任。その他、藤商会会長、堂上会理事長などを務めた。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%BC%BC%E5%9F%BA

⇒評価は微妙なところだ。(太田)

 10 天皇家 

  (1)明治天皇

 (省略)

 なお、中山忠光・(明治天皇生母の)慶子の中山姉弟については、コラム#12522参照。
 また、中山忠光のの曽孫の浩については前述した。
 以下は、明治天皇の子供達だ。

 (2)大正天皇

 (省略)

  (3)恒久王妃昌子内親王(1888~1940年)

 「母は園基祥伯爵令嬢・園祥子<(注33)>。・・・

 (注33)1867~1947年。「父の園基祥(<もとさち。>1833~1905<年>)は、雅楽や神楽を家職とした公卿・園家の出で、万延元年(1860年)より睦仁親王(のちの明治天皇)の家司を務めていた。実兄に細川利永の養嫡子となった細川利文。明治天皇との間に・・・2男6女を儲ける(うち成人したのは皇女4人のみ)。明治天皇の崩御後は貞明皇后の女官長となり、若君(後の三笠宮崇仁親王)の出産に立ち会った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%92%E7%A5%A5%E5%AD%90

 明治天皇の子女は皇太子(大正天皇)を除き夭折しているため、事実上の長女にあたる。
 すぐ下の妹・房子内親王(後の北白川宮妃)ともに、高輪御殿で養育される。幼少時の御養育掛は佐佐木高行、国文学者阪正臣、華族女学校教授・帝室技芸員の野口小蘋、華族女学校学監の下田歌子らが任命された。特に佐佐木夫妻を慕い、後々まで「ジジ」「ババ」と呼んだ。
 1904年(明治37年)、日露戦争の折りには、姉妹で全戦没者の氏名・没地等を直筆で書いた名簿を御殿の一室で祀っていた。その後、この直筆の名簿は靖国神社に奉納されている。
 1908年(明治41年)、6歳年上の竹田宮恒久王と結婚・・・
 婦人共立育児会総裁・東京慈恵会総裁として社会事業に取り組んだ。特に、満州事変に際し、傷病将兵を身分を明かさずに見舞うなどの心遣いをみせた。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E4%B9%85%E7%8E%8B%E5%A6%83%E6%98%8C%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 (参考)

〇竹田恒徳(1909~1992年):その子
 「父・恒久王が帝国陸軍の騎兵将校であったことから陸軍軍人を志し、学習院から陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科へと進み、1930年(昭和5年)7月に陸軍士官学校本科(42期、兵科・騎兵)を卒業。朝鮮公族の李鍵公とは同期生<。>・・・
 恒徳王は馬術を得意とし、陸軍騎兵学校教官を務めた他、1938年(昭和13年)5月30日には陸軍大学校(50期)を卒業。前年に勃発していた日中戦争(支那事変)の前線行きを志願したが実現せず、満州ハイラルの騎兵第14連隊第3中隊長を拝命。その後、14<連隊>が戦地へ動員される際、皇族である恒徳王を内地へ戻そうとする動きがあったが、王は陸軍省人事局長に電話で直談判した末、ようやく念願の戦地行きが叶った。この時初めて戦場に立ったが、「自分に向かって弾が飛んでくるのは気持ちの良いものではなかった」と語っている。・・・
 太平洋戦争(大東亜戦争)には大本営参謀として、フィリピン攻略戦、ガダルカナルの戦いに参画する。参謀としての秘匿名は「宮田参謀」であった。しばしば前線視察を希望し、危険が多いラバウル視察を強行するなど、周囲をはらはらさせていた。1943年(昭和18年)3月、陸軍中佐に昇進、・・・新京では満州国皇帝溥儀と交流を持ち、親しくしていたという。1945年(昭和20年)7月、第1総軍参謀として内地に戻った。間もなく終戦を迎えた。・・・終戦時には天皇特使として再び満州に赴き、関東軍に停戦の大命を伝えて武装解除を厳命した。
 1947年(昭和22年)10月14日、皇籍離脱。・・・直後に公職追放となる。1950年(昭和25年)に日本スケート連盟の会長就任を要請されたのをきっかけに、スポーツ界での活動を開始する。もともとスポーツ、特に馬術を好み騎兵将校であったことからオリンピック出場を目指していた程であった。・・・ 戦後は繊維会社の経営に携わる傍ら、日本体育協会専務理事、日本オリンピック委員会委員長、国際オリンピック委員会理事、同名誉委員、日本馬術連盟会長、日本スケート連盟会長、全国ラジオ体操協会会長など、複数のスポーツ関連団体の役職を歴任し、同時に15団体の役員を兼ねている時もあったと言う。また、1964年東京・1972年札幌両オリンピックの招致に尽力し、体育の日制定にも携わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%81%92%E5%BE%B3
   -恆和(つねかず)-恒泰(つねやす):この二人を知らない人はいないだろう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%81%86%E5%92%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E6%81%92%E6%B3%B0

⇒貞明皇后の薫陶を受けたということか、本人も、子の竹田恒徳も、見事に務めを果たしたと言えよう。(太田)

  (4)成久王妃房子内親王/北白川房子(1890~1974年)

 「母は権典侍・園祥子。・・・1909年(明治42年)4月29日、北白川宮成久王と結婚する。・・・1923年(大正12年)、成久王らと供にフランス遊学中に成久王の運転する車が事故を起こし成久王は即死、房子も複雑骨折の大怪我を負い、このため以後は足が不自由となる。
 さらに長男の永久王<(下出)>も、1940年(昭和15年)9月、蒙古で行われていた陸軍の演習中に事故死するという悲運に見舞われる。
 戦後は1947年(昭和22年)に女性初の神宮祭主となり、神社本庁総裁も務める。同年10月14日、・・・皇籍を離脱し北白川房子となる。戦後の混乱期を実質的な女当主として借家住まいなどの苦労を重ね財産の保持に尽力、旧宮家では没落を免れた数少ない例となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E6%88%BF%E5%AD%90

(参考)

〇北白川宮永久王(1910~1940年):その子

 「1924年(大正13年)、東京陸軍幼年学校に入校(28期)。・・・2年在学中、旅行の誘いを断って靖国神社例大祭に参列したことは、教官たちにも感銘を与えた。
 続いて陸軍士官学校予科、同本科(43期・・・)・・・。少尉任官間もない1931年(昭和6年)頃、李鍝<(注34)>と親しく交流した。・・・

 (注34)1912~1945年。「父は大韓帝国皇帝高宗の五男李堈。母は側妾の金興仁。純宗、李王垠の甥に当た<る。>・・・<学習院、中央幼年学校、陸士、陸大。広島で被爆死。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E3%82%B0%E3%82%A6

 1939年(昭和14年)には陸軍大学校を卒業(52期)。・・・
 陸軍大学校時代には陸大52期生と海軍大学校37期生とで盛んに交流を持ち「二元会」とし、さらに後輩の陸大53期生が加わることも認めた。これは、「陸海軍が一体であるべき」という永久王の信念に基づく。・・・
 1940年(昭和15年)3月、蒙彊方面の駐蒙軍に初出征。同年6月17日より参謀の職についていた。・・・永久王が統裁した特別指導訓練の最終日である9月4日午前11時過ぎ、不時着して来た戦闘機の右翼の先端に接触、右足膝下切断、左足骨折、頭部に裂傷という状態で病院に運ばれたが、同日午後7時過ぎに薨去した。・・・
 妃の祥子は、皇籍離脱後、香淳皇后の女官長を長く務め、2015年(平成27年)に98歳で亡くなった。長男の北白川道久も2018年(平成30年)に81歳で没し、北白川家の男系は断絶した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%8E%8B

⇒務めを果たしたことにしよう。(太田)

  (5)鳩彦王妃允子内親王(1891~1933年)

 「母は園祥子。・・・朝香宮鳩彦王と結婚する。・・・1923年(大正12年)、夫が留学先のパリでの自動車事故で重傷を負った。この時に運転をしていたのは北白川宮成久王で、成久王は即死、同乗していた実姉・房子内親王も重傷を負った。東京にいた允子内親王も急遽パリに向かうこととなる。その後、夫の静養に同行するとの名目で2年間パリに滞在。そのころ流行していたアール・デコへの造詣を深め、日本帰国後にアール・デコ仕様の新宮邸を建設するのに尽力した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%BD%A6%E7%8E%8B%E5%A6%83%E5%85%81%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

(参考)

〇朝香孚彦(たかひこ。1912~1994年):その子

 「陸軍大学校卒業後、航空兵科に異動し、陸軍航空本部教育部部員、第51航空師団参謀等をつとめた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%A6%99%E5%AD%9A%E5%BD%A6

〇音羽正彦(ただひこ。1914~1944年):同じく

 「1936年(昭和11年)4月1日、願により臣籍降下し音羽侯爵家を創設<。>・・・
 学習院中等科卒、海軍兵学校(第62期)卒、海軍砲術学校修了。赤城、山城、陸奥各分隊長等を歴任し、第6根拠地隊参謀の海軍大尉として、マーシャル諸島のクェゼリン島で戦死する(クェゼリンの戦い)。・・・
 1940年(昭和15年)11月14日、第1次近衛内閣で拓務大臣を務めた大谷尊由<(前出)>の次女・益子と結婚。1944年(昭和19年)1月5日、貴族院侯爵議員に就任。同年2月6日に戦死。夫妻に子供はなく、音羽侯爵家は廃絶となる(益子はその後、小坂財閥の小坂善太郎と再婚)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E7%BE%BD%E6%AD%A3%E5%BD%A6

⇒本人はともかく、子供達は務めを果たした。(太田)

  (6)稔彦王妃聡子内親王/東久邇聡子(1896~1978年)

 「母は園祥子。1915年(大正5年)に東久邇宮稔彦王(後の内閣総理大臣歴任:東久邇宮内閣)と結婚し、盛厚王、師正王、彰常王、俊彦王の4男をもうける。その中の長男・盛厚王は昭和天皇第1皇女・照宮成子内親王と結婚した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%B9%85%E9%82%87%E8%81%A1%E5%AD%90

(参考)

〇東久邇盛厚(1916~1969年):その子

 「学習院、陸軍士官学校予科を経て1937年(昭和12年)6月陸軍士官学校を卒業・・・。1939年(昭和14年)、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った。1943年(昭和18年)10月13日、昭和天皇第1皇女の照宮成子内親王と結婚。
 その後、陸軍砲工学校、陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。1946年(昭和21年)、一般受験生に混じって東京大学を受験したが不合格となり、「昔なら無条件入学なのに」と話題となる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9B%E5%8E%9A%E7%8E%8B

⇒務めを果たしたとは言えない。(太田)

〇粟田彰常(1920~2006年):同じく

 「1940年(昭和15年)5月13日に皇族議員として貴族院議員となり、同年9月陸軍士官学校(54期)を卒業する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%9F%E7%94%B0%E5%BD%B0%E5%B8%B8

〇多羅間俊彦(1929~2015年):同じく

 「学習院に学び、陸軍予科士官学校へ進むが、在校中に太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦を迎える(61期、陸士最後の期)。・・・
 1949年頃、長年ブラジルで暮らしていた外交官多羅間鉄輔の未亡人多羅間キヌの養子となる話が持ち上がった。1950年秋に、慶應義塾大学法学部政治学科を卒業してからは、ポルトガル語の勉強を始めた。両親は、ブラジル行きには強く反対しなかったという。1951年にブラジルに移住。キヌが所有していたサンパウロ郊外のリンスのコーヒー園を10年間ほど経営したのち、サンパウロに移り、ブラジル日本文化福祉協会理事会の副会長を務めるなど日系ブラジル人社会の中で活躍した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%BE%85%E9%96%93%E4%BF%8A%E5%BD%A6

 11 山縣家–山縣有朋

 現在進行形(未公開)の「伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む」シリーズに譲る。

 12 大久保家

  (1)大久保利通(1830~1878年)

 (省略)

  (2)牧野伸顕(1861~1949年)。

 「1861年・・・10月22日・・・、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(後の利通)と妻・満寿子の次男として生まれた(幼名は大久保伸熊といった)。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年・・・に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争(新潟)で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った。
 1871年(明治4年)、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て1874年に帰国し開成学校(後の東京帝国大学)文学部和漢文学科に入学する。1880年(明治13年)、東京大学を中退して外務省入省。ロンドン大使館に赴任し、憲法調査のため渡欧していた伊藤博文と知りあう。帰国後、太政官権小書記官、法制局参事官、兵庫県大書記官、黒田清隆首相秘書官、福井県知事、茨城県知事、文部次官、在イタリア公使、オーストリア公使等を歴任した。牧野は太政官権小書記官時代、伊藤に随行し北京にて伊藤と李鴻章との駆け引きを肌で感じたという。オーストリア公使時代には日本とギリシアとの通商条約締結、ロシアとの戦争を見越した情報宣伝操作、第1次大戦後の君主国の動向の調査などがある。<欧州>において黄禍論の広まりを防ごうとした。また、<英>王室外交の有効性を指摘している。
 牧野は第1次西園寺内閣で文部大臣を務めた際、1907年(明治40年)11月4日に外交官時代の功績によって男爵を授けられた。文部大臣時代の功績として義務教育の年限を4年から延長して6年としたこと(1907年)と文部省から1万円を支出して、美術展覧会・文展が開かれたことがある(1907年)。

⇒「牧野<は、>・・・文部次官・・・の時、西園寺公望の知遇を得<た>」
https://honto.jp/netstore/pd-review_0625952803.html
ということになっているが、それ以前に、隠れ薩摩藩士の山縣有朋が、大久保利通の子である牧野を西園寺に引き合わせていた、と見る。(太田)

 第2次西園寺内閣で農商務大臣。さらに枢密顧問官に転じた後、第1次山本内閣で外務大臣となる。山本権兵衛と三浦梧楼から、山県閥への牽制として当初宮内大臣への就任を打診されたが、政府と宮中の長官を薩摩人が占めることに誤解を抱かれるとの懸念から辞退している。

⇒私に言わせれば、そもそも、牧野が山縣「閥」への牽制になるわけがないのだ。(太田)

 この時期の牧野は、伊藤やその後継者である西園寺公望に近く、初期の政友会と関係の深い官僚政治家となり、対外協調的な外交姿勢と英米型自由主義による政治姿勢を基調とし、一方では薩摩閥により広く政界、外交界、宮中筋と通じるという、独自の地位を築きあげた。1914年(大正3年)3月31日、貴族院勅選議員に任じられる。

⇒西園寺は山縣の後継者なのであって、断じて伊藤博文の後継者ではない!(コラム#省略)(太田)

 1919年(大正8年)、牧野は第一次世界大戦後のパリ講和会議に次席全権大使として参加した。一行の首席は西園寺であったが実質的には牧野が采配を振っており、随行員には近衛文麿や女婿の吉田茂、松岡洋右などがいた。

⇒西園寺、牧野、近衛、吉田、の揃い踏みのよって来る所以はここでは繰り返さない。(コラム#省略)(太田)

 パリ講和会議では、日本の次席全権大使として人種的差別撤廃提案を行っている。1920年(大正9年)9月7日、牧野はパリ講和会議の論功行賞により男爵から子爵へ陞爵し、同時に旭日桐花大綬章を授けられた。
 1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ牧野が宮内大臣に就任することとなった。が、薩派の山之内一次や樺山資英らが牧野を松方・山本の後を嗣ぐ次代のエースとみなしており、辞退を勧告した。また、西園寺公望も宮相就任の挨拶に来た牧野に「宮相も従来からの候補であったが、首相として原敬の後を引き受けてもらいたかった」と発言している。穏健な英米協調派で自由主義的傾向が強い牧野を宮内大臣に推したのは、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるという。

⇒いや、西園寺が、同志牧野を、自分の実質的後継者にするために宮相に据えたのだ。(コラム#省略)(太田)

 これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。

⇒「自由主義」はポーズに過ぎなかったが、対米英宥和姿勢を見せることで、米英が露骨な反日政策を採る時期を後ろ倒しにするという狙いがあった。(太田)

 宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる。だが宮相になった翌年に山県が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。
 1925年(大正14年)、牧野は内大臣に転じ1935年(昭和10年)まで在任した。牧野は常侍輔弼という大任に加え、後継首相の選定にもあずかることになった。牧野は内大臣就任直後、同年4月9日伯爵に陞爵する。宮相在任中の皇太子洋行、摂政設置、皇太子結婚などの任務挙行の功績による。牧野に対する天皇の信頼は厚く、15年後、多難な時期に退任の意向を聞いた昭和天皇が涙を流したという逸話がある。

⇒杉山構想について、何も知らされず、現に何も知らないまま生涯を終えることになる昭和天皇だったわけだ。(太田)

 牧野の後任の内大臣には湯浅倉平を推薦し、牧野はその後も宮中、外交への影響力を保持し続けようとした。

⇒湯浅の後任の木戸幸一も牧野が就けたと見るべき(コラム#省略)であり、大久保利通の子である自分だけでなく、木戸孝允の係累の木戸幸一もまた、杉山構想の完遂に関わらせなければならない、という遊び心・・手掛かり(?!)・・もそこに働いた、と見たい。
 もっとも、木戸幸一の場合、牧野ほど、杉山構想隠蔽方法がスマートではなかったため、戦後、極東裁判で危うく死刑に処されるところだった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80 (太田)

 健康がすぐれず、また、就任以来15年になるので人心を新たにすることを退任の理由とした。牧野には当時持病として神経痛とじんましんがあり、1932年以降には、宮中での晩さん会の中座、陸海軍大演習の不参といった、公務にも支障をきたすほどの容体になっていた。
 1936年(昭和11年)、牧野は二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫でもある麻生和子(吉田の娘で麻生太郎の母。)の機転によって窮地を脱した一方で、護衛の警官が殺害された。また牧野を殺害対象としたテロ計画は、この事件の前にも8件もあった。
 牧野は第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をした。

⇒元老格と言ってよかろう。(太田)

 最晩年は千葉県東葛飾郡田中村に居住した。戦後も皇室と天皇の処遇に関心があり、GHQで憲法問題担当政治顧問のケネス・コールグルーヴと会談し情報を天皇に伝え、天皇謁見を依頼したり、東京に帰った明仁親王に幕末の外交談や留学談、英米の政治家の懐旧談を語った。オールド・リベラリストの1人として牧野の評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に推す声さえあった。しかし牧野は老齢を理由に政界に復帰することはなかったものの、娘婿の吉田茂は総理になった後に国政運営の相談を兼ねて度々牧野のもとを訪れていたと伝わる。

⇒相談と言うより、自分の首相「任命者」に指示を仰ぎに訪れていたのだろう。(太田)

 牧野は1949年(昭和24年)1月25日、田中村の自宅でその生涯を閉じた。87歳。牧野の死後、ほとんど財産らしきものは残っていなかったという。・・・
 また、シャーロッキアンの草分け的存在としても有名である。・・・

⇒このことの重要性を私は強調したい。(太田)

 内大臣時代秘書官長として仕えた木戸幸一も、牧野は「非常に頭が柔軟であった、若いわれわれが話せるような空気がある」と評している。
 牧野には「保守」と「進歩」のアンビバレントな両面性があり、有馬頼寧の同和問題への取り組みを評価したり、大川周明や安岡正篤を尊王家として評価したりしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95

⇒「進歩」「自由主義」「オールド・リベラリスト」イメージは単なるイメージに過ぎず、牧野は徹頭徹尾、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者としてその生涯を送ったのだ。(太田)

13 木戸家

  (1)木戸孝允

(省略)

(2)木戸孝正(1857~1917年)

 「長州藩士・来原良蔵、治子(木戸孝允の妹)夫妻の長男として生まれる。木戸孝允の養嗣子であった弟木戸正二郎の死去に伴い、木戸家を継承し1884年(明治17年)11月18日、侯爵を襲爵(しゅうしゃく)。1890年(明治23年)2月、貴族院令施行により貴族院侯爵議員に任じられ死去するまで在任した。
 1871年(明治4年)<米>国に留学。帰国後、開成学校、東京大学理学部、大阪専門学校を修了。1882年(明治15年)以降、山口師範学校教諭兼同山口中学校教諭、駅逓局属、農商務省御用掛、主猟官などを経て、1902年(明治35年)に東宮侍従長兼式部官、1908年(明治41年)に宮中顧問官式部官兼閑院官別当となる。1911年(明治44年)には維新資料編纂委員を務めた<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%AD%9D%E6%AD%A3

⇒「親」の七光り的な平凡な経歴だと言える。(太田)

  (3)木戸幸一(1889~1977年)

 「学習院高等科では原田熊雄、織田信恒などと同級だった。近衛文麿は1学年下に当たる。「学習院高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学へ行けというような話」があり、木戸、原田、織田は京都帝国大学法科大学政治学科に入学し、河上肇に私淑した。

⇒東京出身なのに京大へ行った理由なるものは、入学試験を回避したことを糊塗したメーキングだろう。(太田)

 同校卒業後は農商務省へ入省した。農商務省が農林省と商工省に分割の際は、商工省に属することとなる。・・・

⇒高文は通ったので、近衛文麿よりは成績が良かったのだろうが、農商務省には、元農商務省御用掛だった実父のコネではなかろうか。(太田)

 1915年(大正4年)に農商務省に入り、農務局で蚕糸業改良の調査から水産局事務官、工務局工務課長、同会計課長、産業合理局部長などを歴任する。父の死去に伴い、1917年(大正6年)8月30日、侯爵を襲爵し貴族院侯爵議員に就職した(1945年12月27日辞任)。
 商工省では臨時産業合理局第一部長兼第二部長を務め、吉野信次と岸信介が起案した重要産業統制法を岸とともに実施した。1930年(昭和5年)、友人であった近衛文麿の抜擢により、商工省を辞し、内大臣府秘書官長に就任。

⇒当時の近衛文麿にそんな力などあったはずがない。
 西園寺と牧野が相談して引っ張ったのだろう。
 そのココロは、木戸幸一が、彼らの指示に素直に従う程度の器量だったことと、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス完遂戦争の末期に、明治の元勲の「子孫」が内大臣でいることも一興だと考えられたこと、ではないか。(太田)

 1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて日本の陸軍皇道派が起こした二・二六事件では杉山元や東條英機をはじめとする陸軍統制派と連携して事件の処理を行い、その功績を昭和天皇に認められ、中央政治に関与するようになる。
 1937年(昭和12年)の第1次近衛内閣で文部大臣・初代厚生大臣(1938年1月11日就任)、1939年(昭和14年)の平沼内閣で内務大臣を歴任する。・・・

⇒これは、近衛の引きによるものだろう。
 もちろん、西園寺と牧野は、木戸に、いずれ、内大臣として宮中に戻るよう申し渡したはずだ。(太田)

 1940年には近衛と有馬頼寧と共に「新党樹立に関する覚書」を作成し、近衛新体制づくりに関わった。
 1940年から1945年(昭和20年)に内大臣を務め、従来の元老西園寺公望や元・内大臣牧野伸顕に代わり昭和天皇の側近として宮中政治に関与し、宮中グループとして、学習院時代からの学友である近衛文麿や原田熊雄らと共に政界をリードした。

⇒原田は西園寺の私設秘書であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E7%86%8A%E9%9B%84
木戸は、要は、西園寺/牧野の掌中にあったわけだ。
 近衛自身が、西園寺/牧野/杉山の傀儡だったことを想起せよ。(太田)

 親英米派でも自由主義者でもな<く>、親独派として知られた。

⇒西園寺/牧野ほどの器量がなかった木戸は、「親英米派・・・自由主義者」のフリをする演技力など持ち合わせていなかったということ。
 もちろん、木戸も、親独派ならぬ、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者ではあったことだろう。
 (ちなみに、木戸孝允は、「独学」で秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者になった、と書いたことがある。(コラム#省略))(太田)

 几帳面な官僚主義的性格の持ち主で、天皇の信頼は厚かった。西園寺が首班指名を辞退したのちは、木戸が重臣会議を主催して首班を決定する政治慣習が定着、終戦直後にいたるまで後継総理の推薦には木戸の意向・判断が重要となる。とりわけ1940年11月に西園寺が死去したのちは、木戸は首班指名の最重要人物となった。

⇒文章がおかしい。
 西園寺が死ぬまで「首班指名の最重要人物」だったということだろう。
 また、ここで牧野に言及していないのもおかしい。(太田)

 開戦の是非を巡る近衛と陸海軍との軋轢と、日米交渉の行き詰まりによって第3次近衛内閣は1941年(昭和16年)10月に総辞職した。後継候補としては、陸軍将官でもあった東久邇宮稔彦王による皇族内閣が東條も含めた広い支持を集めており、近衛もこの案を昭和天皇に奏上した。ところが天皇は「若し皇族総理の際、万一戦争が起こると皇室が開戦の責任を採る事となるので良くないと思つた」ために否定的であった。そこで内大臣室にて辞表提出後の近衛と後継について密談した木戸は、及川古志郎海相と東條英機陸相の名を挙げるも、及川では陸軍が陸相を出さないだろうと反論される。こうして後継候補決定に最も影響力を有する2人の間では東條指名で固まった。

⇒と、『木戸幸一日記』に書かれているということなのだろうが、この日記、ウソが書かれているので評判が悪い。(コラム#省略)
 ここもウソで、杉山元らが(昭和天皇にうまく取り入っていた)東條を強く推していたのでそうした、というだけのことだろう。(太田)

 同月17日に宮中で開かれた重臣会議において、林銑十郎から東久邇宮の出馬を求める声が挙がった。これに対し、「万一皇族内閣の決定が、開戦ということになった場合を考えると、皇室をして国民の怨府たらしむる恐れなきにあらず」と述べ反対した木戸が東條を推す。すると若槻禮次郎には、東條では外国に対する印象が悪くなる、木戸の考えは「やけのやん八」ではないか、と反論された。かといって及川では陸軍の同意が得られぬと、海軍出身の岡田啓介と米内光政が述べると、代わりの宇垣一成であっても同様と阿部信行が発言した。他にこれといった人物も挙がらぬ中、最終的に阿部、広田弘毅、原嘉道からの賛同を得た木戸は、その日の午後に天皇へ東條を後継内閣首班とすることを奉答した。
 木戸が東條を推挙した理由としては様々な説が唱えられてきた。木戸は戦後になって、当時既に対米戦争の開戦と敗北は必至であるとみており、皇族が開戦時の首相では問題になると考えたと述べている。「対米開戦を主張する陸軍を抑えるには現役陸軍大臣で実力者である東條を使うしかなく、また東條の昭和天皇に対する忠誠心は非常に強いので、首相になれば天皇の意向に沿って開戦反対に全力を尽くしてくれるだろう」との考慮があったとされることも多い。昭和天皇も東條の首班指名を聞いて「虎穴にいらずんば虎子を得ずだね」とコメントしていることもこの説の傍証となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%88%B8%E5%B9%B8%E4%B8%80 前掲

⇒繰り返しになるが、木戸を内大臣府秘書官長に受け入れたのは当時内大臣だった牧野伸顕であり、その後、牧野の後の内大臣は湯浅、その後の内大臣は木戸、という路線を牧野は敷いてから1935年に内大臣を辞したと私は見ているわけだ。
 しかも、その「牧野は<、>第二次世界大戦下にあっても天皇の信頼は衰えず、数度宮中に招されて意見具申をした。・・・戦後も皇室と天皇の処遇に関心があり、GHQで憲法問題担当政治顧問のケネス・コールグルーヴと会談し情報を天皇に伝え、天皇謁見を依頼したり、東京に帰った明仁親王に幕末の外交談や留学談、英米の政治家の懐旧談を語った。オールド・リベラリストの1人として牧野の評価が高まり、一時は鳩山一郎追放後の自由党総裁に推す声さえあった。しかし牧野は老齢を理由に政界に復帰することはなかったものの、娘婿の吉田茂は総理になった後に国政運営の相談を兼ねて度々牧野のもとを訪れていたと伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E9%87%8E%E4%BC%B8%E9%A1%95
といったことから、昭和天皇に強い影響力を、引退後も、しかも戦後においてさえ、維持し続けたことが分かるのであり、首相の指名に当たっても、牧野は、西園寺と共に、木戸を通じて重要な役割を果たし続け、西園寺の死後は、単独でその重要な役割を果たし続け、それは、自分の女婿の吉田が戦後首相に初めて就く時まで続いた、というのが私の見方であるわけだ(コラム#省略)。

 14 終わりに

 私は現在73歳だが、明治元年(1868年)に73年を足すと1941年、つまり、対英米戦開始年になる。
 で、何度か指摘してきていることだが、自分のこれまでの歩みを振り返ると、70年なんてあっという間だ、と心底思う。
 実際、西園寺のケースで言えば、彼は幕末に既に日本の政治史に残る活躍をし、1940年に亡くなるまで、その活躍を続けた。
 私が何を言いたいかというと、幕末から先の大戦までは一瀉千里であって、本人または本人とその子くらいでもって駆け抜けることができたのであって、駆け抜けるにあたって、その本人はまたはその本人とその子が同じ思いを抱き続ける、ということはありうるし、現に、日本の幕末から終戦まではそのような人がたくさんいた、ということだ。
 更に言えば、日本の指導層のコアの部分は、私の言う、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサスの実践という思いを共有してこの時代を駆け抜けたのだ。
そのコアの部分の指揮を執ったのが、幕末における近衛忠煕からバトンを受け継いだ、大久保利通であり、次いで山縣有朋であり、次いで西園寺公望であり、最後に牧野伸顕だったわけだ。
 そして、最終段階で、西園寺と牧野を補佐したのが杉山元だった。
 そのことを、今回のII部を読んで得心いただくことができたとすれば、それに過ぎる私の喜びはない。
 なお、この時代の通史的なものを読みたい方は、既に公開されたもの、公開を待っているもの、現在有料コラムを書き綴っているもの、にわたるところの、西園寺公望3シリーズ(小泉達生『明治を創った男–西園寺公望が生きた時代』を読む、永井和『西園寺公望–政党政治の元老』を読む、鈴木荘一『陸軍の横暴と闘った西園寺公望の失意』を読む、)と伊藤之雄『山県有朋–愚直な権力者の生涯』を読む、の各シリーズに目を通していただきたい。

III 文明の衝突としての昭和

 今回、昭和天皇を正面からは取り上げなかったが、同天皇の君臨した昭和とは、秀吉流日蓮主義/島津斉彬コンセンサス信奉者達が体現していた日本文明を、同天皇が、日本国民のルソーの言うところの一般意思
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E6%84%8F%E5%BF%97
的なものを汲み取って、私の言う縄文モードへの恒久的転換、すなわち、プロの軍人がいなかったところの、プロト日本文明、への回帰を図り、それに成功した時代であった、と言えそうな気がしてきた。
 仮にそうだとすると、昭和は、日本文明とプロト日本文明とが衝突し、後者がついに勝利を収めた時代だった、ということになる。
 前から指摘していたことだが、昭和天皇は、まず、1929年に張作霖爆殺事件の処理を巡って田中義一を叱責することで、縄文モードへの回帰を宣明し(コラム#省略)、今回初めて指摘したことだが、1945年に日本の恒久的武力放棄を吉田茂に命じることによってプロト日本文明への回帰を決定づけた。
 問題は、昭和天皇の意図に反して、一つには、当時の・・現在のでもある・・日本が、プロト日本文明時代の日本に比して、遥かに深刻な国際的脅威に晒されていることであり、だからこそ、昭和天皇は、信頼できる軍事超大国たる特定の外国に日本の安全保障を委ねることを同時に吉田に命じた結果、日本が脳死することが運命づけられたことであり、もう一つには、恐らくプロト日本文明の時代がそうであったように、一人の権威の担い手が日本全体に君臨する天皇的なものが必ずしも必要とされず、だから必ずしも存在しない時代・・天皇制の存在しない時代・・の到来もまた、運命づけられてしまったことだ。
 幸か不幸か、我々は、このような日本に生きている。

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太田述正コラム#12834(2022.6.25)
<2022.6.22オフ会次第>

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