太田述正コラム#12668(2022.4.3)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その17)>(2022.6.26公開)
「この間の3月14日に島津久光が再び上京した。
前年から中川宮尊融親王(青蓮院宮は正月28日に還俗した)や正親町三条実愛たちから上京を求められていたが、それがここに実現したのである。
国の方針が定まらないなかで将軍が上京すれば、尊攘派によって即今攘夷に突き進むような事態になるかもしれない。
[即今攘夷論]
「・・・1862・・・七月、長州藩の藩論は航海遠略説から攘夷論に転換した。そして注意すべきは、六日の御前会議に明らかなように其の転換が単なる攘夷論ではなく、ただちに条約を廃棄するという即今攘夷論へのそれであったことである。この時期、朝廷は攘夷論を説いているが、それは即今攘夷論ではない。三事策諮問のさいの御沙汰書は一般的な攘夷論であり、親政勅語が述べるのは、幕府の十年以内攘夷の約束とそれが果たされないときの親政である。そして十年以内の攘夷論は、逆に見れば十年間の攘夷の猶予を意味するものであったことはすでに述べたとおりである。それにもかかわらず、長州側は即今攘夷を問題とし、その実現を目指す方針を決定している。長州は攘夷論に転換しただけでなく、それを急進化させたのである。
こうした急進化はなぜ生じたのだろうか。何より重視すべきは、当時の京都の政治的雰囲気、尊攘論の高揚だろう。
⇒自然現象ではないのだから、誰が、或いは、いかなるグループが、はたまた、いかなる機関が、その政治的雰囲気なるものを作り出したのか、すら書かずして、こんなことを言ってはなるまい。(太田)
時代が一つの方向に大きく動くときは、その方向の最急進論を唱える者が主導権を握ることができる。
⇒実証済みの具体的な事例を一つすらあげえずして、こんなことを言ってはなるまい。(太田)
長州京都藩邸の藩官僚たちは尊攘論の流れの先端に自らを置くことで政局の主導権を握ろうとしたものと思われる。・・・
⇒傍証すらあげられない主張など行うべきではないのに、「思われる」と書いて主張してしまうのでは、歴史学者ではなくフィクションライターだ、と詰られても致し方あるまい。(太田)
・・・1862・・・閏八月二十七日に即今攘夷論承認の勅旨を得た尊攘派は、さらにだめ押しをしようとする。それは、即今攘夷を命じる勅使を再度幕府に派遣しようという構想であった。・・・
別勅使の派遣は閏八月十四日の猶予沙汰書に矛盾するものであり、また近衛関白・中川宮・議奏の中山が望まないものであった。それにもかかわらずこれが決定されたのはなぜだろうか。
その中心要因は、尊攘派の圧力であった。・・・」(高橋秀直(注23)『幕末維新の政治と天皇』(吉川弘文館)より。林俊嶺「真実を知りたい-NO2」から孫引き)
https://blog.goo.ne.jp/yshide2004/e/040da956bf03809ffc92092757600370
(注23)1954~2006年。京大文卒、同大院博士後期課程単位取得退学、日本学術振興会、神戸商科大等を経て、京大助教授、教授。京大博士(文学)。専門は日本近代政治史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%A7%80%E7%9B%B4
⇒「圧力」についての説明もないが、当時のことだからテロを受ける可能性のことであると想像されるところ、中川宮や中山はともかくとして、近衛忠煕に関しては、薩摩藩・・私見では、この当時は、正しくは薩摩藩を牛耳っていた島津斉彬コンセンサス信奉者達と言うべきか・・と一心同体であり、薩摩藩の武力によって守られていた以上、彼に関しては、その言動の自由は、大藩の藩主並みにはあったと見てよいのであって、彼が、タテマエのみならずホンネにおいても「望まないものであった」のならば、関白なのだから、「決定され」ないようにすればよかったはずだ。
ということは、逆に言えば、忠煕が、「望」んだからこそ、そういう決定をさせた、決定をした、と、我々は、少なくとも措定してみるべきなのだ。(太田)
久光は将軍上京に反対し、その費用を武備充実に充てるべきだと考えていた。
京都に到着した久光は近衛邸を訪れ、近衛忠煕、鷹司輔煕、中川宮、一橋慶喜、松平容保が列席するなかで建白書を提出した。
建白内容は、攘夷を軽率に行うべきではない、暴論を信用する公家を退け、浮浪や藩士の暴論家を処分すること、中川宮以下を復職させること、幕府に大政を委任すること、無用な藩主と藩士は帰国させること、など14ヵ条であった。
また久光は国事御用掛の廃止を求めたが、これには中川宮が反対した。
結局、この建白に対して発言する者はいなかった。
後日、近衛と鷹司に建白に対する回答を求めたが、反応はなかった。
京都の攘夷熱を察知した久光は、これ以上滞京しても意味がないと判断した。
3月18日には京都を出立し、4月11日に鹿児島に戻った。
⇒薩摩藩の中で浮き上がっていた久光が、行った建白を、近衛、鷹司、一橋、が、とりわけ、「幕府に大政を<従来通り>委任すること」のくだりを一体どんな顔つきをしながら承っていたか、知りたいものです。
この3人は、攘夷熱を掻き立て、倒幕を実現する計画がいよいよ佳境に入って来たということを熟知していたというのに、久光は、自分が実質的藩主でありながら、倒幕のための策源地を自分の藩が提供していることに全く気付いていなかった様子なのですから・・。(太田)
(続く)