太田述正コラム#1578(2006.12.20)
<できそこないの米国(その1)>
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本日、入金が確認できたのはわずかに2人であり、目標の129人まで後63人もあります。新規有料講読の申し込みも8人のまま、コラム執筆を引き受けてくださった方も1人のままです。28日までに完全有料化回避を達成するのはかなり絶望的になってきました。
既存有料読者で継続される方のうち、振り込み口座が分からない方、新規申し込みをする方、コラム執筆等助っ人をかっていただける方は、ohta@ohtan.net へ。
ある継続読者からのメールをご紹介しておきます。
前回同様、購読者募集に気をやんでおられるご様子ですね。有料コラムを扱うサイト等をお使いになられては如何でしょうか。自由開放度は下がるかも知れませんが、宣伝効果は大きいかと。利用側としては購読単位や決済手段が多様な方が良いものです。例えば、私の場合は週3回配信が程良く、月単位カード決済が希望です。執筆者は当然大変だとは思いますが、読む方も楽なわけではないです。楽しいですけどね。
来年下半期には、おっしゃるような形に改めることも考えてみたいと思います。
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1 読者の問題提起
コラム#1538(1539)をめぐって、バグってハニーさんが、次のような投稿をされています(ブログ及びホームページの掲示板参照。少しはしょりました)。
・・テト攻勢と米軍の撤退は、米国には報道の自由<があり、かつ>戦争を遂行するためには国民の総意が必要であることを指し示す好例であって、つまり米国は自由と民主主義の優等生であることを示しているのであって、なぜそれが「出来損ないのアングロサクソン」になるのか理解できません。
・・北ベトナムを殲滅するまでベトナムからは撤退できず、ピッグズ湾事件を巡ってキューバと全面戦争、湾岸戦争ではクウェートを開放するだけでは満足させられずバグダッドまで攻め上がらなければならない、というのだったら、大男に知恵が回る前に体力と金を使い果たしてしまいます。ケーガンが言うところの「米国は外国に関与すると非難され、非難されることを恐れて関与しなくても非難される」という反米論そのものではないでしょうか。
・・問題なのは米国に全か無を要求している点にあると思います。現実的には、その中間を選択するほうが理に敵っている場合も多いでしょう。
例えば、キューバの政権転覆を目指すために亡命者を反乱軍に仕立て上げるのはコストもほとんどかからないお手軽な軍事オプションですし、逆にそのようなお手軽な軍隊を支援してキューバやソ連との全面戦争をリスクするというのはばかげています(ピッグズ湾事件の翌年にキューバ危機が訪れます)。
あるいはパーレビ国王にしても実際にはその後治療のために米国に立ち寄ることを許可されていますが、これに反発したイランの学生がテヘラン米大使館占拠事件を起こしたことからも分かるように、国王の亡命を認めることはリスクが非常に高かったわけです。用済みの外国要人のために自国民を危険に晒すというのでは指導者として失格だと思います。お友達を裏切らないためには自国の有権者を裏切ってもよい、ということにはなりません。
最後に米国の名誉のために付け加えておきますが、米国は一度はお友達を裏切ったかもしれませんが、完全に見捨てたわけではありません。ピッグズ湾事件の反乱軍はその場でほとんどが捕らえられましたが、ケネディはカストロに身代金を払って取り戻しています。国王は亡命できなかったかもしれませんが、それ以外の王族で米国に亡命できた人はいます(知り合いに超金持ちがいる)。ブッシュ大統領の息子もシーア派とクルド人の敵を討ち取ったでしょ?・・
2 私のお答え
(1)ピッグス湾事件について
ア ピッグス湾事件の概要
まず最初にピッグス湾事件についてです。
ピッグス湾事件を忘れかけておられる方も少なくないと思うので、少し詳しくご説明しましょう。
1959年にキューバで革命が起こり、親米派のバチスタからカストロが政権を奪取し、米国との間で緊張が高まっていきます。
1960年3月、米アイゼンハワー政権は、米CIAの手でキューバ人亡命者達を反カストロ・ゲリラに育て上げる計画に着手し、アイゼンハワーは米国は反カストロ・ゲリラを支援するという声明を発表します。
この計画を推進したのは副大統領のニクソンでした。
そのニクソンは、同年の大統領選挙でケネディに敗北してしまいます。
翌1961年にケネディ政権が発足しますが、ケネディは上記ゲリラをキューバに送り込んでカストロ打倒を試みるという前政権の計画を追認します。
計画の大前提は、CIAによる、キューバの一般住民の大半は反カストロでありゲリラを歓迎する、との判断でした。
しかし、この判断は全くの誤りでした。
それもそのはずであり、CIAがキューバに送り込んでいたスパイは量質ともに不十分であった反面、ソ連が指導したキューバの対スパイ能力は高く、米国のスパイにわざと偽情報をつかませていたからです。
英国の諜報機関は、キューバの情報を的確に把握しており、CIAにも伝えていたのですが、CIAは聞く耳を持たなかったのです。
しかも、ソ連とキューバはゲリラの内部情報を入手しており、ゲリラ上陸の日にちまでほぼ正確に知っていました。ソ連は、そのことを隠そうともしなかったため、CIAは上陸期日等が漏れていることを知っていましたが、ケネディには伝えませんでした。
1961年4月17日、(キューバも保有している)米国製のB-26B軽爆撃機(米国人操縦)によるキューバの飛行場への空襲と借り上げた4隻の船に乗った1511人のキューバ人ゲリラのキューバ・ピッグス湾への上陸が敢行されます。この上陸作戦には、補給品を積んだ2隻のCIAの上陸用舟艇が随伴しました。
しかし、キューバ軍の反撃にあって19日には、上陸したほぼ全員が捕虜になり、戦闘は終了します。
ゲリラ側は104人が死に、1100数十名が捕虜になりました。他方、キューバ側は2,000人から5,000人が死亡したと見られています、
どうして、この上陸作戦は失敗したのでしょうか。
キューバ政府がゲリラ上陸を事前に知ってゲリラ内応容疑者をいち早く粛清していたことや、キューバの一般住民がゲリラを歓迎しなかったということ、をさておけば、ケネディ大統領が、中途半端な爆撃しか許さなかったために航空優勢なきままゲリラが戦わねばならなかったことと、侵攻準備を整えてキューバ沖で待機していた米海兵隊についに出撃をさせなかったこと、が原因です。
ケネディは、これが米国が指揮した侵攻であることがバレバレであったにもかかわらず、あくまで亡命キューバ人によるゲリラ活動であるとのタテマエにこだわり(注1)、米軍の投入が不可欠となった時にそれを逡巡し、ゲリラ達を裏切ったのです。
(注1)キューバ・ミサイル危機(後述)が終わった後の1962年12月、カストロと米国人弁護士との間で、1,113人のゲリラの捕虜と5,300万ドル相当の食糧・医薬品とを交換する協定が締結されたが、この5,300万ドルは、寄付だけでまかなわれた。もっとも、米国に生還したこれら捕虜達をケネディはフロリダ州で出迎えている。
にもかかわらず、ケネディは全ての責任をCIAに押しつけ、CIAの長官、副長官らを首にしました。
もっとも、それならそれで、ケネディは、爾後米国は一切カストロ政権の転覆は試みないこととすべきであったのに、実際には彼はここでも優柔不断ぶりを発揮し、CIAにカストロ政権転覆活動をその後も続けさせましたし、1962年には米軍がカリブ海の島のOrtsacという指導者を追放するという想定の侵攻作戦の演習を行うのを認めました。Ortsacは右から読めばカストロです。
そのため、カストロは、ケネディ政権は、必ずやキューバへの武力攻撃を再度試みるだろうと考え、まんじりともしないで夜を明かすことになったのです。
このカストロの不安を和らげるために、ソ連がキューバに持ち込むことにしたのが核弾道弾です。
核抑止力で、米国による侵攻を防止しよう、というわけです。
もっとも、これはソ連自身の戦略的利益にも合致していました。
1961年6月にウィーンでケネディとの首脳会談に臨んだソ連の指導者フルシチョフは、改めてケネディーが弱く優柔不断な人間であると確信し、当時米ソ間でソ連が劣位にあった核ギャップ(注2)を、キューバにソ連の核弾道弾を設置することによって解消しようと考えるのです。
(注2)当時のソ連の長距離核弾道弾は、米本土までは届かなかったのに米国の長距離核弾道弾はソ連領内のいかなる場所にも届いた。また、米国は英国やイタリアに加えて、ソ連の国境からわずか150マイルのトルコの基地にもソ連向けの中距離核弾道弾を設置していた。
こうして、ソ連は1962年9月に中距離核弾道弾をキューバに持ち込み始め、これを10月に入って探知した米国のケネディ政権は、フルシチョフの予想に反して強く反発し、22日にキューバの事実上の海上封鎖(quarantine)を発表し、11月にかけて、米ソは核戦争の一歩手前まで行くのです。
(以上、
http://en.wikipedia.org/wiki/Bay_of_Pigs_Invasion
http://www.hpol.org/jfk/cuban/
http://www.globalsecurity.org/military/ops/cuba-62.htm
http://library.thinkquest.org/11046/days/index.html
http://en.wikipedia.org/wiki/Cuban_Missile_Crisis
(いずれも12月20日アクセス)による。)
イ コメント
このように見てくると、ケネディが、ピッグス湾事件を回避しようとしなかったこと、そして起こしてしまったピッグス湾事件で米軍を投入してカストロ政権打倒を図らなかったこと、にもかかわらずその後もカストロ政権打倒政策を追求したこと、がキューバ危機を引き起こし、米ソのみならず、人類全体を危機に陥れた、ということがお分かりになると思います。
思い起こせば、戦後東欧圏が次々に共産党支配下に入った時も1956年のハンガリー動乱の時も米国は東欧がソ連の勢力圏であるとみなして、一切介入しようとはしませんでした。ですから、米国の勢力圏どころか裏庭であるカリブ海諸国においては共産当政権の樹立は許さない、という政策を米国がとっても不思議でも何でもありませんでした。
第一、ソ連は口で抗議はしても、そんな遠くまで兵力を送り込む海軍力がなく、また、核戦力も前述のように当時は米国に太刀打ちできないレベルだったのですから、実際には何もできなかったことでしょう。
問題のキューバでは、ゲリラがピッグス湾に上陸したまさにその日にカストロは、キューバ革命が「マルクスレーニン主義」革命であると宣言した(
http://en.wikipedia.org/wiki/Bay_of_Pigs_Invasion
上掲)のですから、ケネディは、タテマエをかなぐり捨てて、その瞬間に米軍の投入を決断すべきだったのです。
それは米国が、ゲリラに代表されるところの、亡命キューバ人との信義をまっとうする道でもありました。
しかし、ケネディはそれを逡巡したのです。
その結果、カストロのキューバ内での人気はますます高まり、また、カストロは一層ソ連に傾斜し、その上、フルシチョフは、ケネディ組みやすしと思い、それらが、いわば必然的にキューバ・ミサイル危機を惹起させた、と私は考えるのです。
ピッグス湾事件を通じてうかがえるところの、弱体この上もない米国の諜報能力(国際情勢分析能力)や、未熟な人間が国家最高指導者になることがある米国の政治制度、はまさしく英国に比べて米国ができそこないのアングロサクソンである証左なのです。
(続く)