太田述正コラム#12678(2022.4.8)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その22)>(2022.7.1公開)

 「1863<年>・・・12月23日には朝廷の人事が改変された。
 鷹司輔煕に代わって二条斉敬が関白に就任し、二条は右大臣から左大臣に昇格した。
 右大臣には内大臣の徳大寺公純が転任し、内大臣には近衛忠房が就いた。・・・

⇒これもまた、一体化していた五摂関家によるところの、時流の改変、ないしは、時流が変わったこと、のアピール目的での首のすげ替えだった、と見ればよいわけです。(太田)

 1863<年>の秋から、一橋慶喜、松平容保、島津久光らが期待した人物がいる。
 それがこのとき彼らに還俗を望まれた山階宮晃(やましなのみやあきら)親王<(注32)>である。

 (注32)1816~1898年。「伏見宮邦家親王の第一王子。・・・
 親王宣下<(後出)の>翌日に国事御用掛に任ぜられる。
 その後、島津久光と手を結び、一会桑政権と対立。・・・1866年・・・8月30日に大原重徳ら対幕府強硬派公卿22名が行った参内に加担したとみられ、国事御用掛を罷免、蟄居を命じられる。しかし孝明天皇崩御後の・・・1867年・・・3月29日には処分を解かれた。
 明治維新後、・・・1868年・・・1月17日、議定・外国事務総督に就く。2月20日に外国事務局督と名称が変わり、明治政府の外交トップとなる。その直前に発生した堺事件の後始末のため、フランス艦に謝罪に赴いている。閏4月21日に議定・外国事務局督を辞任。
 1886年(明治19年)に大勲位菊花大綬章を受けている。1890年(明治23年)2月、貴族院皇族議員に就任。・・・
 親王は自分の葬儀を帰依していた仏教式で行うよう遺言を残していたが、明治維新以降の皇室の葬祭は古式に基づくもので仏教式で行うのは混乱を招くとする政府は拒絶。・・・このとき田中光顕宮内大臣は皇族に信教の自由はないと述べている。・・・しかし葬儀以外は遺志に従って構わないとし、2月25日に自宅が神葬祭が行われ、墓は泉涌寺雲龍院に建てられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%9A%8E%E5%AE%AE%E6%99%83%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 晃親王は・・・1816<年>に伏見宮邦家親王の第一皇子として生まれるが、母が正妃でないため伏見宮を継ぐことができなかった。
 そこでかれは勧修寺門跡に移り、光格天皇の養子となり、・・・1823<年>に親王となっている。
 ところが、・・・1841<年>に、年下の叔母である隆子女王と京から出奔するというスキャンダルを起こす。
 皇族も許可なく京都を離れることは許されなかった。
 20日程度で京都に戻るが、仁孝天皇の怒りはおさまらない。
 晃親王の養子と親王を取り上げ、東寺で謹慎生活を命じられる。<(注33)>

 (注33)「<私の>祖父・山階宮晃親王は・・・7歳の時に当時の皇族の常として落飾して山科の勧修寺に入ったのだが、天保13年問題を起こして閉門となり、東寺の観智院に軟禁状態となった。こうしたことがきっかけとなり、勤王の志士たちと接触の機会が生まれたのである。英明の聞こえ高かった祖父のもとには、やがて勤王の志士の出入りが激しくなった。・・・1864<年>に三条木屋町通りで刺客に襲われて死んだ佐久間象山も、その日、祖父を訪れて歓談した帰途であった。
 その年、47歳だった祖父は勅命によって復飾し、住んでいた土地の名をとり、山階宮となって、公然と活動を始め、孝明天皇を助けて幕末の多事多難な時代に活躍した。明治維新となってからも、明治天皇の信任はあつく、外国事務総督という、外務大臣に当たる役を務めた。伊藤博文や大隈重信ら、明治の元勲と言われた人々はその下で働いていたという。
 だが祖父は我が道を行く人であった。明治になってから、皇族はことごとく軍人になったのであるが、祖父だけは辞退をしてどうしても軍人にならなかった。祖父の性格を知る明治天皇<の>お許しもあったのであろう、とうとう軍人にはならないただ一人の皇族として通してしまった。文官として過ごした祖父一人のために、皇族用の大礼服が制定されている。今も東京・明治神宮外苑の明治天皇記念絵画館にある憲法発布の絵の中に、明治天皇の側に軍服で居並ぶ諸皇族の中にただ一人、白ズボンの皇族用大礼服に威儀を正した白いひげの祖父の姿がある。
 外国事務総督のあと治部卿を務めて第一線を退いたが、今後はどうしても京都に住みたいと言い出した。当時、皇族はすべて東京に住むことになっていたのだが、明治天皇に強くお願いした結果、とうとう「やむを得ず」ということで許され、当時困窮の極にあった茶道の宗家たちを招いて茶会を開き、これを救いながら、晩年を京都で過ごした。これも皇族の中では唯一の例外であった。
 このように祖父は一度言い出したことはガンとして変えようとしなかった人である。振り返ってみると、私にもこうしたところがある。後年、明治天皇の勅命によって入った陸軍を退役して鳥の研究に専念するようになった時も、また戦後、鳥類保護のために駆け回った時も、持ち前のがんこさが頭を持ち上げたのであろうが、これも祖父という羅針盤が指図していたところなのかも知れない。」(山階芳麿「私の履歴書」より)
https://www.yamashina.or.jp/hp/yomimono/rirekisho/rirekisho01.html
 「1864年・・・、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1

 ・・・1858<年>5月、勧修寺門跡に戻った。
 慶喜らが晃親王に注目したのは、彼が有能な才覚の持ち主であったからである。
 当時の朝廷内には公武合体を重視する中川宮朝彦親王<(1824~1891年)>と、尊攘派に理解を示す有栖川宮熾仁親王<(1835~1895年)>がいた。
 八月十八日の政変によって尊攘派の公家たちは交代させられたが、残った公家たちも攘夷に対する思いは消えていない。
 公武合体を重視する慶喜らは、そうした公家たちを抑える役割を晃親王に求めたと考えられる。
 また政変後に朝廷内で力を持った中川宮を牽制する意味もあったろう。
 ところが、孝明天皇<(1831~1867年)>は晃親王の還俗に反対した。
 その理由は、いくら有能であっても、過去にスキャンダルを起こしたことであった。
 仁孝天皇から処罰された晃親王を許すことは、恐れ多いことだとも述べる。
 公家たちの間でも意見は割れた。
 近衛忠煕が伏見宮を相続させて親王宣下をすべきだと主張したのに対し、関白二条斉敬は伏見宮を相続させるべきではないという。
 さらに議奏正親町三条実愛は両方とも認められないと述べている。
 結局、近衛や二条が久光の意見に賛成したこともあり、孝明天皇も晃親王の還俗を認めることとなる。
 <1864>年正月9日に晃親王は伏見宮に戻り、17日に山階宮の宮号を賜った。
 そして27日に孝明天皇の養子となって親王宣下を受けた。」(153~156)

⇒一橋慶喜は、(恐らくは、事実上、近衛父子の了解を得つつ、)1863年からの晃親王の引き立てや1864年の佐久間造山の京都招致、といった形で、あたかも、自分が公武合体派であるかのような擬態を、ゴリゴリの公武合体派の松平容保、や、やはり公武合体派で薩摩藩内で浮き上がった存在であったところの、島津久光、に対して見せつけて、自分の真意を悟られないようにした、ということではないでしょうか。
 もっとも、慶喜にこうして引き立てられたところの、晃親王、は、結果として、明治天皇に対し、天皇は本来軍事に直接関与すべきではないとの考えを吹き込むこととなった、と、見てよいでしょう。
 この晃親王の孫の山階芳麿が設立した山階鳥類研究所が「皇室との縁が深く、1992年(平成4年)より2005年(平成17年)まで紀宮清子内親王(現:黒田清子)が非常勤研究員として勤め<、>2019年(平成31年)4月1日現在、総裁<が>秋篠宮文仁親王」である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E9%9A%8E%E9%B3%A5%E9%A1%9E%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80
ことは、覚えておいていいでしょうね。(太田)

(続く)