太田述正コラム#12680(2022.4.9)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その23)>(2022.7.2公開)

 「将軍徳川家茂は・・・1864<念>正月15日に二度目の上京をはたした。
 21日に参内した家茂は、天皇から宸翰<(注34)>を賜った。・・・

 (注34)「宸筆ともいい,天皇,上皇がみずから筆をとって書いた文書のことである・・・。宸翰は古く聖武天皇のもの,さらには嵯峨天皇の《光定戒牒》(延暦寺所蔵),宇多天皇の《周易抄》(東山御文庫所蔵)などがあるが,多くみられるのは鎌倉時代以降である。そのうちには懐紙をはじめ,消息,譲状,置文,願文など広範囲のものがみられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%B8%E7%BF%B0-81439

 27日に再び将軍に・・・宸翰<が>与え<られ、>・・・家茂とともに参内した40余人の大名たちにも見せられた。・・・
 <この>21日と27日の宸翰の草稿は、島津久光が中川宮朝彦親王に差し出したものであり、そのことを一橋慶喜は知っていた。

⇒どうせ、近衛父子が薩摩藩内を牛耳っていた島津斉彬コンセンサス信奉者達と書き上げたものを久光に持たせたのであって、京都にいた慶喜との間には情報交換ルートがあって、近衛父子から慶喜が情報を得ていたのでしょう。(太田)

 2月14日、家茂は宸翰に対する奉答を行った。
 破約攘夷については明言を避け、少なくとも横浜鎖港の実現を目指すと約束した。・・・
 翌日、・・・垂簾出御<(注35)>・・・による朝議が開かれた。・・・

⇒天皇が朝議や引見に臨む場合、垂簾出御が常態だったのかどうかを調べようとしたのですが、果たせませんでした。
 「垂簾出御」という言葉を説明するサイトを発見できず、調べることができたのは「出御」(注35)だけでした。

 (注35)しゅつぎょ。「天皇・皇后、また、将軍などを敬って、その外出、また、目下の者の前に出ることをいう語。」
https://kotobank.jp/word/%E5%87%BA%E5%BE%A1-528863

 「」の使用例ですら、発見できたのは2件
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/704/1/0030_058_030.pdf
https://books.google.co.jp/books?id=dhjlcK4a0N8C&pg=RA2-PA3&lpg=RA2-PA3&dq=%E5%9E%82%E7%B0%BE%E5%87%BA%E5%BE%A1&source=bl&ots=bsGgo7m8s6&sig=ACfU3U27ksAaA2LLILn7Ko4f4EXR1u-bkQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwihoNnH14b3AhWPmlYBHe_CBBAQ6AF6BAgfEAM#v=onepage&q=%E5%9E%82%E7%B0%BE%E5%87%BA%E5%BE%A1&f=false
だけです。(太田)

 まず中川宮が慶喜だけを呼び、昨日将軍が差し出した請書には外交交渉で横浜鎖港の談判を成功させるとあるが、これでは鎖港の実現がいつできるか曖昧であると詰問した。
 これに帆信夫は、外国側を刺激しないため平穏な文書にしたと答えた。
 この次に呼ばれた慶永・宗城・久光も、横浜鎖港の即時実行は難しいため、請書の内容でよいと述べた。
 この後には慶喜も加わったが、中川宮は横浜鎖港の即時実行を求め、請書を書き換えることを譲らなかった。
 慶喜は人心沸騰を心配するならば、朝廷から鎖港を命じればよいではないかというが、中川宮は幕府が鎖港実施を明確にしてくれなければ、朝廷から命じることはできないと論じる。
 この日の朝議は、慶喜が請書を書き換えることを認めて終わった。
 中川宮の意見には三公たちも同意していたという<。>・・・
 三公や中川宮は、・・・公家たちの間<で>横浜・函館・長崎の三港閉鎖でなければ意味がないという声が少な<くなか>った・・・<ことから、>幕府に横浜鎖港を実現すると明言させようとしたのだろう。・・・
 <それを知っていた>慶喜<は、>松平容保<とともに、>横浜鎖港の方針を支持した。
 そのため即時鎖港は難しく、開国を認めざるを得ないと考えていた慶永・宗城・久光と意見が対立し、早くも参<預>会議は解体した。」(156~157)

⇒近衛忠煕を頭目とする五摂関家は、三港閉鎖は論外として、横浜鎖港についても、交渉したところで諸外国が首をタテにふるはずがないことを知っており、さりとてそれを一方的に強行すれば、武力干渉を受けてそれを跳ね返す力がないことも知っていて、それを朝廷側が責任を負わない形で幕府側に試みさせ、失敗させ、幕府の一層の不安定化を図り、大政奉還/倒幕をもたらそうとしたわけであったところ、中川宮(と孝明天皇)は、この五摂関家に踊らされている、ということを、慶喜は全て分かっていて、アホな容保を騙して、この話を幕府に請けさせることに成功する、とともに、容保よりはほんの少しだけおりこうさんの慶永・宗城・久光を挑発することによって、参預会議の空中分解、すなわち、中川宮ら(と孝明天皇)を推進していたところの、朝廷優位の公武合体体制、の発足直後における挫折、にも成功したわけです。(太田)

(続く)