太田述正コラム#12688(2022.4.13)
<刑部芳則『公家たちの幕末維新–ペリー来航から華族誕生へ』を読む(その27)>(2022.7.6公開)

⇒島津久光の京都守護職への「任命」(「注39)」)も、外様(だけ)に京都所司代を指揮させていいのか、といった形で、容保の同職への就任を促すための囮、として使われたのでしょうね。(太田)

 「・・・7月17日に・・・朝議が開かれ、長州藩に退去するよう諭す方針が決定される。・・・
 ところが、長州藩は納得しなかった。・・・
 薩摩藩家老小松帯刀や西郷隆盛・・・は、戦争が避けられないと判断し、7月16日に重臣を集めた会議で長州征討の方針を決めていた。
 その結果は一橋慶喜に報告された。・・・

⇒この時、久光はおろか、藩主の忠義も国許にいたと思われるところ、久光についてはほぼそれを久光のウィキペディアで確かめることができるけれど、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%B9%85%E5%85%89
忠義のウィキペディア・・簡単過ぎる!・・を見ても何の手がかりも得られませんでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E5%BF%A0%E7%BE%A9
 どんなに、薩摩藩(=実質的藩主ないし形式的藩主)が近衛家に国事をぶん投げいてたか、そしてまた、薩摩藩内の島津斉彬コンセンサス信奉者達が藩内の実権を握っていたか、が分かろうというものです。(太田)

 7月18日の夕暮れどき・・・御所には、権大納言大炊御門家信<(注40)>、前大納言中山忠能<(注41)>のほか、有栖川宮幟仁<(注42)>と熾仁の父子、御中納言橋本実麗<(前出)>など20余人が列参していた。・・・

 (注40)1818~1885年。「官位は従一位・右大臣。・・・1858年・・・には日米修好通商条約へ勅許を出すことに反対するため、中山忠能・岩倉具視らと共に八十八卿の一人として抗議の列参をし、勅許を阻止した(廷臣八十八卿列参事件)。しかしそれが原因で同年井伊直弼による政治弾圧「安政の大獄」に連座する。・・・明治元年(1868年)に任職を辞す。以降は政界を引退し、京都西殿町北側で暮らした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%82%8A%E5%BE%A1%E9%96%80%E5%AE%B6%E4%BF%A1_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%8D%BF)
 (注41)ただやす(1809~1888年)。明治天皇の実母の中山慶子(1836~1907年)の父。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E6%85%B6%E5%AD%90
 「1847年・・・、権大納言となる。・・・1853年・・・に<米>国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。・・・1858年・・・、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。
 その後、議奏となる。公武合体派の公家として・・・1860年・・・、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌・・・1861年・・・、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、・・・1863年・・・に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。
 ・・・1864年・・・、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。・・・禁門の変は結果的に失敗し、忠能は孝明天皇の怒りを買って処罰された。・・・1866年・・・、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。
 ・・・1867年・・・、中御門経之・正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を<娘の慶子と共に>担当。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%BF%A0%E8%83%BD
 (注42)たかひと(1812~1886年)。「1864年・・・5月には、熾仁親王とともに国事御用掛に任命された。しかし、直後に禁門の変が発生。その際、熾仁親王が長州の復権と松平容保の洛外追放を訴えて御所内で周旋活動をしたことから両親王は長州との通謀疑惑をかけられ、孝明天皇の意を受けた関白二条斉敬によって国事御用掛を罷免された上、謹慎および蟄居を命じられた。
 <1867>年1月15日・・・、明治天皇の践祚に伴い処分が解かれたが、幟仁親王はこれ以降政治的な表舞台には姿をあらわさず、打診された国事御用掛への復職も辞退している。・・・
 王政復古の大号令によって、熾仁親王は新政府の総裁職に就任した。幟仁親王も<1868>年2月20日・・・に議定に任命されたが、表立った活動をしないまま議定職の廃止を迎えた。幟仁親王は政治から距離を置く代わり、<1868>年1月17日・・・に神祇事務科総督に就任したのを皮切りに、国家神道や国学の普及に努めた。明治4年(1871年)7月25日、家督を熾仁親王に譲り正式に隠居した後も、神道総裁や皇典講究所(國學院大學の前身)総裁などを歴任した。
 幟仁親王は維新以後の急速な社会の欧米化に対して消極的であった。すでに皇室の公式行事では洋式の大礼服を着用する事が義務付けられていたが、生涯を通じて洋装を拒んだ幟仁親王だけは特例として、明治天皇から和装での参加を許されていた。また、終生髷を切らず、西洋の薬も一切口にしなかった。その一方、オルゴールや洋時計などの蒐集を趣味としていた。
 有栖川宮の歴代当主同様、書道および歌道の達人であり、第五代・職仁親王によってあみ出された、いわゆる「有栖川流書道」を大成させた。さらに、昭憲皇太后に歌道を、明治天皇に書道と歌道を指南したほか、五箇条の御誓文の正本も幟仁親王によって揮毫されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%A0%96%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E5%B9%9F%E4%BB%81%E8%A6%AA%E7%8E%8B

 議奏と武家伝奏、関白二条斉敬が参内し・・・<更に>召命を受けて、右大臣徳大寺公純、内大臣近衛忠房、中川宮朝彦親王、山階宮晃親王、権大納言九条道孝などが参内した。
 ・・・二条らが長州藩の意見は聞き入れられないと主張すると、大炊御門らは受け入れるべきだと声を荒げて反論した。・・・
 そこに一橋慶喜が参内すると、・・・中山らの意見は<抑えられて、>代わりに長州藩追討の勅語が出された。
 その直後、遠くから砲声が聞こえてきた。」(169~171)

(続く)